しょっぱい女神と真水の行商人 作:西都東都
翌朝、ナラムは一人で町を歩いた。
ティアは宿に置いてきた。ルハが、見ていてくれると言った。ティアは、ルハと二人きりになるのをひどく嫌がった。ナラムの袖を掴んで、離さなかった。
「ナラムと、いく」
「だめだ。今日は、町の様子を見て回るだけだ。目立つ真似はしたくない」
「わたし、めだたない」
「お前は、いるだけで目立つんだよ」
「ルハと、ふたり、いや」
「あたしだって、ティアちゃんと二人きりは気まずいよ。でも、お兄さんが行けって言うんだから、しかたないだろ」
ルハが横から口を挟んだ。ティアはルハをじとっと睨んだ。
「ナラム、すぐ、かえってくる?」
「昼までには戻る」
「ほんと?」
「本当だ」
「やくそく」
「ああ、約束だ」
ティアは、ようやくナラムの袖から手を離した。
宿を出るとき、背中の方から、ルハの声が聞こえた。
「さて、ティアちゃん。お兄さんがいない間、あたしと、女同士の話でもしようか」
「おんなどうし?」
「そうさ。男と女は、めんどくさいけど、女同士なら、そうでもないよ」
「ほんと?」
ナラムは、何も聞かなかったことにした。
*
シッパルの町は、どこもかしこも塩の匂いがした。
風向きのせいだ。塩の山脈から吹き下ろす風が、町じゅうに、細かな塩の粉を撒き散らしている。家々の壁は、白くまだらになり、通りには、薄く塩が積もっている。けれど、エシュヌやラルサのように、塩の山が通りに積み上げられてはいなかった。
この町の塩は、全部、組合が片づけているのだ。
町の住人は、塩を片づけるのに、組合に手数料を払う。エシュヌと同じ仕組みだ。ただし、手数料はエシュヌの倍だった。ナラムは、通りすがりの住人から、それを聞いた。
「倍、ですか」
「倍さ。塩の捨て場があるのに、町の塩を捨てるのが、よその町より高いんだ。おかしな話だろう」
「なんで、そんなに」
「組合が決めたからさ。この町じゃ、組合が決めたことが、法だ」
住人は、苦々しげに塩の山脈の方を見た。
「払えない家は、どうなるんですか」
「払えない家の前には、塩が積まれたままになる。それどころか、組合の連中が、わざと、よその町の塩を、払えない家の前に捨てていくんだ。見せしめにね」
ナラムは言葉を失った。
住人は、肩をすくめて、去っていった。
*
昼前、ナラムは組合の詰め所を訪ねた。
塩の山脈の麓の広場のすぐ脇にある、日干し煉瓦の大きな建物だった。入り口には、屈強な男が二人、門番のように立っていた。どちらも腕に白い布を巻いていた。組合の印らしい。
「何の用だ」
「行商人のナラムと申します。組合の頭の、ガルザさんに、ご挨拶をと思いまして」
「挨拶?」
「ええ。この町で、しばらく商売をさせていただくので」
門番の一人が、ナラムを上から下まで眺めた。
「待ってろ」
しばらくして、門番が戻ってきた。顎で、中に入れ、と示した。
詰め所の中は薄暗かった。窓が小さく、塩の粉が入らないように葦の簾がかけてある。奥の部屋に、大きな卓があり、その向こうに大きな男が座っていた。
大きい、という言葉では、足りなかった。
座っていても、ナラムの背丈くらいある。肩幅はナラムの倍。腕は、ナラムの太ももより太い。顔は、日に焼けて、赤銅色だった。右の頬から顎にかけて、古い傷痕が、白く走っていた。目は、細くて、小さくて、底が見えなかった。
「お前が、ナラムか」
低い声だった。腹の底に響くような声。
「はい。ウルカの行商人の、ナラムです」
「エシュヌで、塩を買い取った男だな」
ナラムは内心で舌打ちした。
噂はロバより速い。ルハの言った通りだった。
「ええ、まあ。ちょっとした商売の思いつきで」
「塩を買い取って、どうした」
「それは、商売上の秘密でして」
「秘密、か」
ガルザは、大きな手で卓の上の杯を取った。中身を一息に飲み干した。それから、杯を、どん、と卓に置いた。
「いいか、行商人。一つだけ、教えておいてやる」
「はい」
「この町の塩は、全部、組合のものだ。町の塩も、よその町から運ばれてくる塩も、捨て場の塩も、全部だ。組合を通さずに、塩を動かすやつは、許さねえ」
「塩を、動かす、ですか」
「買うのも、売るのも、運ぶのも、捨てるのも、だ。この町で、塩に関わる商売をしたけりゃ、組合に話を通せ。組合に、手数料を払え。それが、この町の法だ」
ナラムは、にこやかな顔を崩さなかった。
「肝に銘じます」
「銘じるだけじゃ、足りねえ」
ガルザは身を乗り出した。卓がみしりと軋んだ。
「エシュヌで何をしたのかは知らねえ。だが、この町でそれをやったら、お前を塩の山に埋める。お前の妹もだ。白い髪の、変わった妹だそうだな」
ナラムの背中を冷たいものが走った。
ガルザは、ナラムの顔をじっと見ていた。小さな目の奥で、何かが、ちらちらと光っていた。
「妹は、関係ありません」
「関係あるかどうかは、俺が決める」
ガルザは、太い指で、卓の上の帳面を叩いた。
「以上だ。行け」
ガルザは、背もたれにどさりと体を預けた。
ナラムは、深々と頭を下げて、部屋を出た。
詰め所の外に出ると、昼の陽差しが、目に痛かった。
ナラムは、しばらくその場に立ち尽くしていた。拳をきつく握りしめていた。手のひらに爪が食い込んでいた。
*
宿に戻ると、ティアとルハが、部屋の床に向かい合って座っていた。
二人の間に、粘土の護符が、何枚も並べてあった。
「何してんだ」
「ごふ、つくってる」
ティアが、粘土をこねながら言った。顔に粘土の汚れがついていた。
「ルハに、おしえて、もらった」
「なんで護符なんか」
「女同士の話のついでさ」
ルハが悪びれもせずに言った。
「ティアちゃん、手先が器用でね。あたしより、よっぽどきれいな字を刻むよ。ほら、見てごらん」
ルハが、一枚の護符をナラムに差し出した。
粘土の板に、細い線で何かが刻まれていた。文字ではなかった。波のような、渦のような、不思議な模様だった。二つの渦が、互いの尾を追いかけるように絡み合っている。
「なんだ、これ」
「わからない」
ティアが言った。
「てが、かってに、かいた」
「勝手に?」
「うん。でも、すき。この、もよう」
ナラムは護符をじっと見た。
二つの渦。片方は、細かな点で埋められていた。塩の粒のように見えた。もう片方は、なめらかな線で描かれていた。水の流れのように見えた。二つの渦が、真ん中で混ざり合っている。
なぜか、ナラムは、その模様から、目が離せなかった。
「で、ガルザはどうだった」
ルハの声で、ナラムは、我に返った。
「噂通りの男だった」
「でかかったろ」
「でかかった」
「脅されたろ」
「脅された。塩に関わる商売をしたら、塩の山に埋めるってよ。俺も、妹もな」
ティアが、粘土をこねる手を止めた。
ルハが真面目な顔になった。
「で、どうするんだい」
ナラムは窓の外を見た。
窓からは塩の山脈が見えた。白い山の斜面を、人足たちが、蟻のように列をなして登っていた。
「少し、考える」
「考えるってことは、やる気なんだね」
ナラムは、窓の外から目を離さなかった。
「まったく、あんたって男は」
ルハは呆れたように笑った。それから、ティアの方を向いた。
「ティアちゃん。あんたのお兄さん、塩の山に埋められても、いいのかい」
「よくない」
ティアは即答した。
「ナラムを、うめるなら、わたしが、やまを、ぜんぶ、たべる」
ルハは、きょとんとした顔をした。
それから、冗談だと思ったのか、声を上げて笑った。
ナラムは笑えなかった。
ティアは、冗談を言う顔をしていなかった。
*
――その日の朝、ナラムが宿を出ていったあと。
部屋に残されたティアは、寝台の端に座って、戸口をじっと見つめていた。
ルハは、もう一つの寝台に腰かけて、そんなティアを面白そうに眺めていた。
「そんなに見てても、お兄さんは帰ってこないよ」
「しってる」
「昼まで、まだだいぶあるよ」
「しってる」
「あんた、お兄さんのこと、ほんとに好きなんだねえ」
ティアは、ゆっくりとルハの方を向いた。
「すき」
「おや、素直だ」
「ナラムと、いっしょに、いたい。ナラムが、うれしいと、わたし、うれしい。だから、すき」
ルハは目を丸くした。
それから、くすくすと笑い出した。
「誰に教わったんだい、それ」
「ナラム」
「お兄さんが? 好きってのは、一緒にいたいとか、相手が嬉しいと自分も嬉しいとか、そういうもんだって?」
「うん」
「で、お兄さんは、あんたのこと、好きだって言ったのかい」
ティアの顔が少しだけ曇った。
「しょうばいの、あいぼう、って、いった」
「ははあ」
「すき、と、しょうばいの、あいぼう、は、ちがう?」
「さあねえ。人によるね」
「ナラムに、よると?」
「お兄さんによると、ねえ」
ルハは寝台の上で膝を抱えた。
「あの男はね、たぶん、自分でも分かってないんだよ」
「わかってない?」
「自分が、あんたのこと、どう思ってるのか。分かってないから、商売の相棒、なんて言葉で、ごまかしてるのさ」
「ごまかす」
「そう。男ってのは、そういうところがあるんだ。自分の気持ちに、名前をつけるのが、下手なんだよ」
ティアは首を傾げた。
「なまえ」
「そう。名前。好き、とか、愛してる、とか、そういう名前。女は、わりと、すぐつける。男は、なかなか、つけない。つけたら、取り返しがつかないと思ってるのさ」
「とりかえし」
「そう。一度、好きだって言ったら、もう、ただの商売の相棒には戻れない。だから、言わない。言わないで、商売の相棒って言っとけば、安全だろ」
ティアは、しばらくルハの言葉を考えていた。
「ナラムは、こわいの?」
「怖い?」
「とりかえし、つかないの、こわいの?」
ルハは少し目を細めた。
「そうかもしれないね。あの男は、たぶん、なくすのが怖いんだよ。拾われっ子だって、言ってたろ。親方に拾われて、親方に死なれて、大事なもんをなくすのが、怖いんだ。だから、大事なもんに、大事って名前をつけたがらない」
ルハは、膝の上で指を組み直した。
「名前をつけなきゃ、なくしても、そんなに痛くないからね」
ティアはうつむいた。
膝の上で、両手をぎゅっと握りしめていた。
「わたし、なくならない」
「ん?」
「わたし、ナラムから、なくならない。ずっと、いる」
ルハはティアを見た。
ティアの横顔は真剣そのものだった。
「そうかい」
「うん。ずっと、いる。けいやく、したから」
「契約?」
「ナラムの、しょうばいの、あいぼうに、なる、けいやく。さいしょの、ひに、した」
ティアは、上衣の隠しから、小さな石を、二つ、取り出して見せた。
「けいやくの、しるし。だから、ずっと、いる」
ルハは何も言わなかった。
何も言わずに、立ち上がって、ティアの隣に座った。それから、ティアの白い髪をそっと撫でた。
「あんたって子は」
「?」
「いや。あのお兄さんは、果報者だねえ」
「かほうもの?」
「幸せ者ってことさ」
ティアは、少しだけ嬉しそうな顔をした。
*
「ねえ、ルハ」
「なんだい」
「ルハは、すきな、ひと、いる?」
ルハは髪を撫でる手を止めた。
「いたよ」
「いた?」
「昔ね。死んじまったけど」
「ごめん、なさい」
「謝ることないよ。もう、十年も前の話だ」
ルハは窓の外を見た。
窓からは白い塩の山脈が見えた。
「あそこで、働いてた男だった。兄貴の、人足仲間でね。兄貴より、もっと馬鹿な男だった。組合に逆らって、兄貴をかばって、塩の山に――」
ルハは言葉を切った。
「まあ、そういうことさ」
ルハは、窓の外の白い斜面から、目を逸らさなかった。
「だから、あたしは、あの山が嫌いなんだ。見るたびに、腹が立つ。でも、見ずにはいられない。だから、こうして、時々、この町に来る」
ティアは、黙ってルハの手を握った。
ルハの手は、乾いていて、少しだけしょっぱかった。
かなしい、しょっぱさだった。
「ルハ」
「なんだい」
「わたし、あの、やま、すこし、たべても、いい?」
ルハはティアを見た。
「あんたが、食べる?」
「うん。ルハの、すきなひとが、いる、やま。すこしだけ、たべて、すこしだけ、ちいさく、したい」
ティアは、ルハの手を、もう一度握った。
「ちいさくなったら、ルハ、すこしだけ、はらが、たたなくなる?」
ルハは長いこと黙っていた。
それから、ふっと笑った。泣きそうな顔で笑った。
「あんたって子は、ほんとに」
「だめ?」
「だめじゃないよ。でも、お兄さんに、ちゃんと聞いてからにしな。あの男が、いいって言ったら、ね」
「うん」
「それと」
ルハは、ティアの手を握り返した。
「あたしのために、無理はしなくていい。あんたは、あんたのお兄さんのために、生きてればいいんだ」
ティアは、きょとんとした顔をした。
「ナラムの、ため?」
「そう」
「わたし、ナラムの、ために、いきてる?」
「さあね。それは、あんたが決めることさ」
ルハは立ち上がった。
それから、自分の荷物の中から、粘土の塊と細い木の棒を取り出した。
「さて。お兄さんが帰ってくるまで、暇つぶしでもしようか」
「ひまつぶし?」
「護符作りさ。あたしの商売道具だ。あんた、手先は器用かい」
「わからない」
「じゃあ、やってみな」
ルハは、床に座って、粘土の塊を二つに分けた。片方をティアに渡した。
「こうやって、平たく伸ばして、板にする。で、この棒で、模様を刻む。模様は、何でもいい。それっぽく見えれば、それでいいのさ」
「それっぽく」
「そう。あたしの護符はね、効き目なんか、これっぽっちもないんだ。知ってるだろ」
「しってる」
「でも、買った人は、ちょっとだけ、安心する。塩降りの夜に、戸口の護符を見て、大丈夫、大丈夫って、自分に言い聞かせられる。それだけでも、銀二升の値打ちは、あると思ってるんだ」
「ルハ、ごふ、うるとき、しょっぱい」
「そりゃあね。嘘には違いないから」
「でも、いま、しょっぱくない」
「そうかい」
ルハは笑った。
ティアは、粘土の板を膝の上に置いた。木の棒を握った。
しばらく、じっと粘土の板を見つめていた。
それから、棒を動かし始めた。
ゆっくりと迷いなく。
二つの渦が、粘土の上に浮かび上がっていった。片方は細かな点で。もう片方はなめらかな線で。二つの渦が、互いの尾を追いかけるように絡み合っていく。
ルハは、自分の手を止めて、その模様をじっと見ていた。
「ティアちゃん。それ、何の模様だい」
「わからない」
ティアは、棒を動かしながら、答えた。
「てが、かってに、うごく」
「勝手に」
「うん。でも、この、もよう、すき」
ティアは最後の線を刻み終えた。
二つの渦が、真ん中で一つに溶け合っていた。
ティアは、その模様を指でなぞった。
「しおと、みずが、まざってる」
ルハは何も言わなかった。
何も言わずに、ティアの手元の護符を長いこと見つめていた。
なぜか、背筋がぞくりとした。
怖いのではなかった。何か、とても古くて、とても大きなものを、ほんの一瞬だけ、垣間見たような気がしたのだ。
ルハは、首を振って、自分の粘土に目を戻した。
「さて。もう何枚か、作ろうか。お兄さんが帰ってきたら、見せてやりな」
「うん」
ティアは、新しい粘土を手に取った。
*
三日間、ナラムは何もしなかった。
正確には、何もしていないふりをした。
朝は市場に出て、大麦と干し物を売った。イシンで仕入れた大麦と干し豆と干し魚。シッパルの市場は、塩の捨て場で稼いだ金が回っているせいで、思ったより景気がよかった。大麦はよく売れた。
昼は町を歩いた。歩いて、話を聞いた。誰が組合の手数料を払えていないのか。どの路地に、塩が捨てられたままになっているのか。人足たちは、どこに住んで、何を食べているのか。
夜は、宿で、帳面に聞いた話を書きつけた。
ティアは、毎日、ナラムについて歩いた。塩には手を出さなかった。見ているだけ、もしなかった。ナラムがそう言いつけたからだ。
「ナラム」
「ん」
「まだ?」
「まだだ」
「いつ?」
「準備ができたらだ」
「じゅんび」
「ああ。組合に目をつけられてる。下手に動いたら、お前が危ない」
「わたし、あぶなくない」
「お前は危なくなくても、周りが危ないんだよ」
ティアは、むう、と唸った。
けれど、言いつけは守った。
*
四日目の夜、ナラムは、動いた。
町の北の外れに、塩捨て組合の手数料を払えない家々が固まっている路地がある。人足の家族が多く住んでいる路地だ。皮肉なことに、塩を捨てる仕事をしている男たちの家の前に、塩が積まれたままになっている。日に二升の稼ぎでは、組合の手数料が払えないのだ。
ナラムは、その路地のいちばん奥の家の戸を叩いた。
戸が細く開いた。
隙間から、女の子が顔を覗かせた。七つか八つくらいだろうか。痩せていて、顔が塩で白く汚れていた。
「だれ?」
「行商人のナラムだ。お父さんか、お母さんは、いるかい」
「とうちゃんは、ねてる。せき、してる」
「お母さんは」
「いない」
女の子は、それだけ言って、戸を閉めようとした。
「待って」
声をかけたのはティアだった。
ティアは、ナラムの後ろから進み出て、戸の隙間にしゃがみこんだ。女の子と目線を合わせた。
「あなた、なまえ、は?」
女の子は、ティアの白い髪をじっと見た。
「ミル」
「ミル。わたし、ティア」
「ティア」
「ミルの、いえの、まえの、しょっぱいの。わたしに、ちょうだい?」
ミルは、きょとんとした顔をした。
「しお?」
「うん」
「しお、ほしいの?」
「ほしい」
「へんなの」
「よく、いわれる」
ティアはにっこり笑った。
ミルは少しだけ笑った。
ナラムは、荷車から、大麦の袋を下ろした。
「塩を、買い取りたいんだ。お前さんの家の前の塩の山を、全部。代わりに、大麦を、三升やる」
「さんじょう?」
「三升だ」
ミルは目を見開いた。三升は、人足の父親の稼ぎの一日半分だ。
「ほんとう?」
「本当だ」
「とうちゃんに、きいてくる」
ミルは、戸を閉めて、家の奥に駆け込んでいった。
しばらくして、戸がまた開いた。
今度は男が立っていた。三十くらいだろうか。けれど、顔はやつれて、五十にも見えた。顔も髪も塩で白い。咳き込みながら、ナラムを睨んだ。
「塩を、買い取るって?」
「ええ」
「組合の、回し者か」
「いいえ。ただの行商人です」
「組合に知れたら、ただじゃ済まねえぞ。あんたも、俺も」
「知れなければ、いいんでしょう」
ナラムはにっこり笑った。
「夜のうちに、塩を運び出します。朝には、塩の山は、ただ消えてるだけだ。誰が持っていったのかなんて、誰にも分からない。組合の連中が、自分たちで片づけたと思うかもしれない」
男は、しばらくナラムを睨んでいた。
それから、激しく咳き込んだ。咳と一緒に、白い粉が、口から吹き出した。
「ミルが、腹を空かせてる」
男は、咳の合間に絞り出すように言った。
「三升あれば、十日は、食わせてやれる」
「ええ」
「持っていけ」
男は戸を開け放った。
*
その夜、ナラムとティアは、路地の家を七軒回った。
どの家でも、話は同じだった。最初は疑われた。組合の回し者だと思われた。けれど、ナラムが大麦の袋を開けて見せ、ティアがしゃがみこんで子供と話すと、最後には、みんな、戸を開けてくれた。
塩の山は、ティアが、一つずつ、吸い取った。
手で触れるだけで、さらさらと溶けるように消えていく。荷車に積むふりも、籠に入れるふりももうしなかった。夜の闇が、全部、隠してくれた。
七軒目の家の塩を吸い終えたとき、ティアは、ふう、と息をついて、夜空を見上げた。
「おいしかった」
「そうか」
「ここの、しょっぱいの、つかれてた」
「疲れてた?」
「うん。いっぱい、はこばれて、いっぱい、すてられて、つかれてた。わたしが、たべたら、やすめる」
ナラムは、何も言わずに、ティアの頭を撫でた。
ティアは目を細めた。
路地の入り口で、小さな影が、こちらを見ていた。
ミルだった。
「ティア」
「ミル? ねてなかったの?」
「みてた」
ナラムはぎくりとした。
見られた。ティアが、塩に触れただけで塩が消えるところを。
ミルは、とことこと、ティアのそばまで歩いてきた。ティアの白い髪をじっと見上げた。
「ティア、しお、たべるの?」
ティアはナラムを見た。ナラムは、どう答えていいか分からなかった。
ティアは、少し考えてから、ミルに向き直った。
「うん。たべる」
「おいしい?」
「おいしい」
「へんなの」
「よく、いわれる」
ミルはくすくすと笑った。
それから、ティアの手をそっと握った。
「ティア、ありがとう。うちの、まえ、きれいになった」
「どういたしまして」
「とうちゃんに、いわない。ないしょ」
「ないしょ?」
「うん。ティアと、ミルの、ないしょ」
ミルは、小指を立てて、ティアの前に差し出した。
ティアは、きょとんとした顔でその小指を見ていた。
「これ、なに?」
「やくそくの、ゆび」
「やくそく」
ティアは、ミルの真似をして、小指を立てた。ミルが、自分の小指をティアの小指に絡めた。
「ゆびきり」
「ゆびきり」
ティアは、絡めた小指を不思議そうに見つめていた。
それから、ぱっと顔を輝かせた。
「ゆびきり、すき」
ミルは、よく分からないという顔をしながらも笑った。
ナラムは二人を黙って見ていた。
路地の家々の前から、塩の山が消えていた。月明かりの下で、土の地面が、黒く湿っていた。