しょっぱい女神と真水の行商人 作:西都東都
野営の三日目の夜は、風が強かった。
ナラムは荷車を風よけにして火を起こし、ティアと並んで座った。ドゥムは荷車の反対側で、とっくに寝ている。
空には、雲ひとつない。星が、こぼれ落ちそうなほど多い。
「ナラム」
「ん」
「しょっぱいのは、どうして、ふってくるの?」
ナラムは、火に枯れ枝をくべながら、少し考えた。
「分からねえ」
「わからない?」
「誰にも分からねえんだ。学者は白蝕とか呼んでるけど、呼び方を変えただけで、なんで降るのかは分かっちゃいない。十二年前から急に降り始めて、それっきり、ずっと降ってる」
「じゅうにねん」
「俺が十四のときだ。最初の年は、みんな、天変地異だって大騒ぎしてた。神様のお怒りだ、とかな。今じゃ、もう誰も騒がねえ。慣れちまった」
ナラムは、遠くを見た。
「町で暴動があった後とか、戦があった後とかに、よく降る、って言うやつもいる。怒りとか、恨みとか、そういうのに引き寄せられるんだって。まあ、迷信だろうけどな」
「いかり」
「怒りだ」
ティアは、膝を抱えて、火を見つめていた。
「神官たちは、なんて言ってるの」
「神官? ああ、神官連中は、決まってる。『母なる竜の祟りだ』ってな」
「ははなる、りゅう」
「知らねえか。知らねえよな」
ナラムは、少し笑った。それから、子供のころ、親方に聞かされた話を、思い出しながら語り始めた。
「むかしむかし、天も地も、まだなかったころ。水の神様と、塩の水の神様がいた。水の方がアプスー。塩の水の方が、ティアマト。ティアマトは、でっかい竜の姿をしてたんだと」
ティアの肩が、ほんの少しだけ、動いた。
「二人は混ざり合って、ひとつだった。で、二人のあいだに子供が生まれた。子供の神様だ。子供はまた子供を生んで、神様はどんどん増えた。増えた神様たちは、騒がしかった。毎日毎日、騒いで、踊って、うるさくてしかたなかった」
ナラムは、枝で火をかき混ぜた。
「父親のアプスーは、うるさいから子供を始末しようとした。ところが、それを知った子供の一人――エアって神様が、先手を打った。エアは呪文で父親を眠らせて、眠ってるあいだに、殺しちまった」
「ころした」
「ひでえ話だろ。で、今度は母親のティアマトが怒った。旦那を殺されたんだからな。ティアマトは、子供たちと戦争を始めた。おっかない怪物をたくさん生んで、子供たちを滅ぼそうとした」
風が、ひゅう、と鳴った。
「子供たちは怖がった。誰もティアマトに勝てなかった。アヌって神様が説得に行ったけど、ティアマトの顔を見ただけで、震え上がって逃げ帰ってきた」
ティアが、小さく笑った。
「にげたの」
「逃げたんだと。情けねえ神様だ。で、最後に、エアの息子のマルドゥクって神様が名乗り出た。マルドゥクは、目が四つ、耳が四つ、口からは火を吹く、とんでもねえ神様だった。マルドゥクは、網と、弓と、七つの風を持って、ティアマトに挑んだ」
ナラムは、手を広げて、網を投げる仕草をした。
「網でティアマトを捕まえて、ティアマトが口を開けたところに、悪い風を吹き込んだ。ティアマトの腹が、風でぱんぱんに膨らんだ。そこに、矢を一本、ずどん」
ティアは、黙って聞いていた。
「ティアマトは死んだ。マルドゥクは、ティアマトの体を、干した魚みたいに二つに裂いた。片方で天を作って、片方で地を作った。ウルカの方じゃ、もうちょっと話が違ってて、水の体で天、塩の体で地を作ったって言うんだけどな。だから大地はしょっぱいんだ、って」
「みずと、しお」
「そう。で、それ以来、神様たちは、天の上で、母親の腕に抱かれるみたいに、幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」
ナラムは、枝を火に放り込んだ。
「神官連中が言うには、塩降りは、その殺された母親の祟りなんだと。大地はティアマトの体だから、ティアマトの恨みが、塩になって吹き出してるんだってな。まあ、そういう話だ」
しばらく、誰も何も言わなかった。
火が、ぱちぱちと爆ぜた。
「ナラム」
「ん」
「その話、すきじゃない」
ティアの声は、いつもより低かった。
「なんか、ここが、いたい」
ティアは、自分の胸を押さえていた。
「どうした。腹でも壊したか」
「わからない。でも、いたい。あついのと、つめたいのが、いっしょに、ここに、ある」
ナラムは、ティアの顔を覗き込んだ。
河口の色の目が、濡れていた。泣いているのかと思ったが、違った。目の縁に、小さな白い粒が、きらきらと光っていた。
塩の、結晶だった。
泣くと、こいつは、塩の粒をこぼすのか。ナラムは、妙なところに感心した。それから、感心している場合ではないと、思い直した。
「ティア」
「なに」
「ちょっと、こっち来い」
ナラムは、自分でも何をしているのか分からないまま、ティアの肩を引き寄せた。
ティアは、驚いたように目を見開いた。
「いいか。今の話は、ただの昔話だ。神官が適当に作った話だ。誰も見たことなんかねえ。だから、お前が気にすることじゃない」
「むかしばなし」
「そうだ。昔話だ。終わった話だ」
ナラムは、ティアの肩を、ぽんぽんと叩いた。親方が昔、熱を出した自分にそうしてくれたように。
「お前は、ティアだ。塩が好きで、俺の水が好きで、ロバに好かれてて、荷車を押すのが得意な、ティアだ。竜でも神様でもねえ」
ティアは、しばらく黙っていた。
それから、ナラムの肩に、こてんと頭を乗せた。
「ナラムの水、ほしい」
「今日はもう、二回目だぞ」
「ほしい」
ナラムは、ため息をついて、革袋を渡した。
ティアは、ひと口、飲んだ。
それから、ナラムの肩に頭を乗せたまま、ぽつりと言った。
「なんで、すきじゃないのか、わからない」
ティアは、革袋の口を指でなぞった。
「むかしばなし、なのに、わたしと、かんけい、ないのに」
「ああ。関係ねえよ」
ナラムは、それ以上、何も言わなかった。
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。星が、やたらと多かった。
*
ラルサの町が見えてきたのは、二度目にエシュヌを出てから、五日目の昼だった。
エシュヌよりも、ずっと大きな町だった。二重の城壁に囲まれ、門には兵士が立っている。城壁の向こうには、神殿の塔が三つも見える。町の外には、灌漑用の運河が何本も走っているが、どれも水は白く濁り、岸には塩の殻が分厚くこびりついていた。
「おっきい」
荷台の上で、ティアが目を丸くした。
「ラルサはこの辺りじゃいちばんでかい町だ。代官がいて、兵隊がいて、金持ちがいる。つまり――」
「しょっぱいのが、たくさん?」
「小麦が売れる、って言おうとしたんだが、まあ、それもある」
門の前には、町に入る人々の列ができていた。行商人、農民、巡礼の神官。みんな、門番に通行税を払っている。
ナラムたちの番が来た。
「名前と、用件と、積み荷」
門番は、気怠そうに言った。
「ナラム。ウルカの行商人です。積み荷は小麦がひと袋、大麦が少々、干し肉が少々」
「小麦?」
門番の目の色が変わった。
「見せろ」
ナラムは、油紙の包みを、少しだけ開いて見せた。黄金色の粒が、陽を受けてきらりと光る。
「本物だな。北のハッル産か?」
「ええ。塩はひと粒もかぶってません」
「小麦は、代官様への献上か、商会への卸しか、どっちだ」
「それは、これから決めるところで」
門番は、ふん、と鼻を鳴らした。
「小麦の通行税は、一袋につき、銀二粒だ」
「二粒? 先月は一粒だったはずですが」
「今月から二粒だ。文句があるなら、代官様に言え」
ナラムは、内心で舌打ちした。小麦の値が上がっているという噂は、本当だったらしい。通行税まで上がるということは、町の中でも、小麦の値はさらに跳ね上がっているはずだ。
悪い話ではない。高く売れる、ということだから。
ナラムは、銀を二粒、門番に渡した。
「それと、そっちの娘は?」
門番が、荷台の上のティアを顎で指した。
「妹です」
ナラムは、するりと言った。
ティアが、きょとんとした顔をした。
「いもうと?」
「いいから黙ってろ」
小声で言うと、ティアはこくりと頷いて、口を閉じた。
門番は、ティアを上から下まで眺めた。白い髪。河口の色の目。薄青い上衣。
「似てねえな」
「母親が違うんで」
「ふうん」
門番は、もう一度ティアを眺めて、それから、なぜか、少し顔を赤くした。
「まあいい。通れ。ただし、町の中で揉めごとを起こすなよ。最近、物騒なんだ」
「物騒?」
「ここんとこ、井戸がどこもしょっぱくてな。ガキどもが腹を下して、何人も寝込んでる。町の連中は気が立ってるんだ。余計なことはするな」
「肝に銘じます」
ナラムは、にこやかに頭を下げて、ドゥムの手綱を引いた。
門をくぐると、ラルサの町の喧騒が、どっと押し寄せてきた。
市場の呼び声。荷車のきしむ音。神殿の鐘。そして――子供の泣き声。
ティアが、そっと、ナラムの袖を引いた。
「ナラム」
「ん」
「いもうと、って、なに?」
「家族のことだ。同じ親から生まれた、年下の女のことを、妹っていう」
「わたし、ナラムの、いもうと?」
「違う。そういうことにしとくと、楽だってだけだ」
「そっか」
ティアは、少しだけ、つまらなそうな顔をした。
「いもうとじゃ、ないなら、なに?」
「なにって……」
ナラムは、言葉に詰まった。
なんだろう。連れ。同行者。商売の相棒。拾いもの。契約相手。どれも、間違ってはいない。けれど、どれも、ぴったりとは来なかった。
「あとで考える」
「あとで?」
「あとでだ。今は、小麦を売るのが先だ」
ティアは、ふうん、と言った。それから、ナラムの袖を掴んだまま、離さなかった。
ナラムは、振りほどかなかった。
――こうして、塩の柱から生まれた女と、行商人の旅が始まった。
ナラムは、まだ、知らなかった。
ティアが歩いた後の道が、どうなっていくのか。
エシュヌの町で、ティアが吸い尽くした塩の跡に、何が起き始めているのか。
そして、ティアが、なぜ、自分の傍でだけ落ち着くのか。
知るのは、ずっと先のことだ。
ラルサの市場は、エシュヌの十倍は広かった。
大通りの両側に、日干し煉瓦の店がずらりと並び、その前に、さらに露店がひしめいている。売っているものも、エシュヌとは比べものにならない。大麦、豆、干し魚、干し棗、羊毛、陶器、葦の籠、銅の鍋。錆びた鉄の鍋を、錆びたまま売っている店まである。鉄は錆びるからといって、捨てるほど安いわけではないのだ。
そして、どの店の軒先にも、掃き集めた塩の山が、灰色の土嚢のように積まれていた。
ティアは、その山の一つ一つに、律儀に目をやっていた。
「ティア」
「みてるだけ」
「見てるだけで減ってるだろ」
「すこしずつ。いっこずつ。ほどほど」
「ここはエシュヌよりずっと人が多いんだ。誰か一人でも気づいたら終わりだぞ」
「むう」
ティアは、名残惜しそうに塩の山から目を逸らした。代わりに、ナラムの袖を、ぎゅっと掴む手に力を込めた。
ナラムは、それを振りほどかなかった。人混みで迷子になられても困る。理由はそれだけだ。
大通りを抜けて、商人たちの宿が集まる区画に向かう途中、ナラムは、ある露店の前で足を止めた。
人だかりができていた。
真ん中で、女がひとり、声を張り上げていた。
「さあさあ、お立ち会い! 北の山の巫女様が、七日七晩祈りを込めた、霊験あらたかな塩除けの護符だよ! これを戸口に吊るしておけば、塩降りの塩が、あんたの家だけ避けて通る! 井戸に沈めておけば、しょっぱい水も、たちまち塩気が抜ける!」
年は三十を少し過ぎたくらいだろうか。日に焼けた肌に、黒髪をきつく編み上げ、赤い布を頭に巻いている。声がよく通る。身振りが大きい。客の目を、ひとりずつ、まっすぐ見て話す。
腕のいい商人だ、と、ナラムは一目で分かった。
腕がよくて、そして、ろくでもない商人だ。
「一枚、たったの大麦二升! 家族の命を守るのに、二升は安いもんだろう!」
女の手には、粘土の板に、何やら文字らしきものを刻んだ小さな札が、何枚も束ねられていた。穴に紐が通してある。どう見ても、子供の手遊びだ。
それでも、客たちは、札に手を伸ばしていた。
「うちの子が、井戸の水で腹を下して寝込んでるんだ。本当に、塩気が抜けるのか」
「なるとも! あたしの言葉が信じられないなら、北の山の巫女様を信じな!」
男が、なけなしの大麦を差し出していた。
ナラムは、眉をひそめた。
「ナラム。あれ、なに?」
「護符だ。おまじないの札だ」
「あれで、しょっぱいの、なくなる?」
「なくならねえよ。あんなもんで塩がなくなるなら、誰も苦労しねえ」
言ってから、ナラムは、口をつぐんだ。
隣に、塩をなくせるやつがいる。
「少なくとも、あの札じゃ、なくならねえ」
「ふうん」
ティアは、女の手元の札を、じっと見ていた。それから、すん、と鼻を鳴らした。
「あのひと、しょっぱくない」
「は?」
「なかが、あんまり、しょっぱくない。ほかのひとより」
ナラムは、思わず女を見直した。
女は、ちょうど客を一人さばき終えて、ふう、と息をついたところだった。それから、ふいに顔を上げて、人だかりの外にいるナラムと、目が合った。
女の目が、すうっと細くなった。
ナラムの荷車を見た。荷車の上の、油紙の包みを見た。それから、ナラムの袖を掴んでいるティアを見た。
にやり、と、女が笑った。
「おや。同業者のお兄さんじゃないか。なんだい、人の店の前で、渋い顔して、客を取られるとでも思ったかい」
人だかりが、一斉にナラムの方を振り返った。
「いや、通りがかっただけで」
「通りがかっただけにしちゃ、ずいぶん熱心に見てたじゃないか」
女は、護符の束を肩に担いで、人だかりをかき分けて、ずかずかとナラムの前までやってきた。近くで見ると、思ったより背が高い。ナラムと、ほとんど目線が変わらない。
「あたしはルハ。この辺りの町を回ってる。あんたは?」
「ナラム。ウルカの行商人だ」
「ウルカ! 河の町から、はるばるご苦労さん。で、そっちの白い子は?」
「妹だ」
ルハは、ティアを上から下まで眺めた。それから、ナラムを上から下まで眺めた。
「ふうん。似てないねえ」
「母親が違うんで」
「へえ。で、その妹ちゃんは、なんでさっきから、あたしの手をじっと見てるんだい」
ナラムは、ぎくりとした。
ティアは、ルハの手を――正確には、ルハの手首にこびりついた、塩の粒を――じっと見つめていた。
「ティア」
「みてるだけ」
「見るな」
「どうして?」
「いいから」
ルハは、二人のやりとりを、面白そうに見ていた。
「変わった子だねえ」
「人見知りなんだ」
「人見知りって顔には見えないけどねえ」
ルハは、ひょいとティアの顔を覗き込んだ。ティアは、ルハの手首から目を離して、ルハの目を見返した。
河口の色の目と、黒い目が、しばらく見つめ合った。
先に目を逸らしたのは、ルハの方だった。
「ほんとに、変わった子だ」
ルハは、肩をすくめた。それから、ナラムに向き直って、声を少し低くした。
「同業のよしみで、一つ教えといてやるよ。この町で商売するなら、代官屋敷の西の倉に気をつけな。小麦が品薄でね、代官様が、目の色変えて買い集めてる。いい値で買ってくれるけど、足元も見てくる。それと、市場の東の、塩捨て人足の頭には逆らうな。この町の塩は、あいつらが全部仕切ってる」
「なんで、そんなことを俺に」
「なんでって」
ルハは、にやりと笑った。
「あんたの荷車、小麦が載ってるだろ。代官様に売るなら、あたしが口を利いてやってもいい。手数料は一割。悪い話じゃないだろ」
ナラムは、少し考えた。
悪い話ではない。この町に知り合いはいない。代官屋敷に、どこの馬の骨とも知れない行商人が、いきなり小麦を売りに行っても、門前払いを食うか、買い叩かれるのがおちだ。口を利いてくれる人間がいるなら、一割は高くない。
けれど――
「あんたのその護符」
「なんだい」
「さっきの男、子供が寝込んでるって言ってたな」
ルハの笑顔が、ほんの一瞬だけ、固まった。
「それが、どうしたってのさ」
「別に。ただ、あの札で井戸の塩気が抜けるなら、俺も一枚欲しいと思っただけだ」
ルハは何も言わなかった。ナラムは肩をすくめた。
「口利きの話は、ありがたく受ける。手数料は八分で頼む」
ルハは、しばらくナラムを睨んでいた。それから、ふっと息を吐いて、また笑った。さっきまでとは、少しだけ違う笑い方だった。
「九分。それ以下は、まからないよ」
「九分で」
「商談成立だ。明日の朝、代官屋敷の西門で待ってな」
ルハは、くるりと背を向けて、人だかりの方へ戻っていった。
「さあさあ、お立ち会い! 北の山の巫女様の――」
ナラムは、その背中を、黙って見送った。
袖を、くいくいと引かれた。
「ナラム」
「ん」
「あのひと、すき?」
「は?」
「ナラム、あのひとと、はなしてるとき、かおが、たのしそうだった」
「楽しそうじゃねえよ。商売の顔だ」
「しょうばいの、かお」
「そうだ」
ティアは、ナラムの顔を、じっと見上げた。
それから、ぷいと、そっぽを向いた。
「わたしとはなしてるときも、しょうばいの、かお?」
「は?」
「なんでもない」
ティアは、ナラムの袖を掴んだまま、すたすたと歩き出した。ナラムは、引っ張られるようにして、その後をついていった。
何が起きたのか、さっぱり分からなかった。
ドゥムが、後ろで、ふん、と鼻を鳴らした。
*
翌朝、代官屋敷の西門には、約束どおりルハが待っていた。
昨日の赤い布ではなく、こざっぱりとした麻の上衣を着ている。商売道具の護符の束も、持っていない。こうして見ると、どこかの商会の女主人に見えなくもない。
「遅いよ」
「時間どおりだ」
「商人は、時間より早く来るもんさ。おや、妹ちゃんは?」
「宿に置いてきた」
ナラムは、短く答えた。
代官屋敷に、ティアを連れていくわけにはいかない。代官屋敷には、塩がない。代官は金持ちだ。金持ちの屋敷は、人足を雇って、毎日きれいに塩を掃き出している。ティアにとっては、退屈きわまりない場所だ。退屈したティアが何をしでかすか、ナラムには想像もつかない。
宿を出るとき、ティアは寝台の上で、膝を抱えて、ふてくされていた。
「すぐ戻る。昼までには戻る」
「ほんと?」
「本当だ。いい子にしてろ。宿の外に出るなよ。塩も食うな」
「みるのは?」
「宿の中に塩はねえだろ」
「まどから、みえる」
「ほどほどにな」
ティアは、ぷいとそっぽを向いた。昨日の夜から、ずっとこの調子だ。何が気に食わないのか、ナラムにはさっぱり分からない。
「ふうん」
ルハは、ナラムの顔をしげしげと見て、意味ありげに笑った。
「なんだよ」
「別に。行こうか」
*
代官は、肥えた男だった。
ラルサの代官ウル・ナンムは、五十を過ぎたくらいの年で、絹の上衣を三枚も重ね着して、汗をかいていた。部屋の中は、香が焚かれていて、むせるほど甘い匂いがした。塩の匂いを消すための香だ、と、ナラムは気づいた。この屋敷の主は、塩の匂いが嫌いなのだ。
「北のハッルの小麦だそうだな」
「はい。塩はひと粒もかぶっておりません」
ナラムは、油紙の包みを開いて、代官の前に差し出した。
代官は、太い指で小麦の粒をつまみ上げ、目の前にかざし、匂いを嗅ぎ、それから、ひと粒、口に入れて噛んだ。
「ふむ。悪くない」
「ありがとうございます」
「いくらだ」
ナラムは、ちらりとルハを見た。ルハは、ほんのわずかに、顎を引いた。打ち合わせどおりの合図だ。代官は、今、本気で小麦を欲しがっている。強気に出ていい。
「銀、六十粒」
代官の眉が、ぴくりと動いた。
「六十? 先月、ハッルの商会から買ったときは、四十だったぞ」
「先月は、先月でございます。今月、ハッルからの小麦は、ほとんど南に下りてきておりません。代官様もご存知でしょう」
代官は、指先で卓を叩いた。
「それに、門の通行税も倍になりました。私どもも、苦しいのです」
代官は、ナラムを睨んだ。ナラムは、にこやかに、その視線を受け止めた。
しばらく、香の煙だけが、ゆらゆらと揺れていた。
「五十」
「五十五」
「五十二」
「五十二と、それから、一つお願いが」
「なんだ」
「町の東の路地に、井戸がございますね。あの辺りの井戸を、私どもに、三日ほど使わせていただきたい」
代官は、怪訝な顔をした。ルハも、怪訝な顔をした。打ち合わせにない話だ。
「井戸? 東の路地の井戸なんぞ、塩辛くて、とても飲めたものではないぞ」
「ええ。存じております。私の妹が、少々、井戸の清めの心得がございまして」
「清め?」
「北の生まれでして。北には、塩辛い井戸を清める、古い作法がございます」
口から出まかせだ。ナラムは、自分でも呆れるくらい、すらすらと嘘をついた。
代官は、しばらく考えていた。それから、どうでもいい、というように手を振った。
「好きにしろ。あの辺りの井戸は、どうせ誰も使っておらん。東の路地の連中は、勝手に飲んで、勝手に腹を壊しておる。わしの知ったことではない」
「ありがとうございます」
ナラムは、深々と頭を下げた。
頭を下げながら、奥歯を、きつく噛みしめた。
*
「あんた、何考えてんのさ」
代官屋敷を出るなり、ルハがナラムの腕を掴んだ。
「井戸の清め? 北の作法? あたしは北の出身だけど、そんな作法、聞いたこともないよ」
「あんたの護符と同じだ。口から出まかせだ」
「出まかせで、代官様から井戸の使用許可をもらってどうするのさ。あの路地の井戸は、本当に、どうしようもなく塩辛いんだよ。あたしの護符を沈めたって、塩気なんか抜けやしない」
「知ってる」
「知ってるなら――」
「あんたの護符で塩気が抜けないことは、知ってる」
ナラムは、ルハの手を、そっと腕から外した。
「手数料の九分だ。銀、四粒と半分。端数は切り上げて、五粒」
ナラムは、銀の粒を、ルハの手のひらに乗せた。
ルハは、手のひらの銀と、ナラムの顔を、交互に見た。
「あんた、ほんとに変な男だね」
「よく言われる」
「妹ちゃんも変だし」
「それも、よく言われる」
ルハは、銀を握りしめた。それから、何か言いかけて、やめた。
「あたしの護符を買った男。東の路地の、子供が寝込んでるって男。名前は、エタナっていうんだ」
「そうか」
「それだけ。じゃあね」
ルハは、背を向けて、早足で去っていった。
ナラムは、その背中を見送りながら、少しだけ、ルハのことを見直した。
ろくでもない商人だ。けれど、ろくでもないだけの商人でも、ないのかもしれない。
*
宿に戻ると、ティアが、窓辺に張りついていた。
窓の外には、宿の裏手の路地が見える。路地の端に、塩の山が三つあった――はずだが、今は、二つ半しかない。
「ティア」
「みてただけ」
「半分なくなってるぞ」
「ほどほど」
「まあ、いい」
ナラムは、寝台に腰を下ろした。ティアは、窓辺から振り返って、ナラムの顔を見た。
「あのひとと、いっしょだった?」
「ルハか? ああ、一緒だった。商売の話だ」
「しょうばいの、はなし」
「そうだ。おかげで、小麦が高く売れた。銀五十二粒だ。手数料を引いても、四十七粒。大儲けだ」
「おおもうけ」
「大儲けだ」
ティアは、少しだけ、ナラムの顔色をうかがうように首を傾げた。
「ナラム、うれしい?」
「ああ、嬉しいね」
「じゃあ、わたしも、うれしい」
ティアは、そう言って、少しだけ笑った。昨日の夜から続いていた、ふてくされた顔が、ようやく、ほどけた。
ナラムは、なぜか、少しだけほっとした。
「それより、ティア。お前に、頼みがある」
「たのみ?」
「仕事だ。今夜、井戸に行く」
「いど?」
「この町の東の路地に、塩辛い井戸がある。子供が、その水を飲んで、腹を壊して寝込んでる。お前、あの井戸の塩、吸えるか」
ティアは、目をぱちぱちさせた。
「すえる。たぶん。水のなかの塩は、たいへんだけど」
「ぜんぶじゃなくていい。飲める程度でいい」
「のめるくらい」
「そうだ。できるか」
ティアは、少し考えた。それから、ナラムを見上げた。
「それ、しょうばい?」
ナラムは、言葉に詰まった。
商売ではない。井戸を清めても、一粒の銀にもならない。代官に払った井戸の使用料だって、小麦の値引きという形で、実質的には払っている。損得で言えば、完全な損だ。
「商売だ」
「ほんと?」
「ああ。恩を売る。恩は、あとで返ってくる。だから、商売だ」
ティアは、じっとナラムを見ていた。
それから、にっこり笑った。
「わかった。しょうばい、する」
夜更けの東の路地は、静まり返っていた。
月は細く、星明かりだけが、白い塩の積もった路地を、ぼんやりと照らしている。家々の戸は閉ざされ、ときおり、どこかの家の中から、子供の咳き込む声が聞こえた。
井戸は、路地の突き当たりにあった。
日干し煉瓦で囲った、古い井戸だ。釣瓶の縄は塩を吸って白く固まり、桶の鉄の箍は、錆びて赤茶色に膨れ上がっている。
ナラムは桶を下ろして、水を汲み上げた。月明かりの下で、水は、うっすらと白く濁っていた。
指を浸して、舐めてみる。
「っ」
舌が、焼けるようにしびれた。思わず唾を吐いた。
「ひでえな、これ。こんなもん飲んでたら、そりゃ腹も壊す」
「ナラム、だいじょうぶ?」
「大丈夫だ。ティア、頼む」
ティアは、井戸の縁に両手をついて、中を覗き込んだ。
しばらく、何も起きなかった。
ティアは、目を閉じていた。眉間に、うっすらと皺が寄っている。何かを、懸命に探っているような顔だった。
「ふかい」
「深い?」
「水が、ふかい。それに、ずっと、つながってる。下の、もっと、下の方まで」
「地下水脈か」
「ちかすいみゃく?」
「この町の井戸は、みんな、地面の下で一本の大きな水の流れにつながってるんだ。だから、どこの井戸もしょっぱい」
「そっか」
ティアは、目を閉じたまま、小さく頷いた。
それから、井戸の縁から両手を離して、ゆっくりと、井戸の中へ差し伸べた。
ナラムは、息を呑んだ。
ティアの白い髪が、ふわりと浮き上がった。風はない。それなのに、髪の一本一本が、水の中で揺れる藻のように、ゆらゆらと宙に漂っている。
井戸の底から、かすかな音がした。
ちゃぷ、ちゃぷ、と、水が揺れる音。それから、さらさらと、砂がこぼれるような音。
ナラムは、桶にもう一度水を汲んだ。
水の中に、白い粒が、渦を巻いていた。小さな、細かな、雪のような粒が、水の中から浮かび上がり、ティアの指先に向かって、吸い寄せられるように流れていく。
塩だ。
水に溶けていた塩が、粒に戻って、ティアの方へ引き寄せられている。
「くっついてる、の、はなすの、たいへん」
ティアが、小さく呟いた。額に、汗のような、細かな白い粒が浮かんでいた。
「無理するな」
「むり、してない。でも、へん」
「へん?」
「水と、塩が、はなれるとき。なんか、さみしい、かんじが、する」
ナラムは、何も言えなかった。
ティアは、目を閉じたまま、指先を井戸の中に差し伸べ続けた。
どれくらい、そうしていただろう。
月が、路地の屋根の向こうに、少し傾いたころ。
ティアの髪が、すうっと、肩に落ちた。
「おわり」
ティアは、目を開けた。少し、ふらついていた。ナラムは、とっさにその肩を支えた。
「大丈夫か」
「だいじょうぶ。おなか、いっぱい」
ティアは、ナラムにもたれかかって、ふにゃりと笑った。
ナラムは、片手でティアを支えたまま、もう片方の手で、桶の水を汲み上げた。
月明かりの下で、水は、澄んでいた。
指を浸して、舐めてみる。
まだ、ほんの少しだけ、しょっぱい。けれど、さっきの、舌が焼けるような塩辛さは、もうない。普通の井戸水だ。少し質の悪い、けれど、ちゃんと飲める、普通の井戸水。
「ティア」
「ん」
「お前、すげえな」
ティアは、目を細めた。
「えへへ」
ティアは、ナラムの肩に額を押しつけた。
ナラムは、どうしていいか分からなくて、そのまま、じっと立っていた。
*
帰り道、ナラムはティアを背負った。
ティアは、思ったよりずっと軽かった。塩でできているはずなのに、羽のように軽い。それなのに、背中に当たる体温は、ちゃんと温かかった。
「ナラム」
「ん」
「あした、こども、げんきになる?」
「すぐには、ならねえよ。腹を壊したのは、もう治らない。でも、これ以上、悪くはならない。きれいな水を飲んでれば、そのうち、治る」
「そのうち」
「そのうちだ」
「そのうち、みたい」
「無理だ。明日には、この町を出る」
「どうして?」
「井戸の水が、いきなり塩気が抜けたら、町の連中が騒ぎ出す。誰が何をしたのか、詮索し始める。そうなる前に、出る」
「そっか」
ティアは、ナラムの背中で、少しだけ、黙った。
「ナラム」
「ん」
「わたし、ゴミ、すきだよ」
「は?」
「しょっぱいの。みんな、ゴミって、いう。でも、わたし、すき。すきなもの、たべて、こどもが、げんきになるなら、それって、いいこと?」
ナラムは、少しだけ、足を止めた。
「ああ。いいことだ」
「よかった」
ティアは、満足そうに、ナラムの首に腕を回した。
それきり、静かになった。眠ってしまったらしい。
ナラムは、星明かりの下を、ゆっくりと歩いた。
*
翌朝、ナラムとティアは、ラルサの門をくぐって、町を出た。
門番は、昨日と同じ男だった。ナラムを見て、ティアを見て、また、少しだけ顔を赤くした。
「もう出るのか。早いな」
「商売が、うまくいったんで」
「そうか。そういや、聞いたか。東の路地の井戸が、一晩で塩気が抜けたんだと」
「へえ。そりゃ、めでたい」
「なんでも、北の山の巫女様の護符のおかげだって、大騒ぎだ。護符売りの女のところに、朝から行列ができてるらしい」
ナラムは、思わず吹き出しそうになって、こらえた。
「そりゃ、よかった。巫女様様ですね」
「まったくだ」
門を出て、しばらく街道を歩いてから、ナラムは、ようやく声を上げて笑った。
「なにが、おかしいの?」
「いや。あの女、ぼろ儲けだなと思って」
「あのひと?」
「ルハだ。護符売りの」
ティアは、むう、と唸った。
「わたしが、やったのに」
「ああ。お前がやった」
「なのに、あのひとが、もうかる」
「そうだな」
「ずるい」
「ずるいな」
ナラムは、笑いながら、ティアの頭を、くしゃくしゃと撫でた。
「でも、いいんだよ。おかげで、誰も、お前のことなんか疑わない。あの女は、それを分かってて、黙って儲けてるんだろうさ。借りが一つ、できちまったな」
「かり?」
「あの女に、一つ借りができた。いつか、返さなきゃならねえ」
ティアは、まだ不満そうな顔をしていた。けれど、ナラムに頭を撫でられて、少しだけ、口の端が緩んでいた。
ナラムは、振り返らなかった。
だから、知らなかった。
門の上の物見台から、赤い布を頭に巻いた女が、二人の背中を、じっと見送っていたことを。
女の手には、粘土の護符が一枚、握られていた。
「塩の抜けた井戸、ねえ」
ルハは、護符を指先でくるくると回しながら、小さく呟いた。
「巫女様のおかげ、か。あたしにも、よく分からないことが起きてるもんだ」
*
ラルサからギルスへ向かう街道は、二つに分かれている。
一つは運河沿いの平らな道。もう一つは、涸れた川床を辿る、近道の悪路。運河沿いの道は、遠回りだが、人通りが多くて安全だ。川床の道は、半日早く着くが、ときどき、盗賊が出る。
「どっちに行く?」
「近道だ」
ナラムは迷わず言った。
「ラルサの門番が、井戸の噂をもう町じゅうに広めてる。北の巫女様の護符だのなんだのってな。ルハがうまく誤魔化してくれてるが、どこで尻尾を掴まれるか分からねえ。早く離れた方がいい」
「とうぞく、でる?」
「出るかもしれない」
「とうぞく、って、なに?」
「人の荷物を、力ずくで奪うやつらだ」
「ナラムの、しょうひん、とる?」
「取る。たぶん、お前ごと取る」
ティアは少し考えた。
「それは、いや」
「俺も嫌だ」
「じゃあ、とおくの、みち」
「でも、近道の方が早い」
「むずかしい」
「商売は、難しいんだよ」
結局、二人は近道を選んだ。ナラムの財布には、ラルサで小麦を売った銀が、たっぷり入っていた。銀を持っているときほど、盗賊が怖い。けれど、銀を持っているときほど、早く次の町で仕入れをしたくなる。商人の業というやつだ。
*
涸れた川床は白かった。
昔は、ここを水が流れていたのだろう。両岸の土手は高く、川床は広い。その川床一面に、塩の殻が、厚く、こびりついていた。水が流れなくなった後に塩だけが残ったのだ。
ティアは上機嫌だった。
荷車の前を歩きながら、足元の塩を片っ端から吸い取っていく。ティアが歩いた跡が、黒い一本の筋になって、白い川床にまっすぐ伸びていく。
「おい、ティア。目立つぞ、それ」
「だれも、いないよ」
「いないけど、後で誰かが通ったら、何事かと思うだろ」
「なにごと、かな、って、おもう、だけ」
「それもそうか」
ナラムは、それ以上、何も言わなかった。
昼を過ぎたころ、川床が大きく曲がる場所に出た。両岸の土手が、ひときわ高くなって、見通しが悪い。
ナラムは嫌な予感がした。
こういう場所は、盗賊が待ち伏せするのに、うってつけだ。
「ティア。こっちに来い。荷車の横を歩け」
「どうして?」
「いいから」
ティアが、荷車の横に並んだ、そのときだった。
土手の上から、石がばらばらと降ってきた。
「止まれ!」
野太い声が川床に響いた。
土手の上に、男たちが、立ち上がった。四人。いや、五人。ぼろぼろの布を体に巻き、顔を布で隠し、手には、棍棒や、錆びた短剣を握っている。錆びた短剣は、刃がぼろぼろで、切れるのかどうかも怪しかった。それでも、刺されれば痛いだろう。
「荷物を置いていけ! そうすりゃ、命までは取らねえ!」
ナラムは手綱を握りしめた。
五人。こっちはナラム一人。ドゥムは戦力にならない。ティアは――
ナラムはちらりとティアを見た。
ティアは、土手の上の男たちを、きょとんとした顔で見上げていた。
「ナラム。あれ、とうぞく?」
「ああ、盗賊だ」
「ナラムの、しょうひん、とる?」
「取る気だろうな」
「わたしも、とる?」
「たぶん」
土手の上で、男たちが、ティアに気づいた。
「おい、見ろ。女がいるぞ」
「白い髪だ。珍しいな」
「高く売れるぞ」
「女も置いていけ!」
男たちが土手を滑り降りてきた。
ナラムは、とっさに、荷車の下から、天秤棒を引き抜いた。大麦の袋を担ぐための樫の棒だ。武器にはならないがないよりはましだ。
「ティア、下がってろ」
「ナラム、たたかうの?」
「戦う。たぶん、負けるけど」
「まける?」
「五対一だ。勝てるわけがない。隙を見て、お前は逃げろ。ドゥムを連れて、来た道を戻れ」
「いや」
「いやじゃねえ」
「ナラムを、おいて、いかない」
男たちが川床に降り立った。じりじりと間合いを詰めてくる。
先頭の男が、錆びた短剣を振りかざした。
「おとなしくしろ!」
ナラムは天秤棒を構えた。
そのとき、ティアが、すっとナラムの前に出た。
「おい、ティア!」
ティアは、先頭の男の前にまっすぐ立った。
男は、一瞬、たじろいだ。それから、にやりと笑った。
「なんだ、嬢ちゃん。自分から来てくれるのか」
「それ」
ティアが、男の手の短剣を指さした。
「さび、てる」
「あ?」
「しょっぱい」
ティアは、男の短剣の刃に指先でそっと触れた。
男が、とっさに短剣を引こうとした。
遅かった。
ティアの指先が触れた場所から、錆が、ぽろぽろと剥がれ落ちた。剥がれ落ちた錆の下から、黒い地金が、のぞいた。けれど、その地金はひどく薄かった。錆に芯まで喰われていたのだ。錆が剥がれると、刃は、紙のように薄い、黒い板切れになった。
ぱきん、と、音を立てて、刃が、折れた。
男は、柄だけになった短剣を呆然と見つめた。
「は?」
「おれた」
ティアが言った。
「さび、たべたら、おれた」
男たちが凍りついた。
ティアは、二人目の男の方を向いた。その男の手には、錆びた鉄の輪をはめた棍棒が握られていた。
「それも、さびてる」
ティアが、一歩、近づいた。
男が、一歩、下がった。
「く、来るな」
「たべて、いい?」
「来るなって言ってんだろ!」
男は棍棒を振り上げた。
ティアは避けなかった。棍棒が、ティアの肩に振り下ろされた。
ナラムは息を呑んだ。
ごつ、と鈍い音がした。
ティアは、身じろぎ一つしなかった。棍棒は、ティアの肩の上で止まっていた。まるで岩を殴ったように。
男の顔が引きつった。
「い、いたく、ねえのか」
「いたくない」
ティアは、肩の上の棍棒に手を添えた。棍棒の鉄の輪から、錆が、ぽろぽろと剥がれ落ちた。鉄の輪が、薄くなって、ぱきりと割れて、地面に落ちた。
「でも、ナラムを、たたこうと、したら」
ティアは男を見上げた。
河口の色の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「いたく、する」
男は悲鳴を上げた。
棍棒を放り出して、土手を這い上がって逃げていった。残りの男たちも我先にとそれに続いた。一人は、土手の途中で足を滑らせて、川床に転げ落ち、また悲鳴を上げて、這い上がっていった。
「ば、化け物だ!」
「塩の化け物だ!」
「逃げろ!」
男たちの悲鳴が、土手の向こうに遠ざかっていった。
川床に静けさが戻った。
ナラムは、天秤棒を構えたまま、立ち尽くしていた。
ティアが振り返った。
「ナラム。とうぞく、いなくなった」
「ああ」
「ナラムの、しょうひん、とられなかった」
「ああ」
「わたしも、とられなかった」
「ああ」
「ナラム、だいじょうぶ?」
ナラムは、ようやく天秤棒を下ろした。
「お前、肩、大丈夫か。棍棒で、思いっきり殴られたろ」
「だいじょうぶ。すこし、かけた」
「欠けた?」
ティアは、上衣の襟元を、少しだけ引っ張って、肩を見せた。
白い肌に、小さな、ひびが入っていた。陶器が欠けたような、細い、白いひび。血は一滴も出ていなかった。
ナラムは言葉を失った。
「すぐ、なおる。しょっぱいの、たべたら、なおる」
ティアは、そう言って、しゃがみこんだ。川床の塩に手を当てた。塩が、すうっと、ティアの手に吸い込まれていった。
ナラムはティアの肩を見ていた。
白いひびが、見る見るうちにふさがっていった。塩が、ひびを埋めて、白い肌が、元通りになめらかになった。
「ほら、なおった」
ティアはにっこり笑った。
ナラムは、何と言っていいか、分からなかった。
ただ、天秤棒を荷車に戻して、ティアの頭に手を置いた。
「ありがとな」
「うん」
「でも、次からは、避けろ」
「どうして?」
「欠けるからだ」
「なおるよ?」
「治っても、だ」
ナラムは、ティアの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「お前が欠けるの、見たくねえんだよ」
ティアは、きょとんとした顔でナラムを見上げた。
それから、ゆっくりと顔を赤くした。
塩でできているはずの頬が、ちゃんと赤くなった。
「わかった。よける」
「ああ。そうしてくれ」
「ナラム」
「ん」
「いまの、しょっぱくなかった」
「うるせえ。行くぞ」
ナラムは手綱を振った。
ドゥムが、ふん、と鼻を鳴らして、歩き出した。
*
その夜、焚き火の前で、ナラムは、盗賊が置いていった棍棒の柄と、折れた短剣の柄をしげしげと眺めていた。
「化け物、ねえ」
「ばけもの?」
「あいつら、逃げるとき、お前のこと、化け物って言ってたろ」
「うん」
「気にしてるか」
ティアは少し考えた。
「わからない。ばけもの、って、なに?」
「人間じゃない、怖いもののことだ」
「わたし、にんげん、じゃない」
「ああ」
「こわい?」
「あいつらにとっては、怖かったんだろうな」
「ナラムは?」
ナラムは、柄を焚き火に放り込んだ。
「俺は、別に」
「こわくない?」
「怖くねえよ。まあ、肩が欠けたのは、ちょっと、ぞっとしたけどな」
「ぞっと」
「心配したってことだ」
「しんぱい」
ティアは、その言葉を口の中で転がした。
「しんぱい、って、すき、と、ちかい?」
ナラムは咳き込んだ。
「ちかくは、ない」
「ちかく、ない?」
「いや、まあ、遠くも、ない、かもしれない」
ナラムは、毛布を頭まで引き上げた。
「寝ろ。明日も早い」
ティアは、くすくすと笑いながら、毛布にくるまった。
ナラムは、焚き火を見つめながら、ため息をついた。
焚き火の中で、盗賊の棍棒の柄が、ぱちぱちと燃えていた。