しょっぱい女神と真水の行商人 作:西都東都
ギルスを出た最初の夜、二人は、湖の南の岸辺で野営をした。
岸辺といっても、水はない。白い塩の殻が、地平線まで続いているだけだ。けれど、ところどころに、枯れた葦の茎が、白く固まったまま、林のように突き立っていた。昔、この辺りが一面の葦原だったころの名残だ。
ナラムは、枯れ葦を折って、焚き火にくべた。塩を吸った葦は、ぱちぱちと、青白い火花を散らして燃えた。
「きれい」
ティアが、火花を見上げて、言った。
「塩が燃えると、ああいう色になるんだ」
「しお、もえるの?」
「葦の中に染み込んだ塩が、火に炙られて、光るんだ。親方が、そう言ってた」
「おやかた」
「ああ。俺の、育ての親だ」
ナラムは、葦の茎を、もう一本、火にくべた。また青白い火花が散った。
「ナラムの、おやかた、どんな、ひと?」
ナラムは少し黙った。
それから、焚き火を見つめたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「ギルガっていう、行商人だった。ウルカの河口の町を拠点にして、この辺りの町を、ロバ一頭と荷車一台で回ってた。口が悪くて、けちで、酒癖が悪くて、算盤だけは、やたらと速かった」
「ナラムと、おなじ」
「酒癖は悪くねえよ、俺は」
「くちが、わるい」
ティアは、指を一本ずつ折って数えた。
「けちで、そろばんが、はやい」
「まあ、そうかもな」
ナラムは苦笑した。
「親方は、二十六年前の春に、ウルカの河口の葦原で、赤ん坊を拾った。それが、俺だ」
ティアがナラムの方を向いた。
「ひろった?」
「ああ。葦原の、ちょうど河の水と海の水が混ざる辺りでな。葦の茂みの中に、裸の赤ん坊が、一人で転がって、泣いてたんだと。籠に入ってたわけでも、布にくるまれてたわけでもない。ただ、泥の上に、ぽつんと、転がってた」
焚き火の中で、葦の茎がはぜた。
「親方は、最初、拾うつもりはなかったらしい。商売の邪魔だからな。でも、拾っちまった。理由を聞いたら、『お前が、泣きながら、しょっぱくない顔をしてたから』だってよ。意味が分からねえだろ」
ティアは何も言わなかった。
ただ、じっとナラムの顔を見ていた。
「親方は、俺を、ロバの背中に乗せて、町から町へ、連れて回った。乳をもらいに、行く先々の町で、乳の出る女を探して、頭を下げて回ったんだと。けちな親方が、そのときだけは、銀を惜しまなかったって、後で、親方の知り合いの婆さんから聞いた」
「やさしい、ひと」
「どうだかな。俺が五つのときには、もう、荷車を押させられてた。七つのときには、市場で、大麦を量らされてた。十のときには、値切りの仕方を、叩き込まれた。口が悪くて、すぐ手が出て、怒鳴ってばっかりだった」
ナラムは、膝の上で手を組んだ。
「でも、まあ」
ナラムは、焚き火に葦の茎をくべた。
「熱を出したときは、一晩中、肩を叩いてくれてたな」
青白い火花が夜空に舞い上がった。
「五年前に、死んだ。冬の、寒い夜だった。最後に、俺の手を握って、『麦の値は、三日先を見ろ』って言った。それが、最後の言葉だった」
「むぎの、ね」
「ああ。三日先の麦の値なんて、いまだに、さっぱり分からねえ」
ナラムは笑った。
ティアは笑わなかった。
しばらく、焚き火のはぜる音だけが、響いていた。
「ナラム」
「ん」
「ナラムの、おかあさんと、おとうさんは?」
「知らねえ」
「しらない?」
「知らねえよ。葦原に、捨てられてたんだ。誰が捨てたのかも、なんで捨てたのかも、分からねえ。親方は、最後まで、探さなかった。探す必要もねえ、お前は俺の息子だ、って言ってた」
「さびしく、ない?」
ナラムは少し考えた。
「寂しいと思ったことは、ねえな。親方がいたし、ドゥムもいたし」
ドゥムが、荷車の陰で、ふん、と鼻を鳴らした。
「ドゥムは、親方が死ぬ七年前から、うちにいる。親方が、市場で、売れ残りのロバを、値切りに値切って買ってきたんだ。こいつ、親方には、一回も逆らわなかったんだぜ。俺には、毎日逆らうくせに」
「ドゥム、ナラムが、すき、なんだよ」
「どこがだ」
「さからうのは、すき、だから」
「そういうもんか?」
「そういう、もん」
ティアは自信たっぷりに頷いた。
ナラムは首を傾げた。
*
焚き火が、少し小さくなったころ、ティアが、ぽつりと言った。
「ナラム。かわの、みずと、うみの、みずが、まざる、ところ」
「ん?」
「ナラムが、ひろわれた、ところ」
「ああ、河口の葦原な」
「そこ、どんな、ところ?」
ナラムは思い出そうとした。
「変な場所だよ。河の水は、しょっぱくない。海の水は、しょっぱい。で、河口は、その真ん中だ。満ち潮のときは、海の水が、河を遡ってくる。引き潮のときは、河の水が、海に押し出していく。一日のうちに、何度も、しょっぱくなったり、しょっぱくなくなったりする」
「なんども」
「ああ。で、その境目に、葦が、びっしり茂ってる。魚も、貝も、鳥も、やたらと多い。河の水の生き物と、海の水の生き物が、両方いるからな。今は、塩降りで、だいぶ枯れちまったけど、それでも、ほかの場所よりは、まだ、緑が残ってる」
「みどり」
「ああ。河の水が流れ込んでるからな。完全には、塩にやられない」
ティアは、膝を抱えて、焚き火を見つめていた。
その目がゆらゆらと揺れていた。
「いきたい」
「は?」
「そこ、いきたい。ナラムが、ひろわれた、ところ」
「河口の葦原にか?」
「うん」
「なんで」
「わからない」
ティアは首を振った。
「わからない、けど、そこ、しってる、きがする」
ナラムはティアを見た。
「知ってる? 行ったことがあるのか」
「ない。たぶん、ない。でも」
ティアは目を閉じた。
「しおと、みずが、まざる。なんども、なんども、まざる。そういうの、しってる、きがする」
ナラムは何も言えなかった。
ギルスの湖を見たとき、ティアは、「まざる、ところ」と呟いた。ラルサの井戸で塩を吸い取ったとき、ティアは、「水と塩が離れるとき、さみしい感じがする」と言った。エシュヌからラルサへの道すがら、井戸の水を清めたとき、ティアは、「くっついてると、へんな感じ。好きじゃないような、好きなような」と言った。
――塩と、水が、混ざる。
「ウルカは、遠いぞ」
ナラムは、しばらくして、言った。
「ここから、南に、ひと月はかかる。商売しながらなら、ふた月か、三月か」
「いつか、なら?」
「いつか、ならな」
「いつか」
ティアは目を開けた。
「わたし、いつか、が、すき」
「前にも聞いたぞ、それ」
ティアは、答えずに、にっこり笑った。
ナラムは、焚き火に最後の葦の茎をくべた。
青白い火花が夜空に舞い上がった。
火花の向こうで、星が、瞬いていた。
*
その夜、ナラムは夢を見た。
水の中に浮かんでいる夢だった。
どこまでも、どこまでも、水だった。上も下も右も左も水だった。塩の味も何の味もしない。ただ水だった。
その水の中に、ナラムは、溶けていた。
自分の手が、どこにあるのか分からなかった。足が、どこにあるのか分からなかった。ただ、ゆらゆらと、どこまでも広がる水の一部だった。
遠くから、何かが近づいてきた。
しょっぱいものだった。
しょっぱくて、温かくて、大きなもの。それがナラムにそっと触れた。
触れたところから、混ざり合った。
塩でも、水でもない、何か。
ひどく、懐かしい感触だった。
――ずっと、こうしていたい。
誰かがそう言った。
ナラムだったのか、しょっぱい何かだったのか、分からなかった。
それから、急に眠くなった。
水の底から、誰かの声が、聞こえた。歌うような、囁くような、甘い声。
――おやすみ。ゆっくり、おやすみ。
ナラムは眠りに落ちて――
――目を覚ました。
焚き火は熾火になっていた。東の空が白み始めていた。
ナラムの胸の上に、ティアの頭が、乗っていた。
いつの間にか、荷台から降りてきて、ナラムの毛布の中に潜り込んでいたらしい。すうすうと寝息を立てていた。
「おい」
ナラムは小声で言った。
ティアは起きなかった。
「おい、ティア」
「ん……ナラム、あったかい……」
ティアは、寝言を言って、ナラムの胸に頬をすり寄せた。
ナラムは空を仰いだ。
白み始めた空に、明けの明星が、一つだけ、光っていた。
「勘弁してくれ」
ナラムは小さく呟いた。
けれど、ティアをどかさなかった。
どかさないまま、もう少しだけ目を閉じた。
あの夢の懐かしい感触が、まだ、胸のどこかに残っていた。
*
ギルスからウンマまでは、四日の道のりだった。
荷車には、干し魚が、山のように積まれていた。ギルスの港で仕入れた、南の海の魚だ。ドゥムは、出発の朝、荷車を見るなり、その場に座り込んで動かなくなった。棗を七つ約束して、ようやく立ち上がった。この旅が終わるころには、ドゥムに棗の借りが、いくつ溜まっているか分からない。
ティアは、干し魚の匂いに、毎晩、身悶えしていた。
その代わりに、ナラムは、荷車の車輪の鉄の輪と、ドゥムの蹄鉄の錆をティアに食べさせた。焚き火の脇で、ティアが、車輪の輪を指先でなぞると、赤茶けた錆が、ぽろぽろと剥がれ落ちる。剥がれた錆の粉からは、もう塩の味はしない。塩はティアの中に吸い込まれて、あとには、鉄の赤い粉だけが残る。
「なあ、ティア」
「ん」
「錆の塩と、塩降りの塩と、味は違うのか」
ティアは、鋤の刃をなぞりながら、少し考えた。
「ちがう」
「どう違う」
「さびの塩は、かたい。てつと、ずっと、けんかしてた、塩。だから、ちょっと、にがい」
「喧嘩してた塩、ね」
「塩降りの塩は、やわらかい。でも、あつい」
「熱い?」
「おこってる、あつさ」
ナラムは、焚き火に枝をくべる手を止めた。
「怒ってる? 塩が?」
「うん。ラルサの、いどの塩は、つめたかった。さみしい、つめたさ。ギルスの、みずうみの塩は、ふかかった。わからない。うまく、いえない」
「いや、いい。なんとなく分かる」
分からなかった。けれど、ティアが一生懸命言葉を探しているのは、分かった。
「塩降りの塩が、いちばん、おいしい」
「怒ってるのにか」
「おこってるから、かも」
ティアは、錆の落ちた蹄鉄を膝の上に置いた。黒い地金が、焚き火の光を受けて、鈍く光っていた。
「おこってるの、たべると、すこし、おちつく。わたしが、おちつくのか、塩が、おちつくのか、わからないけど」
ナラムは、何と答えていいか分からなかった。
だから、革袋の水をティアの椀に注いでやった。
ティアは黙ってそれを飲んだ。
*
ウンマは畑の村だった。
だった、と過去形で言うしかない。
村に入る手前から、街道の両側には、見渡す限り、白い平原が広がっていた。よく見ると、平原には、うっすらと畝の跡が残っている。畑の区画を分ける、低い土手の跡もある。灌漑用の水路の跡も、白い線になって、平原を縦横に走っている。
かつては一面の麦畑だったのだ。
今は白い。どこまでも白い。土の色はひとかけらも見えない。
「ここ、しょっぱいの、すごく、ふかい」
ティアが、荷車の上から、身を乗り出すようにして、畑を見渡した。
「ふかい?」
「つちの、ずっと、なかまで、しょっぱい。ギルスの、みずうみより、ふかいかも」
「そりゃそうだろうな。畑に水を撒くだろ。その水が、もともと少ししょっぱいんだ。撒くたびに、塩が土に残る。何十年も何百年も撒き続けて、そこに十二年分の塩降りだ。土の芯まで、塩漬けだ」
「しおづけ」
「ああ。干し肉と同じだ」
ティアは、干し肉、と小さく繰り返した。それから、なぜか、少しだけ悲しそうな顔をした。
村は小さかった。
家は二十軒ほど。そのうち半分は空き家だった。戸口が開けっぱなしになって、中に塩が吹き込んで、床が白く埋まっている。人の気配はほとんどない。
「誰も、いないの?」
「いや。いるはずだ。煙が上がってる」
ナラムは村の奥を指さした。一軒の家の屋根から、細い煙が、ゆらゆらと立ち上っていた。
その家の前で、老人が一人、鍬を振るっていた。
白い地面に鍬を打ち込んでいる。打ち込むたびに、がつん、と硬い音がして、塩の殻が少しだけ割れる。割れた殻を、老人は、手で拾って、脇の籠に入れる。それから、また鍬を振り上げる。
「なにしてるの?」
「畑を、耕してる」
「たがやす?」
「土を掘り返して、柔らかくして、麦が育つようにすることだ」
「でも、あそこ、しょっぱいよ。すごく、ふかく」
「ああ」
「むぎ、そだたないよ」
「ああ。育たないな」
老人は、二人に気づかないのか、気づいていて無視しているのか、ひたすら鍬を振るい続けていた。
がつん。がつん。がつん。
ナラムは、荷車を止めて、老人に声をかけた。
「こんにちは。行商の者です。大麦と干し物を持ってきましたが、ご入り用はないですか」
老人は手を止めた。ゆっくりと振り返った。
七十は過ぎているだろうか。顔は日に焼けて、深い皺が刻まれている。腕は細いが、鍬を握る手は、節くれだって、岩のように硬そうだった。
「行商人か。珍しいな。この村に来る行商人は、もう、何年もおらん」
「通りがかりでして」
「大麦か」
老人は荷車の大麦の袋を見た。それから、首を振った。
「買う金はない。この村には、もう、何もない」
「村の人は」
「出ていった。若い者はみんな、ラルサやギルスに出稼ぎに行った。年寄りは、死んだ。残っておるのは、わしと、婆さんと、あと三軒ばかりの、出ていく元気もない年寄りだけじゃ」
老人は淡々と言った。悲しんでいるようにも、怒っているようにも見えなかった。ただ、事実を述べている、という顔だった。
「そうですか」
「わしは、ニンギル。この村で、七十年、麦を作ってきた」
「ナラムです。こっちは、妹のティア」
ニンギル老人はティアを見た。ティアは、老人の足元の白い地面を見ていた。
「変わった色の髪じゃな」
「北の生まれでして」
「そうか」
老人は、それ以上は聞かなかった。代わりにまた鍬を振り上げた。
がつん。
「あの」
ナラムは思わず声をかけていた。
「なんで、耕してるんですか」
老人の手が止まった。
「なんで、とは」
「その、言いにくいんですが……この畑じゃ、もう、麦は」
「育たん」
老人はあっさりと言った。
「わかっとる。この畑は、もう、死んどる。わしが生きとるうちに、麦が育つことは、二度とない」
「じゃあ、どうして」
「どうしてかの」
老人は、鍬を地面に突き立てて、柄に両手を重ねた。それから、遠くの白い地平線を見た。
「七十年、毎朝、畑に出て、鍬を振ってきた。それしか、知らん。やめたら、わしは、何をすればいいか分からん。それに」
「それに?」
「いつか、塩が止むかもしれん。わしが死んだ後でも、いつか。そのとき、誰かがこの畑に麦を蒔こうとしたら、土が硬いと困るじゃろう。だから、耕しておく。少しでも、柔らかくしておく」
ナラムは何も言えなかった。
老人はまた鍬を振り上げた。
がつん。
割れた塩の殻を、手で拾って、籠に入れる。
がつん。
ティアが、ナラムの袖をぎゅっと握った。
「ナラム」
「ああ。分かってる」
ナラムは小さく頷いた。
「ただし、今じゃない。夜だ。それと、ほどほどにな」
*
その夜、ナラムとティアは、ニンギル老人の家の空いた納屋に泊めてもらった。
宿代は、大麦二升。老人は「金はいらん」と言ったが、ナラムは、無理やり、老人の婆さんに大麦の袋を押しつけた。婆さんは、何も言わずに、大麦で粥を炊いてくれた。塩の入っていない、味のない粥だった。ナラムは、それを、ありがたくすすった。
ティアは、粥には手をつけなかった。代わりに、婆さんが「これくらいしかない」と出してくれた、塩漬けの豆の、塩の部分だけを吸った。婆さんは、それを見て、何も言わなかった。目が、少し悪いのかもしれなかった。
夜が更けて、老人と婆さんが寝静まったころ、ナラムとティアは、納屋を抜け出した。
月が出ていた。昨日より、少しだけ太っている。
白い畑が、月明かりの下で、一面、青白く光っていた。
「どこから、たべる?」
「老人が耕してた辺りからだ。あの辺だけでいい。全部は、さすがに無理だろ」
「むり、じゃない、かも」
「無理するなって言ってんだ」
ナラムは、老人が昼間、鍬を振るっていた辺りを指さした。そこだけ、塩の殻が割られて、少しだけ地面が荒れていた。広さは二十歩四方ほど。七十年、麦を作ってきた男が、今は、たったこれだけを耕すのが精一杯なのだ。
ティアは、その真ん中にしゃがみこんだ。
両手を白い地面にぺたりと当てた。
「ふかい」
「ああ」
「すごく、ふかい。ずっと、ずっと、下まで、しょっぱい」
「無理なら、表面だけでいい」
「ううん」
ティアは首を振った。
「ひょうめんだけ、だと、また、したから、しょっぱいのが、あがってくる。ふかいところまで、たべないと、だめ」
「できるのか」
「やってみる」
ティアは目を閉じた。
白い髪がふわりと浮き上がった。
ラルサの井戸のときと同じだった。風もないのに、髪の一本一本が、水の中の藻のようにゆらゆらと宙に漂う。
けれど、ラルサのときとは、何かが違った。
髪だけではない。ティアの体全体がぼんやりと光っていた。月明かりを跳ね返しているのではない。体の内側から、青白い、河口の色の光が、にじみ出している。
地面が鳴った。
ぴし、ぴし、と、塩の殻に細かいひびが走る音。それから、さらさらと砂が流れる音。ナラムの足元で、白い地面が、ゆっくりと沈んでいく。いや、沈んでいるのではない。塩が、地面の中から抜けていくのだ。抜けた分だけ、地面が縮んでいく。
ティアの手のひらを中心に、地面の色が、変わっていった。
白から、灰色へ。灰色から、黒へ。
黒い土だ。
湿った、柔らかそうな、黒い土。
ナラムは、思わず、しゃがみこんで、その土に触れた。
冷たかった。しっとりと湿っていた。指で押すと、ふかり、と沈んだ。指先についた土を恐る恐る舐めてみた。
土の味がした。
苦くて、渋くて、少しだけ鉄の匂いがする、土の味。
しょっぱくなかった。
「すげえ」
黒い土は、ティアを中心にじわじわと広がっていった。十歩。十五歩。二十歩。老人が耕していた範囲を越えて、さらに外へ。
「ティア、もういい。十分だ」
ティアは答えなかった。
目を閉じたまま、両手を地面に当て続けていた。体の光が、少しずつ、強くなっていた。
「ティア」
黒い土が、三十歩、四十歩と広がっていく。
「おい、ティア!」
ナラムはティアの肩を掴んだ。
冷たかった。
ぞっとするほど、冷たかった。塩の柱そのものに触れたような、硬くて、冷たい感触。
ティアは目を開けなかった。
唇が動かなかった。まつげが震えなかった。肩が上下しなかった。息をしていなかった。
ナラムはティアの肌を見た。
月明かりの下で、ティアの頬が、白く、硬くなりかけていた。人の肌の白さではなかった。塩の白さだった。
――振り返り女の柱。
ナラムの頭に、出会った日の塩の柱が浮かんだ。
こいつはあの中で眠っていた。
塩を食い過ぎて、また、あの中に、戻ろうとしているのではないか。
「ティア!」
ナラムは、とっさにティアの顔を両手で挟んだ。
冷たかった。それでも、離さなかった。
「ティア! 俺だ! ナラムだ! こっちを見ろ!」
河口の色の目の奥で、渦が、ふっと揺れた。焦点が、少しずつ、ナラムの顔に合っていった。
次の瞬間、ティアの体の光が、ふっと消えた。浮き上がっていた髪が、ばさりと肩に落ちた。肩の冷たさが、すうっと引いて、いつもの人肌の温かさに戻った。
ティアは、ぱちぱちとまばたきをした。
「ナラム?」
いつもの声だった。
ナラムは、全身から力が抜けて、その場にへたりこんだ。
「お前、今」
「わたし、なにか、した?」
「覚えてないのか」
「たべてた。たくさん、たべてた。おいしかった。それから、すごく、ねむく、なった。はしらの、なかに、いたときみたいに」
ティアは首を傾げた。それから、自分の頬に触れた。
「ナラムの、て、あった」
「ああ。掴んだ」
「あったかかった」
「そうか」
「なんで、つかんだの?」
ナラムは、何と答えていいか分からなかった。
お前が、お前じゃなくなりそうだったから。そう言いかけて、やめた。言っても、きっとティアには分からない。ナラム自身にも、分からない。
「働きすぎだ。止めようと思って」
「ほんと?」
「本当だ」
「ナラムの、ほんと、わからない」
「分からなくていい」
ナラムは立ち上がった。膝がまだ少し震えていた。
足元を見た。
黒い土が、月明かりの下に広がっていた。老人の耕していた二十歩四方を、はるかに越えて、五十歩、いや六十歩四方ほどもあるだろうか。白い平原の中に、そこだけ、ぽっかりと、黒い穴が開いたように見えた。
「やりすぎだ、これ」
「だめ?」
「だめっていうか……明日の朝、じいさんが腰抜かすぞ」
「こしぬかす」
「ああ。まあ、いい。夜のうちに出よう。じいさんには悪いが、説明のしようがない」
ナラムは、納屋に戻って、荷物をまとめ始めた。
ティアは、黒い土の上に、しばらくぼんやりと立っていた。
それから、しゃがみこんで、土を両手ですくった。鼻を近づけて、匂いを嗅いだ。
「しょっぱく、ない」
小さく、呟いた。
「しょっぱくないのに、いらなくない。ナラムと、おなじ」
*
夜明け前に村を出るつもりだった。
けれど、荷車の干し魚を積み直しているうちに空が白み始めた。夜露を吸った干し魚が、荷台の底で湿っていて、一束ずつ広げて乾かし直さなければならなかったのだ。ティアは、干し魚の束を恨めしそうに見つめていた。
「ナラム」
「急げ。じいさんが起きる前に――」
「もう、おきてる」
ティアが納屋の戸口を指さした。
ナラムは振り返った。
ニンギル老人が、鍬を担いで、家の戸口に立っていた。
まずい、と思った。
老人は、ナラムたちを見ていなかった。その向こうの畑を見ていた。
黒い土を見ていた。
老人は、しばらく、身じろぎもせずに、立ち尽くしていた。それから、鍬をゆっくりと地面に置いた。よろよろと畑の方へ歩いていった。黒い土の縁で膝をついた。
両手で土をすくった。
ナラムは、息を詰めて、その背中を見ていた。
老人は、すくった土を顔に近づけた。匂いを嗅いだ。それから、指先で、ほんの少しだけつまんで、口に入れた。
老人の背中が震えた。
声は聞こえなかった。ただ、細い背中が小刻みに震えていた。
ナラムはティアの手を握った。ティアは黙って握り返した。
どれくらい、そうしていただろう。
老人が、ゆっくりと立ち上がった。土にまみれた手のまま、振り返った。ナラムたちの方を見た。
顔が濡れていた。
老人は何も言わなかった。何が起きたのか、聞かなかった。ナラムとティアの顔を、交互に見て、それから、ただ深々と頭を下げた。
ナラムも何も言わなかった。言えなかった。
ただ頭を下げ返した。
ティアも、ナラムの真似をして、ぺこりと頭を下げた。
*
「麦は、すぐには、育たん」
老人がそう言ったのは、ナラムたちが荷車の支度を終えて、出発しようとしたときだった。
婆さんも起きてきていた。婆さんは、黒い土を見て、老人よりもずっと大きな声で泣いた。泣きながら、ナラムの手を握って、何度も何度も頭を下げた。それから、残っていた大麦で、また粥を炊いて、ナラムに無理やり食べさせた。
老人は、その間、ずっと黒い土の上を歩き回っていた。踏みしめて、手でほぐして、匂いを嗅いで、また踏みしめて。
「すぐには、育たん。土は、生き返った。じゃが、土の中の、麦を育てる力までは、すぐには戻らん。何年もかかる。肥やしを入れて、休ませて、豆を植えて、また休ませて、わしが生きとるうちに、麦が実るかどうかは、分からん」
「そうですか」
「じゃが」
老人はナラムを見た。
「いつか、実る。わしが死んだ後でも。この土なら、いつか、必ず実る」
ナラムは少しだけ目を逸らした。
「出稼ぎに出た若い連中に、知らせてやってください。戻ってこいって」
「ああ。知らせる。知らせる」
老人は何度も頷いた。
それから、懐から、小さな布の包みを取り出した。
「これを、持っていけ」
「なんですか」
「麦の種じゃ」
ナラムは目を見開いた。
「麦の種? 小麦の?」
「この村で、最後に実った麦の、最後の種じゃ。十二年前の秋に獲れた。いつか、蒔ける日が来たら蒔こうと思って、ずっと、取っておいた。もう、芽は出んかもしれん。古すぎる。じゃが、持っていけ」
「いや、でも、それはあなたが、この畑に蒔くために――」
「わしの畑には、また、別の種を手に入れる。土が生き返ったと聞けば、出稼ぎの若い連中が、どこからか種を持って帰ってくるじゃろう。これは、礼じゃ。わしには、これしか、礼にできるものがない」
老人は、ナラムの手に布の包みを押しつけた。
軽かった。中には、ほんのひと握りの、麦の粒が入っているだけのようだった。
ナラムは包みを握りしめた。
「いつか、どこかで、蒔きます」
「ああ。そうしてくれ」
老人は皺だらけの顔で笑った。
初めて見る、老人の笑顔だった。
*
村を出て、しばらく街道を歩いてから、ナラムは、荷車の上のティアを振り返った。
「なあ、ティア」
「ん」
「お前、昨日の夜のこと、本当に覚えてないのか」
ティアは少し考えた。
「たくさん、たべた。おいしかった。それから――」
「それから?」
「ねむく、なった。あたたかくて、しずかで、なにも、きこえなくて、はしらの、なかと、おなじ」
ティアは、膝を抱えて、遠くを見た。
「あのまま、ねてたら、また、はしらに、なってた、かも」
ナラムの背筋が冷たくなった。
「もう、食い過ぎるな」
「うん。ほどほど」
「ほどほどだ」
「でも、ナラムの、こえ、きこえた。だから、おきた」
「そうか」
「ナラムの水、すき」
「知ってる」
「ナラムも、すき」
ナラムは、荷車の車輪が石を踏んだふりをして、よろけた。
「知ってる」
「しってるの?」
「お前が、ギルスで言っただろ」
「おぼえてた?」
「覚えてる」
ティアは目を丸くした。それから、ぱあっと顔を輝かせた。
「ナラムは?」
「商売の相棒としては、悪くない」
「また、それ」
「またそれだ」
ティアは、むう、と唸った。
けれど、口の端は上がっていた。
ナラムは、懐の布の包みにそっと手をやった。
ひと握りの古い麦の種。
いつか、どこかで蒔く。どこで蒔くのかは分からない。いつ蒔くのかも分からない。
けれど、ナラムは、なぜか、そのとき、隣にティアがいるような気がした。
――いや、気のせいだ。
ナラムは、首を振って、前を向いた。
次の町、イシンまでは、三日。神殿の町だ。
ティアの「かみさま、すきじゃない」という言葉を思い出して、ナラムは、少しだけ、嫌な予感がした。