しょっぱい女神と真水の行商人   作:西都東都

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第八話 女の問題

 翌朝、ナラムは一人で町を歩いた。

 ティアは宿に置いてきた。ルハが、見ていてくれると言った。ティアは、ルハと二人きりになるのをひどく嫌がった。ナラムの袖を掴んで、離さなかった。

「ナラムと、いく」

「だめだ。今日は、町の様子を見て回るだけだ。目立つ真似はしたくない」

「わたし、めだたない」

「お前は、いるだけで目立つんだよ」

「ルハと、ふたり、いや」

「あたしだって、ティアちゃんと二人きりは気まずいよ。でも、お兄さんが行けって言うんだから、しかたないだろ」

 ルハが横から口を挟んだ。ティアはルハをじとっと睨んだ。

「ナラム、すぐ、かえってくる?」

「昼までには戻る」

「ほんと?」

「本当だ」

「やくそく」

「ああ、約束だ」

 ティアは、ようやくナラムの袖から手を離した。

 宿を出るとき、背中の方から、ルハの声が聞こえた。

「さて、ティアちゃん。お兄さんがいない間、あたしと、女同士の話でもしようか」

「おんなどうし?」

「そうさ。男と女は、めんどくさいけど、女同士なら、そうでもないよ」

「ほんと?」

 ナラムは、何も聞かなかったことにした。

 

  *

 

 シッパルの町は、どこもかしこも塩の匂いがした。

 風向きのせいだ。塩の山脈から吹き下ろす風が、町じゅうに、細かな塩の粉を撒き散らしている。家々の壁は、白くまだらになり、通りには、薄く塩が積もっている。けれど、エシュヌやラルサのように、塩の山が通りに積み上げられてはいなかった。

 この町の塩は、全部、組合が片づけているのだ。

 町の住人は、塩を片づけるのに、組合に手数料を払う。エシュヌと同じ仕組みだ。ただし、手数料はエシュヌの倍だった。ナラムは、通りすがりの住人から、それを聞いた。

「倍、ですか」

「倍さ。塩の捨て場があるのに、町の塩を捨てるのが、よその町より高いんだ。おかしな話だろう」

「なんで、そんなに」

「組合が決めたからさ。この町じゃ、組合が決めたことが、法だ」

 住人は、苦々しげに塩の山脈の方を見た。

「払えない家は、どうなるんですか」

「払えない家の前には、塩が積まれたままになる。それどころか、組合の連中が、わざと、よその町の塩を、払えない家の前に捨てていくんだ。見せしめにね」

 ナラムは言葉を失った。

 住人は、肩をすくめて、去っていった。

 

  *

 

 昼前、ナラムは組合の詰め所を訪ねた。

 塩の山脈の麓の広場のすぐ脇にある、日干し煉瓦の大きな建物だった。入り口には、屈強な男が二人、門番のように立っていた。どちらも腕に白い布を巻いていた。組合の印らしい。

「何の用だ」

「行商人のナラムと申します。組合の頭の、ガルザさんに、ご挨拶をと思いまして」

「挨拶?」

「ええ。この町で、しばらく商売をさせていただくので」

 門番の一人が、ナラムを上から下まで眺めた。

「待ってろ」

 しばらくして、門番が戻ってきた。顎で、中に入れ、と示した。

 詰め所の中は薄暗かった。窓が小さく、塩の粉が入らないように葦の簾がかけてある。奥の部屋に、大きな卓があり、その向こうに大きな男が座っていた。

 大きい、という言葉では、足りなかった。

 座っていても、ナラムの背丈くらいある。肩幅はナラムの倍。腕は、ナラムの太ももより太い。顔は、日に焼けて、赤銅色だった。右の頬から顎にかけて、古い傷痕が、白く走っていた。目は、細くて、小さくて、底が見えなかった。

「お前が、ナラムか」

 低い声だった。腹の底に響くような声。

「はい。ウルカの行商人の、ナラムです」

「エシュヌで、塩を買い取った男だな」

 ナラムは内心で舌打ちした。

 噂はロバより速い。ルハの言った通りだった。

「ええ、まあ。ちょっとした商売の思いつきで」

「塩を買い取って、どうした」

「それは、商売上の秘密でして」

「秘密、か」

 ガルザは、大きな手で卓の上の杯を取った。中身を一息に飲み干した。それから、杯を、どん、と卓に置いた。

「いいか、行商人。一つだけ、教えておいてやる」

「はい」

「この町の塩は、全部、組合のものだ。町の塩も、よその町から運ばれてくる塩も、捨て場の塩も、全部だ。組合を通さずに、塩を動かすやつは、許さねえ」

「塩を、動かす、ですか」

「買うのも、売るのも、運ぶのも、捨てるのも、だ。この町で、塩に関わる商売をしたけりゃ、組合に話を通せ。組合に、手数料を払え。それが、この町の法だ」

 ナラムは、にこやかな顔を崩さなかった。

「肝に銘じます」

「銘じるだけじゃ、足りねえ」

 ガルザは身を乗り出した。卓がみしりと軋んだ。

「エシュヌで何をしたのかは知らねえ。だが、この町でそれをやったら、お前を塩の山に埋める。お前の妹もだ。白い髪の、変わった妹だそうだな」

 ナラムの背中を冷たいものが走った。

 ガルザは、ナラムの顔をじっと見ていた。小さな目の奥で、何かが、ちらちらと光っていた。

「妹は、関係ありません」

「関係あるかどうかは、俺が決める」

 ガルザは、太い指で、卓の上の帳面を叩いた。

「以上だ。行け」

 ガルザは、背もたれにどさりと体を預けた。

 ナラムは、深々と頭を下げて、部屋を出た。

 詰め所の外に出ると、昼の陽差しが、目に痛かった。

 ナラムは、しばらくその場に立ち尽くしていた。拳をきつく握りしめていた。手のひらに爪が食い込んでいた。

 

  *

 

 宿に戻ると、ティアとルハが、部屋の床に向かい合って座っていた。

 二人の間に、粘土の護符が、何枚も並べてあった。

「何してんだ」

「ごふ、つくってる」

 ティアが、粘土をこねながら言った。顔に粘土の汚れがついていた。

「ルハに、おしえて、もらった」

「なんで護符なんか」

「女同士の話のついでさ」

 ルハが悪びれもせずに言った。

「ティアちゃん、手先が器用でね。あたしより、よっぽどきれいな字を刻むよ。ほら、見てごらん」

 ルハが、一枚の護符をナラムに差し出した。

 粘土の板に、細い線で何かが刻まれていた。文字ではなかった。波のような、渦のような、不思議な模様だった。二つの渦が、互いの尾を追いかけるように絡み合っている。

「なんだ、これ」

「わからない」

 ティアが言った。

「てが、かってに、かいた」

「勝手に?」

「うん。でも、すき。この、もよう」

 ナラムは護符をじっと見た。

 二つの渦。片方は、細かな点で埋められていた。塩の粒のように見えた。もう片方は、なめらかな線で描かれていた。水の流れのように見えた。二つの渦が、真ん中で混ざり合っている。

 なぜか、ナラムは、その模様から、目が離せなかった。

「で、ガルザはどうだった」

 ルハの声で、ナラムは、我に返った。

「噂通りの男だった」

「でかかったろ」

「でかかった」

「脅されたろ」

「脅された。塩に関わる商売をしたら、塩の山に埋めるってよ。俺も、妹もな」

 ティアが、粘土をこねる手を止めた。

 ルハが真面目な顔になった。

「で、どうするんだい」

 ナラムは窓の外を見た。

 窓からは塩の山脈が見えた。白い山の斜面を、人足たちが、蟻のように列をなして登っていた。

「少し、考える」

「考えるってことは、やる気なんだね」

 ナラムは、窓の外から目を離さなかった。

「まったく、あんたって男は」

 ルハは呆れたように笑った。それから、ティアの方を向いた。

「ティアちゃん。あんたのお兄さん、塩の山に埋められても、いいのかい」

「よくない」

 ティアは即答した。

「ナラムを、うめるなら、わたしが、やまを、ぜんぶ、たべる」

 ルハは、きょとんとした顔をした。

 それから、冗談だと思ったのか、声を上げて笑った。

 ナラムは笑えなかった。

 ティアは、冗談を言う顔をしていなかった。

 

  *

 

 

 ――その日の朝、ナラムが宿を出ていったあと。

 部屋に残されたティアは、寝台の端に座って、戸口をじっと見つめていた。

 ルハは、もう一つの寝台に腰かけて、そんなティアを面白そうに眺めていた。

「そんなに見てても、お兄さんは帰ってこないよ」

「しってる」

「昼まで、まだだいぶあるよ」

「しってる」

「あんた、お兄さんのこと、ほんとに好きなんだねえ」

 ティアは、ゆっくりとルハの方を向いた。

「すき」

「おや、素直だ」

「ナラムと、いっしょに、いたい。ナラムが、うれしいと、わたし、うれしい。だから、すき」

 ルハは目を丸くした。

 それから、くすくすと笑い出した。

「誰に教わったんだい、それ」

「ナラム」

「お兄さんが? 好きってのは、一緒にいたいとか、相手が嬉しいと自分も嬉しいとか、そういうもんだって?」

「うん」

「で、お兄さんは、あんたのこと、好きだって言ったのかい」

 ティアの顔が少しだけ曇った。

「しょうばいの、あいぼう、って、いった」

「ははあ」

「すき、と、しょうばいの、あいぼう、は、ちがう?」

「さあねえ。人によるね」

「ナラムに、よると?」

「お兄さんによると、ねえ」

 ルハは寝台の上で膝を抱えた。

「あの男はね、たぶん、自分でも分かってないんだよ」

「わかってない?」

「自分が、あんたのこと、どう思ってるのか。分かってないから、商売の相棒、なんて言葉で、ごまかしてるのさ」

「ごまかす」

「そう。男ってのは、そういうところがあるんだ。自分の気持ちに、名前をつけるのが、下手なんだよ」

 ティアは首を傾げた。

「なまえ」

「そう。名前。好き、とか、愛してる、とか、そういう名前。女は、わりと、すぐつける。男は、なかなか、つけない。つけたら、取り返しがつかないと思ってるのさ」

「とりかえし」

「そう。一度、好きだって言ったら、もう、ただの商売の相棒には戻れない。だから、言わない。言わないで、商売の相棒って言っとけば、安全だろ」

 ティアは、しばらくルハの言葉を考えていた。

「ナラムは、こわいの?」

「怖い?」

「とりかえし、つかないの、こわいの?」

 ルハは少し目を細めた。

「そうかもしれないね。あの男は、たぶん、なくすのが怖いんだよ。拾われっ子だって、言ってたろ。親方に拾われて、親方に死なれて、大事なもんをなくすのが、怖いんだ。だから、大事なもんに、大事って名前をつけたがらない」

 ルハは、膝の上で指を組み直した。

「名前をつけなきゃ、なくしても、そんなに痛くないからね」

 ティアはうつむいた。

 膝の上で、両手をぎゅっと握りしめていた。

「わたし、なくならない」

「ん?」

「わたし、ナラムから、なくならない。ずっと、いる」

 ルハはティアを見た。

 ティアの横顔は真剣そのものだった。

「そうかい」

「うん。ずっと、いる。けいやく、したから」

「契約?」

「ナラムの、しょうばいの、あいぼうに、なる、けいやく。さいしょの、ひに、した」

 ティアは、上衣の隠しから、小さな石を、二つ、取り出して見せた。

「けいやくの、しるし。だから、ずっと、いる」

 ルハは何も言わなかった。

 何も言わずに、立ち上がって、ティアの隣に座った。それから、ティアの白い髪をそっと撫でた。

「あんたって子は」

「?」

「いや。あのお兄さんは、果報者だねえ」

「かほうもの?」

「幸せ者ってことさ」

 ティアは、少しだけ嬉しそうな顔をした。

 

  *

 

「ねえ、ルハ」

「なんだい」

「ルハは、すきな、ひと、いる?」

 ルハは髪を撫でる手を止めた。

「いたよ」

「いた?」

「昔ね。死んじまったけど」

「ごめん、なさい」

「謝ることないよ。もう、十年も前の話だ」

 ルハは窓の外を見た。

 窓からは白い塩の山脈が見えた。

「あそこで、働いてた男だった。兄貴の、人足仲間でね。兄貴より、もっと馬鹿な男だった。組合に逆らって、兄貴をかばって、塩の山に――」

 ルハは言葉を切った。

「まあ、そういうことさ」

 ルハは、窓の外の白い斜面から、目を逸らさなかった。

「だから、あたしは、あの山が嫌いなんだ。見るたびに、腹が立つ。でも、見ずにはいられない。だから、こうして、時々、この町に来る」

 ティアは、黙ってルハの手を握った。

 ルハの手は、乾いていて、少しだけしょっぱかった。

 かなしい、しょっぱさだった。

「ルハ」

「なんだい」

「わたし、あの、やま、すこし、たべても、いい?」

 ルハはティアを見た。

「あんたが、食べる?」

「うん。ルハの、すきなひとが、いる、やま。すこしだけ、たべて、すこしだけ、ちいさく、したい」

 ティアは、ルハの手を、もう一度握った。

「ちいさくなったら、ルハ、すこしだけ、はらが、たたなくなる?」

 ルハは長いこと黙っていた。

 それから、ふっと笑った。泣きそうな顔で笑った。

「あんたって子は、ほんとに」

「だめ?」

「だめじゃないよ。でも、お兄さんに、ちゃんと聞いてからにしな。あの男が、いいって言ったら、ね」

「うん」

「それと」

 ルハは、ティアの手を握り返した。

「あたしのために、無理はしなくていい。あんたは、あんたのお兄さんのために、生きてればいいんだ」

 ティアは、きょとんとした顔をした。

「ナラムの、ため?」

「そう」

「わたし、ナラムの、ために、いきてる?」

「さあね。それは、あんたが決めることさ」

 ルハは立ち上がった。

 それから、自分の荷物の中から、粘土の塊と細い木の棒を取り出した。

「さて。お兄さんが帰ってくるまで、暇つぶしでもしようか」

「ひまつぶし?」

「護符作りさ。あたしの商売道具だ。あんた、手先は器用かい」

「わからない」

「じゃあ、やってみな」

 ルハは、床に座って、粘土の塊を二つに分けた。片方をティアに渡した。

「こうやって、平たく伸ばして、板にする。で、この棒で、模様を刻む。模様は、何でもいい。それっぽく見えれば、それでいいのさ」

「それっぽく」

「そう。あたしの護符はね、効き目なんか、これっぽっちもないんだ。知ってるだろ」

「しってる」

「でも、買った人は、ちょっとだけ、安心する。塩降りの夜に、戸口の護符を見て、大丈夫、大丈夫って、自分に言い聞かせられる。それだけでも、銀二升の値打ちは、あると思ってるんだ」

「ルハ、ごふ、うるとき、しょっぱい」

「そりゃあね。嘘には違いないから」

「でも、いま、しょっぱくない」

「そうかい」

 ルハは笑った。

 ティアは、粘土の板を膝の上に置いた。木の棒を握った。

 しばらく、じっと粘土の板を見つめていた。

 それから、棒を動かし始めた。

 ゆっくりと迷いなく。

 二つの渦が、粘土の上に浮かび上がっていった。片方は細かな点で。もう片方はなめらかな線で。二つの渦が、互いの尾を追いかけるように絡み合っていく。

 ルハは、自分の手を止めて、その模様をじっと見ていた。

「ティアちゃん。それ、何の模様だい」

「わからない」

 ティアは、棒を動かしながら、答えた。

「てが、かってに、うごく」

「勝手に」

「うん。でも、この、もよう、すき」

 ティアは最後の線を刻み終えた。

 二つの渦が、真ん中で一つに溶け合っていた。

 ティアは、その模様を指でなぞった。

「しおと、みずが、まざってる」

 ルハは何も言わなかった。

 何も言わずに、ティアの手元の護符を長いこと見つめていた。

 なぜか、背筋がぞくりとした。

 怖いのではなかった。何か、とても古くて、とても大きなものを、ほんの一瞬だけ、垣間見たような気がしたのだ。

 ルハは、首を振って、自分の粘土に目を戻した。

「さて。もう何枚か、作ろうか。お兄さんが帰ってきたら、見せてやりな」

「うん」

 ティアは、新しい粘土を手に取った。

 

  *

 

 三日間、ナラムは何もしなかった。

 正確には、何もしていないふりをした。

 朝は市場に出て、大麦と干し物を売った。イシンで仕入れた大麦と干し豆と干し魚。シッパルの市場は、塩の捨て場で稼いだ金が回っているせいで、思ったより景気がよかった。大麦はよく売れた。

 昼は町を歩いた。歩いて、話を聞いた。誰が組合の手数料を払えていないのか。どの路地に、塩が捨てられたままになっているのか。人足たちは、どこに住んで、何を食べているのか。

 夜は、宿で、帳面に聞いた話を書きつけた。

 ティアは、毎日、ナラムについて歩いた。塩には手を出さなかった。見ているだけ、もしなかった。ナラムがそう言いつけたからだ。

「ナラム」

「ん」

「まだ?」

「まだだ」

「いつ?」

「準備ができたらだ」

「じゅんび」

「ああ。組合に目をつけられてる。下手に動いたら、お前が危ない」

「わたし、あぶなくない」

「お前は危なくなくても、周りが危ないんだよ」

 ティアは、むう、と唸った。

 けれど、言いつけは守った。

 

  *

 

 四日目の夜、ナラムは、動いた。

 町の北の外れに、塩捨て組合の手数料を払えない家々が固まっている路地がある。人足の家族が多く住んでいる路地だ。皮肉なことに、塩を捨てる仕事をしている男たちの家の前に、塩が積まれたままになっている。日に二升の稼ぎでは、組合の手数料が払えないのだ。

 ナラムは、その路地のいちばん奥の家の戸を叩いた。

 戸が細く開いた。

 隙間から、女の子が顔を覗かせた。七つか八つくらいだろうか。痩せていて、顔が塩で白く汚れていた。

「だれ?」

「行商人のナラムだ。お父さんか、お母さんは、いるかい」

「とうちゃんは、ねてる。せき、してる」

「お母さんは」

「いない」

 女の子は、それだけ言って、戸を閉めようとした。

「待って」

 声をかけたのはティアだった。

 ティアは、ナラムの後ろから進み出て、戸の隙間にしゃがみこんだ。女の子と目線を合わせた。

「あなた、なまえ、は?」

 女の子は、ティアの白い髪をじっと見た。

「ミル」

「ミル。わたし、ティア」

「ティア」

「ミルの、いえの、まえの、しょっぱいの。わたしに、ちょうだい?」

 ミルは、きょとんとした顔をした。

「しお?」

「うん」

「しお、ほしいの?」

「ほしい」

「へんなの」

「よく、いわれる」

 ティアはにっこり笑った。

 ミルは少しだけ笑った。

 ナラムは、荷車から、大麦の袋を下ろした。

「塩を、買い取りたいんだ。お前さんの家の前の塩の山を、全部。代わりに、大麦を、三升やる」

「さんじょう?」

「三升だ」

 ミルは目を見開いた。三升は、人足の父親の稼ぎの一日半分だ。

「ほんとう?」

「本当だ」

「とうちゃんに、きいてくる」

 ミルは、戸を閉めて、家の奥に駆け込んでいった。

 しばらくして、戸がまた開いた。

 今度は男が立っていた。三十くらいだろうか。けれど、顔はやつれて、五十にも見えた。顔も髪も塩で白い。咳き込みながら、ナラムを睨んだ。

「塩を、買い取るって?」

「ええ」

「組合の、回し者か」

「いいえ。ただの行商人です」

「組合に知れたら、ただじゃ済まねえぞ。あんたも、俺も」

「知れなければ、いいんでしょう」

 ナラムはにっこり笑った。

「夜のうちに、塩を運び出します。朝には、塩の山は、ただ消えてるだけだ。誰が持っていったのかなんて、誰にも分からない。組合の連中が、自分たちで片づけたと思うかもしれない」

 男は、しばらくナラムを睨んでいた。

 それから、激しく咳き込んだ。咳と一緒に、白い粉が、口から吹き出した。

「ミルが、腹を空かせてる」

 男は、咳の合間に絞り出すように言った。

「三升あれば、十日は、食わせてやれる」

「ええ」

「持っていけ」

 男は戸を開け放った。

 

  *

 

 その夜、ナラムとティアは、路地の家を七軒回った。

 どの家でも、話は同じだった。最初は疑われた。組合の回し者だと思われた。けれど、ナラムが大麦の袋を開けて見せ、ティアがしゃがみこんで子供と話すと、最後には、みんな、戸を開けてくれた。

 塩の山は、ティアが、一つずつ、吸い取った。

 手で触れるだけで、さらさらと溶けるように消えていく。荷車に積むふりも、籠に入れるふりももうしなかった。夜の闇が、全部、隠してくれた。

 七軒目の家の塩を吸い終えたとき、ティアは、ふう、と息をついて、夜空を見上げた。

「おいしかった」

「そうか」

「ここの、しょっぱいの、つかれてた」

「疲れてた?」

「うん。いっぱい、はこばれて、いっぱい、すてられて、つかれてた。わたしが、たべたら、やすめる」

 ナラムは、何も言わずに、ティアの頭を撫でた。

 ティアは目を細めた。

 路地の入り口で、小さな影が、こちらを見ていた。

 ミルだった。

「ティア」

「ミル? ねてなかったの?」

「みてた」

 ナラムはぎくりとした。

 見られた。ティアが、塩に触れただけで塩が消えるところを。

 ミルは、とことこと、ティアのそばまで歩いてきた。ティアの白い髪をじっと見上げた。

「ティア、しお、たべるの?」

 ティアはナラムを見た。ナラムは、どう答えていいか分からなかった。

 ティアは、少し考えてから、ミルに向き直った。

「うん。たべる」

「おいしい?」

「おいしい」

「へんなの」

「よく、いわれる」

 ミルはくすくすと笑った。

 それから、ティアの手をそっと握った。

「ティア、ありがとう。うちの、まえ、きれいになった」

「どういたしまして」

「とうちゃんに、いわない。ないしょ」

「ないしょ?」

「うん。ティアと、ミルの、ないしょ」

 ミルは、小指を立てて、ティアの前に差し出した。

 ティアは、きょとんとした顔でその小指を見ていた。

「これ、なに?」

「やくそくの、ゆび」

「やくそく」

 ティアは、ミルの真似をして、小指を立てた。ミルが、自分の小指をティアの小指に絡めた。

「ゆびきり」

「ゆびきり」

 ティアは、絡めた小指を不思議そうに見つめていた。

 それから、ぱっと顔を輝かせた。

「ゆびきり、すき」

 ミルは、よく分からないという顔をしながらも笑った。

 ナラムは二人を黙って見ていた。

 路地の家々の前から、塩の山が消えていた。月明かりの下で、土の地面が、黒く湿っていた。

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