しょっぱい女神と真水の行商人   作:西都東都

4 / 4
第四話 すきってなに

 ギルスは湖のほとりの町だった。

 もっとも、それを湖と呼んでいいのかどうか、ナラムにはいつも分からない。昔は、葦の茂る、魚のよく獲れる、大きな淡水の湖だったという。十二年前の最初の塩降りから、湖は年々しょっぱくなり、今では、岸から沖まで、一面が白い塩の殻に覆われている。湖面が見えるのは、真ん中のほんの一部だけだ。そこも、水というより、どろりとした濃い塩の汁が、重たげに揺れているだけだった。

 それでもギルスの人々は、今でもそこを「湖」と呼び、町の東の岸を「港」と呼んでいる。

 港には、舟が何艘も繋がれていた。どれも、船底が塩の殻に食い込んで、もう何年も動いていない。

「すごい」

 岸辺に立って、ティアが、ため息のように言った。

 ナラムは、この声を、これまで何度も聞いてきた。エシュヌの塩の山を見たとき。ラルサの市場の塩の土嚢を見たとき。そのたびにティアは、同じ声で「すごい」と言った。

 けれど、今日の「すごい」は、いつもと少しだけ違って聞こえた。

 嬉しそうなだけではない。どこか、遠いものを見るような声だった。

「これ、ぜんぶ、しょっぱい」

「ああ。湖まるごと、塩の塊だ」

「ぜんぶ、たべたら、どうなる?」

「お前が? 湖を?」

「うん」

 ナラムは湖を見渡した。対岸は霞んで見えない。白い殻が地平線まで続いている。

「さすがに無理だろ」

「むり、かな」

「腹が破裂する」

「はれつ、しない、とおもう」

「試すなよ。絶対に試すなよ」

 ティアは、湖の白い殻をじっと見つめていた。

 それから、ふと首を傾げた。

「ここ、まえは、ちがった?」

「前?」

「しょっぱくない、水が、あった?」

「ああ、昔はな。淡水の湖だった。俺がガキのころ、親方と一度だけ来たことがある。葦がこう、背丈より高く茂ってて、水鳥がいっぱいいて、湖の水は、そのまま飲めた。河から流れ込む水と、湖の水が、ちょうど混ざる辺りでな。親方が、魚を獲ってくれた」

 ナラムは、懐かしそうに目を細めた。

 ティアは、ナラムの横顔をじっと見ていた。

「まざる、ところ」

「ん?」

「なんでもない」

 ティアは湖に視線を戻した。

 その目の色が、ほんの少しだけ揺れたような気がした。

 

  *

 

 ギルスの町は、湖の衰退とともにすっかり寂れていた。

 かつては漁師と舟大工の町だった。今は、漁師の半分は町を出ていき、残った半分は、湖の塩の殻を切り出して、塩捨て場に運ぶ人足になっている。舟大工はほとんどいない。

 代わりに、この町には、鍛冶屋がやたらと多かった。

「なんで鍛冶屋なの?」

「鉄が錆びるからだ」

 ナラムは、大通りに並ぶ鍛冶屋の軒先を指さした。どの店先にも、赤茶けた錆の塊が、山のように積まれている。鍋、鋤、鎌、斧、釘、蹄鉄。どれも、塩にやられて、ぼろぼろだ。

「塩の湖のそばじゃ、鉄はひと月もたない。だから、みんな、錆びた鉄を鍛冶屋に持ち込んで、叩き直してもらう。叩き直しても、またすぐ錆びる。また叩き直す。その繰り返しだ。この町の鍛冶屋は、それで食ってる」

「たいへん」

「大変だな。でもまあ、俺らには関係ない。鉄は扱ってないからな」

 ナラムは、そう言いながら、ふと、一軒の鍛冶屋の前で足を止めた。

 ほかの鍛冶屋と比べても、ひときわ小さな店だった。軒先の錆の山もひときわ大きい。そして、炉に火が入っていなかった。

 店の奥で、女が一人、錆びた鍋をぼんやりと眺めていた。

 年は、ナラムと同じくらいだろうか。日に焼けた腕に火傷の痕がいくつもある。黒い髪を、手拭いで乱暴にまとめている。

「休業かい?」

 ナラムが声をかけると女は顔を上げた。

「なんだい。客かい」

「いや、通りがかっただけで。炉に火が入ってないから、珍しいと思って」

「炭がないんだよ」

 女はぶっきらぼうに言った。

「炭が高くてね。湖が塩に埋まってから、葦も木も育たない。炭焼きは、みんな北に逃げちまった。この町の炭は、全部、北から運んでくるしかない。で、北からの炭は、全部、ハッル商会が押さえてる。ハッル商会は、炭の値を、この半年で倍にした」

「ハッル商会? 小麦の?」

「小麦も炭も、北から来るものは、みんなハッル商会さ。知らないのかい」

 ナラムは眉をひそめた。

 ハッル商会は、北の高地の国、ザグロの商人たちの寄り合いだ。北の小麦を一手に握って、南の町々に卸している。ナラムも、小麦はいつも、ハッル商会の出店から仕入れていた。

 それが、炭まで押さえて、値を倍にしている。

「小麦の値も、上がってるな」

「上がってるのは、小麦と炭だけじゃないよ。北から来るものは、みんな上がってる。北で、何かあったんじゃないかって、もっぱらの噂さ」

「何か?」

「さあね。あたしみたいな鍛冶屋の女に、北の高地の話なんか、分かるもんか」

 女は肩をすくめた。それから、ナラムの後ろに立っているティアに、ようやく気づいたようだった。

「あんたの連れかい」

「ああ。妹だ」

「へえ。きれいな子だね」

「そうですか」

 ティアは、女の店先の錆の山をじっと見ていた。

 ナラムは嫌な予感がした。

「ティア」

「これ、しょっぱい」

「ああ、錆びてるからな。塩がこびりついてる」

「たべて、いい?」

「だめだ」

「ちょっとだけ」

「だめだって」

 女が怪訝な顔をした。

「何の話だい」

「いえいえ、何でもないです。この子、ちょっと変わってて」

 ナラムは、慌ててティアの袖を引いた。

 けれど、ティアは動かなかった。錆の山を見つめたまま、ぽつりと言った。

「このひと、こまってる」

「は?」

「このひと、なかが、すこし、しょっぱい。かなしい、しょっぱさ」

 ナラムは言葉に詰まった。

 女は、きょとんとした顔でティアを見ていた。

「かなしい、しょっぱさ?」

「なんでもないです。本当に、何でもないです」

 ナラムは、ティアの肩を掴んで、ぐいと引き寄せた。それから、女に頭を下げた。

「失礼しました。あの、もしよければ、一つ聞いてもいいですか。この町で、宿はどこがいいですかね」

「宿?宿なら、港の脇の『葦の舟』がいいよ。湖が塩になってから、客はほとんどいないけど、おかみさんは気のいい人だ。あたしの名前を出せば、少しはまけてくれる」

「お名前は」

「ベレト。鍛冶屋のベレトだ」

「ありがとうございます、ベレトさん」

 ナラムは、もう一度頭を下げて、ティアの手を引いて、店を離れた。

 しばらく歩いてから、ナラムは、ティアを振り返った。

「お前な」

「なに?」

「人の中身がしょっぱいとか、悲しいとか、そういうことを、本人の前で言うな」

「どうして?」

「気味悪がられるだろ」

「でも、ほんとうだよ」

「本当でもだ」

 ティアは少しだけうつむいた。

「ナラムは、きみわるい?」

「は?」

「わたし、きみわるい?」

 ナラムは言葉に詰まった。

 塩の柱から裸で出てきて、塩をぼりぼり食べて、井戸の塩を吸い取って、人の中身の味が分かる女。

 気味が悪くないと言えば、嘘になる。

 けれど――

「お前はな、気味悪いんじゃなくて、変なんだ」

「へん」

「変だ。すごく変だ。でも、気味悪くはない」

「ちがうの?」

「違う」

 ナラムは、ティアの頭にぽんと手を置いた。

「変なのは、別に悪いことじゃねえ。俺だって、変な男だって、ルハに言われた」

「あのひと」

 ティアの眉がぴくりと動いた。

「あのひとの、はなし、いま、しないで」

「は? なんで」

「なんでも」

 ティアは、ナラムの手の下から、するりと抜け出して、すたすたと先に歩き出した。

 ナラムは首を傾げた。

 女というのは本当によく分からない。人間の女でも分からないのに、塩の女となるとなおさらだ。

 

  *

 

「部屋は一つしか空いてないよ」

 宿『葦の舟』のおかみは、気のいい太った女だった。ベレトの名前を出すと宿代を一割まけてくれた。それはいい。それはありがたい。

 問題はその後だった。

「一つ?」

「一つ。悪いね。普段はがらがらなんだけど、今は、北から炭を運んできた人足たちが泊まってて、満室なのさ。空いてるのは、二階の奥の、いちばん狭い部屋だけ」

「狭い部屋……寝台は」

「一つ」

 ナラムは絶句した。

 ティアは、隣できょとんとしていた。

「ひとつ、だめ?」

「だめに決まってんだろ」

「どうして?」

「どうしてって……」

 ナラムはおかみの顔を見た。おかみはにやにやと笑っていた。

「兄妹なんだろ? 一緒の寝台でいいじゃないか。子供のころは、一緒に寝てたんだろ?」

「いや、それは」

「それとも、兄妹じゃないのかい」

 ナラムは口を閉じた。

 兄妹じゃない、と言えば、では何なのか、と問われる。何なのか、と問われても、ナラムには答えようがない。塩の柱から出てきた女です、とは、言えない。

「兄妹です」

「なら、問題ないね。はい、鍵」

 おかみは、にやにや笑いながら、錆びた鉄の鍵をナラムの手のひらに乗せた。

 

  *

 

 部屋は本当に狭かった。

 寝台が一つと小さな卓が一つ。窓は一つ。寝台と壁のあいだには、人ひとりが横になれるほどの隙間もない。床に寝ようにも、卓と寝台と荷物で足の踏み場がなかった。

「詰んだ」

 ナラムは、寝台の端に腰を下ろして、頭を抱えた。

 ティアは、窓辺に張りついて、外を眺めていた。窓からは湖が見えた。夕陽を受けて、白い塩の殻が、一面、燃えるような橙色に染まっていた。

「ナラム。みて。きれい」

「ああ、きれいだな」

「たべたい」

「だめだ」

 ティアは、名残惜しそうに窓から離れた。それから、寝台の上にぽすんと座った。ナラムのすぐ隣だった。

 寝台がぎしりと鳴った。

「ひとつ、でも、いいよ?」

「よくねえ」

「どうして?」

「お前は、女だろ」

「おんな」

「俺は、男だ」

「おとこ」

「男と女が、一つの寝台で寝るのは、その……よくないんだ」

「どうして?」

 ナラムは言葉に詰まった。

 どうして、と言われても。どう説明すればいい。

「世間体が悪い」

「せけんてい?」

「人の目だ。人がどう思うか、ってことだ」

「でも、ここ、ひと、いないよ?」

 ティアは部屋の中を見回した。たしかに二人しかいない。ドゥムは宿の裏の厩にいる。

「そういう問題じゃねえ」

「じゃあ、どういうもんだい?」

「もんだい、な。いいか、ティア。男と女が一緒に寝ると、その、なんだ、いろいろ、あるんだよ」

「いろいろ」

「いろいろだ」

「いろいろって、なに?」

 ナラムは天井を仰いだ。

 神様。いるなら、助けてくれ。いや、いい。神様は、こいつの前では呼ばない方がいい気がする。

「とにかく、俺は床で寝る」

「ゆか、ないよ?」

「卓をどければ、なんとかなる」

 ナラムは立ち上がって、卓を窓際に押しやった。荷物を寝台の下に押し込んだ。それで、寝台と扉のあいだに、ようやく、体を丸めれば横になれるくらいの隙間ができた。

「ほら、ここで寝る」

 ティアは、その隙間をじっと見下ろした。

「せまい」

「十分だ」

「さむいよ?」

「毛布がある」

「いっこ、しか、ないよ?」

 ナラムは寝台の上を見た。

 毛布は一枚だけだった。

「ナラム」

「外套がある」

「がいとう、うすいよ」

「十分だ」

 ティアは、むう、と唸った。それから、何か思いついたようにぱっと顔を明るくした。

「じゃあ、わたしが、ゆかで、ねる」

「は?」

「わたし、さむくない。しお、だから。ナラムは、にんげん、だから、さむい。だから、ナラムが、しんだい」

 ナラムは、まじまじとティアを見た。

 ティアは真剣な顔をしていた。冗談でも何でもなく、本気でそう思っているらしかった。

「だめだ」

「どうして?」

「女を床に寝かせて、男が寝台で寝られるか」

「おんなと、おとこ、また、それ」

「またそれだ」

「おんなと、おとこって、めんどくさい」

「俺もそう思う」

 ナラムは、ため息をついて、床の隙間に腰を下ろした。

 結局、話はつかなかった。ナラムは床で、外套にくるまって横になった。ティアは寝台の上で、毛布にくるまって、ナラムの方を向いて横になった。

 狭い部屋だ。寝台の端から、ティアの顔が、すぐそこに見えた。

「ナラム」

「寝ろ」

「ナラム、さむくない?」

「寒くない」

「うそ」

「嘘じゃない」

「ナラムの、うそ、わからない」

「は?」

「ほかのひとは、ちょっと、わかる。でも、ナラムは、しょっぱくないから、わからない。さむくないって、ほんとか、うそか、わからない」

 ナラムは黙った。

 それは助かる。商人は嘘をつくのが仕事だ。

「寝ろって」

「わからないから」

 ティアは、毛布の端を、そっと寝台の縁から垂らした。毛布の端が、床に寝ているナラムの肩にふわりとかかった。

「うそ、だったら、こまるから、はんぶんこ」

 ナラムは、寝返りも打たずに、じっとしていた。

「いらないなら、かえして」

 ナラムは毛布を返さなかった。

 ナラムは何か言い返そうとした。けれど、肩にかかった毛布が、思ったより温かくて、言葉が出てこなかった。

 毛布からは、かすかに潮の匂いがした。海なんて、ナラムは一度も見たことがないのに、なぜか、それが潮の匂いだと分かった。

「おやすみ、ナラム」

「ああ。おやすみ」

 窓の外で、塩の湖が、月明かりに白く光っていた。

 ナラムはなかなか眠れなかった。

 

  *

 

 翌朝、ナラムが目を覚ますと寝台の上は空っぽだった。

 毛布は、ナラムの体にすっぽりとかけられていた。

「ティア?」

 部屋の中には誰もいない。窓が少しだけ開いていた。

 ナラムは跳ね起きた。

 まさか、湖に行ったのか。湖を丸ごと食べに行ったのか。いや、あいつなら、やりかねない。

 階段を駆け下りると、宿のおかみが、帳場で、のんびりと豆の殻を剥いていた。

「あら、おはよう。妹さんなら、さっき出ていったよ」

「どこに!」

「さあ。鍛冶屋の方に行くって言ってたけど」

「鍛冶屋?」

 ナラムは宿を飛び出した。

 

  *

 

 ベレトの鍛冶屋の前に人だかりができていた。

 ナラムは、人をかき分けて、前に出た。

 店先の錆の山がなかった。

 いや、正確に言えば、錆の山はあった。けれど、赤茶けた錆の塊ではなかった。鍋も、鋤も、鎌も、斧も、釘も、蹄鉄も、表面の錆がきれいに剥がれ落ちて、黒い地金がむき出しになっていた。剥がれた錆は、赤い粉になって、店先の地面にうっすらと積もっていた。

 そして、その赤い粉の真ん中に、ティアが、しゃがみこんでいた。

 ティアの前に、ベレトが、呆然と立っていた。

「ティア」

 ナラムの声にティアが振り返った。顔がつやつやしていた。

「ナラム。おはよう」

「おはようじゃねえ。何やってんだ」

「さび、の、しょっぱいの、たべた」

 ナラムは、床に転がった鍋を見た。錆一つなかった。

「さびって、しょっぱいの、なかに、はいってるの。しょっぱいのが、てつを、たべてるの。だから、しょっぱいの、たべたら、さびが、とれた」

 ナラムは頭を抱えた。

 人だかりがざわざわと騒いでいた。

「おい、見たか。あの娘、錆に触っただけで……」

「錆が、ぼろぼろ剥がれて……」

「北の巫女様じゃないのか」

「ラルサの方で、巫女様の護符で井戸の塩気が抜けたって噂を聞いたぞ」

「じゃあ、あの娘が……」

 まずい。

 ナラムは、とっさに声を張り上げた。

「いやあ、皆さん、驚かせてすみません! これはですね、北の山に伝わる、錆落としの秘薬でして!」

 人だかりが一斉にナラムを見た。

「秘薬?」

「ええ。北の巫女様が調合した、特別な粉です。錆にふりかけると、こう、ぼろぼろと錆が剥がれる。この子は、その粉の使い方を、巫女様から直々に習ってましてね」

 ナラムは、ティアの足元の赤い粉を指さした。

「ほら、この赤い粉。これが、秘薬の残りです」

 錆の粉だ。どう見ても、ただの錆の粉だ。

 けれど、人だかりは、おお、とどよめいた。

「その秘薬、売ってくれるのか!」

「いくらだ!」

「うちの鍋も、頼む!」

「いえいえ、それが、秘薬はもう、これで使い切ってしまいまして。北に戻らないと、手に入らないんですよ。申し訳ない」

 人だかりから、がっかりしたような声が上がった。

 ナラムは、内心で冷や汗をかきながら、にこやかに笑い続けた。笑いながら、ティアの襟首を掴んで、立たせた。

「さ、行くぞ」

「えー」

「えーじゃない」

 そのとき、ベレトがナラムの腕を掴んだ。

「待って」

 ナラムはぎくりとした。

 ベレトは、ナラムの腕を掴んだまま、ティアを見ていた。それから、ナラムを見た。

「秘薬なんて、嘘だろ」

 小さな声だった。人だかりには聞こえないくらいの。

「あたしは鍛冶屋だ。錆のことなら、誰よりも分かってる。あんな粉で、錆がこんなふうに剥がれるもんか。その子が、触っただけで、剥がれたんだ。あたしは見てた」

 ナラムは何も言えなかった。

 ベレトは、ナラムの腕をぎゅっと握った。

「ありがとう」

「は?」

「炭がなくて、炉に火が入らなくて、錆びた鉄が溜まる一方で、客の鍋も鋤も、返せなくて、もう、店を畳むしかないと思ってた。錆さえ落ちてれば、叩き直さなくても、返せる。研ぐだけで、返せる。研ぐのに、炭はいらない」

 ベレトの目に涙が浮かんでいた。

「その子が何なのかは、聞かない。誰にも言わない。ありがとう」

 ナラムは、ベレトの手をそっと腕から外した。

「礼なら、こいつに言ってください。俺は何もしてない」

 ベレトはティアの方を向いた。

「ありがとう。ティア、だっけ」

「うん。ティア」

「ありがとう、ティア」

 ティアは少しだけ首を傾げた。それから、にっこり笑った。

「どういたしまして」

 ベレトは、泣きながら、笑った。

 

  *

 

 宿に戻る道すがら、ティアは、ずっと上機嫌だった。

「ベレト、わらった」

「ああ、笑ったな」

「なかの、かなしいしょっぱさ、すこし、へった」

「そうか」

「よかった」

 ナラムは何も言わなかった。言いたいことは山ほどあった。勝手に出歩くな。人前で力を使うな。目立つな。けれど、上機嫌なティアの顔を見ていると、どれも口から出てこなかった。

「ナラム」

「ん」

「すき、って、なに?」

 ナラムは足を止めた。

「なんだ、いきなり」

「ベレト、いってた。『あたし、あんたたちのこと、すきだよ』って。ナラムが、くるまえに」

「そうか」

「すき、って、なに?」

 ナラムは困った。

 好き。好きとは何か。そんなこと考えたこともない。

「好きってのは、その、なんだ。一緒にいたい、とか、そういうことだ」

「いっしょに、いたい」

「あとは、そいつが嬉しいと、自分も嬉しい、とか」

「うれしいと、うれしい」

 ティアは少し考えた。

 それから、ナラムの顔を見上げた。

「じゃあ、わたし、ナラム、すき」

 ナラムは、石畳の段差につまずいて、転びかけた。

「は?」

「ナラムと、いっしょに、いたい。ナラムが、うれしいと、わたし、うれしい。だから、すき」

「いや、それは、その」

「ちがう?」

「ちがう、というか、その、好きにも、いろいろ種類があってだな」

「しゅるい」

「ああ。友達としての好きとか、家族としての好きとか、その、男と女の――」

「また、おとこと、おんな」

 ティアは、首をかしげて、しばらく考えていた。

「めんどくさい」

 ティアは、むう、と唸った。

 ナラムは顔が熱かった。耳まで熱かった。湖の照り返しのせいだ。今日はやけに陽差しが強い。

「ナラムは?」

「は?」

「ナラムは、わたし、すき?」

 ナラムは、口を開けて、閉じた。

 また開けて、また閉じた。

「商売の相棒としては、悪くないと思ってる」

「しょうばいの、あいぼう」

「そうだ」

「すき、じゃないの?」

 答えは、なかった。

 ティアは、ナラムの顔をじっと見上げていた。

 それから、少しだけ眉を下げた。

「わからない」

「何がだ」

「ナラムの、なか。しょっぱくないから、ちっとも、わからない」

 ティアの声は、少しだけ寂しそうだった。

 ナラムは、何も言わずに、早足で歩き出した。

 分からなくて、助かった。

 助かったはずなのに、なぜか、胸の奥が、少しだけちくりとした。

 

  *

 

 ギルスを発つ前の晩、ナラムは、ベレトの鍛冶屋を訪ねた。

 ティアは宿で寝ていた。錆を食べすぎて、さすがに疲れたらしい。夕飯――と言っても、ティアにとっては塩漬けの魚の塩だけだが――を済ませると、すぐに寝台に転がって、寝息を立て始めた。

 鍛冶屋の炉には火が入っていなかった。けれど、店の中には灯りがともっていた。

 ベレトが砥石で鎌を研いでいた。

「あんたか」

 ベレトは手を止めずに言った。

「妹ちゃんは?」

「寝てる」

「そうかい」

 しゃっ、しゃっ、と、砥石の音が、静かな店の中に響いた。

「何の用だい」

「仕事の、前払いに来た」

 ベレトの手が止まった。

「は?」

「俺の荷車の車輪には、鉄の輪がはめてある。塩の街道を何百里も走ってるから、しょっちゅう錆びて、割れる。その修理代を、前払いしておきたい」

「修理代」

「ああ。次に俺がこの町に来たとき、ただで叩き直してもらう。その次も、その次もだ」

 ベレトは、砥石を置いて、ナラムを振り返った。

「いくら、前払いする気だい」

 ナラムは、懐から、小さな袋を取り出した。銀が十粒入っている。ラルサで小麦を売った儲けの四分の一近い。

 ベレトは、袋を見て、それから、ナラムの顔を見た。

「車輪の鉄の輪なんて、叩き直すのに、炭ひと籠もいらないよ。銀十粒あれば、百年分は叩き直せる」

「俺は、しつこいからな。百年でも通う」

「嘘だろ」

「何がだ」

「あんた、修理代なんか、どうでもいいんだろ」

 ナラムは黙った。

 ベレトは、立ち上がって、ナラムの前まで歩いてきた。

「あんたは、あたしに金を渡したいんだ。炭を買う金を」

 ナラムは頭を掻いた。

「バレてたか」

「バレバレだよ」

 ベレトは腕を組んだ。

「施しなら、いらないよ。あたしは鍛冶屋だ。物乞いじゃない」

「施しじゃねえよ」

「じゃあ、なんだい」

「投資だ」

「とうし?」

「金を出して、あとで、もっと大きく返してもらう。それが投資だ」

 ナラムは、袋をベレトの方へ差し出した。

「これで、炭を買え。炉に火を入れろ。この町の鉄を、叩き直せ。で、俺の車輪は、俺が死ぬまで、ただで叩き直す。それで、釣り合う」

 ベレトは、袋に手を伸ばさなかった。

「それと、もう一つ。この町で、俺の妹の噂が立ったら、あんたが打ち消してくれ。秘薬の話で通してくれ。それも、この銀の中に入ってる」

 ベレトは長いこと黙っていた。

 それから、袋を、ナラムの手から、ひったくるように取った。

「変な男だね、あんた」

「商人ってのは、だいたい変なんだよ」

「あんたの妹ちゃんも変だし」

「それは、否定しない」

「でも」

 ベレトは袋を胸に抱いた。

「あんたたちが、来てくれて、よかった」

 ナラムは、照れくさくなって、そっぽを向いた。

「行商人ってのは、町が生きててくれないと、商売にならないんだよ。それだけだ」

「はいはい」

 ベレトは笑った。

 店の奥の炉はまだ冷たかった。けれど、明日には火が入るだろう。ナラムには、なぜか、それが分かった。

 

  *

 

 宿に戻る前に、ナラムは、港に寄った。

 ギルスの港は、舟こそ動いていないが、南の海から上ってくる隊商が、まだ、細々と通っている。その隊商の一つが、港の倉で干し魚を売っていた。南の海の魚を、塩をまぶして干し上げたものだ。

 ナラムは、残りの銀で、干し魚を荷車いっぱいに仕入れた。

 次の次の町、イシンでは、もうすぐ新年祭が始まる。祭りの町では、酒の肴が、いくらあっても足りない。

 宿に戻ると、ティアが、寝台の上で目を覚ましていた。

「ナラム。どこ、いってた?」

「鍛冶屋と、港だ。干し魚を仕入れてきた」

「ほしざかな?」

 ティアの鼻が、すん、と動いた。

「しょっぱい、におい」

「ああ。塩をまぶして干した魚だ。いいか、ティア。あれは商品だ。絶対に、食うなよ。塩を吸うのも、だめだ。塩を抜いたら、ただの腐った魚になる」

「ちょっとだけ」

「だめだ」

「ほんの、ちょっと」

「だめだ。その代わり、ベレトの店の裏に、錆の山が、まだ残ってる。明日の朝、出る前に、食っていいって、ベレトが言ってた」

 ティアはぱっと顔を輝かせた。それから、少し首を傾げた。

「ナラム、なんだか、うれしそう」

「そうか?」

「うん。かお、が、うれしそう。なかは、わからないけど」

 ナラムは、何も言わずに、床の隙間に横になった。

 しばらくして、寝台の縁から、毛布の端が、ふわりと垂れてきた。

 ナラムは、今度は、黙ってそれを肩にかけた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。