しょっぱい女神と真水の行商人 作:西都東都
水の神アプスーと、塩の水の母神は、混ざり合ってひとつだった。
二柱のあいだに子が生まれ、子はまた子を生み、神々は増えた。
増えた神々は騒がしく、やがて父アプスーを眠らせて殺し、母をも殺した。
母の体は二つに分けられた。水の体で天が、塩の体で大地が作られた。
だからこの大地は、どこを掘っても塩が出る。
だから空は、母の腕のようにやさしい。
――河の国ウルカの子守唄より
第一話 塩を食べる女
塩が降ってきたのは、昼を少し回ったころだった。
最初はただの霞に見えた。地平線の上、空の色が少しだけ白っぽく濁って、そこに陽が当たってきらきらしている。砂嵐の前触れに似ているが、砂嵐よりずっときれいで、ずっとたちが悪い。
「おいおい、嘘だろ」
ナラムは手綱を引いてロバの足を止め、鼻をひくつかせた。
風に味がある。
舌の付け根がひりつくような、乾いたしょっぱさ。間違いようがなかった。
「塩降りだ。ドゥム、走れるか」
ロバのドゥムは、耳を片方だけ後ろに倒して返事をした。走れない、という意味だ。こいつは十二年連れ添って、まだ一度も主人の頼みを快く聞いたことがない。
荷車には大麦の袋が六つ、干し棗の籠が四つ、干した羊肉の束が二つ。それから、油紙で三重に包んだ小麦の袋がひとつ。
この小麦ひと袋で、残り全部と同じくらいの値がつく。
塩を一粒でもかぶったら、半値だ。
「頼む。お前の好きな棗、町に着いたら三つやる」
ドゥムは考えるように一度まばたきし、それから、のそのそと歩き出した。速くはない。ただ、さっきよりは速い。
ナラムは荷車の幌の紐を確かめながら、白い空を睨んだ。
学者連中はこれを「白蝕(はくしょく)」と呼ぶ。大地が白く蝕まれる、という意味だそうだ。けれど街道を行き来する人間は、もっと素直に「塩降り」と呼んでいる。空から塩が降ってくるのだから、それ以上でもそれ以下でもない。
降り始めはいつも唐突だ。季節も、月の満ち欠けも関係がない。去年は三度、一昨年は五度。どこかの町で暴動があった翌日に降った、とか、処刑のあった日に降った、とか、そういう噂はいくらでもあるが、確かなことは誰にも分からない。
分かっているのは、降れば、どうしようもないということだけだ。
鉄は錆びる。井戸は塩辛くなる。畑は白く固まって、二度と麦を生やさなくなる。
十二年前から、ずっとそうだ。
*
風が強くなってきた。
頬に当たる粒が、霞ではなく、はっきりとした粒になった。指でこすると、ざらりとした感触が残る。
ナラムは頭に巻いた布を口元まで引き上げ、目を細めて前を見た。
街道沿いには、身を隠せる場所がほとんどない。この辺りはもともと畑だったらしいが、いまはただの白い平原だ。地面は塩の殻でひび割れ、ところどころに枯れた潅木の骨が立っているだけ。
ただ、ひとつだけ心当たりがあった。
「ドゥム、右だ。あの柱の陰に行く」
ロバは今度は文句を言わなかった。さすがに、こいつも塩は嫌いらしい。
街道から少し外れた丘の上に、ぽつんと一本、白い柱が立っている。
人の背丈より頭ひとつ高いくらいの、細長い柱だ。遠目には石に見えるが、近づくとそれが塩の塊だと分かる。どういうわけか、何年経っても崩れない。降った塩を吸って、むしろ少しずつ太っているようにも見える。
この辺りの人間は、それを「振り返り女」と呼んでいた。
むかし、神様に滅ぼされた町があった。そこから逃げ出した女が、言いつけを破って後ろを振り返り、その場で塩の柱になった。――というのが、この辺りの古い言い伝えだ。
たしかに、柱はほんの少しだけ、くびれていた。上の方が丸く、肩らしきものがあり、腰らしきものがある。後ろを振り返る女の姿に、見えなくもない。
見えなくもない、という程度だ。ナラムは昔から、そういう話を半分しか信じていない。
「縁起でもねえけど、風よけにはちょうどいいんだよな」
柱の風下側に荷車を回し込み、ドゥムを柱にぴったり寄せて座らせる。自分は荷車と柱のあいだに体を押し込み、幌の端を引っ張って即席の屋根を作った。
ざあ、と音がした。
雨の音に似ている。けれど雨よりも乾いていて、細かくて、絶え間ない。
塩が本降りになった。
*
どれくらい経っただろう。
ナラムは膝を抱えたまま、幌の隙間から外を眺めていた。視界は真っ白だ。天も地も区別がつかない。ときどき強い風が吹くと、幌がばたばたと鳴り、塩の粒が中まで吹き込んでくる。
口の中がしょっぱい。
腰の革袋から水をひと口含んで、ゆすいで、吐き出そうとして――やめた。もったいない。そのまま飲み込む。少ししょっぱい。この辺りの井戸の水は、どこで汲んでも、こんなものだ。
古い革袋だった。親方の形見で、継ぎがいくつも当たっている。どんなに金がなくても、これだけは手放したことがない。
「親方、こういうときどうしてたっけな」
独り言は、塩の音にかき消された。
親方――ギルガ爺さんは、五年前に死んだ。河口の葦原で拾った赤ん坊を、二十年かけて一人前の行商人に育て上げて、最後は「麦の値は三日先を見ろ」と言い残して死んだ。三日先の麦の値は、いまでもナラムにはよく分からない。
そのときだった。
ぱき、と、小さな音がした。
塩の音とは違う。もっと近い。すぐ背中の、柱の中から聞こえた。
ナラムは振り返った。
柱の表面に、細いひびが一本、走っていた。
「あ?」
見ている間に、ひびは増えた。ぱき、ぱき、と、薄い氷が割れるような音を立てて、柱の表面を枝分かれしながら這い上がっていく。
そして――柱が、塩を吸っていた。
そうとしか言いようがなかった。降ってくる塩の粒が、柱に当たった瞬間に、すうっと表面に溶け込んで消えていく。柱のまわりだけ、塩が積もっていない。それどころか、地面に積もっていた塩までが、さらさらと流れるように柱の根元へ吸い寄せられていく。
ドゥムが立ち上がった。耳を両方とも後ろに倒している。本気で嫌がっているときの顔だ。
「待て待て待て、なんだこれ」
ナラムは荷車の陰から這い出し、尻もちをついたまま柱を見上げた。
柱の中で、何かが光っている。
白い塩の奥に、青とも緑ともつかない色が、ぼんやりと透けて見える。夜明け前の河口の色だ、と、なぜかナラムは思った。海の塩水と、河の真水が混ざり合う、あの濁った境目の色。
ひびが柱のてっぺんまで達した。
ぱきん、と、ひときわ大きな音がして――
柱が、割れた。
塩の破片が、ばらばらと足元に降ってきた。
とっさに顔をかばった腕の隙間から、ナラムはそれを見た。
割れた柱の中に、女がいた。
膝を抱えて、丸くなって、眠るように目を閉じている。肌は塩と同じくらい白く、長い髪も白かった。いや、白というより、陽に透かした塩の結晶のように、ほんのりと青みがかっている。
そして、何も着ていなかった。
返事はなかった。
ナラムは、とりあえず自分の外套を脱いだ。
商人の頭というのは、こういうとき妙に冷静に働く。目の前で何が起きているのかはさっぱり分からない。分からないが、裸の女がいて、塩が降っていて、自分の外套は乾いている。だったら外套をかけるべきだ。それくらいは分かる。
なるべく目を逸らしながら、外套を女の肩にかけた。
その瞬間、女が目を開けた。
さっき柱の中に見えた色と同じ、河口の色の目だった。
女はぱちぱちとまばたきをして、ナラムを見て、それから、外套をかけたナラムの手首に顔を寄せた。
すん、と匂いを嗅いだ。
「しょっぱく、ない」
声は掠れていた。長いこと使われていなかった楽器のような声だった。
「は?」
「あなた。しょっぱくない。いい匂い」
女はそう言うと、ナラムの手首をぺろりと舐めた。
ナラムは悲鳴を上げた。
生まれてこのかた二十六年、行商人として街道を歩いて十年、盗賊にも遭ったし、詐欺にも遭ったし、腐った井戸水で三日寝込んだこともある。けれど、塩の柱から出てきた裸の女に手首を舐められたのは、これが初めてだった。
ドゥムが、ひひん、と鳴いた。笑っているように聞こえた。
塩は、いつの間にか、止んでいた。
塩降りが止むと、空はけろりと青くなった。
さっきまでの白い嵐が嘘のようだ。平原一面に、新しい塩が薄く積もって、陽を跳ね返してまぶしい。
ただし、柱のまわりだけは別だった。
ちょうど荷車を中心に、半径二十歩ほどの円の中だけ、塩がない。ひび割れた地面の土の色が、くっきりと見えている。まるで誰かが、そこだけ箒で掃いたみたいに。
その円の真ん中で、白い髪の女が、ナラムの外套にくるまって座っていた。
ナラムは荷車の反対側に回り込んで、女と荷車を挟んで向かい合った。距離は大事だ。商談でも、得体の知れない相手でも。
「えーと」
「えーと」
女が真似をした。
「いや、真似しなくていい。あんた、誰だ」
女は首を傾げた。長い白い髪が、さらりと肩から落ちる。
「だれ」
「名前だよ。名前。俺はナラム。行商人だ。あんたは?」
「なまえ」
女は、その言葉を舌の上で転がすように繰り返した。それから、眉のあたりにほんの少しだけ皺を寄せて、遠くを見るような目をした。
「ティ」
「ティ?」
「ティア……マ……」
そこで、女は口をつぐんだ。続きが出てこないらしい。困ったように眉を下げて、もう一度「ティア」と言った。
「ティア。ティアっていうのか」
「わからない」
「分からないのかよ」
「でも、ティア、は、たぶん、ある」
女――ティアは、自分の胸に手を当てて、こくりと頷いた。
ナラムは額を押さえた。
分からないことが多すぎる。けれど、行商人の基本は、分かることから片づけることだ。分からないことは、あとで値をつければいい。
「よし。ティア。あんたはあの柱の中から出てきた。それは見てた。で、どこから来た。家は。親は」
「わからない」
「だよな」
予想はしていた。
「じゃあ、なんで柱の中にいた」
「わからない。ねむってた。しょっぱいのが、たくさん来たから、起きた」
「しょっぱいの?」
ティアは、ナラムの肩越しに、円の外を指さした。新しく積もった塩が、白く光っている。
「あれ」
そう言うと、ティアは外套を引きずったまま立ち上がり、ふらふらと円の外へ歩いていった。足取りはおぼつかない。生まれたての仔馬みたいだ。
ナラムが止める間もなく、ティアは塩の上にしゃがみ込み、両手ですくい上げ――
食べた。
ぼり、ぼり、と音がした。
「おい!」
ナラムは荷車を飛び越えた。
「何してんだ、吐け、腹壊すぞ! いや腹壊すどころじゃねえ、死ぬぞ、そんなもん食ったら!」
「おいしい」
「おいしいわけあるか!」
「おいしい」
ティアは、心底しあわせそうな顔で、もうひとすくい口に運んだ。
ナラムは、言葉を失った。
ティアの手のひらの上で、塩が消えていく。口に入れた分だけではない。手に触れている塩も、足元の塩も、すうっと溶けるように彼女の肌に吸い込まれて、跡形もなくなっていく。
さっき柱が塩を吸っていたのと、まったく同じだった。
ティアがしゃがんでいる場所を中心に、地面の色が、白から土の色へと、じわじわと広がっていく。
「あんた、人間じゃねえな」
ナラムの口から、ぽろりとそれが出た。
ティアは顔を上げた。口のまわりに、塩の粒がついていた。
「にんげん」
「俺みたいなやつのことだ」
ティアはナラムをじっと見て、それから自分の手を見て、もう一度ナラムを見た。
「ちがう、と思う」
「だろうな」
「ちがうと、だめ?」
その問い方が、あまりにもまっすぐだったので、ナラムは返事に詰まった。
*
夕方まで、ナラムは迷った。
選択肢はいくつかある。
ひとつ。このまま見なかったことにして、次の町へ向かう。ティアはここに置いていく。たぶん、それがいちばん賢い。得体の知れないものには関わらない。これも親方の教えだ。
ふたつ。次の町まで連れていって、神殿に預ける。神官たちなら、こういう訳の分からないものの扱いには慣れているだろう。たぶん。
みっつ。――みっつ目は、思いつかなかった。
ナラムは荷車の荷を確かめながら、ちらちらとティアの様子をうかがった。
ティアは円の外を歩き回って、塩を食べ続けていた。もう三十歩、四十歩と円が広がっている。食べても食べても、腹がふくれる様子はない。ときどき立ち止まって、こちらを振り返って、ナラムがまだいることを確かめると、また安心したように塩を食べ始める。
その仕草が、どうにも気に食わなかった。
捨てられた犬が、こういう顔をする。
「ドゥム。お前、どう思う」
ロバは鼻を鳴らした。どうでもいい、という意味だ。
「だよな。俺もどうでもいい。どうでもいいはずなんだよ」
ナラムは、油紙で包んだ小麦の袋を撫でた。ちゃんと無事だった。塩は一粒もかぶっていない。柱の陰にいたおかげだ。正確には、柱の中にいた何かのおかげだ。
借りが、ひとつ、あるといえばある。
行商人は、借りを作ったままにしない。それも親方の教えだった。親方の教えは、ときどき互いに矛盾する。
「ティア!」
呼ぶと、ティアは塩を口に運ぶ手を止めて、ぱっと顔を上げた。
「なに」
「次の町まで行く。あんたも来るか」
ティアは、少し考えた。
「つぎのまち、しょっぱいの、ある?」
「ある。どこにでもある。うんざりするほどある」
「じゃあ、いく」
即答だった。
ナラムは、なぜか少しだけ、がっかりした。
「俺が行くから、じゃねえのかよ」
「?」
「なんでもない。ほら、乗れ。歩きじゃ遅い」
ティアは荷車によじ登ろうとして、外套の裾を踏んで転げ落ちた。三回目でようやく乗れた。ドゥムが、心底迷惑そうに首を振った。
*
夜になった。
次の町、エシュヌまでは、ここから半日ほどだ。夜の街道は危ないので、今夜は野宿になる。
ナラムは枯れ枝を集めて火を起こし、干し肉をあぶり、大麦の平焼きを温めた。ひとり分のつもりだったが、ティアがじっと見ているので、半分に割って差し出した。
ティアは平焼きの匂いを嗅いで、ひと口かじって、顔をしかめた。
「あまくない。しょっぱくない。なにもない」
「大麦の平焼きだからな。味は、まあ、ない」
「なにもないの、いらない」
ティアは平焼きを返してきた。それから、干し肉の方を指さした。
「それは、すこし、しょっぱい」
「塩漬けだからな。食うか?」
ティアは干し肉をかじり、ぱあっと顔を輝かせて、それから、すぐにまた顔をしかめた。
「しょっぱいのと、しょっぱくないのが、まざってる。へん」
「贅沢言うな。干し肉は高いんだぞ」
ティアは、干し肉を噛みながら、器用に塩の部分だけを吸い取っているようだった。吐き出した肉は、真っ白に乾いて、なんの味もしなくなっていた。ナラムが試しにかじってみたら、紙を噛んでいるような味だった。
「お前、それ商品だったら大損だぞ」
「しょうひん?」
「売り物のことだ」
「ナラムは、ものを、うるの?」
「行商人だからな。町で仕入れて、次の町で売る。それで飯を食ってる」
「しょっぱいのも、うる?」
ナラムは笑った。
「塩なんか、誰も買わねえよ。どこにでもある。ゴミだ。みんな金払って捨ててるくらいだ」
「ゴミ」
ティアは、少しだけ、悲しそうな顔をした。
焚き火がぱちりと爆ぜた。
「ゴミ、なの」
「ああ、まあ……俺らにとってはな」
ティアは膝を抱えて、火を見つめた。それきり、黙ってしまった。
ナラムは、なんとなく居心地が悪くなって、革袋の水を飲んだ。いつもどおり、少しだけしょっぱかった。
「飲むか?」
差し出すと、ティアはしばらく革袋を見ていた。それから、ゆっくりと受け取って、口をつけた。
ひと口、飲んだ。
ティアの目が、大きく見開かれた。
「これ」
「なんだ。まずいか」
「ちがう。これ、へん。すこし、しょっぱい。でも、ナラムの、においが、する」
ティアは、もうひと口飲んだ。それから革袋を胸に抱えて、ナラムを見上げた。
「ナラムの、水」
「ああ、俺のだ。返せ」
「ナラムの水、すき」
焚き火の向こうで、ティアが笑った。
塩の柱から生まれた女の、それが初めての笑顔だった。ナラムはなぜか、まともにそれを見ていられなくて、空を見上げた。
星がやたらと多かった。
「返せって」
「もうすこし」
「全部飲む気だろ、お前」
ティアは返事をせずに、革袋を抱えたまま、こてんと横になった。
そのまま、寝息を立て始めた。
ナラムは長いため息をついて、荷車から毛布を引っ張り出し、ティアの上にかけた。それから自分の分の毛布がないことに気づいて、もう一度、ため息をついた。
*
エシュヌは、塩の町だった。
もっとも、この辺りの町はどこも塩の町だ。けれどエシュヌは、とりわけひどかった。
町を囲む土壁は、塩を吸って白くまだらに変色し、ところどころ崩れている。門の鉄の蝶番は錆びきって、門扉は開けっぱなしのまま、もう何年も閉じられていない。通りの両脇には、掃き集めた塩が人の背丈ほどにも積み上げられて、白い畝のように町を縦横に走っていた。
昨日の塩降りの後始末で、町じゅうの人間が箒と籠を持って外に出ている。
「すごい」
荷車の上で、ティアがため息をついた。うっとりとした声だった。
「すごいって、お前な」
「しょっぱいの、いっぱい」
ティアの目が、山のように積まれた塩を、ひとつ残らず追っている。今にも荷車から飛び降りそうだ。
ナラムはティアの外套の裾を掴んだ。
「いいか、ティア。約束しろ。町の中で、勝手に塩を食うな」
「なんで」
「目立つからだ」
「めだつと、だめ?」
「だめだ。お前みたいなのが塩をぼりぼり食ってたら、町の連中が腰抜かす。最悪、神官に突き出される。そうなったら俺も困る」
ティアは不満そうに唇を尖らせた。それから、通りの塩の山をじっと見て、もう一度ナラムを見た。
「ちょっとだけ」
「だめだ」
「ほんのちょっと」
「だめだって」
ティアは、むう、と唸った。人間ではないくせに、拗ね方だけは妙に人間らしい。
それより先に、片づけなければならない問題があった。
ティアは、ナラムの外套を一枚羽織っているだけだった。下には何も着ていない。素足だ。
さすがに、このまま町を歩かせるわけにはいかない。
「まずは服だな。くそ、とんだ出費だ」
古着屋の女主人は、ティアを見るなり目を丸くした。
「あらまあ、どうしたのその子。きれいな髪ねえ。どこのお嬢さん?」
「遠縁の娘です。塩降りで荷物をやられまして」
ナラムは、するすると嘘をついた。行商人の口は、半分嘘でできている。もう半分は値切り文句だ。
「まあ、かわいそうに。それにしても珍しい髪の色ね。北の方の生まれ?」
「ええ、まあ、そんなところで」
「目もきれい。河口の水みたいな色」
女主人は、ティアの顔をしげしげと覗き込んだ。ティアは、女主人の手首のあたりを、じっと見つめ返していた。
嫌な予感がした。
女主人の手首には、塩の粒がこびりついている。朝の塩掃きの名残だろう。
ティアの鼻が、すん、と動いた。
「ティア」
ナラムは低い声で呼んだ。
「ちょっとだけ」
「だめだって言った」
「なあに、どうしたの?」
「いえいえ。この子、人見知りでして。それより、この子に合う服を一揃い、いちばん安いのでお願いします」
「いちばん安いの? こんなにきれいな子なのに?」
「いちばん安いので」
女主人は呆れたような顔をしたが、それでも、生成りの麻の下着と、薄青い木綿の上衣と、腰帯と、草で編んだ靴を出してくれた。上衣は少し大きかったが、腰帯で絞ればちょうどよかった。
着替えて出てきたティアを見て、女主人がまた「あらまあ」と言った。
ナラムは、何も言わなかった。
言わなかったが、たしかに、悪くはなかった。白い髪に、薄青い上衣がよく似合っていた。塩の柱から出てきた得体の知れないものが、そうしていると、どこにでもいる――いや、どこにでもはいないが――少なくとも、人間の娘に見えた。
「ナラム。これ、へん?」
「へんじゃない」
「よかった」
ティアは、くるりと回ってみせた。上衣の裾がふわりと広がった。
「お会計ね。全部で大麦八升分」
「六升」
「七升半」
「六升半。それと、うちの干し棗をひと籠つけます」
「あんた、商売上手ね。いいわよ、六升半と棗で」
ナラムは頭の中で算盤を弾いた。干し棗ひと籠は、この町なら大麦二升の値打ちだ。実質八升半。高い。とんでもない出費だ。
けれど、ティアがまだくるくる回っているのを見ていると、なぜか、文句を言う気が失せた。
*
その日の午後、ナラムは市場で店を広げた。
エシュヌの市場は、昨日の塩降りで半分ほどが閉まっていた。開いている店も、品数は少ない。塩降りの後は、どこの町でも食べ物が足りなくなる。畑がやられ、井戸がやられ、倉の中の穀物までが湿気た塩でだめになるからだ。
つまり、行商人にとっては稼ぎどきだ。
「大麦、大麦はいらんかね! 北のハッルの大麦だ、塩をかぶってない、乾いた上物だよ! 干し棗もある、干し肉もある!」
声を張ると、すぐに人が集まってきた。
大麦は飛ぶように売れた。ふだんの一割増しの値をつけても、誰も文句を言わない。干し棗も、干し肉も、またたく間に減っていく。
ナラムは手を動かしながら、ちらりと隣を見た。
ティアは荷車の荷台に腰かけて、足をぶらぶらさせていた。言いつけどおり、塩には手を出していない。ただ、市場の端に積み上げられた塩の山を、穴があくほど見つめていた。
見つめているだけ――の、はずだった。
「ん?」
ナラムは、目をこすった。
塩の山が、低くなっている。
さっきまで人の背丈ほどあったはずの山が、今は胸の高さくらいしかない。見ている間にも、さらさらと、山の表面から塩が崩れ、風もないのに、ティアの方へ向かって流れてくる。そしてティアの足元に届く前に、すうっと消える。
食べてはいない。手も口も使っていない。
ただ、見ているだけで、吸っている。
「ティア」
「たべてない」
「そうだな、食べてはいないな」
「みてるだけ」
「見てるだけでも、だめだ」
「なんで?」
ナラムは答えに詰まった。理屈の上では、ティアは約束を破っていない。
幸い、市場の連中は誰も気づいていないようだった。塩の山が勝手に低くなっていくなんて、普通は思いもしない。仮に気づいたとしても、風で飛ばされたか、誰かが片づけたと思うだろう。
「分かった。見るだけなら、いい。ただし、ほどほどにしろ」
「ほどほどって、どれくらい?」
「誰にも気づかれないくらいだ」
ティアは、真剣な顔で頷いた。
そして、塩の山が、ぴたりと低くなるのをやめた。
ナラムは、思わず感心してしまった。こいつ、加減ができるのか。
代わりに、通りの向こうの、別の塩の山が、さらさらと崩れ始めた。
「おい」
「ほどほど。いっこずつ、すこしずつ」
ティアは、得意げに胸を張った。
ナラムは、もう何も言わないことにした。
夜、ナラムは宿の帳場で、ひとりで勘定をしていた。
儲けは上々だった。大麦は全部はけ、干し棗も干し肉も、ほとんど売り切れた。残っているのは油紙で包んだ小麦の袋だけ。あれは、この町では売らない。エシュヌの有力者は貧乏だ。小麦の値に見合う金を払える人間は、この町にはいない。
そして出費の方は――
「服で八升半。宿代は二人分で、大麦五升。飯代、二人分。なんで二人分なんだよ」
口に出して、ナラムは顔をしかめた。
ティアは飯を食わない。宿で出された大麦の粥にも、豆の煮込みにも、ひと口も手をつけなかった。食べたのは、塩漬けの瓜の、塩の部分だけだ。それでも宿の主人は、きっちり二人分の飯代を取った。
部屋だって、ふたつ取った。ひとつで済ませるわけにはいかない。いくらなんでも。
「割に合わねえ」
帳面を閉じて、天井を仰いだ。
分かっている。答えは最初から出ている。
ティアは、ここに置いていくべきだ。
エシュヌには神殿がある。小さいが、神官もいる。事情を話せば――いや、事情はとても話せないが、身寄りのない娘だと言って預ければ、悪いようにはしないだろう。神殿は、そういう者を引き取るのが仕事のひとつだ。
ティアがいなくなれば、宿代は半分になる。服代はもう払ってしまったが、これ以上は増えない。荷車も軽くなる。ドゥムも喜ぶ。
何より、面倒ごとに巻き込まれずに済む。
あれは人間ではない。塩を吸う、得体の知れない何かだ。いまはまだ子供みたいに無邪気だが、いつ何をしでかすか分からない。そんなものを連れて街道を歩くなんて、正気の沙汰ではない。
「明日の朝、神殿に連れていく。それで終わりだ」
ナラムは、口に出して決めた。
口に出すと、少しだけ、胸のあたりが重くなった。
*
翌朝、ナラムはティアを連れて、神殿へ向かった。
エシュヌの神殿は、町のいちばん高い場所にある。日干し煉瓦を積み上げた階段状の建物で、てっぺんには、この町の守り神である風の神の像が立っている。像の顔は、塩に削られて、もうほとんど判別できない。
「ここ、なに?」
「神殿だ。神様を祀ってる」
「かみさま」
ティアは、その言葉を口の中で転がした。それから、なぜか、ほんの少しだけ眉をひそめた。
「かみさま、すきじゃない、かも」
「会ったことあんのかよ」
「わからない」
ナラムは苦笑した。
神殿の入り口で、若い神官が掃き掃除をしていた。昨日の塩を、ちりとりで集めて、大きな籠に入れている。籠の中の塩は、あとで町の外の捨て場まで運ばれるのだろう。
「すみません。ちょっと、ご相談がありまして」
ナラムが声をかけると、神官は顔を上げて、ナラムとティアを見比べた。
「はい、なんでしょう」
「実はこの娘、塩降りで身寄りをなくしまして。街道で拾ったんですが、俺は行商の身で、連れて歩くわけにもいかない。こちらで、しばらく面倒を見ていただけないかと」
神官は、ティアをじっと見た。ティアは、神官の持っている籠の塩を、じっと見ていた。
「なるほど。事情は分かりました。神殿の奉仕女として引き取ることはできます。ただ、ご存知のとおり、今は塩降りの後で、どこも手一杯で……」
「もちろん、寄進はします」
ナラムは、懐から小さな袋を取り出した。大麦十升分の銀の粒だ。昨日の儲けの、半分近い。
神官の顔が、ぱっと明るくなった。
「それはそれは。神のご加護がありますように」
「ティア。お前は今日から、ここで暮らすんだ」
ティアは、ゆっくりとナラムの方を向いた。
「ナラムは?」
「俺は行く。商売があるからな」
「わたしも、いく」
「だめだ。お前はここにいろ。ここなら、飯も……いや、飯は食わねえか。とにかく、寝る場所もあるし、屋根もある。塩も、たぶん、掃除で集めた分をこっそり食えばいい」
「ナラムは、いかない?」
「行くって言ってんだろ」
ティアは、黙った。
河口の色の目が、じっとナラムを見ていた。責めるでもなく、泣くでもなく、ただ、何が起きているのか分からない、という顔だった。
ナラムは、その目から逃げるように背を向けた。
「元気でな」
それだけ言って、階段を降りた。
振り返らなかった。振り返ったら、塩の柱になる。――そんな言い伝えを、なぜか思い出していた。
*
町の門を出るまで、ナラムは一度も後ろを見なかった。
ドゥムが、何度も首をひねって振り返ろうとした。そのたびに手綱を引いて、前を向かせた。
「行くぞ。次はラルサだ。五日の道のりだ」
ドゥムは不服そうに鼻を鳴らした。
「あいつは神殿にいる方が幸せなんだよ。分かるだろ」
鼻を鳴らした。
「十升だぞ。十升も寄進したんだ。もう充分だろ。借りは返した」
鼻を鳴らした。
「うるせえな」
ナラムは、黙々と歩いた。
昼になり、日が傾き始めたころ、街道の脇の岩陰で休憩を取った。革袋の水を飲み、干し肉の切れ端をかじる。
ふと、違和感を覚えた。
ナラムは顔を上げて、来た道を見た。
街道は、白い塩の平原を、一本の線のようにまっすぐ貫いている。エシュヌの町は、もう地平線の向こうに隠れて見えない。
その街道が――途中から、白くなかった。
いや、正確に言うと、街道の真ん中に、細い一本の筋が走っていた。塩のない、土の色の筋。幅は人ひとり分くらいで、それがエシュヌの方角から、ずっと、まっすぐ、こちらに向かって伸びている。
筋の先端が、少しずつ、近づいてきていた。
ナラムは立ち上がった。
地平線の上に、小さな人影が見えた。
薄青い上衣。白い髪。草の靴で、とぼとぼと、街道を歩いてくる。その足が踏んだところから、塩が消えていく。だから、彼女の歩いてきた道だけが、一本の土の線になっている。
「嘘だろ」
人影は、近づくにつれて、少しずつ足を速めた。最後は、ほとんど走っていた。何度か転びそうになりながら、それでも止まらずに、ナラムの前までやってきて、ぜえぜえと肩で息をした。
「ナラム」
「なんで来た」
「ナラムが、いったから」
「神殿にいろって言っただろ」
「いや」
ティアは、きっぱりと言った。昨日まで、言葉を覚えたての子供のようだったのに、その「いや」だけは、妙にはっきりしていた。
「かみさま、いや。あそこ、いや。ナラムの水が、ない」
「水なんか、どこにでもあるだろ」
「ない。ナラムの水は、ナラムにしかない」
ティアは、ナラムの腰の革袋を指さした。
ナラムは、言葉に詰まった。
ドゥムが、ひひん、と鳴いた。今度こそ、間違いなく笑っていた。
「十升」
「?」
「寄進した十升、どうしてくれんだよ。お前が逃げてきたら、ただの払い損じゃねえか」
ティアは首を傾げた。それから、何か思いついたように、ぱっと顔を明るくした。
「しょっぱいの、たべてきた。神殿の、かごの、ぜんぶ。だから、神殿、きれいになった」
「は?」
「掃除。手伝った。十升分」
ティアは、誇らしげに胸を張った。
ナラムは、しばらく何も言えなかった。それから、腹の底から笑いがこみ上げてきて、とうとう、こらえきれずに吹き出した。
笑いながら、ナラムは考えていた。
十升分の掃除。
塩を、ただで、片づける。
――この町の連中は、金を払って塩を捨てている。
商人の頭のどこかで、何かが、かちりと音を立てて噛み合った。