昼休みのチャイムが鳴ると同時に、教室の空気は授業中の静けさから一気に解放された。
椅子を引く音が重なり、弁当箱や飲み物を取り出す生徒たちの声が教室中へ広がっていく。
普段であれば、それぞれ決まった友人同士で集まり、食事をしながら他愛のない話をする時間だったが、
今日に限っては朝から続いている妙な雰囲気がそのまま昼休みにまで持ち越されていた。
原因は明らかだった。
女子たちの距離感が、普段より一段近い。
会話の内容そのものは大きく変わっていないのに、言葉の端々に遠慮のなさが混ざり、
誰かが何かを言えば、別の誰かがすぐにからかい返す。
険悪な空気ではなく、むしろ全員が妙に楽しそうなのが、かえって異常さを際立たせていた。
オレは自分の机に弁当を置きながら、教室全体をさりげなく見渡した。
朝の時点では、軽井沢、堀北、櫛田の三人に明確な変化が見られた。
だが時間が経つにつれて、他の女子たちにも同じ傾向が現れ始めている。
単なる偶然ではない。
学校内のどこかで、女性だけに作用する何かが発生している。
その可能性は、ほぼ確定していいだろう。
「清隆」
聞き慣れた声がした。
顔を上げると、軽井沢が弁当を手に立っていた。
「ここ座るから」
「もう決定事項なのか?」
「当たり前じゃん。清隆の隣なんだから、あたしが座るのが一番自然でしょ?文句ある?」
「そういう理屈だったか?」
「そういう理屈なの。はい、決まり」
軽井沢は当然のように近くの椅子を引き寄せ、オレの隣へ座った。
朝から続いている変化は、どうやらまだ収まっていないらしい。
いや、むしろ悪化していると言った方が正しいのかもしれない。
「清隆ってさ」
「何だ?」
「朝からずっと難しい顔してない?キモいよ」
「そう見えるか?」
「見える。絶対なんか考えてるでしょ」
「少しな」
「どうせまた一人でなんでも解決しようとしてるんじゃないの?」
軽井沢は箸を持ったまま、呆れたようにこちらを見る。
「そういうところ、ほんとだっさ~♡誰かに頼るって選択肢ないわけ?」
「朝から何度も似たようなことを言われている気がする」
「誰に?」
「堀北とか」
「へぇ」
軽井沢の目が細くなる。
「また鈴音ちゃんと話してたんだ?節操なし」
「本人が聞いたら怒るぞ」
「別にいいじゃん。鈴音で」
「急に距離を縮めたな」
「だって今の鈴音ちゃん、からかうと面白いし」
「おまえも十分からかわれているように見えるが」
「あたしはいいの。あたしがやるのはいいけど、やられるのは別」
「ずいぶん都合がいいな」
「女の子なんてそんなもんでしょ?覚えときな」
軽井沢は悪びれもせず笑った。
今日の彼女は、普段から持っている社交性や積極性がそのまま強化されている。
ただし、完全に別人になったわけではない。
オレに対して距離が近いことも、感情が顔に出やすいことも、元々の軽井沢らしさの延長にある。
そこへ生意気さと挑発的な態度が加わっただけだ。
「清隆」
「今度は何だ?」
「その顔ムカつく」
「どんな顔だ?」
「なんか全部分かってますみたいな顔。うざい」
「そんなつもりはない」
「はいはい。かっこわる~♡」
軽井沢は箸をこちらへ向けるようにしながら、楽しそうに笑った。
「女の子に囲まれて困ってるんでしょ?正直に言いなよ」
「まだ囲まれてはいない」
「まだ、ね」
「何が言いたい?」
「別にぃ?これから地獄見るだろうなって」
その笑い方が、妙に意味深だった。
嫌な予感がする。
そして、その予感はすぐに現実になった。
「綾小路くん」
今度は反対側から声をかけられる。
堀北だった。
弁当を持ったまま、こちらを見下ろしている。
「そこ、空いているわね?」
「空いているが」
「なら使わせてもらうわ」
「昨日までなら一言くらい確認していたと思うぞ」
「今確認したでしょう?」
「確認というより宣言だな」
「細かいことを気にするのね。そういうところも雑魚っぽい」
堀北は軽井沢の反対側へ椅子を置き、平然と座った。
それを見た軽井沢が、すぐに口元を緩める。
「来たんだ、鈴音ちゃん」
「その呼び方をやめなさいと言ったでしょう」
「えー、可愛いじゃん」
「あなたに可愛いと言われても嬉しくないわ」
「でも顔ちょっと赤くない?」
「赤くないわよ」
「図星じゃん」
「違うと言っているでしょう」
二人の会話が始まった。
昨日までなら、ここまで自然に軽井沢と堀北が昼食を共にすることはほとんどなかった。
だが今日は、互いに相手をからかうことが目的になっているせいか、妙な形で距離が縮まっている。
皮肉なものだった。
女子たちを生意気にする何かが、結果として人間関係を活性化させている。
「綾小路くん」
堀北がこちらを見る。
「あなた、さっきから私たちを観察しているでしょう」
「よく分かったな」
「分かるわよ。どうせ頭の中で何か分析しているんでしょう?気色悪い」
「否定はしない」
「きもちわる~♡」
「随分はっきり言うな」
「事実だもの」
「鈴音ちゃん、言いすぎじゃない?」
軽井沢が割って入る。
「清隆はね、こう見えて結構傷つきやすいんだから」
「そうなの?」
堀北が少し驚いた顔でオレを見る。
「初耳ね」
「オレも初耳だ」
「よわよわ♡」
軽井沢は勝ち誇ったように笑う。
「清隆ってほんと素直じゃないよね。そういうとこ、ざぁこ♡」
「おまえ、それ気に入ったのか?」
「だって言いやすいんだもん」
「軽井沢さん」
堀北が呆れたようにため息をつく。
「語彙が貧弱ね」
「は?」
「ざぁこしか言えないの?」
「言えるけど?」
「なら何か他の言葉で表現してみたら?」
「じゃあ鈴音ちゃんは?」
「私は別にそんな言葉を使わなくても、綾小路くんの情けなさくらい指摘できるわ」
「へぇ、言うじゃん」
「事実を言っただけよ」
なぜかオレを題材に二人が張り合い始めた。
こうなると、昼食どころではない。
「二人とも」
「何?」
「何よ?」
「オレを使って競うのはやめてくれ」
二人は一度顔を見合わせた。
そして、ほぼ同時に笑った。
「逃げた。よわよわ♡」
「逃げたわね。根性なし♡」
「また意見が一致したな」
「だって清隆が分かりやすいんだもん」
「本当にそうね」
昨日までなら想像もつかない連携だった。
その時、教室の入口付近が少し騒がしくなった。
誰かが入ってきたらしい。
視線を向けると、そこにいたのは一之瀬だった。
「綾小路くーん!」
明るい声が教室へ響く。
いつも通りの笑顔。
ただし、その表情には普段以上に楽しそうな色が浮かんでいる。
一之瀬は数人の女子と一緒に教室へ入ってくると、そのまま迷うことなくこちらへ向かってきた。
「やっぱりいた」
「どうした?」
「ちょっと顔見に来ただけ」
「わざわざ?」
「うん」
一之瀬は笑顔で頷く。
「だって綾小路くん、今日なんか面白そうなんだもん」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ?」
一之瀬は軽井沢と堀北を見る。
そして、二人がオレを挟むように座っている状況を確認すると、何かを察したように目を細めた。
「あれぇ?」
嫌な予感がする。
「綾小路くん、もしかしてモテモテ?」
「そういうわけじゃない」
「またまたぁ」
一之瀬は楽しそうに笑った。
普段の彼女なら、ここまで露骨に人をからかうことは少ない。
やはり影響を受けている。
「一之瀬」
「なに?」
「今日、自分の様子が普段と違うとは思わないか?」
「え?」
一之瀬は少し考える。
「うーん……言われてみれば、なんかすっごく気分いいかも」
「他には?」
「他?」
「誰かをからかいたくなるとか」
「あ」
一之瀬の表情が止まった。
思い当たる節があったらしい。
「……それ、あるかも」
「やっぱりか」
「でも変だよね。私、そんなに人をからかうタイプじゃないのに」
「自覚はあるんだな」
「うん。でもなんていうか……」
一之瀬は少し困ったように笑う。
「言っちゃってもいいかなって思うんだよね」
「何を?」
一之瀬の目が細くなる。
そして、いつもの優しい笑顔のまま、少しだけ顔を近づけてきた。
「綾小路くんって、意外と女の子に囲まれるとよわよわなんだなぁって♡情けな~い」
「そう見えるか?」
「見えるよ?」
「そうか」
「否定しないんだ?」
「否定する必要もない」
一之瀬は一瞬固まった。
そして、予想していた反応と違ったのか、少し不満そうに頬を膨らませる。
「もう。そういう返しするんだ」
「悪かったか?」
「悪くはないけど……もっと困ってくれた方が面白いのに」
「一之瀬までそれを言うのか」
「えへへ」
笑顔のまま、彼女は少しだけ肩をすくめる。
「だって今の綾小路くん、なんだかちっちゃく見えるんだもん♡」
その言葉を聞いた瞬間、一之瀬自身が目を見開いた。
「……あ」
「どうした?」
「今の私、すごく失礼じゃなかった?」
「今さらだな」
「うわぁ……やっぱりそうだよね」
一之瀬は口元を押さえる。
「ごめんね、綾小路くん。なんか今日、口が勝手に……」
「気にしてない」
「ほんと?」
「ああ」
「そっかぁ」
安心したように笑った次の瞬間、一之瀬の表情がまた少し悪戯っぽくなる。
「でも、ちょっとだけ楽しいかも」
「反省が早く終わったな」
「だって綾小路くん、全然怒らないんだもん」
「怒ってほしいのか?」
「それは困る」
「なら今のままでいいだろ」
「そうなんだけどね」
一之瀬はどこか納得していない様子だった。
その横で、軽井沢が腕を組む。
「ちょっと一之瀬さん」
「なに?」
「距離近くない?」
「そう?」
「そうでしょ」
「軽井沢さんも十分近いと思うけど」
堀北が淡々と指摘する。
「鈴音ちゃんは黙ってて」
「だからその呼び方をやめなさい」
「えー」
三人の会話が重なる。
どうしてこうなったのか分からない。
いや、原因そのものはおそらく天沢だ。
問題なのは、想像していた以上に影響範囲が広がっていることだった。
「綾小路くん」
一之瀬が空いている椅子を見つける。
「私もここで食べていい?」
「好きにすればいい」
「やった♪」
「ちょっと清隆」
軽井沢が不満そうにこちらを見る。
「なんで即答するの?」
「断る理由がないからだ」
「そういう問題じゃないんだけど」
「どういう問題だ?」
「それを自分で考えなよ。鈍感系って自分で名乗ってるようなもんだよ」
「分からないな」
「ほんと、ちょろ~い♡」
軽井沢が呆れたように笑う。
堀北も小さく肩をすくめた。
「綾小路くんに女心を理解しろという方が無理なのよ」
「堀北まで言うのか」
「事実でしょう?」
「ひどい言われようだな」
「清隆が悪い」
「綾小路くんが悪いわね」
「うん、綾小路くんが悪いかも」
三対一。
理由は分からない。
しかし多数決では完全に負けている。
「何が悪いのか説明してくれ」
「それ聞いちゃう?」
軽井沢が笑う。
「ほんと分かってないんだ」
堀北まで笑う。
「情けないわね」
一之瀬も少し申し訳なさそうにしながら笑った。
「ごめん、綾小路くん。でも……やっぱりちょっとだけなさけな~♡」
どうやら今日の昼休みは、オレが食事をする時間ではなく、女子たちにからかわれる時間らしい。
その状況を少し離れた場所から見ていた櫛田が、弁当を持ったままこちらへ歩いてきた。
「なんか楽しそうだね」
「櫛田まで来たか」
「その言い方ひどくない?」
櫛田は笑いながら椅子を持ってくる。
「私も混ぜてよ」
「もう十分人数が多いと思うが」
「えー、綾小路くんって女の子四人に囲まれるの怖いの?情けな」
「怖くはない」
「強がり?」
「違う」
「じゃあいいじゃん」
櫛田は当然のように座った。
これで四人。
教室の視線が、完全にこちらへ集まっている。
「清隆、人気者じゃん」
軽井沢が楽しそうに言う。
「嬉しい?」
「目立つのは好きじゃない」
「へぇ」
「何だ?」
「でもさ」
軽井沢は少しだけ身を乗り出す。
「女の子に囲まれるのは、そこまで嫌じゃないんじゃない?」
「どうしてそう思う」
「だって逃げないじゃん」
「逃げる理由がない」
「ほら」
軽井沢は勝ち誇ったように笑う。
「やっぱり満更でもないんだ♪ちょろ~い♡」
「随分都合のいい解釈だな」
「否定できないくせに」
「否定はできる」
「じゃあしてみて?」
「……」
一瞬、言葉が止まった。
それを軽井沢は見逃さなかった。
「ほらぁ!」
嬉しそうに指を差す。
「清隆、今ちょっと迷ったでしょ!バレバレ」
「迷ったわね」
堀北もすぐに乗る。
「綾小路くん、ちょろちょろ♡」
一之瀬まで笑う。
櫛田も楽しそうに肩を揺らした。
「えー、意外。綾小路くんってこういうの嫌いじゃないんだ?」
「勝手に結論を出すな」
「でも否定遅かったじゃん」
「考えただけだ」
「何を?」
「……」
また言葉が止まる。
今度は四人全員が笑った。
「清隆、ざぁこ♡」
「本当に情けないわね♡」
「綾小路くん、かわいいところあるんだね♡」
「普段澄ました顔してるのにねー♡」
完全に包囲されている。
だが、不思議なことに、そこまで不快ではなかった。
朝から何度も絡まれ、面倒だとは思っている。
原因も不明であり、放置していい状況ではない。
それでも、四人の感情が普段よりはるかに分かりやすく表に出ているのは事実だった。
軽井沢が不満なら不満だとすぐ顔に出る。
堀北が興味を持てば、理屈をつけながらでも自分から近づいてくる。
一之瀬は普段なら遠慮して飲み込むような言葉まで口にする。
櫛田に至っては、表と裏の境界そのものが曖昧になりつつある。
人間関係というものは、本来もっと複雑だ。
相手が何を考えているのかを推測し、表情や言葉の裏側を読み、それでも完全には理解できない。
だが今日は違う。
あまりにも単純で、あまりにも分かりやすい。
「……悪くないかもしれないな」
思わず口に出してしまった。
四人の動きが止まる。
「え?」
軽井沢が最初に反応した。
「今なんて言った?」
「何でもない」
「絶対なんか言った」
「聞き間違いだ」
「清隆」
軽井沢の目が細くなる。
「もしかして、私たちに囲まれてるの楽しい?」
「そうは言ってない」
「でも悪くないって言ったよね?」
「聞こえてたのか」
「聞こえてるに決まってるじゃん!」
軽井沢が机を軽く叩く。
堀北まで妙に楽しそうな顔をしている。
「へぇ。綾小路くん、こういう状況が好みなの?」
「違う」
「否定が弱いわね」
「弱くない」
「でも顔は嫌そうじゃないよ?」
一之瀬まで覗き込んでくる。
「綾小路くん、ほんとは嬉しいんじゃない?」
「清隆、正直に言ったら?」
「言うことはない」
「また強がってる」
「強がってない」
「「「「ざぁこ♡」」」」
今度は四人ほぼ同時だった。
教室中に笑い声が広がる。
オレは小さく息を吐いた。
放課後、天沢に聞くことが一つ増えた。
原因。
効果時間。
解除方法。
そしてもう一つ。
この異常な状態が、女子たちの本音まで多少なりとも表へ出しているのかどうか。
それによって、話は少し変わってくる。
同じ頃、一年生の教室では、天沢が携帯を見ながら一人で笑っていた。
知り合いから送られてきた短いメッセージには、
上級生の教室が朝から妙に騒がしいという内容が書かれている。
「ふふっ。いい感じじゃん」
天沢は頬杖をつきながら画面を指先でなぞった。
お兄ちゃんは今頃、女の子に囲まれて情けない顔をしているに違いない。
きっといつもの無表情を崩さないようにしながら、内心ではどう対処すればいいか必死に考えているはずだ。
そう想像すると、楽しくて仕方がない。
「もっと困ればいいのに♡ ざまぁ」
天沢は小さく笑った。
ただし、彼女はまだ知らない。
その頃の綾小路清隆が、すでにこの騒がしさへ少しずつ適応し始めていることを。
そして何より、自分が面白半分に作り出した状況を、当のお兄ちゃんが思ったほど嫌がっていないということを。
天沢一夏の計画は、この時点ですでに、本人が想定していた方向から僅かにずれ始めていた。
◯
昼休みが終わってから放課後までの数時間、綾小路清隆は表面上いつも通り授業を受けていた。
黒板へ向ける視線も、教師から当てられた際の受け答えも普段と大きく変わらない。
だが頭の中では、朝から続いている異変についていくつもの仮説を並べながら、ひとつずつ可能性を絞り込んでいた。
女子だけに現れている性格上の変化。
記憶や判断能力は正常。
体調不良もなく、本人たちはむしろ普段以上に気分が良いと感じている。
そして、元々持っている性格や人間関係を土台にしながら、
相手をからかうことへの抵抗だけが不自然なほど薄れている。
ここまで条件が揃えば、偶然や集団心理だけで説明するのは難しい。
少なくとも、オレが知っている一般的な現象ではなかった。
授業が終わると、教室にはすぐに放課後特有のざわめきが広がった。
部活動へ向かう生徒、友人同士で遊びに行く予定を立てる生徒、
寮へ戻る生徒が次々と席を立ち、数分も経てば教室の人数は半分ほどまで減っていく。
オレも鞄を持ち上げた。
放課後には天沢と話す予定がある。
だが、まだ約束した時間までは余裕があった。
朝から女子たちに囲まれ続けたこともあり、少し静かな場所で考えを整理したい。
そう思って向かったのが図書館だった。
ここなら少なくとも、教室のように数人から同時に話しかけられることはないだろう。
図書館へ入ると、予想した通り館内は静かだった。
本棚の間を歩く生徒の足音や、ページをめくる微かな音が聞こえる程度で、
朝から騒がしかった学校と同じ場所とは思えないほど落ち着いている。
空いている席を探そうとして、ふと奥の窓際へ目を向けた。
そこには、見覚えのある少女が座っていた。
椎名ひより。
机の上には数冊の本が積まれており、そのうち一冊を両手で開きながら、いつものように読書へ集中している。
少なくとも見た目だけなら普段と何も変わっていない。
オレは少し考えた。
一之瀬まで影響を受けている以上、ひよりだけが例外という可能性は高くない。
とはいえ、本人の性格が元々穏やかで静かであるため、外から見ただけでは判別しづらい。
声をかけるべきか。
そう考えていると、こちらの視線に気づいたのか、ひよりが本から顔を上げた。
「綾小路くん」
いつも通りの柔らかい声だった。
「こんにちは」
「ああ」
「珍しいですね。この時間に図書館へ来るなんて」
「少し静かな場所にいたくてな」
「そうなんですね」
ひよりは微笑んだ。
ここまでは何もおかしくない。
やはり影響を受けていないのかもしれない。
そう思いかけたところで、ひよりは再び本へ視線を落としながら、何気ない口調で続けた。
「もしかして、教室で女の子たちにたくさんからかわれて、逃げてきたんですか? 雑魚っぽいです」
オレは黙った。
ひよりは本を読んだままだった。
口調も穏やかで、表情にも大きな変化はない。
それだけに、発言だけが妙に浮いている。
「どうしてそう思う?」
「さっき少し聞いたんです。綾小路くんが昼休みに大変だったって」
「誰から聞いた?」
「秘密です」
ひよりはページを一枚めくる。
「でも、綾小路くんでも逃げたくなることがあるんですね。意外と小物」
「逃げてきたわけじゃない」
「そうなんですか?」
「考えを整理したかっただけだ」
「ふふっ」
小さく笑う声が聞こえた。
「なんだ?」
「いえ。ちゃんと言い訳するんだなと思って」
「言い訳ではない」
「そういうことにしておきますね」
ひよりが再び笑う。
間違いない。
影響を受けている。
ただし、軽井沢や堀北、一之瀬たちとはかなり違う形で表れている。
大声で挑発するわけでもなければ、露骨に距離を詰めてくるわけでもない。
普段と同じ静かな口調のまま、言葉だけが妙に鋭くなっている。
「ひより」
「はい?」
「今日、自分が普段と少し違うと思わないか?」
ひよりは本を閉じず、そのまま少しだけ考えた。
「そうですね……いつもより、思ったことをそのまま言いたくなる気はします」
「やっぱりか」
「でも、そんなに変でしょうか?」
「少なくとも昨日までなら、オレが女子から逃げてきたとは言わなかったと思う」
「そうかもしれません」
ひよりは素直に認める。
「でも、本当だったら少し面白いなと思ってしまって」
「本当じゃない」
「そこ、そんなに否定するんですね。図星だと余計怪しいですよ」
「事実だからな」
「ふふっ」
また笑われた。
「綾小路くんって、意外と根性なしなんですね♡」
オレはひよりを見る。
ひよりもこちらを見る。
数秒ほど視線が重なった。
「今のは随分直接的だったな」
「そうでしたか?」
「少なくともひよりから聞くとは思わなかった」
「じゃあ、もう少し柔らかく言いますね」
ひよりは少しだけ考える。
そして穏やかな笑顔のまま、
「よわよわ、です♡ 可愛い言い方にしてあげました」
「柔らかくなっているのか?」
「響きは柔らかいと思います」
「意味はほとんど変わってない」
「そうなんですね」
どうやら本人は相当楽しんでいるらしい。
表情は明らかに挑発的で、いつもの穏やかさは見受けられない。
彼女がこんな生意気な表情をするとは、夢にも思わなかった。
「綾小路くん」
「何だ?」
「ちょっとだけ困ってます?」
「何に?」
「私にこんなこと言われると思ってなかったから」
「驚いてはいる」
「じゃあ私の勝ちですね」
「何の勝負だ?」
「分かりません」
ひよりはさらりと言う。
「でも、綾小路くんを少し困らせられたなら、それでいいです」
「随分変わったな」
「そうですか?」
「普段のおまえなら、そういうことを目的にはしないだろ」
「確かにそうかもしれません」
ひよりは本へ視線を戻す。
「でも今日は、綾小路くんが困っているところを見ると、少しだけ楽しいです」
「それは困るな」
「かわいそ~ですね♡」
「口調まで変わってきたぞ」
「そうでしょうか?」
「自覚がないのか?」
「あります」
ひよりはあっさり答えた。
「じゃあ意図的か」
「はい」
「それはもっと困るな」
「ふふっ」
静かな図書館の中で、ひよりの小さな笑い声だけが響く。
軽井沢のように勢いで押してくるわけではない。
堀北のように理屈で詰めてくるわけでもない。
一之瀬のように自分で言ったあとに困惑することもない。
ただ静かに、淡々と相手の反応を見ながら一言ずつ差し込んでくる。
これはこれで厄介だった。
「ひより」
「はい」
「オレは静かな場所へ来たつもりだったんだが」
「静かですよ?」
「精神的にはあまり静かじゃない」
「それは綾小路くんの問題です」
「冷たいな」
「自分から図書館へ来たんですよね?」
「ああ」
「そして私のところへ来たんですよね?」
「話しかけたのはおまえだ」
「でも逃げなかったですよね」
「逃げるほどでもない」
ひよりの目が少し細くなる。
「強がりですか?」
「違う」
「ちょろ~い♡」
「何がだ?」
「少しからかっただけで、全部ちゃんと返事してくれるので。扱いやすくて助かります」
言われてみれば、その通りだった。
無視すれば会話は終わる。
だが、なぜかオレは律儀に答えている。
「確かにそうかもしれないな」
「認めるんですね」
「事実なら否定する必要はない」
「じゃあやっぱり、ちょろ~いですね♡」
ひよりは満足そうに頷いた。
「ひよりも随分楽しそうだな」
「楽しいですよ」
「そうか」
「綾小路くんは楽しくないですか?」
思わぬ質問だった。
オレは少し考えた。
朝から女子たちに絡まれ続けている。
面倒ではある。
しかし、以前なら言葉にしなかったことを彼女たちが次々と表へ出すため、普段より感情を読み取りやすい。
それに、ひよりがこうして積極的に冗談を言う姿を見るのも珍しい。
「悪くはない」
そう答えると、ひよりが一瞬だけ目を丸くした。
「そうなんですか?」
「ああ」
「じゃあ、もっとからかっても大丈夫ですね」
「どうしてそうなる?」
「嫌じゃないってことですよね?」
「悪くないと言っただけだ」
「似たようなものです」
「違うと思うが」
「細かいことを気にするんですね」
ひよりはまた笑う。
「そういうところ、カッコわる~♡」
「ずいぶん語彙が増えたな」
「勉強しました」
「どこで?」
「秘密です」
「さっきから秘密が多いな」
「女の子には秘密が多いものらしいですよ」
「誰かの受け売りか?」
「それも秘密です」
完全に遊ばれている。
だが、不思議と嫌ではなかった。
おそらく本人も本気で見下しているわけではない。
むしろ普段より分かりやすく親しみを示しているだけなのだろう。
その解釈が正しいかどうかは、まだ分からない。
ただ、少なくともひよりが楽しんでいるのは間違いなかった。
「ここ、座りますか?」
ひよりが向かいの席を示した。
「いいのか?」
「もちろんです」
「じゃあ、少しだけ借りる」
「どうぞ」
オレが腰を下ろすと、ひよりは再び本を開いた。
会話はそこで終わるかと思った。
しかし数分後、ページをめくりながらひよりが小さく口を開いた。
「逃げないんですね」
「何から?」
「私から」
「逃げる理由がない」
「さっき教室から逃げてきたのに?」
「だから逃げたわけじゃない」
「まだ言ってるんですか?強情ですね」
「事実だからな」
「だっさ~♡」
「ひより」
「はい?」
「さっきから楽しんでるだろ」
「はい」
即答だった。
「隠す気はないんだな」
「今日は隠さなくてもいいかなと思って」
「そういう影響なのかもしれないな」
「影響?」
「何でもない」
今の段階で不用意に説明する必要はない。
天沢との話が終わってからでも遅くない。
そう判断して、オレも近くにあった本へ手を伸ばした。
ところが、その直後。
「まあ」
聞き慣れた声が、図書館の入口側から聞こえてきた。
振り向く。
坂柳有栖がこちらへ歩いてきていた。
杖をつきながらゆっくりと進む姿は普段と変わらず、口元にはいつもの穏やかな微笑みが浮かんでいる。
ただ、その目を見た瞬間に分かった。
この人物も、間違いなく影響を受けている。
「綾小路くん」
「坂柳か」
「こんなところにいらしたのですね」
「探していたのか?」
「いいえ」
坂柳は微笑む。
「逃げ込んだ先が図書館だなんて、随分分かりやすいと思っただけです。発想が子供ですね」
またそれか。
「オレが逃げたという話はどこまで広がっているんだ?」
「さて、どこまででしょう」
「否定しないんだな」
「否定する必要がありますか?」
坂柳はひよりへ視線を向ける。
「椎名さんと二人きりとは、意外でした」
「二人きりというほどでもない」
「そうでしょうか」
「図書館には他にも人がいる」
「そういう意味ではありませんよ」
坂柳の笑みが少し深くなる。
普段からこの人物は他人を挑発することに長けている。
そのため、今の影響が加わった場合、一番厄介になる可能性がある。
「坂柳」
「何でしょう?」
「今日、自分の性格が少し変わっているとは思わないか?」
「変わっている?」
坂柳は首を傾げる。
「私が、ですか?」
「ああ」
「そうでしょうか」
「普段より楽しそうに人をからかっている」
「それは元々では?」
「否定しづらいな」
「ふふっ」
坂柳は楽しそうに笑った。
「つまり綾小路くんは、私が普段から意地悪だと思っていらっしゃるのですね」
「そこまでは言ってない」
「言い訳ですか?」
「違う」
「おやおや」
坂柳は手を口元へ添える。
「言い訳まで下手だなんて、かわいそ~ですね♡頭の回転が自慢の割に」
予想通りだった。
ひよりよりも自然に使いこなしている。
「坂柳さんも、今日ちょっと変ですよね」
ひよりが声をかける。
「あら、椎名さんもそう思いますか?」
「はい。いつもより楽しそうです」
「椎名さんも随分楽しそうに見えますよ」
「そうかもしれません」
「では、お互い様ですね」
二人が微笑み合う。
静かな図書館で、最も遭遇したくない組み合わせが成立した気がする。
「綾小路くん」
坂柳がこちらを見る。
「今日は随分多くの女性に囲まれているそうですね」
「誰から聞いた?」
「それをお教えすると思いますか?」
「思わない」
「よくできました」
子供を褒めるような口調だった。
「ですが、逃げ込んだ先でも椎名さんに捕まってしまったと」
「捕まったわけじゃない」
「では自分から来たのですか?」
「ああ」
「それはそれで、ちょろ~いですね♡」
ひよりが小さく笑った。
「坂柳さんも同じことを言うんですね」
「椎名さんも言ったのですか?」
「さっき」
「それでは意見が一致しましたね」
「はい」
二人の間に妙な連帯感が生まれている。
「綾小路くん」
ひよりが本を閉じた。
「坂柳さんと私、どちらの方がからかい方が上手ですか?」
「急に何を聞く」
「気になったので」
「答えなくていいと思うが」
「答えられないのですか?」
坂柳がすぐに乗ってくる。
「根性なしですね♡」
「そういう問題じゃない」
「では答えられますよね?」
「比較する必要がない」
「逃げましたね」
「逃げました」
二人の声が重なる。
昼休みの軽井沢と堀北を思い出す。
どうやら今日の女子たちは、オレが比較を避けると必ず「逃げた」と判定するらしい。
「どちらも十分上手いと思う」
無難に答える。
坂柳が微笑む。
「随分安全な回答ですね。つまらない男」
ひよりも頷く。
「だっさ~、ですね♡」
「その言葉、気に入ったのか?」
「少し」
「椎名さん」
坂柳が楽しそうに口を挟む。
「こういう場合は、もう一つ便利な表現がありますよ」
「何ですか?」
「カッコわる~、です♡」
「なるほど」
「教えるな」
オレが止めても、二人は楽しそうに笑うだけだった。
「綾小路くん」
坂柳はさらに一歩近づく。
「それにしても、意外ですね」
「何が?」
「あなたほどの方なら、この程度の状況など簡単に処理すると思っていました」
「処理する必要があるのか?」
「だって朝から振り回されているのでしょう?」
「そう見えるか?」
「ええ」
坂柳の目が細くなる。
「よわよわですね♡」
「坂柳まで言うのか」
「嫌でしたか?」
「別に」
「では問題ありませんね」
「問題しかない気もするが」
「その割には帰ろうとしませんね」
言われて気づく。
確かにその通りだった。
天沢との約束まではまだ時間がある。
ここを離れてもいい。
それでもオレは座ったままだ。
坂柳とひよりにからかわれながら、それを特別不快だとは感じていない。
むしろ観察対象として興味深いとすら思っている。
「綾小路くん」
坂柳はそんなオレの反応を見逃さなかった。
「もしかして、少し楽しくなってきましたか?」
「どうしてそう思う?」
「あなた、さっきから一度も本気で嫌そうな顔をしていませんから」
「元々顔には出にくい」
「それは存じています」
「なら判断できないだろ」
「本当にそうでしょうか?」
坂柳の笑みが深くなる。
「いつものあなたなら、必要のない会話はもっと早く切り上げるはずです」
言われてみればそうだった。
坂柳はさらに続ける。
「それなのに今日は、軽井沢さんや堀北さん、
一之瀬さんたちに囲まれても逃げず、今も椎名さんと私の相手をしてくださっている」
「成り行きだ」
「言い訳ですね」
「分析だ」
「カッコわる~♡」
ひよりが小さく付け加える。
「椎名、完全に使いこなしてるな」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「でも受け取っておきます」
ひよりは嬉しそうに笑った。
この状態が、いつまで続くのか。
ふとそんな疑問が浮かぶ。
朝の時点では早く原因を突き止め、元へ戻す必要があると考えていた。
その考え自体は変わっていない。
本人たちの意思とは関係なく性格へ変化が生じている以上、放置していいものではない。
ただ、それとは別の感情が少しずつ生まれている。
普段なら見ることのない表情。
普段なら聞くことのない言葉。
そして、普段なら隠されている感情が、いつもより分かりやすい形で表へ出ている。
悪くない。
昼休みにそう思ったのは、気のせいではなかった。
「綾小路くん」
坂柳の声で思考を戻す。
「また考え込んでいましたね」
「ああ」
「私たちと一緒にいるのに別のことを考えるなんて、失礼ではありませんか?」
「そうかもしれないな」
「素直ですね」
「事実なら認める」
「では罰として」
坂柳が微笑む。
「もう少しだけ、ここにいてください」
オレは少し意外に思った。
命令するような言葉ではあるが、意味するところは単純だった。
もう少し話したい。
普段の坂柳なら、それをこんな形で表現するだろうか。
ひよりもこちらを見る。
「私も同じ意見です」
「二対一か」
「そうですね」
「また逃げると根性なしと言われそうだな」
「分かってきましたね」
坂柳が楽しそうに笑う。
「学習能力だけはさすがです」
「だけ、なのか?」
「今日はそれくらいで十分でしょう」
「随分厳しい評価だ」
「かわいそ~ですね♡」
ひよりがまた続けた。
オレは小さく息を吐いた。
そして結局、約束の時間が近づくまで図書館に残ることにした。
静かな場所で考えを整理するつもりだったはずなのに、結果として教室以上にからかわれることになった。
だが、立ち去らなかった理由については、自分でもすでに気づき始めている。
嫌ではない。
それどころか、この普段とは違う彼女たちとの時間を、少しだけ面白いと思っている。
その事実を認めた瞬間、今度は別の疑問が浮かんだ。
もしこの状態が明日も続いたとして、自分は本当に元へ戻したいと思うのだろうか。
そこまで考えたところで、携帯が震えた。
画面には天沢からのメッセージが表示されている。
『お兄ちゃ~ん♪そろそろ約束の時間だけど、まさか女の子に捕まって来られないとかないよね?情けないのは勘弁だよ』
オレは画面を見ながら、数秒考えた。
そして短く返信する。
『今行く』
送信した直後、坂柳がこちらを見た。
「天沢さんですか?」
「よく分かったな」
「あなたが少しだけ面倒そうな顔をしたので」
「そんなに分かりやすかったか?」
「ええ」
坂柳は満足そうに微笑む。
「今日の綾小路くん、とても分かりやすいですよ」
ひよりも小さく頷いた。
「いつもより、ちょろ~いです♡」
「最後までそれか」
「はい」
ひよりは笑う。
「また来てくださいね、綾小路くん」
「考えておく」
「考えないと来られないんですか?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ来てください」
「……分かった」
その返事を聞いたひよりは、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
坂柳もそれを見ながら何かを察したようだったが、口には出さなかった。
図書館を出る。
廊下を歩きながら、オレは改めて考える。
軽井沢。
堀北。
櫛田。
一之瀬。
ひより。
坂柳。
全員に共通する変化。
そして、その現象を引き起こせる可能性を持ち、なおかつこんなことを面白がって実行しそうな人物。
候補はほぼ一人しかいない。
「天沢か」
今度こそ、はっきりさせる必要がある。
そんなオレを待っている本人は、その頃、校舎の外にあるベンチへ腰掛けながら携帯を眺めていた。
「遅いなぁ、お兄ちゃん」
天沢は頬を膨らませる。
だが、その表情には明らかに楽しそうな笑みが混じっている。
今日一日、お兄ちゃんは女子たちに振り回されているはずだ。
軽井沢にからかわれ、堀北にからかわれ、一之瀬にも絡まれ、
図書館へ逃げたところで誰かに捕まっているかもしれない。
想像すればするほど楽しい。
「お兄ちゃん、今頃よわよわになってたりして♡」
天沢は一人で笑った。
しかし、自分の予想が半分だけ外れていることには、まだ気づいていなかった。
確かに綾小路清隆は今日一日、多くの女子に振り回されている。
だが、その状況に疲れ果てているわけではない。
むしろ少しずつ、その騒がしさへ適応し始めている。
そして天沢が一番予想していなかったことに、
綾小路自身がその変化を、すでにそれほど悪いものだとは思わなくなり始めていた。
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