理想を抱いて溺死した七星剣王 作:いーと
東雲希の伐刀絶技は、極めて単純だった。
――相対した相手を上回る。
ただ、それだけ。
能力名は――『上位置換《オーバーライド》』。
勝利に必要な力量を獲得するまで、己に不足している『経験』を強制的に補完する力。
剣士と相対すれば、剣士としての洗練を。
魔術師と相対すれば、魔術師としての深遠を。
技巧を極めた者には、それを凌駕する技巧を。
圧倒的な力を持つ者には、その力を超えるための力を。
どれほど優れた技術も、洗練された戦術も、人間離れした身体能力も意味をなさない。
そのすべてを上回るために必要な『結果』を、彼女はあらかじめ手に入れる。
ただし――それは無から力を生み出すような、都合のいい奇跡などではない。
彼女は、ただ愚直に『経験』するのだ。
不足を補い、相手を超えるために。
現実と区別のつかない精神の仮想世界で、狂おしいほど同じ戦いを繰り返す。
何千回もの敗北。
何万回もの失敗。
何十万回もの死線。
剣を振るい、倒され、立ち上がり、再び挑み、また潰える。
勝つための一手を見つけるまで。相手の技を完全に解体するまで。その技を越える術を血肉に変えるまで――彼女は終わりのない死闘を強いられる。
何度も同じ場所を斬り裂かれた。
逃げ場のない一撃に肉体を貫かれた。
張り巡らされた策略に嵌まり、答えを見出せぬまま途方もない敗北を重ねた。
そして、そのすべてを現実に味わったかのように魂へ刻み込む。
痛みも。
恐怖も。
絶望も。
死の間際に見た、冷たい世界の景色さえも。
それが、東雲希という剣士の強さの正体。
生まれつきの才能でも、天賦の魔力でも、あるいは美徳としての『努力』でもない。
彼女はただ、勝つために必要なあらゆる敗北を、あらかじめ全て一人で引き受けてきたのだ。
誰も知らない場所で。
誰にも見えない時間の中で。
何度も。何度も。何度も。
――そして、その対価として。
彼女は、何かを失っていく。
*
破軍学園の食堂は、昼休みの喧騒に包まれていた。
トレーを手にした生徒たちが列を作り、賑やかな笑い声や訓練の話題が飛び交っている。
その一角で、東雲希の名が上っていた。
「東雲先輩って、本当はどんな人なんですか?」
尋ねたのは、一年生の女子生徒だった。
向かいの二年生男子は箸を止め、少し考えてから答える。
「……普通の人だよ」
「え? 普通、ですか?」
「ああ。話してみれば分かるけど、普通に優しいし、普通に笑うし、授業も真面目に出てる」
「でも……あの『七星剣王』ですよね?」
「そうなんだけどさ」
男子生徒は苦笑した。
その自然な態度に、女子生徒は不思議そうに首を傾げる。
「もっとこう……遠い世界の人というか、近寄り難い雰囲気なのかと思ってました」
「気持ちは分かるよ。俺も最初は構えてたし」
「違うんですか?」
「うーん……何て言えばいいのかな」
男子生徒は答えを探すように視線を彷徨わせた。
「強いんだけど……強そうに見えないんだ」
「どういうことです?」
「威圧感がないんだよ。自分がどれほど凄まじい存在なのか、本人が一番無頓着に見えるっていうか」
彼は言葉を整えるように続けた。
「もちろん、試合になれば別だ。対峙した瞬間に『あ、勝てない』って悟らされる。何を仕掛けても先回りされて、必死に隠してきた切り札も、まるで既知の正解を確かめるみたいに淡々と潰されるんだから」
「……それ、怖くないんですか?」
「怖い?」
「だって……そこまで強いと、何を考えているのか分からないというか……」
「あぁ、そういう意味か」
彼は小さく鼻で笑った。
「ううん、恐怖感はないんだ。話すと拍子抜けするくらい穏やかだから。……ただ」
ふと、男子生徒は声を落とした。
「……たまに思うんだよ。あの人、本当に『楽しい』のかなって」
「え?」
「七星剣王だぞ。誰もが憧れる頂点に立って、あれだけの結果を出したんだ。もっと誇ったり、嬉しそうにしたりしても誰も文句は言わないだろ?」
「でも、先輩はいつも楽しそうに笑ってますよね?」
「そうなんだよ」
男子生徒はどこか寂しげに笑った。
「いつだって微笑んでる。誰にでも親切で、奢ることもない。……だから余計に、妙な感覚になるんだ」
彼は手元の箸を見つめたまま呟く。
「あの人の笑顔を見てると……時々、胸がざわつくんだよ」
「ざわつく……?」
「……いや、上手く言えないや。ごめん」
彼はそれ以上追及されるのを避けるように、話を切った。
自分でも言葉にできなかったのだ。
東雲希はいつも笑っている。
誰に対しても温かく、腰が低い。
誇ることも、見下すこともない。
それなのに――彼女の笑顔には、致命的な欠落が透けて見える。
まるで、『笑うという動作の形』だけを精密に模倣し、その内側にあるはずの『感情』をどこかに落としてきてしまったかのように。
喜びの表情を作れても、喜びそのものは世界のどこにも存在していないような、気味の悪い違和感。
「……まあ、俺の考えすぎだな」
男子生徒は食事に戻り、女子生徒もそれ以上は触れなかった。
周囲の賑やかな会話が、その小さな疑問をあっという間に呑み込んでいく。
誰も知らなかった。
彼女が笑顔を作るたび、「自分は今、なぜ笑っているのか」という根本すら霧に包まれていることを。
彼女が何かを忘れるたび、空いた器を埋めるように新たな『惨劇の死線』が刻み込まれていることを。
*
放課後。
訓練場へ向かっていた希に、明るい声がかけられた。
「東雲先輩!」
「はい?」
振り返ると、見覚えのない一年生が立っていた。
息を切らし、緊張に肩を強張らせながらも、その目には眩しいほどの期待が宿っている。
「突然すみません! もしよろしければ……僕と模擬戦をしていただけませんか!」
「模擬戦、ですか?」
「はい! 七星剣王の背中を、どうしても間近で勉強させてもらいたくて!」
希はぱちぱちと瞬きをし、それから――いつものように、ふわりと微笑んだ。
「私でよければ、喜んで。……怪我をしないよう、お互い気を付けましょうね」
「ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げる後輩を見つめながら、希は胸の奥で小さな違和感に首を傾げた。
期待されること。
頼られること。
自分の強さが誰かの糧になること。
それはきっと、誇らしくて、嬉しいことのはずだ。
だからこうして、自然と口元が綻ぶ。
――けれど。
その笑顔の「裏側」にあるはずの自分の心が、どこを探しても見当たらない。
嬉しいのだろうか。
楽しいのだろうか。
それともただ、「ここで微笑むのが正しい人間だ」というパターンを再現しているだけなのだろうか。
自分でも、もう判別がつかなくなっていた。
「それじゃあ、行きましょうか」
「はい!」
*
訓練場の一角。
模擬戦用の結界が展開され、薄青い魔力の膜が二人を包み込む。
男子生徒が構えると、その手の中に光が収束し、一振りの短槍が顕現した。
鋭い穂先と取り回しの良さを併せ持つ、間合いのコントロールに長けた霊装。
対する希が抜いたのは、ごくありふれた一振りの刀だった。
装飾もなく、銘もない。異様さも威厳もない、ただの鉄の輪郭。
しかし、彼女がそれを構えた瞬間、周囲の空間から余分な雑味が綺麗に消え失せた。
「では、始めましょう」
「――お願いします!」
合図と同時に、男子生徒が地面を蹴った。
鋭い踏み込み。初撃は喉元を穿つ直線的な突き。
希は半歩、首を傾げるように避ける。
穂先が空を切った瞬間、間髪入れずに放たれる胴への二撃目。
それすらも、刀身をすべらせて軌道を僅かに逸らす。
突き、打ち払い、左右へのフェイント、距離を詰めての牽制――。
後輩の攻撃は思考されており、流れるようだった。
だが、希はそのすべてを「最小限の運身」で裁いていく。
大きく跳ばない。力で受けない。
ただ、そこに刃があるべき理由を知っているかのように。
彼女には見えていた。
相手の重心移動、指先の緊張、視線の揺らぎ、踏み込みの予兆。
そして何より――その技が生まれるに至った構造と、それを完璧に無力化するための『答え』が。
数分後。
乾いた金属音とともに槍が跳ね飛ばされ、希の刀身が吸い込まれるように少年の喉元へピタリと添えられた。
「……参りました」
男子生徒は汗だくのまま、呆然と吐息を漏らした。
手応えが一切なかった。自分が組み立てた思考のすべてが、最初から答案用紙の裏に透けて見えていたかのような敗北感。
「ありがとうございました」
希は刀を納め、柔らかく語りかける。
「とても素晴らしい槍でした。三手目の突きの際、もう少し肘の力を抜くと、引き動作がさらに速くなると思いますよ」
「あ……ありがとうございます!」
悔しさ以上に、至高の指導を得た歓喜で男子生徒の顔が輝く。
「また、ぜひお願いします!」
「ええ、いつでも」
いつも通りの、完璧で穏やかな七星剣王の対応。
――だが。
彼女の
槍の間合い。
踏み込みの癖。
フェイントの軌道。
それらを「完璧に裁く」という結果を得るために、彼女の精神には見知らぬ泥と血の記憶が流れ込んでいた。
暗い雨の中、同じ槍に喉を貫かれた死。
間合いを見誤り、腹部を抉られて悶絶した敗北。
何十回、何百回と繰り返された、疑似世界での絶望的な死線。
勝つまで終わらない死のループ。
そして「勝利」が確定した瞬間、それらは過不足のない『純粋な技術データ』へと変換され、脳に定着する。
――結果として、現実の彼女は傷ひとつ負わずに勝利する。
けれど、精神に刻まれた「首を斬られた瞬間の冷たさ」「肺が血で満たされる恐怖」は、消えてはくれない。
現実に起きたこととして、魂の奥底に溜まっていく。
強くなればなるほど。
高みへ登れば登るほど。
必要な『死の回数』は膨れ上がり、彼女の精神をじわじわと磨り減らしていく。
最初に消えたのは、どうでもいい日常の記憶だった。
昨日食べたものの味。幼い頃に見た空の色。
次に消えたのは、感情の輪郭だった。
人への愛おしさ。勝利の喜び。敗北への恐怖。
それらが削ぎ落とされ、代わりに「戦術と技術」だけが精密機器のように磨き上げられていく。
「……あれ?」
ふと、希は自分の手元に目を落とした。
指先が、微かに震えている。
痛い。苦しい。怖い。
そんな残響だけが胸の奥で渦巻いているのに――それが「いつ、何の体験によってもたらされたものか」が思い出せない。
原因の消えた傷の痛みだけが、身体を苛んでいた。
「先輩……?」
後輩の声に、希はハッと我に返る。
「あ……ごめんなさい。少しぼんやりしてしまいました」
「大丈夫ですか? 僕の攻撃で、何か不快なことでも……」
「いいえ、違いますよ」
希は優しく首を振り、微かな震えを隠すように拳を握りしめた。
「あなたの槍から、とても良い『経験』をいただきましたから」
「そ、そうですか? なら良かったですが……」
「ええ。大丈夫です」
希は笑う。形だけの、けれど誰もが魅了される美しい笑顔で。
「私、強いですから」
後輩の少年は一瞬きょとんとしてから、誇らしげに頷いた。
「……ですよね! 『七星剣王』ですもんね!」
そのやり取りに、周囲の生徒たちも微笑ましい視線を向けていた。
誰一人として、違和感を抱く者はいない。
――ただ一人。
訓練場の入口の影に立っていた、黒鉄一輝を除いては。
一輝は、模擬戦のすべてを目撃していた。
希の剣技の美しさも、後輩への的確な助言も。
そして――勝利の瞬間に見せた、あの僅かな指先の震えと、哀しいほどに無機質な瞳も。
(……東雲先輩)
一輝は胸の奥で呟く。
なぜあれほど強い人間が。
なぜ完璧な勝利を収めた人間が。
あんなにも「生気のない顔」をしているのか。
彼女は笑っていた。だが、あの一輝の鋭い観察眼は誤魔化せない。
あの笑顔は、喜びでも誇りでもない。
ただ「強者としてそこに存在する」ために貼り付けた、痛々しい仮面だ。
勝利に何の感慨も抱かず、ただ義務のように圧倒し、その裏で何かに削り取られている。
一輝には、彼女の強さの底にある「底なしの孤独」が、静かに伝わってしまっていた。
*
その夜。
希は自室のベッドに腰掛け、月光に透ける自分の掌を見つめていた。
今日も勝った。
完璧だった。誰の目から見ても、最高の七星剣王だった。
それなのに。
「……私、何を忘れてるんだろう」
ぽつりと零れた呟きは、部屋の暗闇に消える。
自分がなぜ、強くなりたかったのか。
誰のために、この剣を握ると決めたのか。
地獄のような死線を越えてまで、守りたかった約束は何だったのか。
思い出そうとすると、胸の奥が焼けるように痛む。
けれど、思い出せない。
理由はすでに『上位置換』の代償として引き千切られ、勝利のための技術へと変換されてしまったから。
「……まあ、いいか」
彼女はいつもの口癖を呟く。
忘れてしまったのなら、きっと大したことではないのだろう。
そう自分に言い聞かせ、ゆっくりと横になる。
目を閉じると、深い水底のような暗闇が広がった。
冷たい水の底。はるか上方に遠ざかっていく柔らかな光。
その光の向こうで、誰かが自分に向かって手を伸ばしている気がした。
希は無意識に、暗闇のなかへ手を伸ばす。
「……待って」
届かない。
声も出ない。
伸ばした指先は空を切り、光は二度と届かない深海へと沈んでいく。
それが誰の手なのか。
自分が何を奪われたのか。
今の彼女には、もう知る術もなかった。
――東雲希の伐刀絶技は、相対した相手を上回る。
ただ、それだけ。
いかなる敵をも打ち破り、あらゆる敗北を勝利へと変える至高の能力。
どれほど強くなろうと、彼女の渇きが癒えることはない。
なぜなら――彼女が本当に取り戻したかったはずの『何か』は。
もう二度と強さでは手が届かない、記憶の底へと沈んでしまったのだから。