しょっぱい女神と真水の行商人 作:西都東都
ギルスは湖のほとりの町だった。
もっとも、それを湖と呼んでいいのかどうか、ナラムにはいつも分からない。昔は、葦の茂る、魚のよく獲れる、大きな淡水の湖だったという。十二年前の最初の塩降りから、湖は年々しょっぱくなり、今では、岸から沖まで、一面が白い塩の殻に覆われている。湖面が見えるのは、真ん中のほんの一部だけだ。そこも、水というより、どろりとした濃い塩の汁が、重たげに揺れているだけだった。
それでもギルスの人々は、今でもそこを「湖」と呼び、町の東の岸を「港」と呼んでいる。
港には、舟が何艘も繋がれていた。どれも、船底が塩の殻に食い込んで、もう何年も動いていない。
「すごい」
岸辺に立って、ティアが、ため息のように言った。
ナラムは、この声を、これまで何度も聞いてきた。エシュヌの塩の山を見たとき。ラルサの市場の塩の土嚢を見たとき。そのたびにティアは、同じ声で「すごい」と言った。
けれど、今日の「すごい」は、いつもと少しだけ違って聞こえた。
嬉しそうなだけではない。どこか、遠いものを見るような声だった。
「これ、ぜんぶ、しょっぱい」
「ああ。湖まるごと、塩の塊だ」
「ぜんぶ、たべたら、どうなる?」
「お前が? 湖を?」
「うん」
ナラムは湖を見渡した。対岸は霞んで見えない。白い殻が地平線まで続いている。
「さすがに無理だろ」
「むり、かな」
「腹が破裂する」
「はれつ、しない、とおもう」
「試すなよ。絶対に試すなよ」
ティアは、湖の白い殻をじっと見つめていた。
それから、ふと首を傾げた。
「ここ、まえは、ちがった?」
「前?」
「しょっぱくない、水が、あった?」
「ああ、昔はな。淡水の湖だった。俺がガキのころ、親方と一度だけ来たことがある。葦がこう、背丈より高く茂ってて、水鳥がいっぱいいて、湖の水は、そのまま飲めた。河から流れ込む水と、湖の水が、ちょうど混ざる辺りでな。親方が、魚を獲ってくれた」
ナラムは、懐かしそうに目を細めた。
ティアは、ナラムの横顔をじっと見ていた。
「まざる、ところ」
「ん?」
「なんでもない」
ティアは湖に視線を戻した。
その目の色が、ほんの少しだけ揺れたような気がした。
*
ギルスの町は、湖の衰退とともにすっかり寂れていた。
かつては漁師と舟大工の町だった。今は、漁師の半分は町を出ていき、残った半分は、湖の塩の殻を切り出して、塩捨て場に運ぶ人足になっている。舟大工はほとんどいない。
代わりに、この町には、鍛冶屋がやたらと多かった。
「なんで鍛冶屋なの?」
「鉄が錆びるからだ」
ナラムは、大通りに並ぶ鍛冶屋の軒先を指さした。どの店先にも、赤茶けた錆の塊が、山のように積まれている。鍋、鋤、鎌、斧、釘、蹄鉄。どれも、塩にやられて、ぼろぼろだ。
「塩の湖のそばじゃ、鉄はひと月もたない。だから、みんな、錆びた鉄を鍛冶屋に持ち込んで、叩き直してもらう。叩き直しても、またすぐ錆びる。また叩き直す。その繰り返しだ。この町の鍛冶屋は、それで食ってる」
「たいへん」
「大変だな。でもまあ、俺らには関係ない。鉄は扱ってないからな」
ナラムは、そう言いながら、ふと、一軒の鍛冶屋の前で足を止めた。
ほかの鍛冶屋と比べても、ひときわ小さな店だった。軒先の錆の山もひときわ大きい。そして、炉に火が入っていなかった。
店の奥で、女が一人、錆びた鍋をぼんやりと眺めていた。
年は、ナラムと同じくらいだろうか。日に焼けた腕に火傷の痕がいくつもある。黒い髪を、手拭いで乱暴にまとめている。
「休業かい?」
ナラムが声をかけると女は顔を上げた。
「なんだい。客かい」
「いや、通りがかっただけで。炉に火が入ってないから、珍しいと思って」
「炭がないんだよ」
女はぶっきらぼうに言った。
「炭が高くてね。湖が塩に埋まってから、葦も木も育たない。炭焼きは、みんな北に逃げちまった。この町の炭は、全部、北から運んでくるしかない。で、北からの炭は、全部、ハッル商会が押さえてる。ハッル商会は、炭の値を、この半年で倍にした」
「ハッル商会? 小麦の?」
「小麦も炭も、北から来るものは、みんなハッル商会さ。知らないのかい」
ナラムは眉をひそめた。
ハッル商会は、北の高地の国、ザグロの商人たちの寄り合いだ。北の小麦を一手に握って、南の町々に卸している。ナラムも、小麦はいつも、ハッル商会の出店から仕入れていた。
それが、炭まで押さえて、値を倍にしている。
「小麦の値も、上がってるな」
「上がってるのは、小麦と炭だけじゃないよ。北から来るものは、みんな上がってる。北で、何かあったんじゃないかって、もっぱらの噂さ」
「何か?」
「さあね。あたしみたいな鍛冶屋の女に、北の高地の話なんか、分かるもんか」
女は肩をすくめた。それから、ナラムの後ろに立っているティアに、ようやく気づいたようだった。
「あんたの連れかい」
「ああ。妹だ」
「へえ。きれいな子だね」
「そうですか」
ティアは、女の店先の錆の山をじっと見ていた。
ナラムは嫌な予感がした。
「ティア」
「これ、しょっぱい」
「ああ、錆びてるからな。塩がこびりついてる」
「たべて、いい?」
「だめだ」
「ちょっとだけ」
「だめだって」
女が怪訝な顔をした。
「何の話だい」
「いえいえ、何でもないです。この子、ちょっと変わってて」
ナラムは、慌ててティアの袖を引いた。
けれど、ティアは動かなかった。錆の山を見つめたまま、ぽつりと言った。
「このひと、こまってる」
「は?」
「このひと、なかが、すこし、しょっぱい。かなしい、しょっぱさ」
ナラムは言葉に詰まった。
女は、きょとんとした顔でティアを見ていた。
「かなしい、しょっぱさ?」
「なんでもないです。本当に、何でもないです」
ナラムは、ティアの肩を掴んで、ぐいと引き寄せた。それから、女に頭を下げた。
「失礼しました。あの、もしよければ、一つ聞いてもいいですか。この町で、宿はどこがいいですかね」
「宿?宿なら、港の脇の『葦の舟』がいいよ。湖が塩になってから、客はほとんどいないけど、おかみさんは気のいい人だ。あたしの名前を出せば、少しはまけてくれる」
「お名前は」
「ベレト。鍛冶屋のベレトだ」
「ありがとうございます、ベレトさん」
ナラムは、もう一度頭を下げて、ティアの手を引いて、店を離れた。
しばらく歩いてから、ナラムは、ティアを振り返った。
「お前な」
「なに?」
「人の中身がしょっぱいとか、悲しいとか、そういうことを、本人の前で言うな」
「どうして?」
「気味悪がられるだろ」
「でも、ほんとうだよ」
「本当でもだ」
ティアは少しだけうつむいた。
「ナラムは、きみわるい?」
「は?」
「わたし、きみわるい?」
ナラムは言葉に詰まった。
塩の柱から裸で出てきて、塩をぼりぼり食べて、井戸の塩を吸い取って、人の中身の味が分かる女。
気味が悪くないと言えば、嘘になる。
けれど――
「お前はな、気味悪いんじゃなくて、変なんだ」
「へん」
「変だ。すごく変だ。でも、気味悪くはない」
「ちがうの?」
「違う」
ナラムは、ティアの頭にぽんと手を置いた。
「変なのは、別に悪いことじゃねえ。俺だって、変な男だって、ルハに言われた」
「あのひと」
ティアの眉がぴくりと動いた。
「あのひとの、はなし、いま、しないで」
「は? なんで」
「なんでも」
ティアは、ナラムの手の下から、するりと抜け出して、すたすたと先に歩き出した。
ナラムは首を傾げた。
女というのは本当によく分からない。人間の女でも分からないのに、塩の女となるとなおさらだ。
*
「部屋は一つしか空いてないよ」
宿『葦の舟』のおかみは、気のいい太った女だった。ベレトの名前を出すと宿代を一割まけてくれた。それはいい。それはありがたい。
問題はその後だった。
「一つ?」
「一つ。悪いね。普段はがらがらなんだけど、今は、北から炭を運んできた人足たちが泊まってて、満室なのさ。空いてるのは、二階の奥の、いちばん狭い部屋だけ」
「狭い部屋……寝台は」
「一つ」
ナラムは絶句した。
ティアは、隣できょとんとしていた。
「ひとつ、だめ?」
「だめに決まってんだろ」
「どうして?」
「どうしてって……」
ナラムはおかみの顔を見た。おかみはにやにやと笑っていた。
「兄妹なんだろ? 一緒の寝台でいいじゃないか。子供のころは、一緒に寝てたんだろ?」
「いや、それは」
「それとも、兄妹じゃないのかい」
ナラムは口を閉じた。
兄妹じゃない、と言えば、では何なのか、と問われる。何なのか、と問われても、ナラムには答えようがない。塩の柱から出てきた女です、とは、言えない。
「兄妹です」
「なら、問題ないね。はい、鍵」
おかみは、にやにや笑いながら、錆びた鉄の鍵をナラムの手のひらに乗せた。
*
部屋は本当に狭かった。
寝台が一つと小さな卓が一つ。窓は一つ。寝台と壁のあいだには、人ひとりが横になれるほどの隙間もない。床に寝ようにも、卓と寝台と荷物で足の踏み場がなかった。
「詰んだ」
ナラムは、寝台の端に腰を下ろして、頭を抱えた。
ティアは、窓辺に張りついて、外を眺めていた。窓からは湖が見えた。夕陽を受けて、白い塩の殻が、一面、燃えるような橙色に染まっていた。
「ナラム。みて。きれい」
「ああ、きれいだな」
「たべたい」
「だめだ」
ティアは、名残惜しそうに窓から離れた。それから、寝台の上にぽすんと座った。ナラムのすぐ隣だった。
寝台がぎしりと鳴った。
「ひとつ、でも、いいよ?」
「よくねえ」
「どうして?」
「お前は、女だろ」
「おんな」
「俺は、男だ」
「おとこ」
「男と女が、一つの寝台で寝るのは、その……よくないんだ」
「どうして?」
ナラムは言葉に詰まった。
どうして、と言われても。どう説明すればいい。
「世間体が悪い」
「せけんてい?」
「人の目だ。人がどう思うか、ってことだ」
「でも、ここ、ひと、いないよ?」
ティアは部屋の中を見回した。たしかに二人しかいない。ドゥムは宿の裏の厩にいる。
「そういう問題じゃねえ」
「じゃあ、どういうもんだい?」
「もんだい、な。いいか、ティア。男と女が一緒に寝ると、その、なんだ、いろいろ、あるんだよ」
「いろいろ」
「いろいろだ」
「いろいろって、なに?」
ナラムは天井を仰いだ。
神様。いるなら、助けてくれ。いや、いい。神様は、こいつの前では呼ばない方がいい気がする。
「とにかく、俺は床で寝る」
「ゆか、ないよ?」
「卓をどければ、なんとかなる」
ナラムは立ち上がって、卓を窓際に押しやった。荷物を寝台の下に押し込んだ。それで、寝台と扉のあいだに、ようやく、体を丸めれば横になれるくらいの隙間ができた。
「ほら、ここで寝る」
ティアは、その隙間をじっと見下ろした。
「せまい」
「十分だ」
「さむいよ?」
「毛布がある」
「いっこ、しか、ないよ?」
ナラムは寝台の上を見た。
毛布は一枚だけだった。
「ナラム」
「外套がある」
「がいとう、うすいよ」
「十分だ」
ティアは、むう、と唸った。それから、何か思いついたようにぱっと顔を明るくした。
「じゃあ、わたしが、ゆかで、ねる」
「は?」
「わたし、さむくない。しお、だから。ナラムは、にんげん、だから、さむい。だから、ナラムが、しんだい」
ナラムは、まじまじとティアを見た。
ティアは真剣な顔をしていた。冗談でも何でもなく、本気でそう思っているらしかった。
「だめだ」
「どうして?」
「女を床に寝かせて、男が寝台で寝られるか」
「おんなと、おとこ、また、それ」
「またそれだ」
「おんなと、おとこって、めんどくさい」
「俺もそう思う」
ナラムは、ため息をついて、床の隙間に腰を下ろした。
結局、話はつかなかった。ナラムは床で、外套にくるまって横になった。ティアは寝台の上で、毛布にくるまって、ナラムの方を向いて横になった。
狭い部屋だ。寝台の端から、ティアの顔が、すぐそこに見えた。
「ナラム」
「寝ろ」
「ナラム、さむくない?」
「寒くない」
「うそ」
「嘘じゃない」
「ナラムの、うそ、わからない」
「は?」
「ほかのひとは、ちょっと、わかる。でも、ナラムは、しょっぱくないから、わからない。さむくないって、ほんとか、うそか、わからない」
ナラムは黙った。
それは助かる。商人は嘘をつくのが仕事だ。
「寝ろって」
「わからないから」
ティアは、毛布の端を、そっと寝台の縁から垂らした。毛布の端が、床に寝ているナラムの肩にふわりとかかった。
「うそ、だったら、こまるから、はんぶんこ」
ナラムは、寝返りも打たずに、じっとしていた。
「いらないなら、かえして」
ナラムは毛布を返さなかった。
ナラムは何か言い返そうとした。けれど、肩にかかった毛布が、思ったより温かくて、言葉が出てこなかった。
毛布からは、かすかに潮の匂いがした。海なんて、ナラムは一度も見たことがないのに、なぜか、それが潮の匂いだと分かった。
「おやすみ、ナラム」
「ああ。おやすみ」
窓の外で、塩の湖が、月明かりに白く光っていた。
ナラムはなかなか眠れなかった。
*
翌朝、ナラムが目を覚ますと寝台の上は空っぽだった。
毛布は、ナラムの体にすっぽりとかけられていた。
「ティア?」
部屋の中には誰もいない。窓が少しだけ開いていた。
ナラムは跳ね起きた。
まさか、湖に行ったのか。湖を丸ごと食べに行ったのか。いや、あいつなら、やりかねない。
階段を駆け下りると、宿のおかみが、帳場で、のんびりと豆の殻を剥いていた。
「あら、おはよう。妹さんなら、さっき出ていったよ」
「どこに!」
「さあ。鍛冶屋の方に行くって言ってたけど」
「鍛冶屋?」
ナラムは宿を飛び出した。
*
ベレトの鍛冶屋の前に人だかりができていた。
ナラムは、人をかき分けて、前に出た。
店先の錆の山がなかった。
いや、正確に言えば、錆の山はあった。けれど、赤茶けた錆の塊ではなかった。鍋も、鋤も、鎌も、斧も、釘も、蹄鉄も、表面の錆がきれいに剥がれ落ちて、黒い地金がむき出しになっていた。剥がれた錆は、赤い粉になって、店先の地面にうっすらと積もっていた。
そして、その赤い粉の真ん中に、ティアが、しゃがみこんでいた。
ティアの前に、ベレトが、呆然と立っていた。
「ティア」
ナラムの声にティアが振り返った。顔がつやつやしていた。
「ナラム。おはよう」
「おはようじゃねえ。何やってんだ」
「さび、の、しょっぱいの、たべた」
ナラムは、床に転がった鍋を見た。錆一つなかった。
「さびって、しょっぱいの、なかに、はいってるの。しょっぱいのが、てつを、たべてるの。だから、しょっぱいの、たべたら、さびが、とれた」
ナラムは頭を抱えた。
人だかりがざわざわと騒いでいた。
「おい、見たか。あの娘、錆に触っただけで……」
「錆が、ぼろぼろ剥がれて……」
「北の巫女様じゃないのか」
「ラルサの方で、巫女様の護符で井戸の塩気が抜けたって噂を聞いたぞ」
「じゃあ、あの娘が……」
まずい。
ナラムは、とっさに声を張り上げた。
「いやあ、皆さん、驚かせてすみません! これはですね、北の山に伝わる、錆落としの秘薬でして!」
人だかりが一斉にナラムを見た。
「秘薬?」
「ええ。北の巫女様が調合した、特別な粉です。錆にふりかけると、こう、ぼろぼろと錆が剥がれる。この子は、その粉の使い方を、巫女様から直々に習ってましてね」
ナラムは、ティアの足元の赤い粉を指さした。
「ほら、この赤い粉。これが、秘薬の残りです」
錆の粉だ。どう見ても、ただの錆の粉だ。
けれど、人だかりは、おお、とどよめいた。
「その秘薬、売ってくれるのか!」
「いくらだ!」
「うちの鍋も、頼む!」
「いえいえ、それが、秘薬はもう、これで使い切ってしまいまして。北に戻らないと、手に入らないんですよ。申し訳ない」
人だかりから、がっかりしたような声が上がった。
ナラムは、内心で冷や汗をかきながら、にこやかに笑い続けた。笑いながら、ティアの襟首を掴んで、立たせた。
「さ、行くぞ」
「えー」
「えーじゃない」
そのとき、ベレトがナラムの腕を掴んだ。
「待って」
ナラムはぎくりとした。
ベレトは、ナラムの腕を掴んだまま、ティアを見ていた。それから、ナラムを見た。
「秘薬なんて、嘘だろ」
小さな声だった。人だかりには聞こえないくらいの。
「あたしは鍛冶屋だ。錆のことなら、誰よりも分かってる。あんな粉で、錆がこんなふうに剥がれるもんか。その子が、触っただけで、剥がれたんだ。あたしは見てた」
ナラムは何も言えなかった。
ベレトは、ナラムの腕をぎゅっと握った。
「ありがとう」
「は?」
「炭がなくて、炉に火が入らなくて、錆びた鉄が溜まる一方で、客の鍋も鋤も、返せなくて、もう、店を畳むしかないと思ってた。錆さえ落ちてれば、叩き直さなくても、返せる。研ぐだけで、返せる。研ぐのに、炭はいらない」
ベレトの目に涙が浮かんでいた。
「その子が何なのかは、聞かない。誰にも言わない。ありがとう」
ナラムは、ベレトの手をそっと腕から外した。
「礼なら、こいつに言ってください。俺は何もしてない」
ベレトはティアの方を向いた。
「ありがとう。ティア、だっけ」
「うん。ティア」
「ありがとう、ティア」
ティアは少しだけ首を傾げた。それから、にっこり笑った。
「どういたしまして」
ベレトは、泣きながら、笑った。
*
宿に戻る道すがら、ティアは、ずっと上機嫌だった。
「ベレト、わらった」
「ああ、笑ったな」
「なかの、かなしいしょっぱさ、すこし、へった」
「そうか」
「よかった」
ナラムは何も言わなかった。言いたいことは山ほどあった。勝手に出歩くな。人前で力を使うな。目立つな。けれど、上機嫌なティアの顔を見ていると、どれも口から出てこなかった。
「ナラム」
「ん」
「すき、って、なに?」
ナラムは足を止めた。
「なんだ、いきなり」
「ベレト、いってた。『あたし、あんたたちのこと、すきだよ』って。ナラムが、くるまえに」
「そうか」
「すき、って、なに?」
ナラムは困った。
好き。好きとは何か。そんなこと考えたこともない。
「好きってのは、その、なんだ。一緒にいたい、とか、そういうことだ」
「いっしょに、いたい」
「あとは、そいつが嬉しいと、自分も嬉しい、とか」
「うれしいと、うれしい」
ティアは少し考えた。
それから、ナラムの顔を見上げた。
「じゃあ、わたし、ナラム、すき」
ナラムは、石畳の段差につまずいて、転びかけた。
「は?」
「ナラムと、いっしょに、いたい。ナラムが、うれしいと、わたし、うれしい。だから、すき」
「いや、それは、その」
「ちがう?」
「ちがう、というか、その、好きにも、いろいろ種類があってだな」
「しゅるい」
「ああ。友達としての好きとか、家族としての好きとか、その、男と女の――」
「また、おとこと、おんな」
ティアは、首をかしげて、しばらく考えていた。
「めんどくさい」
ティアは、むう、と唸った。
ナラムは顔が熱かった。耳まで熱かった。湖の照り返しのせいだ。今日はやけに陽差しが強い。
「ナラムは?」
「は?」
「ナラムは、わたし、すき?」
ナラムは、口を開けて、閉じた。
また開けて、また閉じた。
「商売の相棒としては、悪くないと思ってる」
「しょうばいの、あいぼう」
「そうだ」
「すき、じゃないの?」
答えは、なかった。
ティアは、ナラムの顔をじっと見上げていた。
それから、少しだけ眉を下げた。
「わからない」
「何がだ」
「ナラムの、なか。しょっぱくないから、ちっとも、わからない」
ティアの声は、少しだけ寂しそうだった。
ナラムは、何も言わずに、早足で歩き出した。
分からなくて、助かった。
助かったはずなのに、なぜか、胸の奥が、少しだけちくりとした。
*
ギルスを発つ前の晩、ナラムは、ベレトの鍛冶屋を訪ねた。
ティアは宿で寝ていた。錆を食べすぎて、さすがに疲れたらしい。夕飯――と言っても、ティアにとっては塩漬けの魚の塩だけだが――を済ませると、すぐに寝台に転がって、寝息を立て始めた。
鍛冶屋の炉には火が入っていなかった。けれど、店の中には灯りがともっていた。
ベレトが砥石で鎌を研いでいた。
「あんたか」
ベレトは手を止めずに言った。
「妹ちゃんは?」
「寝てる」
「そうかい」
しゃっ、しゃっ、と、砥石の音が、静かな店の中に響いた。
「何の用だい」
「仕事の、前払いに来た」
ベレトの手が止まった。
「は?」
「俺の荷車の車輪には、鉄の輪がはめてある。塩の街道を何百里も走ってるから、しょっちゅう錆びて、割れる。その修理代を、前払いしておきたい」
「修理代」
「ああ。次に俺がこの町に来たとき、ただで叩き直してもらう。その次も、その次もだ」
ベレトは、砥石を置いて、ナラムを振り返った。
「いくら、前払いする気だい」
ナラムは、懐から、小さな袋を取り出した。銀が十粒入っている。ラルサで小麦を売った儲けの四分の一近い。
ベレトは、袋を見て、それから、ナラムの顔を見た。
「車輪の鉄の輪なんて、叩き直すのに、炭ひと籠もいらないよ。銀十粒あれば、百年分は叩き直せる」
「俺は、しつこいからな。百年でも通う」
「嘘だろ」
「何がだ」
「あんた、修理代なんか、どうでもいいんだろ」
ナラムは黙った。
ベレトは、立ち上がって、ナラムの前まで歩いてきた。
「あんたは、あたしに金を渡したいんだ。炭を買う金を」
ナラムは頭を掻いた。
「バレてたか」
「バレバレだよ」
ベレトは腕を組んだ。
「施しなら、いらないよ。あたしは鍛冶屋だ。物乞いじゃない」
「施しじゃねえよ」
「じゃあ、なんだい」
「投資だ」
「とうし?」
「金を出して、あとで、もっと大きく返してもらう。それが投資だ」
ナラムは、袋をベレトの方へ差し出した。
「これで、炭を買え。炉に火を入れろ。この町の鉄を、叩き直せ。で、俺の車輪は、俺が死ぬまで、ただで叩き直す。それで、釣り合う」
ベレトは、袋に手を伸ばさなかった。
「それと、もう一つ。この町で、俺の妹の噂が立ったら、あんたが打ち消してくれ。秘薬の話で通してくれ。それも、この銀の中に入ってる」
ベレトは長いこと黙っていた。
それから、袋を、ナラムの手から、ひったくるように取った。
「変な男だね、あんた」
「商人ってのは、だいたい変なんだよ」
「あんたの妹ちゃんも変だし」
「それは、否定しない」
「でも」
ベレトは袋を胸に抱いた。
「あんたたちが、来てくれて、よかった」
ナラムは、照れくさくなって、そっぽを向いた。
「行商人ってのは、町が生きててくれないと、商売にならないんだよ。それだけだ」
「はいはい」
ベレトは笑った。
店の奥の炉はまだ冷たかった。けれど、明日には火が入るだろう。ナラムには、なぜか、それが分かった。
*
宿に戻る前に、ナラムは、港に寄った。
ギルスの港は、舟こそ動いていないが、南の海から上ってくる隊商が、まだ、細々と通っている。その隊商の一つが、港の倉で干し魚を売っていた。南の海の魚を、塩をまぶして干し上げたものだ。
ナラムは、残りの銀で、干し魚を荷車いっぱいに仕入れた。
次の次の町、イシンでは、もうすぐ新年祭が始まる。祭りの町では、酒の肴が、いくらあっても足りない。
宿に戻ると、ティアが、寝台の上で目を覚ましていた。
「ナラム。どこ、いってた?」
「鍛冶屋と、港だ。干し魚を仕入れてきた」
「ほしざかな?」
ティアの鼻が、すん、と動いた。
「しょっぱい、におい」
「ああ。塩をまぶして干した魚だ。いいか、ティア。あれは商品だ。絶対に、食うなよ。塩を吸うのも、だめだ。塩を抜いたら、ただの腐った魚になる」
「ちょっとだけ」
「だめだ」
「ほんの、ちょっと」
「だめだ。その代わり、ベレトの店の裏に、錆の山が、まだ残ってる。明日の朝、出る前に、食っていいって、ベレトが言ってた」
ティアはぱっと顔を輝かせた。それから、少し首を傾げた。
「ナラム、なんだか、うれしそう」
「そうか?」
「うん。かお、が、うれしそう。なかは、わからないけど」
ナラムは、何も言わずに、床の隙間に横になった。
しばらくして、寝台の縁から、毛布の端が、ふわりと垂れてきた。
ナラムは、今度は、黙ってそれを肩にかけた。