しょっぱい女神と真水の行商人 作:西都東都
ウンマからイシンへ向かう途中に隊商宿がある。
街道が二つ交わる場所に建てられた、日干し煉瓦の四角い建物だ。真ん中に中庭があって、井戸があって、ロバや駱駝を繋ぐ場所がある。周りを囲む部屋には、行き交う商人たちが、一晩だけ泊まっていく。
ナラムたちが着いたのは、夕方だった。
中庭には、もう、何組もの隊商が、荷を下ろしていた。東から来た絨毯売り。南から来た干し魚売り。北から来た炭売り。炭売りの荷車には、ハッル商会の印が、焼きつけてあった。
「ここ、ひと、いっぱい」
「隊商宿だからな。いろんな町の商人が泊まる。いろんな噂が聞ける。それに、ここの中庭では、商人同士で、ちょっとした取引ができる」
「とりひき?」
「物と物を交換したり、売り買いしたりだ。市場ほど大きくはないが、珍しいものが手に入ることもある」
ティアは中庭を見回した。
荷台の上で絨毯を広げている男がいた。干し魚の束を吊るしている女がいた。どこから来たのか、色とりどりのガラス玉を、布の上に並べている老人がいた。
ティアの目が、ガラス玉に釘付けになった。
「あれ、なに?」
「ガラス玉だ。砂を溶かして、固めたもんだ。飾りにする」
「きれい」
「ああ、きれいだな。でも、高いぞ」
「たかい?」
「大麦で言うと、一粒で、一升くらいだ」
「いっしょう」
ティアは、ガラス玉をじっと見つめていた。
その中に、一つ、青とも緑ともつかない色の小さな玉があった。夕陽を受けて、きらきらと光っていた。
河口の色だ、とナラムは思った。
ティアの目と同じ色だ。
「ほしい」
ティアが小さく言った。
「欲しいのか」
「ナラムに、あげたい」
「は?」
「あの、いろ。ナラムに、あげたい」
ナラムは言葉に詰まった。
「俺に? なんで」
「わからない。でも、あげたい」
ティアは真剣な顔をしていた。
ナラムは頭を掻いた。
「買ってやろうか」
「だめ」
「だめ?」
「ナラムが、かったら、ナラムに、あげられない」
ナラムは、あ、と思った。
たしかにその通りだ。
「じゃあ、どうする」
「わたしが、かう」
「お前、銀、持ってないだろ」
「しょうばい、する」
ティアは胸を張った。
「わたしも、しょうばい、する。もうけて、かう」
*
ティアの初商いは、隊商宿の中庭の隅で始まった。
ナラムは、手を出すな、と言われた。口も出すな、と言われた。ナラムは、しかたなく、中庭の反対側の井戸端に腰を下ろして、遠くから、ティアの様子を見守った。
「何を売る気だ、あいつ」
ドゥムが、ナラムの隣で、ふん、と鼻を鳴らした。
ティアは、中庭の隅に、ナラムの荷車から借りた、空の籠を一つ置いた。それから、その前にしゃがみこんだ。
しばらく何もしなかった。
中庭を行き交う商人たちが、ちらちらとティアを見ていった。白い髪のきれいな娘が、空の籠の前にしゃがみこんでいる。何を売っているのか、誰にも分からない。
やがて、一人の男が足を止めた。
北から来た、炭売りの男だった。ハッル商会の印のついた荷車の持ち主だ。
「嬢ちゃん、何を売ってるんだい」
「なにも、うってない」
「なにも?」
「かってる」
「買ってる? 何を」
「しお」
男は、きょとんとした顔をした。
「塩?」
「うん。しお、かう。あなたの、にもつ、しょっぱい?」
男は、自分の荷車を振り返った。荷車の幌には、街道の塩降りで積もった塩が、白く、こびりついていた。炭の袋の表面にも、うっすらと塩が吹いていた。
「まあ、しょっぱいな。塩降りの後の道を来たからな」
「その、しお、かう」
「は?」
「その、しお、わたしに、ちょうだい。かわりに」
ティアは、空の籠を男の前に差し出した。
「にもつ、きれいに、する」
男は、しばらくぽかんとしていた。
それから、大声で笑い出した。
「はっはっは! 面白い嬢ちゃんだ! 荷物をきれいにして、代わりに塩をくれってのか! いいぜ、やってみな!」
男は荷車の幌を指さした。
ティアはこくりと頷いた。それから、荷車のそばに行って、幌にそっと手を触れた。
幌の塩が一瞬で消えた。
男の笑い声が止まった。
ティアは、炭の袋に、一つずつ、手を触れていった。袋の表面に吹いていた塩が、すうっと消えていった。湿気て、しっとりしていた袋が、からりと乾いていった。
「おしまい」
ティアは振り返った。
男は、口を開けたまま、荷車を見つめていた。
「嬢ちゃん、今、何を」
「しお、もらった」
男は、荷車とティアを、何度も見比べた。
「ありがとう」
ティアはぺこりと頭を下げた。
男は、しばらく何も言わなかった。それから、荷車の炭の袋を、一つ、手に取った。袋を開けて、中の炭を指でつまんだ。
「乾いてる」
「うん」
「湿気てねえ。塩が、吹いてねえ。これなら、高く売れる」
男はティアを見た。
「嬢ちゃん。礼だ。これ、持っていきな」
男は、懐から、銀の粒を一つ、取り出した。
ティアは目を丸くした。
「いいの?」
「いい。塩がついた炭は、燃えが悪いって、買い叩かれるんだ。乾いた炭なら、倍の値で売れる。銀一粒じゃ、安いくらいだ」
ティアは、銀の粒を両手で受け取った。
それから、もう一度ぺこりと頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
男は、照れくさそうに頭を掻いた。
*
噂は、隊商宿の中庭をあっという間に駆け巡った。
白い髪の娘が、荷物の塩をきれいにしてくれる。
干し魚売りの女がやってきた。干し魚の束に吹いた塩を、きれいにしてくれ、と頼んだ。
「ほしざかなの、しお、とったら、ほしざかなじゃ、なくなるよ?」
「いいのよ、表面の白いのだけでいいの。見た目が悪いと、売れないから」
ティアは、干し魚の表面の塩だけを丁寧に吸い取った。中の塩は残した。干し魚売りの女は、大喜びで、銀を半粒、くれた。
絨毯売りの男がやってきた。絨毯に染み込んだ塩を、抜いてくれ、と頼んだ。塩が染み込んだ絨毯は、ごわごわして、色がくすむのだ。
ティアは、絨毯を、一枚ずつ、撫でていった。撫でたところから、絨毯の色が、鮮やかに蘇っていった。絨毯売りの男は、目を潤ませて、銀を一粒、くれた。
ガラス玉売りの老人までやってきた。
「わしのガラス玉も、塩で曇ってしまってな。磨いても、磨いても、きれいにならん。嬢ちゃん、頼めるかね」
ティアは、老人の布の上のガラス玉を、一つずつ、指でなぞっていった。曇っていたガラス玉が、一つずつ、透き通っていった。夕陽の最後の光を受けて、色とりどりにきらきらと輝いた。
最後に、あの河口の色の玉をなぞった。
玉は、ほかのどの玉よりも澄んだ色に輝いた。
「おお」
老人が感嘆の声を上げた。
「こんなにきれいな色だったか。わしも、忘れておった」
ティアは、その玉をじっと見つめていた。
「おじいさん。これ、いくら?」
「ん? その玉か。そうじゃな、大麦一升、と言いたいところじゃが」
老人は、ティアを見て、それから、遠くの井戸端に座っているナラムを見た。
それから、にっこりと笑った。
「嬢ちゃんが、わしの玉を、全部きれいにしてくれた。その礼じゃ。持っていきなさい」
ティアは首を振った。
「だめ。かう」
「おや」
「わたしが、もうけて、かう。そうしないと、あげられない」
ティアは、懐から、今日稼いだ銀を、全部、取り出した。炭売りの一粒。干し魚売りの半粒。絨毯売りの一粒。合わせて、二粒半。
「これで、かえる?」
老人は、ティアの手のひらの銀を見て、目を細めた。
「一粒で、十分じゃ」
「ほんと?」
「本当じゃ。その代わり、残りの銀は、大事に取っておきなさい。いつか、また、何か、あげたくなるときが来るじゃろうから」
ティアは、銀を一粒、老人に渡した。
老人は、河口の色の玉を、小さな布に包んで、ティアの手のひらに乗せた。
「ありがとう」
「どういたしまして。あの若いのに、あげるのかね」
「うん」
「そうかね」
老人はまたにっこりと笑った。
*
井戸端に戻ってきたティアは、両手を背中に隠していた。
「ナラム」
「ん。商売、うまくいったみたいだな」
「みてた?」
「見てた。中庭じゅうの商人が、お前に塩を売りに来てたな。お前、あれ、商売の才能あるぞ」
「さいのう?」
「上手いってことだ」
「ほめた?」
「ああ。褒めた」
ティアは、少しだけ照れたように笑った。
それから、背中に隠していた両手をナラムの前に差し出した。
小さな布の包み。
「これ」
「ん?」
「ナラムに、あげる」
ナラムは包みを受け取った。布を開いた。
中から、河口の色の玉が、転がり出てきた。
焚き火の光を受けて、青とも緑ともつかない色にきらきらと輝いていた。
「わたしが、もうけて、かった」
「ああ」
「ナラムに、あげたかった」
「ああ」
「いや?」
「いや、じゃねえ」
ナラムは、玉を、指でつまんで、焚き火にかざした。
玉の中で、光がゆらゆらと揺れていた。河の水と、海の水が混ざり合うような色。
ティアの目と同じ色。
「ありがとな」
「うん」
「大事にする」
「ほんと?」
「本当だ」
「ほんと?」
「本当だ」
「ナラムの、ほんと、わからない。でも、みみ、あかい」
「うるせえ」
ナラムは、腰の革袋の紐にガラス玉をくくりつけた。
革袋が揺れるたびに、河口の色の玉が、からからと小さな音を立てた。
ティアは、それを見て、両手で頬を押さえて、笑った。
残りの銀は一粒半。それをどうするのかと聞いたら、ティアは、少し考えて、「ドゥムの、なつめ、かう」と言った。
ドゥムが、ひひん、と高らかに鳴いた。
ナラムに棗の借りが溜まっていく一方なのを、このロバは、ちゃんと分かっているのかもしれなかった。
*
イシンの町に着いたのは、ちょうど新年祭の初日だった。
門をくぐる前から、太鼓の音が聞こえていた。どん、どん、と腹の底に響く低い音。それに混じって、笛の音、鈴の音、人々の歓声。城壁の上には、色とりどりの布が翻っていた。赤、青、黄、そして、やたらと目立つ金色。
「なに、これ」
荷車の上でティアが目を丸くした。
「新年祭だ。年に一度の、いちばんでかい祭りだ」
「まつり」
「ああ。十二日間ぶっ続けで、飲んで、食って、歌って、踊る。この辺りの町は、どこでもやるが、イシンのはとくに派手だ。なにしろ、この町はマルドゥク様のお膝元だからな」
「まるどぅく」
ティアは、その名前をゆっくりと繰り返した。
「ナラムの、むかしばなしの」
「ああ。目が四つ、耳が四つ、口から火を吹く神様だ。この町の神殿は、マルドゥク様を祀ってる。で、新年祭ってのは、マルドゥク様が、母なる竜をやっつけて、天と地を作ったことを祝う祭りなんだ」
ティアの顔から、表情が、すうっと消えた。
「やっつけた、ことを、いわうの?」
「ああ。祭りの最後の日に、神官たちが、神殿で、あの昔話をぜんぶ唱えるんだ。で、広場で、塩で作った竜の像を、マルドゥク様の像が叩き壊す。それを見て、みんなで、わーっと騒ぐ」
言ってから、ナラムは、しまった、と思った。
ティアは、膝を抱えて、黙ってしまっていた。
門の上の金色の布が風にはためいた。よく見ると、布には、何かの絵が描かれていた。四つの目を持つ男が網を投げている絵。網の中で、蛇とも竜ともつかない、長い体の何かが、のたうっている絵。
「ティア」
「だいじょうぶ」
「町に入るのは、やめとくか。祭りの間は、宿も高いしな。素通りして、次の町に――」
「だいじょうぶ」
ティアは顔を上げた。少しだけ、無理をしているような顔だった。
「しょうばい、でしょ?」
「ああ、まあ、そうだが」
「まつり、ひと、たくさん。たくさん、うれる」
ティアは、荷車の干し魚の束を指さした。
「ほしざかな、うるんでしょ?」
たしかにそうだった。
祭りの間は、町じゅうの人間が財布の紐を緩める。行商人にとっては、一年でいちばんの稼ぎどきだ。それに、新年祭の十二日間、イシンの連中は、毎晩、飲んで食って騒ぐ。酒の肴になる干し魚は、いくらあっても足りないのだ。ギルスの港で安く仕入れた南の海の干し魚を売るには、これ以上の場所はない。
「分かった。ただし、最終日までには出るぞ。竜を叩き壊すところなんか、見なくていい」
「うん」
ティアは小さく頷いた。
*
イシンの町の中は人で溢れ返っていた。
大通りには、露店がびっしりと並び、焼いた羊肉の匂い、煮た豆の匂い、蜂蜜菓子の甘い匂いが、入り混じって漂っていた。どの家の軒先にも、色とりどりの布が吊るされ、子供たちが、小さな網を振り回して、駆け回っていた。網で、何かを捕まえる真似をしているらしい。
「あれ、なに?」
「竜ごっこだ。網を持ってる方がマルドゥク様で、追いかけられてる方が竜だ」
ちょうど、目の前を、子供が二人、駆け抜けていった。網を持った男の子が、白い布を頭からかぶった女の子を追いかけている。
「まてー、ティアマトー! やっつけてやるー!」
「きゃー!」
女の子は、楽しそうに悲鳴を上げながら、逃げていった。
ティアは、その背中をぼんやりと見送っていた。
「ティアマト」
「ん?」
「あのこ、ティアマト、って、よばれてた」
「ああ。竜の名前だ。母なる竜、ティアマト」
「ティア、マト」
ティアは、その名前を、唇の上でゆっくりと転がした。
ナラムは、ふと、出会った日のことを思い出した。
――ティア……マ……。
名前を聞いたとき、ティアは、そう言いかけて、口をつぐんだのだ。
ナラムは首を振った。
偶然だ。ティア、なんて、どこにでもある音だ。ティアマトの「ティア」と、ティアの「ティア」が同じだからといって、何だというのだ。
「ティア。行くぞ。屋台通りは、こっちだ」
「うん」
ティアはナラムの袖を掴んだ。
いつもより、少しだけ強く。
*
屋台通りでの商売は、拍子抜けするほど、うまくいった。
干し魚は、一束残らず、飛ぶように売れた。酒の肴を探す客、屋台で焼いて売る親父、神殿への供え物にする女たち。祭りの町では、干し魚は、ふだんの三倍の値でも、誰も文句を言わなかった。
「こいつは、身が厚いな。どこの魚だ」
「南の海の魚です。ギルスの港で、仕入れました」
「ギルス? あの塩の湖のか。まだ港が生きてたとはな」
「舟は動いてませんが、南からの隊商は、まだ通るんですよ」
何度繰り返したか分からないやりとりを、ナラムは、にこやかに繰り返した。
ギルスの港で、干し魚に払ったのは、銀十粒。それが、イシンで銀二十八粒になった。
ナラムは、帳面をつけながら、思わず、にやけた。
「大儲けだ」
「おおもうけ?」
「大儲けだ。ティア、お前が魚の塩を我慢してくれたおかげだ」
「わたしの、おかげ」
ティアは、少しだけ嬉しそうな顔をした。
けれど、すぐにその顔は曇った。
どん、と太鼓の音が鳴った。
神殿の方からだった。続いて、何十人もの声が、低く、重く、揃って、何かを唱え始めた。歌のようでもあり、祈りのようでもある、抑揚のない、長い長い言葉。
「あれ、なに?」
「神官たちの祈祷だ。祭りの間、毎日、朝と夕方に唱えるんだ。あの昔話の、最初の方の部分だ」
低い声が町じゅうに響いた。
ナラムには、言葉の意味は、半分も分からなかった。古い言葉で唱えられているからだ。けれど、ところどころに、聞き覚えのある名前が混じっていた。
アプスー。ムンム。エア。
そして、ティアマト。
ティアが、ナラムの袖をぎゅっと握った。
「ナラム」
「ああ」
「あれ、きらい」
「ああ。宿に戻ろう」
ナラムは、ティアの手を引いて、神殿とは反対の方向へ歩き出した。
背中の方で、祈祷の声が、いつまでも、いつまでも、響いていた。
*
宿は、町の外れの小さな安宿だった。
祭りの間はどこの宿も高い。大通り沿いの宿は、ふだんの三倍の値をふっかけてきた。ナラムは、迷わず、町外れまで足を延ばした。神殿から、できるだけ遠い宿を選んだ。
それでも、祈祷の声は、聞こえてきた。
夕方の祈祷は朝よりも長かった。日が沈んで、空が紫色から藍色に変わっても、まだ続いていた。低い声が、町の屋根の上を這うようにどこまでも響いてくる。
ティアは、寝台の上で、膝を抱えて、両手で耳を塞いでいた。
「ティア」
「あの、うた、いや」
「意味は、分からないんだろ」
「わからない。ことばは、ぜんぜん、わからない」
ティアは首を振った。
「でも、いや。くびの、うしろが、ぞわぞわ、する」
「そうか」
ナラムは、寝台の端に腰を下ろした。どうしていいか、分からなかった。
ナラムにも、祈祷の言葉は、半分も分からない。分かるのは、ところどころに挟まる、名前だけだ。アプスー。エア。マルドゥク。そして、母なる竜の名前。
どれも、焚き火の夜の昔話に出てきた名前だった。
ティアは、あの夜も、「その話、すきじゃない」と言った。
理由は、本人にも、分からないらしかった。
「塩でできてるやつが、塩の竜を叩き壊す祭りを、好きになれるわけもねえか」
「たたきこわす?」
「祭りの最後の日に、広場で、塩で作った竜の像を、叩き壊すんだ。前に、言ったろ」
ティアは膝に顔を埋めた。
「いや」
「ああ。分かってる。最終日までには、出る」
ナラムは、革袋の水を椀に注いで、ティアに渡した。ティアは、両手で椀を包んで、少しずつ、飲んだ。
ナラムの水を飲むとき、ティアは、いつも少しだけ顔がゆるむ。水そのものは、どこにでもある、少ししょっぱい水だ。ナラムには、何が違うのか、さっぱり分からない。
「ナラムの、におい」
「水に、匂いなんかねえよ」
「ある。ナラムの、におい」
ティアは、空の椀を、胸に抱えたまま、少しだけ笑った。
*
騒ぎが起きたのは真夜中近くだった。
宿の外の通りで、男たちの怒鳴り声が、上がった。
ナラムは、窓の簾を少しだけめくった。
通りの真ん中で、酔った男たちが、揉み合っていた。祭りの酒ですっかり出来上がっている。誰かが誰かの肩にぶつかった。それだけのことだったらしい。
それだけのことが、あっという間に膨れ上がった。
一人が拳を振るった。もう一人が殴り返した。周りの酔っ払いが、面白がって、加わった。屋台の棒切れが振り回された。誰かが石を投げた。石は、別の誰かの頭に当たった。血が流れた。
怒鳴り声が悲鳴に変わった。
通りの向こうから、さらに、人が、集まってきた。殴られた男の仲間。殴った男の仲間。止めに入った者。止めに入ったつもりで殴りかかった者。
「ひでえな」
ナラムは簾を下ろそうとした。
手が止まった。
風に味があった。
ほんのかすかに、舌の付け根が、ひりついた。
ナラムは空を見上げた。
藍色の夜空の星の光が、にじんでいた。空の端から、うっすらと、白い霞が、広がり始めていた。
「塩降りだ」
――町で暴動があった後とか、戦があった後とかに、よく降るって言うやつもいる。
焚き火の夜、自分でそう言ったのを、ナラムは、思い出した。迷信だと思っていた。
通りの殴り合いは、まだ、続いていた。
ざあ、と音がした。
塩が降り始めた。
通りの男たちが、悲鳴を上げて、散り散りに逃げ出した。祭りの飾り布の上に、屋台の屋根の上に、倒れた男の上に、白い塩が、降り積もっていった。
「ナラム」
寝台の上で、ティアが、顔を上げていた。
窓の外を見ていた。
「しょっぱい。そとが、すごく、しょっぱい」
「ああ。塩降りだ」
「ちがう。しおじゃ、なくて、ひとが」
ティアは、両手で自分の腕を抱いた。
「みんな、なかが、すごく、しょっぱい。あつい、しょっぱさ。とげとげ、してる」
ティアが、人の中の塩を感じ取るのは、知っていた。エシュヌの老婆も、ギルスのベレトも、「かなしい、しょっぱさ」だと、ティアは言った。
今夜のそれは、「とげとげ」しているらしかった。
ティアは震えていた。
ナラムは、少しだけ迷ってから、寝台に上がって、ティアの隣に座った。
肩を抱き寄せた。
「外のことだ。お前のことじゃない」
「うん」
「酔っ払いが、殴り合っただけだ。すぐ、終わる」
「うん」
ティアは、ナラムの胸に顔を埋めた。
ナラムの心臓の音を聞いているようだった。
「ナラムは、とげとげ、してない」
「そりゃ、殴り合ってねえからな」
「ちがう。ナラムは、ずっと、わからない。しょっぱくない、から、なかが、なにも、わからない」
「分からない方が、いいだろ」
「どうして?」
「俺の中なんか、のぞいたって、ろくなもんじゃねえ。銀の勘定と、値切りの文句と、ドゥムへの愚痴しかねえよ」
ティアは、ナラムの胸の中で小さく笑った。
「でも、わからないの、ちょっと、さみしい」
ナラムは何も言わなかった。
ただティアの肩を抱いていた。
ざあ、という音は、思ったより早く、小さくなっていった。
やがて、止んだ。
窓の外の通りに、うっすらと塩が積もっていた。いつもの塩降りの半分にも、満たなかった。
*
翌朝、宿の主人が首を傾げていた。
「おかしなもんだね。一度降り出したら、半日は止まないのがふつうなのに、ゆうべは、あっという間に止んだ。積もった塩も、たいしたことない」
「そうですか」
「神官様の祈祷が、効いたんだろうよ。もっとも、神官様たちは、塩降りは祈祷が足りなかったせいだって言って、今夜から、祈祷を、夜通しに延ばすそうだがね」
ナラムは、宿の主人に礼を言って、部屋に戻った。
ティアは、寝台の上でまだ眠っていた。
ナラムは窓の外を見た。通りの塩は、もう、半分ほど、掃き出されていた。
あっという間に止んだ。
積もった塩もたいしたことない。
ナラムは、眠っているティアの顔を見下ろした。
――まさかな。
ナラムは、首を振って、荷物をまとめ始めた。