しょっぱい女神と真水の行商人   作:西都東都

10 / 10
第十話 ばけもの

 二日目の夜、ガルザが、宿にやってきた。

 一人だった。取り巻きも見張りも連れていなかった。宿の裏の井戸端にナラムを呼び出した。

「三日って約束だったはずですが」

「約束はウトゥルとのもんだ。俺は、俺の話をしに来た」

 ガルザは、井戸の縁にどっかりと腰を下ろした。井戸の縁の煉瓦がみしりと鳴った。

「話、ですか」

「ああ。商売の話だ」

 ナラムは眉をひそめた。

 ガルザは、腕を組んで、ナラムを見上げた。月明かりの下で、頬の傷痕が、白く浮かび上がっていた。

「お前の妹が、塩を消してるんだろう」

 ナラムは答えなかった。

「答えなくていい。分かってる。北の路地の人足のガキが、うちの監督のガキに、喋った。白い髪の姉ちゃんが、塩に触ったら、塩が消えたってな」

 ナラムは内心で舌打ちした。

 ミルだ。ないしょ、と言っていたのに。いや、子供だ。子供は喋る。ミルを責めるのは筋違いだ。

「それで」

「それで、だ」

 ガルザは身を乗り出した。

「俺と、手を組め」

「は?」

「お前の妹を、俺に貸せ。組合の捨て場で、塩を消させろ。いや、全部は消すな。少しずつだ。少しずつ消して、捨て場を空ける。空いた捨て場に、また、よその町の塩を受け入れる。手数料を取る」

 ナラムは言葉を失った。

「捨て場は、もう、限界なんだ。山は、これ以上、高く積めねえ。崩れる。新しい捨て場を作ろうにも、町の周りは、もう、どこもかしこも、塩の山だ。あと二年もすりゃ、よその町の塩を、受け入れられなくなる。そうなったら、組合は終わりだ」

 ガルザは、窓の外の塩の山を、顎でしゃくった。

「だが、お前の妹がいれば、話は別だ。捨て場の塩を消せば、いくらでも、新しい塩を受け入れられる。組合は、永遠に続く。人足も、仕事を失わねえ」

 ガルザはにやりと笑った。

「お前の取り分は、手数料の、一割だ。いや、二割でもいい。悪い話じゃないだろう」

 ナラムは、ガルザを見下ろしていた。

 悪い話ではない。

 商人として、計算すれば、悪い話ではなかった。手数料の二割。この町に運び込まれる塩の量を考えれば、一年で、銀千粒、いや、二千粒は下らない。一生遊んで暮らせる。

 人足も仕事を失わない。アッダもミルも路頭に迷わない。

 ナラムは口を開きかけた。

 そのとき、ふと思い出した。

 ――みんな、すてられて、つまれて、だれも、さわらない。ずっと、ずっと、ひとりで、つまれてる。

 白い山脈を見たときのティアの涙。

 ――ここの、しょっぱいの、つかれてた。いっぱい、はこばれて、いっぱい、すてられて、つかれてた。わたしが、たべたら、やすめる。

「一つ、聞いてもいいですか」

「なんだ」

「人足の手間賃は、上げるんですか」

 ガルザの顔から、笑みが消えた。

「なんだと?」

「捨て場が空いて、組合が永遠に続く。手数料が、永遠に入ってくる。そうなったら、人足の手間賃は、日に二升から、上がるんですか」

「関係ねえだろ」

「関係あります。俺の取り分の話をしてるんです。組合の儲けが増えるなら、俺の取り分も、人足の手間賃も、増えて当然でしょう」

 ガルザの顔から、笑いが消えた。

「人足は、何年も塩を担いで、肺をやられて、死んでいく。それで、日に二升。その二升は、上がるんですか」

 ガルザは、しばらくナラムを睨んでいた。

 それから、低い声で言った。

「上がらねえよ」

 ガルザは、鼻を鳴らした。

「人足は、二升で働く。二升で働くから、人足なんだ。上げたら、つけあがる。つけあがったら、言うことを聞かなくなる。人足ってのは、そういうもんだ」

 ナラムはゆっくりと息を吐いた。

「そうですか」

「で、どうする」

「お断りします」

 ガルザの目が細くなった。

「なんだと」

「お断りします、と言ったんです」

 ナラムはにこやかに笑った。

「妹は、貸しません。それに、俺の妹は、組合の塩捨ての道具じゃない。塩を消して、また塩を積んで、また消して、また積んで。そんなことを、永遠に、あいつにさせるつもりはありません」

 ナラムの声は、穏やかなままだった。

「あいつは、塩が好きなんです。積まれて、捨てられて、疲れてる塩を、食べて、休ませてやりたいんです。空いた場所に、また塩を積むためじゃない」

 ガルザが立ち上がった。

 井戸の縁の煉瓦がばらばらと崩れ落ちた。

 ナラムは一歩も退かなかった。

「後悔するぞ、行商人」

「よく言われます」

「明日の夜で、ウトゥルとの約束の三日が切れる。そうしたら、お前も、お前の妹も、塩の山の下だ」

 ガルザは、ナラムの肩を、太い指で突いた。

「それまでに、気が変わったら、詰め所に来い。待っててやる」

 ガルザは、背を向けて、去っていった。

 大きな背中が闇の中に消えていった。

 ナラムはその場にへたりこんだ。膝ががくがくと震えていた。

「ナラム」

 振り返ると、宿の裏口にティアが立っていた。

「聞いてたのか」

「きいてた」

 ティアは、ナラムのそばまで歩いてきた。それから、ナラムの前にしゃがみこんだ。

「ナラムの、なか、わからない。でも、いまの、ナラム、ほんとだった。たぶん」

「たぶんかよ」

「たぶん。かっこよかった」

 ティアはナラムの手を握った。温かかった。

「ナラム。わたし、きめた」

「何をだ」

「しおの、やま、たべる」

 ナラムは顔を上げた。

「ティア」

「ぜんぶは、むり。ナラムが、いった。でも、すこしずつ。すこしずつ、たべる。つかれてる、しょっぱいの、やすませる」

「そうしたら、組合が困る。人足が、仕事を失う」

「うん」

「ミルの父ちゃんが、困るかもしれないぞ」

「うん」

 ティアはうつむいた。

 それから、顔を上げた。

「でも、ミルの、とうちゃん、いってた。むぎ、つくりたいって。しお、なくなったら、むぎ、つくれる?」

「すぐには、無理だ」

「すぐじゃ、なくても」

「何年か先なら」

 ティアは、ナラムの手をぎゅっと握った。

「ニンギルの、おじいさんの、はたけ、みたいに?」

「ああ。あのじいさんの畑みたいに」

 ナラムはティアを見ていた。

 河口の色の目が、まっすぐにナラムを見返していた。

「分かった」

 ナラムは立ち上がった。ティアの手を引いて、立たせた。

「ただし、条件がある」

「じょうけん?」

「人足たちが、明日から食えなくなるのは、だめだ。だから、俺が、どうにかする。どうにかする方法を、考える。それまで、待て」

「どれくらい?」

「明日の夜までだ」

 ティアは少し考えた。

 それから、こくりと頷いた。

「まつ」

 

  *

 

 三日目の朝、ナラムは、夜明けと同時に宿を出た。

 見張りの男たちは、宿の表でまだ眠っていた。ナラムは、彼らを起こさないように裏口から抜け出した。ティアとルハを宿に残して。

 向かったのは北の路地だった。

 アッダの家の戸を叩いた。アッダは寝ぼけ眼で出てきた。

「なんだ、こんな朝っぱらから」

「人足を、集めてもらえませんか」

「は?」

「北の路地の人足を、全員。それから、ほかの路地の人足も、集められるだけ。今日の昼までに」

 アッダは目を丸くした。

「何をする気だ」

「商売の、話です」

 

  *

 

 昼、北の路地の突き当たりの塩の消えた空き地に人足たちが集まってきた。

 最初は二十人ほどだった。それが、昼を過ぎるころには、百人を超えていた。アッダが、仲間に声をかけ、その仲間が、また仲間に声をかけた。みんな、顔も髪も塩で白かった。みんな、咳をしていた。

 ナラムは、空き地の真ん中に、空になった大麦の木箱を逆さにして置き、その上に立った。

 ティアとルハが空き地の端で見ていた。

「行商人のナラムです」

 ナラムは声を張り上げた。

 人足たちが、ざわざわとナラムを見上げた。

「今日は、皆さんに、一つ、商売の話を持ってきました」

「商売?」

「なんの商売だ」

「俺たちに売るもんなんか、何もねえぞ」

 野次が飛んだ。ナラムは構わずに続けた。

「売るんじゃありません。買うんです」

「買う?」

「何をだ」

「皆さんの、労働を」

 空き地が静まり返った。

 ナラムは、懐から、帳面を取り出した。昨夜、一晩かけて、書きつけた帳面だ。

「皆さんは、組合で、日に二升の手間賃で、塩を担いでいる。そうですね」

「ああ」

「その塩を、組合の捨て場じゃなく、俺のところに、運んでください」

 人足たちが顔を見合わせた。

「あんたのところに?」

「ええ。町の家々の前の塩、よその町から運ばれてくる塩、捨て場の塩。何でもいい。俺のところに運んでくれれば、籠一杯につき、大麦二合、払います」

 ざわめきが大きくなった。

「二合だと?」

「籠一杯で二合なら、日に十杯運べば、二升……」

「二十杯運べば、四升だ!」

「組合の倍じゃねえか!」

「待て待て、そんな大麦、あんた、どこから出すんだ」

 野次の中から、鋭い声が飛んだ。

 ナラムはその声の方を見た。

 アッダだった。腕を組んで、ナラムを睨んでいた。

「あんたは、ただの行商人だ。百人の人足に、毎日、何升も払えるほどの大麦を、持ってるわけがねえ。口先だけの話なら、聞かねえぞ」

 人足たちがまた静まった。

 ナラムは、アッダをまっすぐ見返した。

「おっしゃる通りです。俺には、そんな大麦はない」

「やっぱりな」

「でも、この町には、ある」

「は?」

「この町の家々は、組合に、塩捨ての手数料を払っている。よその町の倍の手数料を。その手数料の分、俺が、塩を引き受ける。手数料は、組合の半分でいい。家々は、組合に払う代わりに、俺に、半分の手数料を払う。俺は、その手数料で、皆さんに、手間賃を払う」

 人足たちがまたざわめいた。

「つまり、あんたが、新しい組合を作るってことか」

「組合じゃありません。ただの、商売です」

 ナラムはにやりと笑った。

「それに、俺のところに運ばれた塩は、捨て場に捨てなくていい。だから、山を登らなくていい。塩の粉を、吸い込まなくていい。肺を、やられなくて済む」

 空き地がしんと静まり返った。

 誰かがごくりと唾を飲んだ。

「じゃあ、運んだ塩は、どこに行くんだ」

 アッダが低い声で聞いた。

「捨てねえなら、どこに積むんだ。そんな場所、この町のどこにもねえぞ」

 ナラムは、空き地の端に立っている、ティアを見た。

 ティアは、ナラムを見返して、小さく、頷いた。

「それは」

 ナラムは人足たちに向き直った。

「商売上の、秘密です」

 しばらく誰も何も言わなかった。

 それから、一人の人足が、笑い出した。続いて、もう一人。またもう一人。笑いは、空き地じゅうに広がっていった。

「秘密だとよ!」

「たいした商人だ!」

「いいじゃねえか、乗ってやろうぜ! 組合の倍だぞ!」

「肺をやられねえで済むなら、なんだっていい!」

 人足たちが、ナラムの立っている木箱の周りに押し寄せてきた。

 ナラムは、木箱の上で帳面を掲げた。

「名前を書いてください! 今日から、手間賃を払います!」

 アッダだけが、腕を組んだまま、ナラムを見ていた。

 それから、ふっと口の端を上げた。

「馬鹿な商人だ」

 そう言って、アッダは、人の波をかき分けて、帳面に自分の名前を書いた。

 

  *

 

 空き地の端で、ルハが、深いため息をついた。

「あの男は、ほんとうに」

「ナラム、すごい」

 ティアが目を輝かせていた。

「ナラム、かっこいい」

「あれが、かっこいいかねえ」

 ルハは苦笑した。

「組合の商売を、真っ向から潰しにかかったんだよ。今日の夜には、ウトゥルとの約束の三日が切れる。そこにこれだ。ガルザは、黙っちゃいない」

「だまって、ない?」

「ああ。黙ってない。組合の連中が、総出で、押しかけてくるよ。ティアちゃん、覚悟しときな」

 ティアは、少しだけルハの顔を見た。

 それから、空き地の向こうの白い山脈を見た。

「かくご、してる」

「そうかい」

「ナラムが、うめられそうに、なったら」

 ティアは静かに言った。

「わたしが、やまを、ぜんぶ、たべる」

 ルハはもう笑わなかった。

 

  *

 

 ナラムの「商売」は、半日で、町じゅうを駆け巡った。

 昼過ぎには、北の路地の空き地に、百五十人の人足が名前を連ねていた。夕方には二百人を超えた。人足たちは、組合の捨て場に向かう代わりに、町の家々を回って、塩を籠に詰め、北の空き地に運び込んだ。家々は、組合の半分の手数料を喜んでナラムに払った。

 空き地には、塩の籠が、山のように積まれていった。

 積まれた籠は夜になると空になった。

 人足たちは、首を傾げた。運び込んだはずの塩が、朝には消えている。誰も、どこに行ったのか知らない。ナラムに聞いても、「商売上の秘密」としか答えない。

 けれど、人足たちは、それ以上、詮索しなかった。

 手間賃はちゃんと払われた。籠一杯につき、大麦二合。山を登らなくていい。塩の粉を吸い込まなくていい。それだけで十分だった。

「それに」

 アッダが、塩の籠を下ろしながら、ナラムに言った。

「あの白い髪の姉ちゃんが、夜中に、空き地に出てくるのを、見たやつがいる」

 ナラムは手を止めた。

「それで」

「それで、何もねえよ。見たやつは、黙ってる。俺も、黙ってる」

「俺のガキが、喋っちまったのは、悪かった。もう、誰も喋らせねえ。この路地の連中は、みんな、あんたと、あの姉ちゃんに、借りがある」

 アッダは、籠を担いで、また空き地を出ていった。

 ナラムは、その背中を黙って見送った。

 

  *

 

 その夜、ナラムの帳面は、初めて黒字になった。

 人足に払った手間賃より、家々から受け取った手数料の方が、多かった。わずかな差だった。けれど、黒字は黒字だ。

「回る」

 ナラムは、宿の部屋で、帳面を見つめながら、呟いた。

「回るぞ、これ。組合の半分の手数料で、人足に倍の手間賃を払って、それでも、回る。組合が、どれだけ中抜きしてたか、って話だ」

「まわる?」

「商売が、ちゃんと成り立つってことだ」

 ティアは、寝台の上で、満足そうにお腹をさすっていた。今夜も、空き地の籠を、全部、空にしてきたのだ。

「ナラム、うれしい?」

「ああ、嬉しいね」

「じゃあ、わたしも、うれしい」

「ただし」

 ナラムは帳面を閉じた。

「これは、俺たちがこの町にいる間しか、回らない」

「どうして?」

「お前が、塩を食わなきゃ、空き地に塩が溜まる一方だからだ。俺たちが町を出たら、人足たちが運んだ塩は、行き場がなくなる」

 ティアは黙った。

「だから、俺たちが町を出る前に、別の仕組みを作らなきゃならない。お前がいなくても、回る仕組みを」

「べつの、しくみ?」

「ああ。たとえば、塩を、町の外の、遠いところに運ぶ。捨て場じゃなくて、もっと遠くの、誰も住んでない、どうでもいい荒れ地に。山を登らなくていい、平らな場所に、ただ撒いておく。それだけでも、人足の肺は、だいぶ楽になる」

「それ、できる?」

「分からねえ。でも、組合の手数料が半分になって、人足の手間賃が倍になれば、運ぶ手間くらい、なんとかなるかもしれない。計算してみる」

 ナラムはまた帳面を開いた。

 ティアは、寝台の上から、ナラムの横顔をじっと見ていた。

「ナラム」

「ん」

「わたし、ナラムの、そういう、かお、すき」

「は?」

「けいさん、してる、かお。しょっぱくない、かお」

 ナラムは帳面に目を落とした。

 数字が、一つも頭に入ってこなかった。

 

  *

 

 事件が起きたのは真夜中だった。

 宿の表で怒鳴り声が上がった。続いて、何かが割れる音。悲鳴。

 ナラムは、寝台から跳ね起きて、窓に駆け寄った。

 宿の前の通りに、松明の火が、何十も揺れていた。腕に白い布を巻いた男たちが、宿を取り囲んでいた。その先頭にガルザがいた。

「行商人! 出てこい!」

 ガルザの声が夜の通りに響いた。

「約束の三日は、とっくに切れた! 出てこい!」

 ナラムは振り返った。ティアが、寝台の上で目を覚ましていた。

「ナラム」

「ティア。窓から離れてろ」

 戸が乱暴に叩かれた。

「ナラム! 起きてるかい!」

 ルハだった。ナラムが戸を開けると、ルハが、青い顔で飛び込んできた。

「組合の連中が、北の空き地を、襲ったよ」

「は?」

「人足たちが運び込んだ塩の籠を、全部、ひっくり返して、空き地に火をつけた。人足たちの名前を書いた帳面を、出せって言ってる。名前を書いたやつは、明日から、組合が仕事を回さないって」

 ナラムは拳を握りしめた。

「アッダたちは」

「無事だよ。今のところは。でも、ガルザが、明日の朝、町の広場で、人足たちを集めるって言ってる。ウトゥル様も来るらしい。ナラム、あんたの商売は、明日から、法に背くことになる」

「法?」

「ウトゥル様が、今夜、触れを出した。『この町において、塩の売買、運搬、廃棄は、王の許しを得た塩捨て組合のみが、これを行う。これに背く者は、王に背く者として、罰する』ってね」

 ナラムは言葉を失った。

 窓の外で、ガルザの怒鳴り声が、また響いた。

「行商人! 明日の朝、広場に来い! 来なけりゃ、北の路地の人足どもの家に、塩を捨てる! 一軒残らずだ!」

 ナラムは、窓辺に立ち尽くしていた。

 ティアが、ナラムの袖をそっと掴んだ。

 その手が、少しずつ、冷たくなっていくのが、分かった。

 

  *

 

 朝の広場には人が溢れていた。

 町の中心の神殿の前の広場だ。ふだんは市が立つ場所だ。今朝は、市の代わりに、人足たちが、詰めかけていた。二百人、いや、三百人はいるだろうか。北の路地の人足も、ほかの路地の人足も、まだ組合で働いている人足も。顔も髪も、塩で白い男たちが、広場を埋め尽くしていた。

 その外側を、町の住人たちが、遠巻きに囲んでいた。

 広場の真ん中に木の台が組まれていた。台の上にウトゥルが立っていた。隣にガルザ。その周りを、腕に白い布を巻いた男たちが、ぐるりと固めていた。

 ナラムは、ティアとルハと一緒に広場の入り口に立っていた。

「ティア」

「うん」

「何があっても、俺の袖から、手を離すな」

「うん」

「怒るな。怖がるな。できるか」

「わからない」

 ティアは正直に言った。

 ナラムは、ティアの手を強く握った。冷たかった。昨夜から、ずっと、少しずつ、冷たくなり続けていた。

 ナラムは、ティアの手を両手で包んだ。ティアの手が、ほんの少しだけ温かくなった。

 けれど、すぐにまた冷たくなった。

「ナラム。この、ひろば」

「ん」

「いっぱい、おこってる」

「ああ」

「みんな、なかが、すごく、しょっぱい。あつい、しょっぱさ」

 ナラムは広場を見回した。

 人足たちの顔はどれも強張っていた。組合への怒り。ナラムへの期待。明日からの暮らしへの不安。それらが、ごちゃまぜになって、広場の空気をぴりぴりと震わせていた。

 台の上のガルザの顔も強張っていた。組合への脅威への怒り。行商人への憎しみ。

 ウトゥルの顔だけが穏やかだった。

「行くぞ」

 ナラムは、人足たちの間を、かき分けて、台の前に出た。

 人足たちが、ナラムに気づいて、道を開けた。ざわめきが広場じゅうに広がった。

「行商人だ」

「来たぞ」

「あの白い髪の姉ちゃんも、一緒だ」

 台の上から、ウトゥルが、ナラムを見下ろした。

「おはよう、ナラムくん。よく来てくれたね」

「おはようございます、ウトゥル様」

「三日の約束だったね。三日の間に、ルハくんから、君の秘密を教えてもらえるはずだった。ルハくん、秘密は、分かったかね」

 ルハは、ナラムの後ろで黙っていた。

「教えてくれないようだね。残念だ」

 ウトゥルは、少しも残念ではなさそうに言った。

「では、こちらから、言わせてもらおう」

 ウトゥルは広場を見渡した。

「町の皆さん。この行商人は、昨日、この町で、王の許しを得ずに、塩の売買を行った。人足たちを、組合から引き抜き、町の家々から、手数料を掠め取った。これは、王への反逆である」

 広場がざわめいた。

「掠め取ってなんか、いねえ!」

 人足の一人が叫んだ。

「手数料は、組合の半分だった! 手間賃は、組合の倍だった! 掠め取ってたのは、組合の方だ!」

「そうだ!」

「組合が、俺たちから、二升ずつ掠め取ってたんだ!」

 叫び声が次々と上がった。

 ガルザが、台の上から、怒鳴り返した。

「黙れ、人足ども! お前らを、十二年も食わせてきたのは、誰だと思ってる!」

「肺を潰してまで、食わせてもらいたくなかった!」

「家の前に塩を捨てられてまで、食わせてもらいたくなかった!」

「兄貴を返せ!」

「親父を返せ!」

 広場が怒号で埋まった。

 ナラムの袖を掴むティアの手が、ぎゅっと強くなった。

「ティア」

「ナラム。とげとげ」

「ああ」

「みんな、おこってる。すごく、おこってる。イシンの、よるより、ずっと」

 ティアの顔が青ざめていた。

 風に味があった。

 ナラムは空を見上げた。

 朝の青い空の端が、白く、濁り始めていた。

「まずい」

「ナラム?」

 ルハが、ナラムの視線を追って、空を見上げた。

 それから、息を呑んだ。

「塩降りだ」

 広場の誰かが叫んだ。

「塩降りだ!」

「塩が来るぞ!」

 空の白い濁りは、見る見るうちに広がっていった。地平線から、天頂へ。四方八方から、白い霞が、広場の上空に押し寄せてきた。

 ナラムは、これほど速く広がる塩降りを見たことがなかった。

 いつもの塩降りは、地平線の一方から、ゆっくりと近づいてくる。けれど、これは違った。四方から、一度に押し寄せてくる。まるで、この広場を目がけて、空じゅうの塩が、集まってくるように。

 ――怒りとか、恨みとか、そういうのに引き寄せられるんだって。

 自分で言った言葉をナラムは思い出した。

 広場の三百人の怒り。台の上の男たちの怒り。

 イシンの夜は、酔っ払いの殴り合いだった。今朝は三百人だ。

 ナラムはティアを見た。

 ティアは空を見上げていた。目を見開いて、白い霞を見つめていた。

 ――イシンでは、あっという間に、止んだ。

 けれど、この塩降りは、イシンの何十倍もある。

「ティア!」

 ざあ、と音がした。

 塩が降ってきた。

 

 ナラムは、生まれてこのかた、何十回も塩降りに遭ってきた。

 けれど、これほどの塩降りは、初めてだった。

 降ってきた、という言葉では、足りなかった。叩きつけてきた。空から、白い塊が、滝のように広場に叩きつけられてきた。粒ではなかった。礫だった。指の先ほどもある塩の礫が、頭に、肩に、背中に容赦なく打ちつけてくる。

 目を開けていられなかった。息ができなかった。

 広場が悲鳴で埋まった。

 人足たちが、町の住人たちが、組合の男たちが、我先にと広場から逃げ出そうとした。押し合い、へし合い、倒れた者を踏みつけて。台の上のウトゥルが、取り巻きに抱えられて、神殿の中に逃げ込むのが見えた。

 ナラムは、ティアの手を離さなかった。

「ティア! しっかりしろ!」

 ティアは答えなかった。

 空を見上げたまま、身じろぎ一つしなかった。降り注ぐ塩の礫が、ティアの顔に肩に白い髪に当たっていた。

 当たって――消えていた。

 ティアの体に当たった塩の礫は、一つ残らず、すうっと肌に吸い込まれていた。

「ティア」

 ナラムの手の中で、ティアの手が、震えた。

 それから、ティアの体が、光り始めた。

 ウンマの夜と同じだった。体の内側から、青白い、河口の色の光が、にじみ出してくる。けれど、ウンマの夜より、ずっと強かった。ずっとまぶしかった。

 白い髪がふわりと浮き上がった。

 いや、浮き上がったのは、髪だけではなかった。

 ティアの足が、地面から、離れた。

「っ」

 ナラムの手から、ティアの手が、するりと抜けた。

 ティアの体が、ゆっくりと宙に浮き上がっていった。ナラムの背丈を越え、台の高さを越え、神殿の屋根の高さまで。

 そして、そこで両腕を広げた。

 空が渦を巻いた。

 広場の上空に降り注いでいた塩が、一斉に向きを変えた。まっすぐ下に落ちていた白い滝が、ぐるりと、ティアを中心に巨大な渦を巻き始めた。渦は、見る見るうちに、細く、速くなっていった。竜巻のように、白い塩の柱が、天からティアに向かって、吸い込まれていった。

 ごう、と風が鳴った。

 広場から逃げ出そうとしていた人々が、足を止めた。振り返った。空を見上げた。

 誰も声を上げなかった。

 白い竜巻の中心で、白い髪の女が、両腕を広げて、宙に浮いていた。降り注ぐ塩を、天からの白い滝を一身に吸い込んでいた。

 その姿は――ナラムには、そう見えた――天と地を繋ぐ、一本の白い柱のようだった。

 振り返り女の柱。

 ――むかし、神様に滅ぼされた町があった。

 ナラムは、なぜか、そんな言い伝えを思い出していた。

 どれくらい、そうしていただろう。

 白い竜巻が、少しずつ、細くなっていった。空の白い濁りが、少しずつ、晴れていった。最後の一筋の塩が、ティアの指先に吸い込まれて、消えた。

 空が青かった。

 雲一つない、けろりとした、青い空だった。

 広場には、塩が、一粒も積もっていなかった。

 あれだけの塩が、あれだけの勢いで、降り注いだのに。広場の石畳は、乾いて、きれいで、まるで、さっき掃いたばかりのようだった。それどころか、石畳の隙間や、周りの家々の壁にこびりついていた、何年分もの古い塩までが、消えていた。

 ティアは、まだ、宙に浮いていた。

 両腕を広げたまま、空を見上げていた。体の光は消えていなかった。

「ティア」

 ナラムは呼んだ。

 ティアが、ゆっくりと顔を下に向けた。

 ナラムを見た。

 ――いや。見ていなかった。

 河口の色の目はとろんとぼやけていた。満腹の子供が、それでも、目の前の菓子に手を伸ばすときの目だった。

 ティアの唇が動いた。

「もっと」

 うわごとのような声だった。

「もっと、たべたい。もっと」

 ティアの視線が、広場の向こうの白い山脈に向いた。

「あっち。あっちに、いっぱい、ある」

「ティア!」

 ナラムは叫んだ。

 手を伸ばした。

 けれど、ティアは、ナラムの頭のはるか上にいた。届かない。

 ティアの体が、山脈の方へゆっくりと動き始めた。

「くそっ!」

 ナラムは走った。

 広場の真ん中の木の台に向かって。台の上によじ登った。台の上にはもう誰もいなかった。ガルザも、ウトゥルも、取り巻きの男たちも逃げていた。

 台の上から、ナラムは、手を伸ばした。

 届かない。まだ、届かない。

「ティア! こっちを見ろ!」

 ティアは振り返らなかった。

「ティア!」

 ――振り返ったら、塩の柱になる。

 ナラムの頭の中で、なぜか、その言い伝えが、繰り返し響いていた。

 振り返るな、と言い伝えは言う。

 でも――

「ティア! 振り返れ!」

 ナラムは、喉が裂けるほど、叫んだ。

「振り返れ! 俺を見ろ! お前は、塩の柱なんかじゃねえ! お前は、ティアだ! 俺の――」

 俺の何だ。

 ナラムは、一瞬、言葉に詰まった。

 それから、叫んだ。

「俺の、相棒だろうが!」

 ティアの体が止まった。

 ゆっくりと、ティアが、振り返った。

 河口の色の目がナラムを見た。

 今度はちゃんと見ていた。

「ナラム」

 いつもの声だった。たどたどしくて、少しだけ舌足らずな、ティアの声。

「ナラム、いま……あいぼう、って」

「ああ、言った! だから、降りてこい!」

「おりかた、わからない」

「は?」

「とびかたも、わからない。どうしよう、ナラム」

 ナラムはあっけにとられた。

 それから、腹の底から、笑いがこみ上げてきた。

「ばか! こっちに、手を伸ばせ!」

 ティアは、恐る恐る、手を伸ばした。

 その瞬間、ティアの体の光が、ふっと消えた。

 ティアの体が落ちてきた。

 ナラムは台の上で両腕を広げた。

 ティアが、ナラムの腕の中にどさりと落ちてきた。二人で、台の上にもんどりうって倒れた。台がみしりと軋んだ。

 ナラムの胸の上で、ティアが、目をぱちぱちさせていた。

「ナラム」

「ああ」

「いたい?」

「痛い」

「ごめんなさい」

「いい」

 ナラムは、ティアの背中に腕を回した。

 ティアは、ナラムの胸に顔を埋めた。

「ナラム、あったかい」

「ああ」

「ナラムの、あいぼう、で、よかった」

 ティアの指が、ナラムの背中で、きゅっと服をつかんだ。

「あいぼう、すき」

 ナラムは何も言えなかった。

 何も言えずに、ただ、ティアの白い髪を撫でていた。

 

 広場は静まり返っていた。

 ナラムは、ティアを抱いたまま、台の上で体を起こした。

 広場の周りを、人々が、遠巻きに囲んでいた。人足たちも、町の住人たちも組合の男たちも。誰も何も言わなかった。ただ、台の上のナラムとティアを見ていた。

 その目を見て、ナラムは、背筋が凍った。

 恐怖だった。

 どの目にも、恐怖が浮かんでいた。理解できないものを見たときの底知れない恐怖。

「ばけものだ」

 誰かが呟いた。

 その呟きが、さざ波のように広場に広がっていった。

「化け物だ」

「塩を、吸い込んだ」

「空を、飛んだ」

「あの女が、塩を呼んだんだ」

「あの女が来てから、塩が降ったんだ」

「あの女が、塩降りの、元凶なんだ」

 ナラムの腕の中で、ティアが、びくりと体を震わせた。

「ナラム」

「聞くな」

「わたし、ばけもの?」

「聞くなって言ってるだろ」

 神殿の扉が開いた。

 中から、ウトゥルが出てきた。取り巻きの男たちに守られながら、ゆっくりと広場に歩み出てきた。その後ろから、ガルザも出てきた。

 ウトゥルの顔は、もう穏やかではなかった。

 目がぎらぎらと光っていた。恐怖の光ではなかった。もっと別の光だった。

「なるほど」

 ウトゥルが言った。声が少しだけ震えていた。

「なるほど。そういうことだったのか。塩が、消えていたのは。塩を、喰らう女」

 ウトゥルは、長い指でティアを指さした。

「捕らえろ」

 組合の男たちが、一斉に、台に向かって、動き出した。

「っ」

 ナラムは、ティアを背中にかばって、台の上に立ち上がった。

 ガルザが、男たちの先頭に立っていた。顔が蒼白だった。それでも、目に憎しみの火を燃やしていた。

「化け物め……! お前のせいで、組合は、おしまいだ!」

「ガルザ。殺すな」

 ウトゥルが鋭く言った。

「生かして、捕らえろ。その女は、王への、最上の献上品になる」

 ナラムは拳を握りしめた。

 男たちが台の周りを取り囲んだ。十人。二十人。三十人。

 台の上に逃げ場はなかった。

「ナラム」

 ティアがナラムの背中で囁いた。

「わたし、また、とぶ?」

「やめろ。お前、降り方も分からなかっただろ」

「でも」

「それに、ここでまた飛んだら、本当に、化け物になっちまう」

 返事はなかった。

 男たちが台に手をかけた。

 そのとき、広場の端で、甲高い声が、上がった。

「やめて!」

 小さな影が、人垣を掻き分けて、飛び出してきた。

 ミルだった。

「ティアに、さわらないで!」

 ミルは、台の前に駆け寄って、両腕を広げて、男たちの前に立ちはだかった。

「ティアは、ばけものじゃない! ティアは、ミルのいえの、しお、たべてくれた! ミルの、とうちゃん、せき、すこし、へった! ティアは、ばけものじゃない!」

 男たちが足を止めた。

 ミルの後ろから、アッダが、人垣を掻き分けて出てきた。咳き込みながら、ミルを抱き上げようとした。

「ミル、やめろ、こっちに来い!」

「いや!」

 ミルは父親の手を振り払った。

「ティアは、ミルと、ゆびきり、した! ティアは、ミルの、ともだち!」

 広場がまた静まった。

 人足たちの中から、一人、また一人と、男たちが、前に出てきた。

「そうだ」

「あの姉ちゃんが、北の路地の塩を、片づけてくれた」

「あの行商人が、俺たちに、倍の手間賃を払ってくれた」

「さっきだって、あの姉ちゃんが塩を吸い込まなかったら、俺たちは、塩に埋まって、死んでた」

「化け物だろうが、何だろうが、命の恩人だ」

 人足たちが、台の周りに集まってきた。組合の男たちと向かい合った。

 組合の男たちがたじろいだ。

 ガルザが怒鳴った。

「何をしてる! 捕らえろと言ってるんだ!」

「捕らえられるもんなら、捕らえてみろ!」

 アッダが怒鳴り返した。

 広場が、一触即発の空気に包まれた。

 ナラムは、ティアの手を強く握った。

 ――まずい。

 このまま、人足と組合がぶつかったら、また怒りが広場を埋める。怒りが広場を埋めたら、また塩が降る。

 ティアの手は、まだ、温かかった。けれど、いつ冷たくなるか、分からない。

「ナラム!」

 広場の反対側から、声がした。

 ルハだった。

 ルハは、ロバに引かせた荷車の上に立っていた。荷台には、護符の束が、山のように積まれていた。

「北の巫女様の、ありがたい護符だよ! 塩降りを、避けてくれる護符だよ!」

 ルハは、叫びながら、護符の束を宙に放り投げた。

 何百枚もの粘土の札が、広場の上空にばらまかれた。

「拾いな! ただだよ! 今日だけ、ただだ!」

 広場の人々が一斉に宙を見上げた。

 塩降りの恐怖が、まだ、みんなの体に残っていた。塩降りを避ける護符。ただ。

 人々が、我先にと護符に手を伸ばした。人足も、町の住人も組合の男たちまでもが。

 広場が大混乱に陥った。

「今だよ! 行きな!」

 ルハが叫んだ。

 ナラムは、ティアの手を引いて、台から飛び降りた。

 人の波を掻き分けて、走った。

 背中の方で、ガルザの怒鳴り声が、遠くなっていった。

 

  *

 

 宿に戻る暇はなかった。

 ナラムとティアは、町の東の門に向かって、走った。ルハが、昨夜のうちに、ドゥムと荷車を、門の近くの厩に移しておいてくれていた。ナラムは、それを走りながら知った。宿を飛び出す前に、ルハが、耳打ちしてくれていたのだ。

「あの女、全部、読んでたのか」

「ルハ、すごい」

「ああ、すごい。すごいが、怖い女だ」

 厩で、ドゥムが待っていた。荷車には、大麦と干し物の残りが、積まれたままだった。ナラムの帳面も、着替えも、全部、ルハが運び込んでおいてくれていた。

 ドゥムは、ナラムを見るなり、ひひん、と鳴いた。

「分かってる。棗だろ。後で、十個やる」

 ドゥムは満足そうに首を振った。

 ナラムは、ドゥムに荷車を繋いで、厩を飛び出した。

 東の門には、組合の男たちが、待ち構えていた。

「くそっ」

 ナラムは、手綱を引いて、ドゥムを止めた。

 五人。いや、十人。腕に白い布を巻いた男たちが、門の前にずらりと並んでいた。先回りされたのだ。

「ナラム」

「ああ」

「ほかの、もん、は?」

「北の門も、西の門も、たぶん、同じだ」

 ナラムは周りを見回した。

 門の右手に町の外壁が続いていた。外壁の向こうに、白い山脈が、そびえていた。塩の捨て場の山脈だ。

「ティア」

「なに」

「お前、あの山、食えるか」

 ティアは目を丸くした。

「たべて、いいの?」

「全部じゃない。道を作るだけだ。山の真ん中に、荷車が通れるくらいの、道を」

「みち」

「ああ。塩の山を通り抜けて、向こう側に出る。組合の連中は、塩の山を登って追いかけてくるしかない。荷車で、平らな道を行く俺たちには、追いつけない」

 ティアは白い山脈を見上げた。

 それから、ナラムを見た。

「ナラム、また、あいぼう、って、いって」

「は?」

「いって、くれたら、できる」

 ナラムは顔が熱くなった。こんなときに何を言わせるんだ。

 門の方から、男たちが、こちらに向かって、走り出していた。

「相棒! 頼む!」

 ティアはにっこり笑った。

 それから、荷車から飛び降りて、外壁に向かって、走った。

 外壁の塩で白く脆くなった煉瓦に両手を当てた。

 煉瓦の塩が一瞬で消えた。塩を失った煉瓦がぼろぼろと崩れ落ちた。外壁に、荷車が通れるほどの穴が、開いた。

 その向こうに、塩の山脈の最初の山が、そびえていた。

 ティアは、山に向かって、両腕を広げた。

 白い髪がふわりと浮き上がった。体がぼんやりと光り始めた。

「ティア! 浮くなよ! 飛ぶなよ!」

「とばない。あるく」

 ティアが、一歩、山に向かって、踏み出した。

 山の斜面が、ティアの足の前で、さらさらと、崩れて、消えた。

 もう一歩。また、崩れて、消えた。

 ティアが歩くたびに、白い山に、一本の道が、穿たれていった。ちょうど、荷車が一台、通れるくらいの幅の道が。道の両側には、白い塩の壁が、高くそびえていた。

「行け、ドゥム!」

 ナラムは手綱を振った。

 ドゥムは、今度ばかりは、文句を言わなかった。外壁の穴を抜け、ティアの後を追って、白い道に飛び込んだ。

 背中の方で、男たちの怒鳴り声が、聞こえた。

「待て!」

「逃がすな!」

「塩の山を回り込め!」

 ナラムは振り返らなかった。

 前だけを見ていた。

 白い道の先を、白い髪の女が、両腕を広げて、歩いていた。一歩ごとに山を喰らいながら。一歩ごとに道を拓きながら。

 

  *

 

 どれくらい、歩いただろう。

 白い道は、山を一つ抜け、二つ抜け、三つ抜けた。両側の塩の壁が、少しずつ、低くなっていった。やがて、壁が途切れた。

 目の前に、平らな荒れ地が、広がっていた。

 塩の山脈の向こう側に出たのだ。

 ナラムは、ドゥムを止めて、振り返った。

 白い山脈に、一本の黒い線が、引かれていた。ティアが穿った道だ。道の向こう側に、シッパルの町の外壁が、小さく見えた。追ってくる男たちの姿は、見えなかった。山を回り込むには半日はかかるだろう。

「逃げ切った」

 ナラムは、荷車の上にへたりこんだ。

 ティアが、荷車のそばに戻ってきた。体の光はもう消えていた。髪も肩に落ちていた。足取りが少しふらついていた。

「ナラム」

「ティア。大丈夫か」

「だいじょうぶ。おなか、すごく、いっぱい」

 ティアは、荷台によじ登って、ナラムの隣にぽすんと座った。

 それから、ナラムの肩に頭を乗せた。

「ナラム」

「ん」

「わたし、ばけもの?」

 ナラムは黙った。

 広場で、人々がティアを見ていた目。恐怖に凍りついた目。化け物だ、という呟き。

「化け物かどうかは、知らねえ」

 ナラムは、ティアの白い髪に、そっと手を置いた。

「でも、お前は、ミルの友達だ。アッダの命の恩人だ。ベレトの店を救って、ニンギルのじいさんの畑を生き返らせて、ラルサのガキどもの井戸の塩を抜いた。それが、化け物のすることか」

「わからない」

「俺にも分からねえ。でも、俺は、お前を化け物だとは思わない」

「どうして?」

「どうしてって」

 ナラムは少し考えた。

「お前は、俺の相棒だからだ」

 ティアは、ナラムの肩に頭を乗せたまま、しばらく黙っていた。

 それから、小さく、笑った。

「あいぼう」

「ああ」

「さっき、ひろばで、いってくれた」

「ああ」

「もんの、まえでも、いってくれた」

「ああ。言った」

「うれしかった」

 ナラムは何も言わなかった。

 ティアの白い髪が、ナラムの頬に触れていた。かすかに潮の匂いがした。

「ナラム」

「ん」

「あいぼう、と、すき、は、ちがう?」

 ナラムは、すぐには答えなかった。

「ちがう?」

「分からねえ」

「わからない?」

「分からねえよ。分からねえことには、あとで値をつける。それが、親方の教えだ」

「じゃあ、あとで?」

「ああ。あとでだ」

「わすれない?」

「忘れねえよ」

「ナラムの、ほんと、わからない」

「忘れねえって」

 ティアは、少しだけ不満そうな顔をした。

 それから、またナラムの肩に頭を乗せた。

 そして、そのまま、眠ってしまった。

 ナラムは、ティアを起こさないようにそっと手綱を握った。

「行くか、ドゥム」

 ドゥムは黙って歩き出した。

 夕陽が、荒れ地を赤く染めていた。

 

 

 シッパルの町が、その日のうちに、二つのことに気づいたのは、夕方になってからだった。

 一つ目は、塩の山脈に、一本の道が穿たれていたこと。

 二つ目は、町に、塩が、ほとんど残っていなかったこと。

 広場だけではなかった。広場の周りの通りも家々の壁も屋根も井戸も。朝の塩降りのとき、白い竜巻に巻き込まれた範囲の塩が、全部、消えていた。何年分もこびりついていた古い塩までが。

 町の三分の一ほどが、まるで、十二年前に戻ったかのように塩のない姿になっていた。

「組合は、もう、おしまいだね」

 ルハが、広場の端の石段に座って、言った。

 隣に、アッダが座っていた。ミルが、アッダの膝の上で、ルハにもらった護符を大事そうに握りしめていた。

「おしまい、かどうかは、分からねえ」

 アッダが咳き込みながら言った。朝より、咳が、少しだけ軽くなっていた。

「捨て場は、まだ、残ってる。よその町の塩は、まだ、運ばれてくる。組合は、まだ、手数料を取れる」

「でも、人足たちは、もう、組合の言うことを聞かないだろ」

「ああ。聞かねえだろうな」

 アッダは、広場の真ん中の壊れた木の台を見た。

「あの行商人が、教えてくれた。組合が、俺たちから、どれだけ中抜きしてたのか。手数料を半分にして、手間賃を倍にしても、商売は回るんだって。一度知っちまったら、もう、二升じゃ働けねえ」

「そうだね」

「人足たちで、寄り合いを作る。組合じゃなくて、俺たちの寄り合いだ。手数料は、組合の半分。手間賃は、倍。塩は、捨て場の山じゃなくて、町の外の、平らな荒れ地に撒く。あの行商人が、帳面に書いてった通りに」

 ルハは、アッダの手の中の帳面を見た。

 ナラムの帳面だった。ルハが、宿から運び出したとき、一冊だけ、わざと置いてきたのだ。昨夜、ナラムが、一晩かけて書きつけた、人足の寄り合いの手数料と手間賃の計算が、びっしりと書き込まれた帳面。

「あいつ、最初から、そのつもりで書いてたんだね」

「ああ。自分たちがいなくても、回る仕組み、って書いてあった。まったく、馬鹿な商人だ」

 アッダは笑った。

 ルハも笑った。

 

  *

 

 塩税官ウトゥルは、その夜、町の東の門の上の物見台に一人で立っていた。

 月明かりの下に、白い山脈が、そびえていた。その山脈に、一本の黒い線が、まっすぐに引かれていた。

「塩を、喰らう女」

 ウトゥルは呟いた。

「塩の山を、道に変える女。空を飛び、塩降りを、吸い込む女」

 ウトゥルの長い指が、物見台の手すりをきつく握りしめていた。

「あれが、王のものになれば。いや。王などより、もっと高いところに、献上する価値がある」

 ウトゥルは、懐から、小さな粘土の板を取り出した。

 手紙だった。

 宛先は、北の高地の国、ザグロ。ザグロの王都のとある商会。

 ハッル商会。

「最近、ザグロの新しい王が、塩に関わる不思議な話を、高く買い取っているという噂を聞いた」

 ウトゥルは、手紙を月明かりにかざした。

「四つの目を持つ、という噂の、新しい王が」

 物見台に冷たい風が吹いた。

 風に、ほんのかすかに塩の味がした。

 

  *

 

 噂はロバより速く走る。

 ルハの言った通りだった。

 「塩を喰らう女」の噂は、ナラムとティアが、シッパルを出たその日のうちに、街道に乗った。荷車を引く人足の口から、塩を運ぶ商人の口から、巡礼の神官の口から。南の町々へ、東の町々へ、そして、北の高地へ。

 噂は、走りながら、形を変えた。

 白い髪の女が塩降りを吸い込んだ。

 白い髪の女が空を飛んだ。

 白い髪の女が塩の山を一晩で消した。

 白い髪の女は母なる竜の化身だ。

 白い髪の女は塩降りの元凶だ。

 白い髪の女を連れているのは、ウルカの行商人だ。

 ――噂の中のどこにも、北の路地の、黒い土の地面のことは、出てこなかった。

 広場の周りの家々に住む人々が、その夜、十二年ぶりに、塩気のない井戸の水を飲んだことも、出てこなかった。

 アッダが、その夜、十二年ぶりに咳をせずに眠ったことも。

 ミルが、その夜、ティアの真似をして、自分の小指に、小さく、約束の印を描いたことも。

 噂は、そういうことを運ばない。

 

  *

 

 荒れ地の真ん中で、ナラムは、焚き火の前に座っていた。

 ティアは、荷台の上で、毛布にくるまって、眠っていた。昼間、シッパルの塩の山を三つも喰い抜いたのだ。さすがに疲れたのだろう。

 ナラムは、焚き火に枝をくべながら、空を見上げた。

 星が、こぼれ落ちそうなほど、多かった。

「親方」

 ナラムは、小さく、呟いた。

「俺、とんでもないもん、拾っちまったよ」

 焚き火がぱちりと爆ぜた。

「塩を食う女だ。空を飛ぶ女だ。塩の山を、道に変える女だ。町じゅうの連中に、化け物って言われた」

 ナラムは、荷台の上のティアの寝顔を見た。

 白い髪が、焚き火の光を受けて、ほんのりと橙色に染まっていた。口の端に、少しだけよだれが垂れていた。

「でも、こいつ、化け物って顔じゃねえんだよな」

 ナラムは苦笑した。

「なあ、親方。分からねえことには、あとで値をつけろって、言ってたよな。こいつには、いつ、値がつけられるんだろうな」

 答えはなかった。

 風が、荒れ地を吹き抜けていった。

 ナラムは腰の革袋を手に取った。栓を抜いて、ひと口、水を飲んだ。

 少しだけしょっぱかった。いつもの水だ。

 けれど、ティアはこの水を好きだと言う。ナラムの水だから、と言う。ナラムが傍にいると落ち着くと言う。

 ナラムには、それが、なぜなのか、分からなかった。

 ――まだ、分からなかった。




前編了
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。