放課後、天沢と話した結果として得られた情報は、予想していたより単純だった。
今回の異変は、やはり天沢が持ち込んだホワイトルーム由来の試験用サンプルによるものだったらしい。
ただし本人の説明によれば、健康上の重大な影響を残すようなものではなく、
一定期間を過ぎれば自然に作用が薄れていく。その間に現れる変化についても、
人格を完全に別物へ変えるのではなく、元々持っている性格を土台にしながら、
自己主張や挑発的な態度だけを強く表へ出させるものだという。
説明を聞いている間、天沢は終始楽しそうだった。
オレが一日中女子たちに囲まれ、困り果てていると思い込んでいるらしい。
実際、面倒ではあった。
それは否定しない。
だが、天沢が期待しているほど困っているのかと問われれば、少し違う。
むしろ今日一日を通して、オレの中では別の感覚が芽生え始めていた。
彼女たちが普段より分かりやすい。
それが、この異変に対する最も大きな印象だった。
翌朝。
教室へ入った瞬間から、その考えが間違っていなかったことを改めて実感することになった。
「おはよう、清隆」
軽井沢がこちらへ顔を向ける。
昨日と変わらず、妙に楽しそうな表情だった。
「おはよう」
「今日も普通に来たんだ」
「学校だからな」
「えー。昨日あれだけ女の子にからかわれたんだから、ちょっとくらい登校したくなくなってると思ったのに。メンタルやわそうなのに」
「そこまで弱くない」
「ほんとぉ?」
軽井沢が椅子に座ったまま、こちらを見上げる。
「無理しなくていいんだよ?清隆って意外とよわよわだもんね♪」
「昨日から思っていたんだが」
「何?」
「おまえはオレを弱いことにしたいのか?」
「したいっていうか、実際そうじゃん?」
「具体的には?」
軽井沢が少し詰まる。
「え?」
「どこが弱い?」
「どこって……」
「昨日も今日も学校へ来ているし、授業にも出ている。おまえたちに絡まれても別に逃げてはいない」
「それは……」
「それでもよわよわなのか?」
軽井沢は口を開いたまま固まった。
どうやら反論を用意していなかったらしい。
昨日までのオレなら、適当に受け流して終わっていた。
だが今は違う。
相手が何を期待しているのか、ある程度分かっている。
なら、それに合わせて返せばいい。
「恵」
「な、なに?」
「オレよりおまえの方が弱そうだな」
「はぁ!?」
予想通りの反応だった。
軽井沢はすぐに机へ身を乗り出す。
「どこがよ!」
「少し言い返されただけで慌てている」
「慌ててないし!」
「声も大きくなってる」
「これは清隆がムカつくからでしょ!」
「じゃあ効いてるんだな」
「効いてない!」
「そうか」
「その顔やめて!」
軽井沢は完全に調子を崩した。
昨日までなら、一方的にこちらをからかう側だったはずだ。
だが少し返し方を変えるだけで、意外と簡単に形勢が逆転する。
「何よ、その余裕そうな顔」
「普段通りだ」
「絶対違う!」
「気のせいじゃないか」
「清隆のくせに生意気!」
「おまえに言われたくないな」
軽井沢がさらに何か言おうとしたところで、後ろから小さな笑い声が聞こえた。
「朝から随分楽しそうね」
堀北だった。
「鈴音ちゃん、聞いてよ」
「その呼び方はやめなさい」
「清隆が朝から調子乗ってるんだけど」
「綾小路くんが?」
堀北が意外そうにオレを見る。
「珍しいわね」
「普通に話しているだけだ」
「清隆、私のこと弱いって言った!」
「事実を指摘しただけだ」
「ほら!こういう感じ!」
軽井沢は味方を得ようとしたらしい。
だが、堀北は数秒考えたあと、軽く肩をすくめた。
「言われたくらいで騒ぐあなたにも問題があるんじゃない?メンタル豆腐すぎ」
「なんで鈴音ちゃんが清隆側なのよ!」
「別に綾小路くんの味方をしたわけじゃないわ。ただ、あなたが簡単に乗せられているのが面白いだけ」
「むかつく!」
「朝から元気ね」
堀北はそう言いながら自分の席へ座る。
昨日までなら、ここで会話は終わっていただろう。
だが今日は違う。
堀北は教科書を机へ置きながら、こちらへ視線を向けてきた。
「ところで綾小路くん。昨日は放課後、誰と会っていたの?」
「天沢だ」
「天沢さん?」
「少し聞きたいことがあった」
「二人きりで?」
「そうだな」
堀北の動きが止まった。
「へぇ」
「何だ?」
「別に」
「顔に出てるぞ」
「何が?」
「気になってる」
堀北の眉が僅かに動く。
「別に気になっていないわ」
「なら聞かなければいい」
「あなたが怪しい動きをしているから確認しただけよ」
「二人で話しただけだ」
「それをわざわざ強調する必要がある?」
「聞かれたから答えた」
「随分素直なのね」
「普通だと思うが」
「ふぅん」
堀北は視線を逸らす。
ただし、そのまま終わらない。
数秒後には再びこちらを見る。
「何を話したの?」
「気にならないんじゃなかったのか?」
「……」
堀北が黙る。
今までは、この手の矛盾を指摘しても本人が何か理屈をつけて押し切ることが多かった。
しかし今は、感情が表へ出やすくなっているせいか、取り繕う前に反応が見える。
「堀北」
「何よ」
「気になるなら普通に聞けばいいだろ」
「聞いているでしょう」
「『気になる』と認めればいい」
「どうして私がそんなことを言わないといけないの?」
「言えないのか?」
「……」
「意外と根性なしだな」
堀北の目が見開かれた。
軽井沢も同時にこちらを見る。
一瞬だけ、教室の空気が止まったように感じた。
「今、何て言ったの?」
堀北が低い声で聞く。
「根性なしと言った」
「私に?」
「ああ」
「……綾小路くん」
口元こそ笑っている。
だが、少し引きつっている。
「ずいぶん偉くなったわね?」
「昨日は散々言われたからな。返すくらいはいいだろ」
「私をからかっているつもり?」
「そう見えるならそうかもしれない」
「へぇ」
堀北は腕を組む。
「なら、その挑発に乗ってあげるわ。別に天沢さんとの話が気になるわけじゃないけれど、
クラスに関係する可能性があるなら聞いておく必要があるでしょう?」
「やっぱり気になってるんだな」
「今の説明を聞いていた?」
「聞いていた」
「ならどうしてそうなるのよ」
「説明が長かったからだ」
軽井沢が吹き出した。
「ぷっ!」
堀北が振り向く。
「何がおかしいの?」
「いや、鈴音ちゃん、めっちゃ言い訳してるなって」
「あなたは黙ってなさい」
「清隆に言い返されてるじゃん。だっさ~♪」
「軽井沢さん」
「なに?」
「さっき綾小路くんに少し言い返されただけで大騒ぎしていたのは誰だったかしら?」
「それは今関係ないでしょ!」
「あるでしょう?」
「ない!」
二人がまた言い合い始める。
オレはその様子を眺めながら、昨日までとは違う種類の面白さを感じていた。
一方的にからかわれるだけなら、確かに面倒だった。
しかし、仕組みが分かれば対応は難しくない。
むしろ彼女たちは、普段より感情の起伏が見えやすい。
少し言い返せば反応する。
少し褒めれば戸惑う。
少し突き放せば不満そうな顔をする。
ホワイトルームで身につけた観察力など持ち出す必要すらない。
分かりやすすぎる。
そして、その分かりやすさが思った以上に悪くなかった。
「おはよー!」
櫛田が教室へ入ってきた。
いつものように周囲へ笑顔を振りまきながら、オレたちのやり取りに気づいて足を止める。
「何してるの?」
「清隆が調子乗ってる」
軽井沢が即座に答えた。
「オレは普通に話していただけだ」
「普通じゃないでしょ!」
「何があったの?」
櫛田は興味津々といった様子で近づいてくる。
軽井沢が一連の流れを説明すると、櫛田は途中から肩を震わせ始めた。
「えー、綾小路くんが堀北さんに根性なしって言ったの? 意外とやるじゃん」
「ああ」
「意外!」
「そんなに意外か?」
「だって綾小路くんって、こういう時いつも流すじゃん」
「少し考えを変えた」
「へぇ?」
櫛田が机へ手をつき、オレの顔を覗き込む。
「もしかして昨日いっぱい女の子にからかわれて、慣れちゃった?」
「そうかもしれない」
「認めるんだ」
「ああ」
「じゃあ今までみたいに困らないってこと?」
「少なくとも昨日よりはな」
櫛田の目が少し細くなる。
「ほんとかなぁ?」
「試してみるか?」
思わずそう返すと、櫛田が一瞬黙った。
軽井沢も堀北もこちらを見る。
どうやら予想していなかったらしい。
「……綾小路くん」
櫛田が笑顔を浮かべ直す。
「ちょっと生意気になった?」
「お互い様だろ」
「じゃあ私が本当に困らせてあげようか?」
「できるならな」
「うわ」
軽井沢が呟く。
「今日の清隆ムカつく」
「どうしてだ?」
「なんか余裕あるから」
「昨日までの方がよかったか?」
「それは……」
軽井沢が言葉に詰まる。
「ほら、また弱い」
「清隆!」
教室に軽井沢の声が響く。
だが、本気で怒っているわけではない。
むしろ口元には笑みが残っている。
そのやり取りを見ていた櫛田は、何か面白いものを見つけたように目を輝かせた。
「なるほどね」
「何が?」
「綾小路くん、やり返すようになったんだ」
「ああ」
「じゃあ今日から勝負だね」
「何の勝負だ?」
「誰が綾小路くんを一番困らせられるか」
「勝手に競技を作るな」
「えー、怖いの?」
「怖くはない」
「だったらいいじゃん」
櫛田は楽しそうに笑う。
「逃げたらカッコわる~、だからね♪」
「逃げるとは言ってない」
「じゃあ決まり」
「何も決まってないんだが」
「細かいこと気にする男の人って、モテないよ?」
「そうなのか」
「そうだよ」
「でも昨日は軽井沢から、女の子に囲まれて満更でもなさそうだと言われた」
櫛田の笑顔が一瞬止まる。
軽井沢も顔を上げる。
「清隆、それ言う必要ある?」
「事実を説明しただけだ」
「だからって言わなくていいでしょ!」
櫛田が軽井沢を見る。
「へぇ。軽井沢さん、そんなこと言ったんだ?」
「違うし!」
「何が違うの?」
「言ったけど、そういう意味じゃない!」
「言ったんだ」
「櫛田さんまで!」
今度は軽井沢と櫛田が言い合いを始める。
堀北は呆れたようにため息をついていたが、よく見ると僅かに口元が緩んでいる。
「楽しそうだな」
オレが言うと、堀北はすぐ真顔へ戻った。
「誰が?」
「おまえ」
「見間違いよ」
「そうか」
「そうよ」
「ならいい」
「……何よ」
「何でもない」
「その言い方が気になるんだけれど」
「気にしなければいい」
「綾小路くん」
「何だ?」
「今日のあなた、本当に腹が立つわね」
そう言いながらも、堀北はどこか面白そうだった。
昨日までは、彼女たちが変わったことにばかり意識を向けていた。
だが今になって思う。
変わっているのは、オレの方も同じなのかもしれない。
異変そのものに作用されているという意味ではない。
彼女たちとの接し方が変わり始めている。
以前なら、必要以上に相手へ踏み込まないことを選んでいた。
向こうから何か言われても、適当に流す。
必要がなければ反論もしない。
その方が簡単だった。
だが、ここまで相手の感情が分かりやすく表へ出ていると、こちらから返してみたくなる。
反応があるからだ。
少し言葉を変えるだけで、軽井沢はすぐ顔に出す。
堀北は理屈で反撃しようとする。
櫛田は笑顔のまま競争へ持ち込もうとする。
その違いを観察すること自体が、いつの間にか面白くなっていた。
昼休みになると、その傾向はさらに強くなった。
昨日と同じように軽井沢がオレの近くへ来たと思えば、堀北も自然に席を寄せ、櫛田まで弁当を持って参加する。
そして少し遅れて、一之瀬も現れた。
「綾小路くん、こんにちは」
「今日は普通だな」
「え?」
「昨日は入ってきてすぐ、オレをからかってたからな」
一之瀬は一瞬目を丸くし、その後すぐ悪戯っぽく笑った。
「なにそれ。もしかして期待してた?」
「そういう意味じゃない」
「ほんとかなぁ?」
「昨日より慣れただけだ」
「慣れた?」
一之瀬は椅子を持ってきながら首を傾げる。
「私たちに?」
「ああ」
その返事を聞いた一之瀬の目が僅かに細くなった。
「へぇ」
「何だ?」
「綾小路くん、昨日より余裕ありそう」
「実際あると思う」
「じゃあ今日は困らないんだ?」
「多分な」
「ふぅん」
一之瀬は座る。
笑顔はいつものように柔らかい。
ただし、その奥に明らかな対抗心が浮かんでいる。
「じゃあ綾小路くん」
「何だ?」
「お昼、一口ちょうだいって言ったらどうする?」
「断る」
あまりにも即答だったせいか、一之瀬が固まった。
「え?」
「断る」
「二回言わなくても聞こえてるよ」
「ならよかった」
「普通、もうちょっと迷わない?」
「迷う理由がない」
「えー」
一之瀬が不満そうに頬を膨らませる。
「ケチ」
「自分の分があるだろ」
「あるけど」
「なら問題ない」
「女の子からお願いされてるのに?」
「それとこれとは別だ」
一之瀬がこちらを見つめる。
「……綾小路くん」
「何だ?」
「こういうところは本当にかわいくないね」
「昨日も似たようなことを言われた」
「誰に?」
「何人かに」
「モテモテじゃん」
「からかわれてるだけだ」
「でも嫌じゃないんでしょ?」
昨日も聞かれた質問だった。
その時は明確な答えを出さなかった。
今日は少し違う。
「嫌ではないな」
一之瀬が黙った。
軽井沢も、堀北も、櫛田も同時にこちらを見る。
「清隆」
軽井沢がゆっくり口を開く。
「今、普通に認めた?」
「ああ」
「私たちにからかわれるの、嫌じゃないの?」
「そう言った」
「……えぇ」
なぜか軽井沢の方が困っている。
「何だ?」
「いや、なんか……」
「思ってた反応と違う?」
櫛田が代わりに言う。
軽井沢は黙ったまま頷いた。
「もっと嫌がってよ」
「どうしてだ?」
「その方が楽しいから!」
「なるほど」
「納得しないで!」
軽井沢が机を叩く。
その反応を見た瞬間、オレは昨日とは立場が逆転していることに気づいた。
彼女たちはオレを困らせるためにからかっている。
なら、オレが困らなければいい。
それだけで、逆に彼女たちの方が困る。
「清隆」
「何だ?」
「そういうのズルくない?」
「何が?」
「なんか私たちだけ調子狂うじゃん」
「知らないな」
「むかつく~!」
「カッコわる~」
オレが軽く返す。
軽井沢の動きが止まった。
「……今、私に言った?」
「ああ」
「清隆が?」
「他に誰がいる?」
「ちょっと待って」
軽井沢は頭を抱えた。
「なんか違う。清隆ってそういうキャラじゃなかったじゃん!」
「昨日までのおまえたちもそうだった」
「それ言われると何も言えない!」
櫛田が笑い、一之瀬も口元を押さえている。
堀北まで肩を震わせていた。
「軽井沢さん」
「何よ!」
「綾小路くんに完全に遊ばれてるわよ」
「鈴音ちゃんだって朝やられてたでしょ!」
「私は遊ばれてないわ」
「根性なしって言われて黙ったくせに!」
「黙ってないでしょう!」
「二人とも」
オレが声をかける。
二人が同時にこちらを見る。
「仲が良くなったな」
「なってない!」
「なってないわ!」
見事に声が重なった。
今度はオレ以外の全員が笑う。
「息ぴったりだね」
一之瀬が言う。
「ほんと仲良しじゃん」
櫛田も続ける。
「違うって!」
「違うわよ!」
また重なる。
二人は同時に顔を見合わせ、さらに不機嫌そうになる。
昨日までは、オレがこの役だった。
少し反論すれば、それを材料にまたからかわれる。
だが今は、仕組みが理解できている。
そして分かったことがもう一つある。
彼女たちは攻めることには慣れていても、同じ方法で返されることには驚くほど弱い。
特に軽井沢は顕著だった。
「清隆」
「何だ?」
「もう言い返すの禁止」
「どうしてだ?」
「私が決めたから」
「嫌だ」
「即答!?」
「そもそも、おまえたちは好き勝手言っているだろ」
「それはいいの」
「ずるいな」
「女の子だからいいの!」
「そういうものなのか?」
「そういうもの!」
「なら仕方ないな」
「分かればいいの」
軽井沢は満足そうに胸を張る。
「でも従うとは言ってない」
「清隆!」
また叫ばれた。
面白い。
そう感じた。
自分でも少し意外だった。
ホワイトルームにいた頃、誰かをわざと挑発して反応を楽しむようなことはほとんどなかった。
必要がなかったからだ。
相手の感情を読むことはあっても、それは目的を達成するための情報でしかない。
だが今は違う。
軽井沢が怒っているように見えて本気ではないことも分かる。
堀北が呆れた顔をしながら会話から離れないことも分かる。
櫛田が次は何を言おうか考えていることも、
一之瀬が遠慮なく会話へ入れる今の自分を少し楽しんでいることも見える。
その全部が、以前なら気づかなかった種類の情報だった。
「綾小路くん」
一之瀬がこちらを見る。
「なんか今日楽しそうだね」
「そう見えるか?」
「うん」
「顔に出てる?」
「ちょっとだけ」
一之瀬は笑う。
「もしかして、本当にこういうの好きなんじゃない?」
「どうだろうな」
「また逃げるんだ」
「逃げたわけじゃない」
「じゃあ認める?」
「嫌いではない」
一之瀬の顔が僅かに赤くなる。
「……そういう言い方、ずるい」
「何が?」
「分かんないならいい」
今度はこちらが聞き返しても、一之瀬は答えなかった。
代わりに櫛田がニヤニヤしながらこちらを見る。
「綾小路くんってさ、実はちょろいんじゃなくて、私たちの方がちょろいって思ってない?」
鋭い。
「どうしてそう思う?」
「なんとなく」
「否定はしない」
「やっぱり!」
櫛田が笑いながら指を差す。
「ひどーい。女の子の反応見て遊んでるんだ?」
「おまえたちが昨日からしていることと同じだ」
「それはそうだけど」
「なら問題ないだろ」
「なんか言い返せない」
「ざぁこ」
軽く言う。
櫛田の笑顔が固まった。
数秒後、頬が僅かに赤くなる。
「……綾小路くん」
「何だ?」
「今のはちょっとムカついた」
「そうか」
「でもなんかもっとムカつくのは、私がちゃんと反応しちゃったことなんだけど」
「自覚があるだけ軽井沢より上だな」
「清隆、聞こえてるからね!」
横から抗議が飛んでくる。
教室はまた笑いに包まれた。
オレは弁当を食べながら、その光景を眺める。
昨日までなら、早く昼休みが終わればいいと思っていたかもしれない。
今日は違う。
このままもう少し続いてもいい。
そんなことを考えている自分がいる。
天沢の仕掛けた異変は、明らかに正常なものではない。
いずれ元へ戻る必要はある。
それは理解している。
しかし、この状況によって初めて見えるものがあるのも事実だった。
普段なら、相手が何かを思っていても口に出さないことがある。
好意も、不満も、嫉妬も、寂しさも、冗談も。
人間はそれを理性によって隠す。
だからこそ複雑になる。
今の彼女たちは、その蓋が少しだけ緩んでいる。
全部を本音だと考えるのは危険だ。
だが、完全な嘘でもないだろう。
もし何も思っていなければ、わざわざオレの近くへ集まってくる理由がない。
そう考えると、この状況は意外と――
「清隆」
軽井沢の声で思考が途切れた。
「また一人で考え込んでたでしょ」
「ああ」
「あたしたちといる時くらい、ちゃんとこっち見なよ」
「悪かった」
素直に答えると、軽井沢が少し驚いた顔をする。
「……急に素直になるのやめてよ」
「どうしてだ?」
「調子狂うから」
「面倒だな」
「誰のせいよ!」
「オレか?」
「そう!」
「かわいそ~だな」
「清隆!」
怒鳴られた。
だが、その顔は笑っている。
オレも、自分で気づかない程度には表情を緩めていたのかもしれない。
放課後。
オレは一人で廊下を歩いていた。
昨日のように図書館へ行くつもりはない。
今日は寮へ戻ろうと思っていた。
その途中、階段の踊り場で声をかけられる。
「綾小路先輩……いや、お兄ちゃん♪」
天沢だった。
壁にもたれながら、待っていたらしい。
「天沢」
「今日どうだった?」
「何が?」
「決まってるじゃん。女の子たち」
天沢は楽しそうに笑う。
「いっぱいからかわれた?」
「まあな」
「困った?」
「いや」
笑顔が一瞬止まる。
「……え?」
「昨日より慣れた」
「慣れた?」
「ああ」
「いやいや、お兄ちゃん」
天沢は笑いながら手を振る。
「そこは慣れるところじゃなくない?」
「そうなのか?」
「普通もっと困るでしょ。女の子から『ざぁこ』とか『よわよわ』とか言われるんだよ?プライドないの?」
「今日はオレも言い返した」
「は?」
天沢の目が丸くなる。
「誰に?」
「軽井沢とか、堀北とか、櫛田とか」
「何て?」
「ざぁことか、根性なしとか」
天沢はしばらく黙った。
明らかに処理が追いついていない。
「……お兄ちゃん」
「何だ?」
「もしかして楽しんでる?」
昨日までなら、曖昧に答えていたかもしれない。
だが今日は、自分の中ですでに結論が出始めていた。
「少しな」
「……」
天沢が完全に黙った。
この表情を見るのは珍しい。
「どうした?」
「いや」
天沢は何度か瞬きをする。
「ちょっと待って」
「何を?」
「あたしさ、お兄ちゃんが困ると思ってやったんだけど」
「そうだったのか」
「そうだよ!」
「なら残念だったな」
「残念っていうか……」
天沢は頭を抱える。
「なんで適応してるの? 予想外すぎて萎える」
「環境には適応した方が楽だからな」
「そういう問題!?」
廊下に天沢の声が響く。
昨日まで、女子たちが普段と違うことばかりに気を取られていた。
だが今は、状況が逆転している。
変わった女子たちに対して、オレ自身の接し方も変わった。
そしてどうやら、それはこの騒動を仕掛けた本人にとって最も予想外の展開だったらしい。
天沢はしばらくオレの顔を見つめたあと、信じられないものを見るように眉を寄せた。
「お兄ちゃん」
「何だ?」
「なんかさ」
「?」
「カッコわる~とか言われて喜んでないよね?」
「喜んではいない」
「じゃあ嫌?」
「嫌でもない」
天沢の表情が引きつった。
「……それ、結構重症じゃない?もう手遅れってこと?」
「そうか?」
「そうだよ!」
「まあ、問題ないだろ」
「あるよ!」
騒動を起こした本人が、一番困惑している。
その光景を見ながら、オレは初めて思った。
天沢一夏の計画は、完全に想定とは違う方向へ進み始めている。
そして、そのことを最も理解していないのは、おそらく天沢自身だった。
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