しょっぱい女神と真水の行商人 作:西都東都
「でるの?」
ティアが目を覚ましたのは、ナラムが荷物をまとめ終えたころだった。
「ああ。出る。今日中に、この町を出る」
「まつり、まだ、あるよ」
「あと十一日な。今夜から、神官どもが、あの歌を、夜通し唱える。最後の日には、広場で、塩の竜を叩き壊す」
ティアの肩がびくりと動いた。
「それ、いや」
「だろ。だから、出る」
「しょうばい、は?」
「干し魚は、もう売り切った。ここに残る理由はねえ」
ティアは、少しだけナラムの顔を見ていた。
「ナラム。わたしの、ため?」
「商売のためだ」
「ほんと?」
「本当だ」
ティアは首を傾げた。
それから、少しだけむっとした顔をした。
「わからない」
「何がだ」
「ナラムの、ほんと。ほかのひとなら、わかるのに、ナラムだけ、わからない」
「分からなくて結構だ。ほら、支度しろ」
ティアは、むう、と唸りながら、寝台から降りた。
それから、ナラムの背中に向かって、ぽつりと言った。
「ナラム」
「ん」
「きのう、ぎゅって、した」
ナラムは、荷物を担ごうとした手を止めた。
「ああ」
「あれ、また、して、ほしい」
「は?」
「とげとげ、してないときでも」
ナラムは振り返らなかった。振り返ったら、きっとろくでもない顔をしている。
「考えとく」
「ほんと?」
「考えとくってのは、考えとくってことだ」
「それも、ほんとか、わからない」
ティアは、不満そうに唇を尖らせた。
ナラムは、耳まで熱くなるのを感じながら、荷物を担いで、部屋を出た。
ティアに、自分の中身が読めなくて、よかった。
生まれて初めて、ナラムは、本気でそう思った。
*
イシンの門を出たのは、昼過ぎだった。
門の外の街道は、昨夜の塩降りでうっすらと白くなっていた。けれど、量は多くなかった。町の中も、昨夜の騒ぎのわりには、塩の被害は少なかったらしい。降り始めてから止むまでが、短かったからだ。
街道を歩き出してしばらくすると、後ろから、声がかかった。
「おーい! そこの、変な兄妹!」
ナラムは振り返った。
赤い布を頭に巻いた女が、ロバに引かせた荷車の上から、手を振っていた。
「ルハ?」
「やっぱり、あんたたちだ! 奇遇だねえ!」
ルハは荷車を寄せてきた。荷台には、護符の束が、山のように積まれていた。ラルサのときの三倍はある。
「なんでここに」
「なんでって、商売に決まってるだろ。新年祭だよ、新年祭。護符が飛ぶように売れるんだ。でも、昨日の塩降りで、ちょっと風向きが変わってね。神官連中が、護符売りを目の敵にし始めた。『祈祷の効き目を疑うのか』ってさ。で、今朝、追い出された」
「そうか」
「あんたたちは?」
「似たようなもんだ」
ルハは、ナラムの顔を見て、それからティアの顔を見て、意味ありげに目を細めた。
「ふうん。似たようなもん、ね」
「なんだよ」
「別に。で、次はどこに行くんだい」
「シッパルだ」
ルハの眉がぴくりと動いた。
「シッパル?あんた、知ってて行くのかい」
「何をだ」
「シッパルは、塩捨て組合の町だよ」
「塩捨て組合?」
「知らないのかい。まったく、あんたは、商売は上手いのに、物を知らないねえ」
ルハは、呆れたように肩をすくめた。
「シッパルはね、この辺りの町の塩を、まとめて引き受けて捨ててる町なんだ。町の外に、でっかい塩の捨て場があってね。ラルサやイシンやギルスから、毎日、塩を積んだ荷車が運ばれてくる。それを、シッパルの組合が引き受けて、捨て場に捨てる。一車いくら、って手数料を取ってね」
「塩を捨てるのが、商売なのか」
「商売だよ。それも、とびきり儲かる商売さ。この辺りじゃ、どこの町だって塩を捨てなきゃならない。でも、捨て場を持ってる町は、シッパルだけだ。だから、シッパルの組合が、好き勝手に値を決められる」
ルハは声を低くした。
「組合の頭は、ガルザって男だ。でっかい図体の、目つきの悪い男でね。逆らったやつは、塩の捨て場に埋められるって噂だ。あんた、エシュヌで塩を買い取ったって聞いたよ」
ナラムはぎくりとした。
「どこで聞いた」
「行商人の噂話は、ロバより速く走るのさ。『塩を買い取る変な男と、白い髪の妹』。もう、この辺りの街道じゃ、ちょっとした話の種だよ。シッパルでそれをやったら、ガルザの商売を、真っ向から邪魔することになる」
ナラムは黙った。
ルハは、少しだけ真面目な顔になった。
「悪いことは言わない。シッパルはやめときな」
ナラムは、目を逸らした。
「それとも、何か、シッパルに行かなきゃならない理由でもあるのかい」
ナラムは、ちらりと荷車の上のティアを見た。
ティアは、ルハの話を、聞いているのかいないのか、遠くの地平線を見ていた。北の方角。シッパルの方角だ。
その目がきらきらと輝いていた。
「でっかい、塩の、すてば」
ティアが小さく呟いた。
ナラムは天を仰いだ。
「理由は、ある」
「どんな」
「商売上の秘密だ」
ルハは、長いことナラムの顔を見ていた。
それから、深いため息をついた。
「あんたって男は。いいよ、分かった。あたしも、シッパルに行く」
「は?」
「あんたが何をやらかすのか、見届けたくなった。それに、ラルサの井戸の件で、あんたには一つ借りがあるからね」
「借り?」
「とぼけるんじゃないよ。あの井戸の塩気が抜けたおかげで、あたしの護符が、あの後ひと月で、三百枚売れた。あたしにも、よく分からないことが起きてるのは、分かってるんだ」
ルハはちらりとティアを見た。ティアは、相変わらず、北の地平線を見ていた。
「何が起きてるのかは、聞かない。でも、借りは返す。あたしは、そういう商人なんだ」
ナラムは、ルハの顔をしばらく見ていた。
それから、苦笑した。
「変な女だな、あんた」
「あんたに言われたくないよ」
ルハはにやりと笑った。
ナラムの袖をくいくいと引く手があった。
ティアだった。いつの間にか、地平線から目を離して、ナラムとルハを交互に見ていた。
「そのひとも、いっしょ?」
「ああ。シッパルまで、一緒に行くことになった」
「ふうん」
ティアは、ナラムの袖をぎゅっと握った。
それから、ルハの方を向いて、ぺこりと頭を下げた。
「よろしく、おねがい、します」
ルハは目を丸くした。
それから、声を上げて、笑った。
「よろしく、ティアちゃん。あんたのお兄さん、借りるよ」
「かさない」
「おや」
「ナラムは、かさない。ナラムは、わたしの、しょうばいの、あいぼう」
ルハはまた笑った。今度は腹を抱えて笑った。
ナラムは、どこを見ていいか分からなくて、ドゥムの方を向いた。
ドゥムは、ルハのロバと鼻を突き合わせて、何やら、親しげに鼻を鳴らし合っていた。
*
シッパルが近づくにつれて、地平線に奇妙なものが見えてきた。
最初は雲だと思った。地平線の上に、白い、ぎざぎざとした稜線が、横一列に連なっている。夏の入道雲のような、けれど入道雲よりずっと低く、ずっと平べったい、白い何か。
近づくにつれて、それが雲ではないことが分かった。
山だった。
白い山が、いくつもいくつも連なっていた。高いものは、ラルサの城壁の三倍はあるだろうか。低いものでも、人の背丈の十倍はある。それが、地平線の端から端までずらりと並んでいる。陽を受けて、まぶしいほどに白く輝いている。
「なんだ、あれ」
ナラムは思わず足を止めた。
「塩の捨て場だよ」
隣の荷車から、ルハが言った。
「シッパルの塩の山脈。この辺りの町から運ばれてきた十二年分の塩が、全部、あそこに積まれてる。北の方の人間は、あれを見て、雪山だって勘違いするらしいね」
「十二年で、あんなに」
「十二年で、あんなにさ。毎日毎日、何百台って荷車が、塩を運んでくるんだ。積んでも積んでも、減ることはない。増える一方だよ」
ナラムは白い山脈を見上げた。
どれだけの量の塩なのか、見当もつかなかった。エシュヌの塩の山を百集めても、千集めても、あの山の一つにもならないだろう。
荷車の上で、ティアが、身動き一つせずに、山脈を見つめていた。
「ティア?」
返事がなかった。
「ティア、おい」
ナラムが肩を揺すると、ティアは、ようやくこちらを向いた。
目が潤んでいた。
塩の結晶ではなかった。ただの涙だった。
「どうした」
「わからない」
ティアは、目元を手の甲でこすった。それでも、涙は止まらなかった。
「わからない、けど……あそこ、すごく、さみしい」
「寂しい?」
「みんな、すてられて、つまれて、だれも、さわらない。ずっと、ずっと、ひとりで、つまれてる」
ルハが、怪訝な顔でティアを見ていた。
ナラムは、ルハの視線を遮るようにティアの前に立った。
「そうか」
「たべたい」
「ああ」
「ぜんぶ、たべたい。ぜんぶ、たべて、さみしく、なくしたい」
「全部は、無理だ」
「むり、じゃない」
「無理だ。あの量だぞ。お前の腹が破裂する前に、俺の頭が破裂する」
ティアは、むう、と唸った。
けれど、涙は止まっていた。
「すこしずつ、なら?」
「少しずつなら、な。ほどほどにな」
「ほどほど」
ティアはこくりと頷いた。
それから、また白い山脈の方を向いた。
その横顔を、ルハが黙って見ていた。
*
シッパルの町は塩の山脈の麓にあった。
町そのものは、それほど大きくなかった。ラルサの半分ほどだろうか。けれど、活気は、ラルサの比ではなかった。
門の前には、荷車の長い列ができていた。どの荷車にも、塩が満載されている。エシュヌから、ラルサから、ギルスから、イシンから、ウンマの近くの小さな村々から。南の、ありとあらゆる町から運ばれてきた塩だ。
荷車は、門をくぐらずに、町の外壁に沿って、塩の山脈の方へと進んでいく。山脈の麓には、木の柵で囲われた広場があり、そこで荷車の塩が下ろされていた。
広場には、何百人もの人足が働いていた。
荷車から下ろされた塩を、籠に入れて、背負って、山の斜面を登っていく。山の上に塩をぶちまけて、空の籠を背負って、また降りてくる。その繰り返し。延々と、延々と同じことを繰り返している。
人足たちの顔は塩で白くなっていた。髪も眉もまつげも白い。日に焼けた肌の上に、汗で固まった塩が、ひび割れた仮面のようにこびりついていた。
「あれが、塩捨て組合の人足さ」
ルハが声を低くして言った。
「この町の男の、三人に一人は、あそこで働いてる。日に大麦二升の稼ぎで、朝から晩まで、塩を担いで山を登る。何年か続けると、肺をやられる。塩の粉を吸い込みすぎてね。十年続けた人足で、まともに息ができるやつは、ほとんどいない」
「二升?」
ナラムは眉をひそめた。
「各町から、一車いくらで、手数料を取ってるんだろ。何百台も来てるのに、人足の稼ぎが二升なのか」
「手数料のほとんどは、組合の上の連中の懐に入るのさ。頭のガルザと、その取り巻きと、それから――」
ルハは、町の中心にそびえる、ひときわ立派な建物を顎で指した。
「町の塩税官の、ウトゥル様の懐にね」
「塩税官?」
「塩の捨て場の税を取り立てる役人だよ。王様から任命されてる、偉い偉いお役人様さ。組合は、ウトゥル様に税を納める。ウトゥル様は、組合の好きにさせる。そういう仕組みだ」
ナラムは、黙って、塩の山を登る人足たちを見ていた。
一人の人足が、斜面の途中で足を滑らせた。籠の塩が、ざあっとこぼれて、斜面を流れ落ちていった。人足は、膝をついたまま、激しく咳き込んでいた。白い粉が、咳と一緒に口から吹き出していた。
誰も助けに行かなかった。
監督らしき男が、斜面の下から、怒鳴り声を上げた。
「何やってる! こぼした分は、てめえの稼ぎから引くぞ!」
人足は、咳き込みながら、斜面にこぼれた塩を手でかき集め始めた。
ナラムの袖を、ティアが、ぎゅっと握った。
「ナラム」
「ああ。分かってる」
ナラムは低い声で答えた。
「分かってるが、今は、まだだ」
*
宿は町の東の外れにあった。
ルハが、昔なじみだという宿を紹介してくれた。おかみは、ルハと同じくらいの年の痩せた女だった。ルハの顔を見るなり、抱きついて、それから、ナラムとティアをじろじろと値踏みした。
「ルハが、男連れなんて珍しいね」
「連れじゃないよ。たまたま、道が一緒だっただけさ」
「ふうん。で、こっちの白い子は?」
「その男の妹さ」
「妹ねえ」
おかみはにやにやと笑った。
ナラムは、どこかで見た笑い方だ、と思った。ギルスの宿のおかみだ。世の中の宿のおかみというのは、みんな同じ笑い方をするように、生まれついているのかもしれない。
「部屋は二つ、空いてるよ。ルハと、あんたたち兄妹で、一つずつ。それとも、兄妹で一つずつの方がいいかい?」
「三つ、お願いできますか」
「三つは空いてないね」
「二つで」
「兄妹で一つ?」
「兄妹で一つです」
おかみは、にやにや笑いながら、錆びた鍵を二本、帳場の上に置いた。
ティアは、なぜか、少し嬉しそうな顔をしていた。
「ナラム」
「なんだ」
「ひとへや?」
「寝台が二つある部屋だといいな」
「えー」
「えーじゃない」
ルハが、横で腹を抱えて笑っていた。