しょっぱい女神と真水の行商人   作:西都東都

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第九話 塩捨て組合の頭

 路地の塩が消えたことは、翌日の昼には、町じゅうに知れ渡っていた。

「北の路地の塩が、一晩で消えたんだと」

「組合が片づけたのか」

「組合が、手数料を払ってない家の塩を、片づけるわけがあるか」

「じゃあ、誰が」

「噂じゃ、ほら、あの白い髪の娘を連れた行商人が」

「エシュヌで塩を買い取ったって男か」

「ああ。夜中に、北の路地を、荷車引いて歩いてたのを、見たやつがいるらしい」

 市場の井戸端の噂話を、ナラムは、背中で聞いていた。

 まずい、と思った。

 思ったより、噂の回りが早い。夜のうちに、誰にも見られずに済ませたつもりだった。けれど、路地の住人の誰かが、口を滑らせたのかもしれない。あるいは、夜中に起きていた誰かが、窓から見ていたのかもしれない。

 隣で、ティアが、不安そうにナラムの顔を見上げていた。

「ナラム」

「大丈夫だ。たぶん」

「たぶん?」

「たぶんだ」

 

  *

 

 その日の午後、ナラムが市場で店を広げていると男たちがやってきた。

 五人。全員、腕に白い布を巻いていた。

 先頭の男が、ナラムの荷車の前に立った。ガルザほどではないが、大きな男だった。

「お前が、ナラムか」

「ええ、そうですが」

「頭が、呼んでる」

「今、商売中でして」

「頭が、呼んでる」

 男は、もう一度同じ言葉を繰り返した。

 後ろの四人が、ナラムの荷車をぐるりと取り囲んだ。市場の客たちがさっと遠巻きになった。

 ナラムはため息をついた。

「分かりました。ちょっと、店を片づけますので――」

「店は、俺たちが見ててやる」

「いや、それは」

「見ててやる、と言ってるんだ」

 男の一人が、ナラムの荷車の大麦の袋に手をかけた。

 ティアがすっと前に出た。

「さわらないで」

 男たちがティアを見た。

 ティアは、男たちをじっと見返していた。河口の色の目が細くなっていた。

「ナラムの、しょうひん。さわらないで」

「なんだ、このガキ」

「ティア。いい。下がってろ」

「でも」

「いいから」

 ナラムは、ティアの肩を掴んで、自分の後ろに引き寄せた。

 ティアの肩は少しだけ冷たかった。

 ナラムは背筋がぞわりとした。ウンマの夜。イシンの夜。ティアの肩が冷たくなるとき、何が起きるか、ナラムはもう知っていた。

「ティア。落ち着け」

「おちついてる」

「落ち着いてない。肩が冷たい」

 ティアは、唇を噛んで、うつむいた。

「頼む。今は、怒るな」

 ティアは、黙ってナラムの袖を握った。

 その手が、少しずつ、温かくなっていった。

 ナラムは、男たちの方に向き直った。

「荷物は、宿に置いてきます。それから、伺います。それで、いいですね」

 先頭の男は、ナラムとティアを交互に見た。それから、ふん、と鼻を鳴らした。

「日が沈む前に来い。来なけりゃ、こっちから迎えに行く」

 男たちは去っていった。

 市場の客たちが、ひそひそと何かを囁き合っていた。

 

  *

 

「行くな」

 宿に戻って事情を話すと、ルハは、開口一番そう言った。

「行ったら、ただじゃ済まないよ。ガルザは、本当に、人を塩の山に埋める男だ。あたしは、この目で見たことがある」

「行かなきゃ、向こうから来る」

「だったら、逃げな。今夜のうちに。荷物なんか置いていけばいい」

「荷物を置いて、逃げる行商人がどこにいる」

「命あっての物種だろ!」

 ルハが、珍しく、声を荒らげた。

 ティアがびくりと肩を震わせた。

 ルハは、はっとして、口を押さえた。それから、深いため息をついた。

「ごめん、ティアちゃん。大きな声、出して」

「ううん」

 ティアは首を振った。それから、ナラムを見上げた。

「ナラム。いく、の?」

「ああ。行く」

「わたしも、いく」

「だめだ」

「いく」

「だめだって。お前は、ここにいろ。ルハと一緒に」

「いや」

 ティアはきっぱりと言った。

 エシュヌの街道で、「いや」と言ったときと、同じ顔だった。

「ナラムが、うめられるなら、わたしも、いく」

「埋められねえよ。話をしに行くだけだ」

「ほんと?」

「本当だ」

「わからない」

 ティアは、ナラムをじっと見上げた。

「ナラムの、ほんとか、うそか、わからない。だから、いく」

 ナラムは口を閉じた。

 ルハが、ナラムとティアを交互に見た。

「ティアちゃん。お兄さんの嘘は、分からないのかい」

「わからない。ほかのひとは、ちょっと、わかる。ナラムだけ、わからない」

「あたしのは?」

「ごふ、うるとき、すごく、しょっぱい」

 ルハは吹き出した。

「そりゃあ、そうだ。でもね、ティアちゃん。この男の今のは、嘘だよ。あたしには、分かる。顔に、書いてある」

「ほんと?」

「ほんとさ。男の嘘は、ガキのころから、顔で見てきたからね」

 ナラムはそっぽを向いた。

 ルハはまた吹き出した。

「分かったよ。ティアちゃん、お兄さんと一緒に行きな。あたしも、行く」

「は?」

「ルハも?」

「あたしも、ガルザには、ちょっと、言ってやりたいことがあるんでね」

 ルハは立ち上がった。

 ナラムはルハを見上げた。

「あんた、なんでそこまで」

「言ったろ。借りがあるって」

「ラルサの井戸の件なら、もう、十分――」

「それだけじゃないよ」

 ルハはナラムの言葉を遮った。

「この町で、昔、あたしの兄貴が死んだ」

 部屋の中が静かになった。

「塩捨ての人足だった。十年、塩を担いで、山を登って、肺をやられて、死んだ。死ぬ前の冬に、組合の手数料を払えなくて、家の前に、よその町の塩を山ほど捨てられた。あたしは、そのとき、何もできなかった」

 ルハは、窓の外の白い山脈を見た。

「だから、あんたが、北の路地で何をやったのか、聞いたとき――正直、ちょっと、胸がすっとしたんだ」

 ナラムは何も言えなかった。

 ティアが、立ち上がって、ルハのそばに行った。

 そして、ルハの手をそっと握った。

「ルハ、かなしい、しょっぱさ」

「そうかい」

 ルハはティアを見下ろした。

 それから、ティアの白い髪をくしゃくしゃと撫でた。

「あんたって子は、ほんとに、変な子だねえ」

「よく、いわれる」

 ルハは笑った。

 笑いながら、目の端を指でぬぐった。

 

  *

 

 組合の詰め所の奥の部屋には、ガルザのほかに、もう一人、男がいた。

 ガルザの隣の上座の椅子に痩せた男が座っていた。四十くらいだろうか。絹の上衣を隙なく着こなしている。髪は、香油できっちりと撫でつけられていた。指が長く、白かった。塩の粉一つ、ついていなかった。

 この町で、塩の粉がついていない人間をナラムは初めて見た。

「塩税官の、ウトゥル様だ」

 ルハがナラムの耳元で囁いた。

 ウトゥルは、ナラムを見て、それから、ナラムの後ろのルハを見て、最後に、ナラムの袖を掴んでいるティアを見た。

 ティアを見たとき、ウトゥルの目が、ほんの少しだけ細くなった。

「君が、ナラムくんか」

 声は穏やかだった。役人らしい、丁寧で抑揚のない声。

「エシュヌで塩を買い取り、ラルサで井戸を清め、ギルスで錆を落とし、イシンの祭りで干し魚を売りさばいた。なかなか、忙しい旅をしているようだね」

 ナラムは背筋が凍った。

 全部、知られている。

「どこで、そのお話を」

「塩税官というのはね、塩に関わることなら、何でも耳に入るようにできているんだよ。塩の動きを追うのが、仕事だからね」

 ウトゥルは、長い指で卓の上の帳面をめくった。

「エシュヌの塩捨ての手数料が、先月から、目に見えて減っている。町の塩が、減っているからだ。ラルサの東の路地の井戸の塩気が、急に抜けた。ギルスの鍛冶屋の錆びた鉄が、一晩で錆一つない地金になった。塩が、消えているんだよ。君の通った後で」

 ウトゥルは、ナラムの顔を、ゆっくりと眺めた。

「不思議なことだね。実に、不思議なことだ」

 ウトゥルは帳面を閉じた。

「さて、ナラムくん。この町の塩の捨て場は、王から任された、大事な仕事だ。南の町々の塩を、一手に引き受けて、捨てる。その手数料は、王の財源の、大事な一部になっている。わかるかね?」

「はい」

「塩が消えれば、手数料が減る。手数料が減れば、王の財源が減る。王の財源が減れば、私の首が飛ぶ。私は、首を飛ばされたくないんだよ」

 ウトゥルは穏やかに微笑んだ。

「だから、聞かせてほしい。君は、どうやって、塩を消しているんだね?」

 ナラムは口を開きかけた。

 嘘をつこうとした。いつものように北の巫女様の秘薬だと。

 けれど、ウトゥルの目を見て、やめた。

 この男には通じない。

「商売上の、秘密です」

「秘密、か」

 ウトゥルは少しだけ首を傾げた。それから、ガルザの方を向いた。

「ガルザ。この人は、秘密だそうだよ」

「なら、吐かせるまでだ」

 ガルザが立ち上がった。椅子が、ごとん、と倒れた。

 ナラムは、とっさにティアを背中にかばった。

 ティアの手が、ナラムの袖をぎゅっと握った。冷たかった。

「ティア」

 ティアの指が、さらに冷たくなった。

「ティア、落ち着け」

 ガルザが、卓を回り込んで、ナラムの前に立った。見上げるほどの大きさだった。

「おい、行商人。痛い目を見たくなけりゃ、吐け」

 ガルザの拳が、ゆっくりと持ち上がった。

「吐かねえなら――」

「待ちな」

 声を上げたのはルハだった。

 ルハは、ナラムの前にすっと割り込んだ。ガルザをまっすぐ見上げた。

「ガルザ。あんた、あたしの顔、覚えてるかい」

 ガルザはルハを見下ろした。小さな目が少しだけ細くなった。

「知らねえな」

「十年前。北の路地の、エンリって人足の家の前に、よその町の塩を山ほど捨てさせたのを、覚えてるかい」

「知らねえな。そんなこと、いちいち覚えてられるか」

「エンリは、あたしの兄貴だ」

 ガルザの顔は変わらなかった。

「それがどうした」

「兄貴は、その冬に、死んだよ。肺をやられてね。家の前の塩の山が崩れて、家の中まで塩が入ってきて、息ができなくなって、死んだ」

「それがどうした、と言ってるんだ」

 ルハの拳がぶるぶると震えた。

 ナラムはルハの肩に手を置いた。

「ルハ」

「分かってる」

 ルハは深く息を吸った。それから、ガルザではなく、ウトゥルの方を向いた。

「ウトゥル様。あたしは、ルハ。この辺りの町を回ってる、護符売りです」

「知っているよ。ラルサの井戸の塩を抜いた、北の巫女様の護符を売っている女だろう」

「そうです。その護符売りが、一つ、商売のお話を持ってきました」

「商売?」

「この男の、秘密の話です」

 ナラムは、ぎょっとして、ルハを見た。

 ルハはナラムを見なかった。ウトゥルだけを見ていた。

「この男の秘密を、あたしが、知っています。あたしが、聞き出して、ウトゥル様にお伝えします。三日ください」

「ほう」

「その代わり、三日の間は、この男にも、この男の妹にも、手を出さないでいただきたい。手を出したら、秘密は、永遠に、闇の中です」

 ウトゥルはルハをじっと見ていた。

 それから、ゆっくりと微笑んだ。

「面白い。三日だね」

「三日です」

「いいだろう。ガルザ、座りなさい」

 ガルザは、不満そうに鼻を鳴らした。けれど、倒れた椅子を起こして、どさりと座った。

「ただし、三日の間、この三人には、組合の者を見張りにつける。町から出ようとしたら、そのときは、約束は無しだ」

「承知しました」

 ルハは深々と頭を下げた。

 ナラムは、何が起きているのか、分からなかった。分からないまま、ルハに腕を引かれて、部屋を出た。

 

  *

 

「どういうつもりだ」

 詰め所を出て、宿に向かう道すがら、ナラムは、低い声で言った。

 後ろから、白い布を腕に巻いた男が二人、ついてきていた。見張りだ。

「時間稼ぎだよ」

 ルハは、前を向いたまま、小声で答えた。

「あのままだったら、あんた、本当に、塩の山に埋められてた。それに」

「それに?」

「あんたの妹ちゃんの手、冷たかったろ」

 ナラムはぎくりとした。

「あたしも、ティアちゃんの手を、ずっと見てた。あの部屋で、ガルザが立ち上がったとき、ティアちゃんの手のまわりで、床の塩の粉が、渦を巻いてた。あのままだったら、何かが起きてた。そうだろ?」

 ナラムは答えなかった。

 ルハはちらりとティアを見た。ティアは、ナラムの袖を掴んだまま、うつむいて歩いていた。

「何が起きるのかは、聞かない。聞かないって、言ったからね。でも、あんな場所で、あんな連中の前で、起きていいことじゃないのは、分かる」

「ああ」

「三日だ。三日で、どうするか、考えな」

 ナラムは空を見上げた。

 白い山脈の向こうに夕陽が沈もうとしていた。山脈が、血のような赤に染まっていた。

 

  *

 

 その夜、ナラムは眠れなかった。

 宿の部屋の窓から、塩の山脈が見えた。月明かりの下で、白い稜線が、ぼんやりと光っていた。

 部屋には寝台が二つあった。おかみが、気を利かせたのか、からかうのに飽きたのか、どちらかは分からない。ティアは、片方の寝台で丸くなって眠っていた。

 ナラムは、もう片方の寝台に座って、帳面を開いていた。何も書いていなかった。ただ開いていた。

 戸を叩く音がした。

「起きてるかい」

 ルハだった。

 ナラムは、ティアを起こさないようにそっと戸を開けた。廊下に、ルハが、灯りを持って立っていた。

「ちょっと、いいかい」

「ああ」

 二人は宿の裏の井戸端に出た。

 見張りの男たちが、宿の表で、居眠りをしているのが見えた。

 ルハは井戸の縁に腰かけた。ナラムは、その隣に少し離れて座った。

「で、どうするんだい」

「考えてる」

「考えてるだけじゃ、三日なんて、あっという間だよ」

「分かってる」

 ルハは灯りを地面に置いた。炎がゆらゆらと揺れた。

「ねえ、ナラム」

「ん」

「あの子、何なんだい」

 ナラムは黙った。

「聞かないって、言ったよ。言ったけどさ。あんたが、あの子を守るために、塩の山に埋められそうになってるのを見たら、聞かずにいられなくなった」

 ルハは、手の中の灯りに目を落とした。

「あの子、人間じゃ、ないんだろ」

 ナラムは長いこと黙っていた。

 それから、小さく、頷いた。

「ああ」

「何なんだい」

「分からない」

「分からない?」

「本当に、分からないんだ。塩の柱から、出てきた。エシュヌの手前の、振り返り女の柱だ。塩降りの日に、柱が割れて、中から出てきた。裸で。自分が誰なのかも、分からない。名前も、半分しか覚えてない」

 ルハは目を見開いた。

「振り返り女の、柱から」

「ああ」

「それで、塩を食べる」

「食べる。触っただけで、吸い取る。井戸の塩も、錆の塩も、畑の塩も。それから」

 ナラムは言葉を切った。

 ウンマの夜。イシンの夜。ティアの声が、ティアのものではなくなったこと。ティアが怖がると塩が降ること。

 それは言えなかった。言ったら、本当にそうなってしまう気がした。

「それから?」

「いや。それだけだ」

 ルハは、ナラムの顔をじっと見ていた。

「あんた、いま、嘘ついたね」

「なんで分かる」

「顔に書いてあるのさ。あの子は、あんたの中身が読めないって言ってたけど、あたしには、顔で読める」

 ナラムは苦笑した。

「で、あんたにとって、あの子は何なんだい」

「は?」

「妹じゃないのは、知ってる。じゃあ、何なんだい。拾いものかい。商売の道具かい」

 ナラムの返事を待たずに、ルハは続けた。

「塩を吸い取る女なんて、使いようによっちゃ、とんでもない金になる。ウトゥルみたいな連中に売れば、一生遊んで暮らせるだけの銀が手に入る。あんた、それ、考えたこと、ないのかい」

 ナラムはルハを見た。

 ルハは、試すような目でナラムを見返していた。

「ない」

「嘘」

「嘘じゃねえ」

「あんたは商人だろ。考えないわけがない」

「考えたことは、あるかもしれない」

 ナラムは正直に言った。

「最初は、商売の種だと思った。塩を安く買い取って、あいつに食わせれば、恩が売れる。情報が手に入る。宿が安くなる。それだけだった」

「今は?」

「今は」

 ナラムは言葉に詰まった。

 今は何だ。

 ティアは何だ。

「今も、商売の相棒だ」

「本当に?」

「本当だ」

「嘘だね」

 ルハがくすりと笑った。

 ナラムは何も言い返せなかった。

「分からねえんだよ」

 しばらくして、ナラムは、ぽつりと言った。

「あいつが何なのか、分からねえ。俺があいつを、どう思ってるのかも、分からねえ。分からねえことには、あとで値をつける。それが、親方の教えだった。でも、あいつには、値がつけられねえ」

 ナラムは、乾いた地面に、指で線を引いた。

「いくらだって言われても、分からねえんだ。銀何粒、とか、大麦何升、とか。そういうもんじゃ、ねえんだよ」

 ルハは黙って聞いていた。

 それから、ふう、と長い息を吐いた。

「そうかい」

「なんだよ」

「別に。ただ、あんたは、思ったより、ずっと馬鹿な男だなと思って」

「おい」

「褒めてるんだよ」

 ルハは立ち上がった。灯りを拾い上げた。

「あたしの惚れた男も、馬鹿な男だった。肺をやられた兄貴をかばって、組合に逆らって、塩の山に、埋められた。馬鹿な男は、嫌いじゃないよ」

 灯りの火が、小さく揺れた。

「三日のうちに、どうにかしな。あたしも、できることは、する」

 ルハは宿の中に戻っていった。

 ナラムは、井戸端に一人で座っていた。

 月が、白い山脈の上に高く昇っていた。

 

  *

 

 部屋に戻ると、ティアが、寝台の上で起きていた。

「起きてたのか」

「ルハと、はなしてた」

「ああ」

「なに、はなしてた?」

「商売の話だ」

「ほんと?」

 黙ったままだった。

 ナラムは、自分の寝台に腰を下ろした。

 ティアは、膝を抱えて、ナラムを見ていた。

「ナラム」

「ん」

「わたし、ナラムの、なに?」

 ナラムは顔を上げた。

 ティアの目が、月明かりを受けて、河口の色に光っていた。

「聞いてたのか」

「きこえた。すこしだけ」

 ティアは、ナラムの隣に、腰を下ろした。

「わたし、ナラムの、しょうばいの、あいぼう?」

「ああ」

「それだけ?」

 ナラムは答えられなかった。

 ティアは、しばらくナラムの答えを待っていた。それから、少しだけ寂しそうに笑った。

「わたし、ナラムの、しょうばいの、あいぼうで、いい」

 ティアは、膝を抱えて、月を見上げた。

「でも、ナラムは、わたしの、しょうばいの、あいぼう、だけじゃない」

「どういう意味だ」

「わからない」

 ティアは首を振った。

「わからない、けど、ナラムは、わたしの、ナラム」

 ナラムは何も言えなかった。

 ティアは、それだけ言うと、寝台に横になって、ナラムに背を向けた。

「おやすみ、ナラム」

「ああ。おやすみ」

 ナラムは、長いことティアの白い髪を見ていた。

 月明かりの中で、それは、塩の結晶のようにきらきらと光っていた。

 

  *

 

 翌朝、ナラムは北の路地を訪ねた。

 見張りの男たちが、ぴったりと後ろについてきた。構わなかった。見られて困ることは今日はしない。

 ミルの家の戸を叩くとミルの父親が出てきた。昨日より、少しだけ顔色がよかった。大麦の粥を腹いっぱい食べたのだろう。

「あんたか」

「ええ。少し、お話を伺いたくて」

「話?」

「組合の、人足の仕事のことです」

 ミルの父親――名前を、アッダといった――は、ナラムの後ろの見張りたちをちらりと見た。それから、顔をしかめた。

「入れ」

 家の中は狭かった。土間と奥に寝床が一つあるだけ。ミルが、寝床の上でティアに手を振った。ティアは手を振り返した。

「組合の仕事の、何が聞きたい」

「人足は、何人くらい、いるんですか」

「さあな。四百か、五百か。町の男の、三人に一人だ」

「みんな、日に二升で?」

「みんな、日に二升だ。頭の取り巻きの監督連中は、もっともらってるがな」

「辞めたいと思ってる人は」

 アッダは乾いた笑い声を上げた。

「辞めたくない人足がいたら、会ってみたいね。だが、辞めてどうする。この町には、ほかに仕事がない。畑は、全部、塩にやられた。商売をしようにも、元手がない。組合を辞めたら、明日から、家族を食わせられなくなる」

 アッダは、ひび割れた手を、膝の上でこすった。

「それに、辞めようとしたら、組合が許さねえ。辞めた人足の家の前には、塩が捨てられる。見せしめだ。だから、みんな、辞められねえんだ」

 ナラムは黙って聞いていた。

 アッダは激しく咳き込んだ。咳が収まるのを待って、ナラムは、言った。

「もし、塩の捨て場が、なくなったら?」

 アッダは、きょとんとした顔をした。

「なくなる?」

「塩の山が、消えて、町の塩も、消えて、捨てる塩が、なくなったら。人足の仕事は、どうなります」

「そりゃあ、なくなるだろうな」

「そうなったら、困りますか」

 アッダはしばらく考え込んだ。

「困る、だろうな。仕事がなくなる。稼ぎがなくなる。家族が、食えなくなる」

 アッダは、そこで口をつぐんだ。

「だが」

 アッダは寝床のミルの方を見た。ミルは、ティアと何やら小声で話していた。

「塩がなくなったら、畑が、戻るかもしれねえ。この町も、昔は、麦の町だった。俺の親父も、じいさんも、麦を作ってた。俺も、本当は、麦を作りたかった」

 アッダは、咳を一つした。

「麦を作れるなら、人足なんか、今日にだって辞めてやる。肺をやられて死ぬのを待つより、ずっといい」

 アッダは乾いた笑い声を上げた。

「馬鹿な話だ。塩がなくなるなんて、あるわけねえ。あの山を見ろ。十二年分だ。全部の人足が、死ぬまで担いで運んだって、一粒も減りゃしねえ」

 ナラムは、窓の外の白い山脈を見た。

 ――ぜんぶ、たべたい。

 ティアの声が耳の奥で響いた。

「そうですね」

 ナラムは立ち上がった。

「ありがとうございました。参考になりました」

「何の参考だ」

「商売の、です」

 アッダは怪訝な顔をした。

 ティアが寝床から降りてきた。ミルが、ティアの手を握って、離さなかった。

「ティア、もう、いっちゃうの?」

「うん。また、くる」

「ほんと?」

「ほんと」

 ティアは小指を立てた。ミルは、嬉しそうに自分の小指を絡めた。

 

  *

 

 宿に戻る道すがら、ナラムは、ずっと黙っていた。

 ティアが、何度もナラムの顔を見上げた。

「ナラム。なに、かんがえてる?」

「計算だ」

「けいさん?」

「人足が、五百人。日に二升。ひと月で、三万升。塩の山がなくなったら、五百人の人足の家族が、路頭に迷う」

「ろとう?」

「食えなくなるってことだ」

 ティアは黙った。

「でも、塩の山がなくなったら、この町の畑が戻るかもしれない。畑が戻れば、麦が作れる。麦が作れれば、人足は、人足じゃなくなる。ただし、ウンマのじいさんが言ってたろ。土が戻っても、麦が実るまでには、何年もかかる」

「なんねんも」

「その何年もの間、五百人の人足と、その家族は、何を食う」

 ティアは答えられなかった。

 ナラムも答えられなかった。

「ナラム」

「ん」

「わたし、しおの、やま、たべちゃ、だめ?」

 ティアは、ナラムの袖を、そっと引いた。

「たべたら、ミルの、とうちゃん、こまる?」

「分からねえ」

「わからない?」

「困るかもしれない。困らないかもしれない。困るのは、最初の何年かだけかもしれない。でも、その何年かで、ミルの父ちゃんは、死ぬかもしれない」

 ティアはうつむいた。

「むずかしい」

「ああ、難しい」

「しょうばい、むずかしい」

「ああ。商売は、難しいんだ」

 ナラムは、ティアの頭をぽんと叩いた。

「だから、考える。考えて、考えて、いちばんましな値を、つける。それが、商人の仕事だ」

 ティアはナラムを見上げた。

「ナラム、かっこいい」

「は?」

「いまの、ナラム、かっこよかった」

 ナラムは、何も言わずに、早足になった。

 後ろで、見張りの男たちが、くすくすと笑っているのが聞こえた。

 

  *

 

 二日目の昼下がり、ナラムが宿で帳面とにらめっこをしている間、ティアは、北の路地にいた。

 見張りの男が一人、路地の入り口で、退屈そうにあくびをしていた。ナラムが、ティアを一人で出すのを渋ると、ルハが「子供と遊ぶだけさ。あたしがついてく」と言って、半ば強引に連れ出したのだ。

 ルハは、路地の端の崩れかけた塀に腰かけて、居眠りをしていた。

 ティアは、ミルと、路地の子供たちに囲まれていた。

「ティア、ティア、もう一回、やって!」

「やって、やって!」

 子供たちが口々にせがんだ。

 ティアは、地面に、小さな塩の粒を指先で撒いた。それから、その塩の粒にふうっと息を吹きかけた。

 塩の粒が、ふわりと宙に浮かび上がった。

 ティアの息に乗って、くるくると、渦を巻きながら、子供たちの頭の上を舞った。午後の陽を受けて、きらきらと光った。まるで、小さな星が、昼間の空に散らばったようだった。

「わあ……!」

「きれい!」

「雪みたい!」

「ゆき?」

「北の山に降る、白くて冷たいやつ! とうちゃんが、昔、見たって言ってた!」

 ティアは、くすりと笑って、指先をくるりと回した。

 宙を舞っていた塩の粒が、一斉に、ティアの指先に吸い寄せられて、すうっと消えた。

「ああー!」

「消えちゃった!」

「ティア、もう一回!」

「もう、おしまい」

「えー!」

「ティア、ケチ!」

「けち?」

「いじわるってこと!」

「わたし、いじわる、じゃない。ナラムが、ほどほどに、って、いった」

「ナラムって、だれ?」

「わたしの、しょうばいの、あいぼう」

「あいぼうって、なに?」

「いっしょに、しょうばいする、ひと」

「ふうん。恋人?」

 ティアは目をぱちぱちさせた。

「こいびと?」

「好きな人のこと! とうちゃんと、かあちゃんみたいな!」

「すきな、ひと」

「ティア、ナラムのこと、好き?」

「すき」

「じゃあ、恋人だ!」

「こいびと」

 ティアは、その言葉を口の中で転がした。

 子供たちが、きゃあきゃあとはやし立てた。

「恋人! 恋人!」

「ティアとナラム、恋人!」

 ティアは、なぜか、顔が熱くなった。

 塩でできているはずなのに、ちゃんと熱くなった。

 

  *

 

 子供たちが、それぞれの家に呼ばれて帰っていったあと、ミルだけが、ティアの隣に残った。

 二人は、ミルの家の戸口の前の塩の消えた地面に並んで座っていた。

「ティア」

「ん」

「ミルの、かあちゃん、ね」

「うん」

「しおで、しんだの」

 ティアはミルの方を向いた。

 ミルは、膝を抱えて、地面を見つめていた。

「しお、で?」

「うん。ミルが、もっと、ちいさいとき。しおふりの、よる。かあちゃん、よその、まちの、しおを、すてられた、いえの、まえの、しおを、どけようとして」

 ミルの指が、膝の上で、ぎゅっと丸まった。

「しおの、やまが、くずれて、かあちゃん、うまっちゃった」

 ミルは淡々と言った。泣いてはいなかった。何度も、何度も、自分に言い聞かせてきた言葉なのだろう。

「とうちゃん、すごく、ないた。それから、とうちゃん、せき、ひどくなった。ミル、とうちゃんも、しおで、しんじゃうと、おもった」

 ティアは何も言えなかった。

 ミルの横顔は塩で白く汚れていた。その白い汚れの下に、乾いた涙の跡が、うっすらと残っていた。

「でも、ティアが、きて、しお、たべてくれた。とうちゃん、せき、すこし、へった。だから、ミル、ティア、すき」

「ミル」

「ティア、しお、すき?」

「すき」

「ミル、しお、きらい。かあちゃん、うめた、から」

 ティアはうつむいた。

 しおはゴミ。

 しおはみんなを困らせる。

 しおは、ミルのかあちゃんをうめた。

 ティアは、自分の手のひらを見つめた。白い手。塩と同じ色の手。

「ミル」

「ん」

「わたし、しお、だよ」

 ミルは顔を上げた。

「しお?」

「わたし、しおで、できてる。たぶん」

「ティアが?」

「うん。だから、しお、すき。だから、しお、たべる」

 ミルはティアをじっと見た。

 ティアは、ミルの目を見返せなかった。

「ミルの、かあちゃん、うめた、しおと、わたし、おなじ」

 ティアの声が、少し震えた。

「ミル、わたしも、きらい?」

 しばらく、ミルは何も言わなかった。

 ティアは、うつむいたまま、待っていた。

 やがて、ミルの小さな手が、ティアの手に触れた。

「ティアは、ちがう」

「ちがう?」

「ティアは、しお、たべてくれる、しお。かあちゃん、うめた、しおは、ひとを、たべる、しお。ちがうよ」

 ティアは顔を上げた。

 ミルが、ティアの手をぎゅっと握っていた。

「ティアは、いい、しお」

「いい、しお」

「うん。いい、しお」

 ミルはにっこり笑った。

 ティアは、なぜか、目の奥が、熱くなった。

 目の縁に、何かがにじんだ。塩の結晶ではなかった。ただの温かい、涙だった。

「ありがとう、ミル」

「どういたしまして」

 ミルは、ティアの真似をして、ぺこりと頭を下げた。

 

  *

 

「これ、ミルに、あげる」

 ティアは、上衣の隠しから、粘土の護符を取り出した。

 昨日、ルハと一緒に作った護符だった。二つの渦が、互いの尾を追いかけるように絡み合っている模様。

「ごふ?」

「うん。わたしが、つくった」

「ルハの、ごふ、ききめ、ないって、とうちゃん、いってた」

「これも、ききめ、ない、かも」

「えー」

「でも」

 ティアは、護符をミルの手のひらに乗せた。

「これ、しおと、みずが、まざってる、もよう。わたしの、すきな、もよう」

「ティアの、すきな、もよう」

「うん。しお、だけだと、さみしい。みず、だけでも、さみしい。まざると、さみしく、ない」

 ミルは護符をじっと見つめた。

「ティアと、ナラム、みたい」

「え?」

「ティアは、しお。ナラムは……ナラムは、なに?」

 ティアは少し考えた。

 ナラムの水。しょっぱくない、ナラム。いい匂いのナラム。

「ナラムは、みず、かも」

「じゃあ、これ、ティアと、ナラム!」

 ミルは護符を空にかざした。

 午後の陽差しを受けて、粘土の渦が、くっきりと影を落とした。

「ティアと、ナラムが、まざってる、ごふ!」

「まざってる」

「恋人の、ごふだ!」

「こいびと」

 ティアはまた顔が熱くなった。

 ミルは、きゃあきゃあと、はしゃいで、護符を胸に抱いた。

「ミル、これ、だいじにする! とうちゃんの、まくらもとに、かざる! とうちゃん、せき、もっと、へるように!」

「ききめ、ないかも、よ?」

「いいの! ティアが、つくったから、いいの!」

 ミルは、走って、家の中に入っていった。

 ティアは、一人、戸口の前に座ったまま、自分の手のひらを見つめていた。

 白い手。塩の手。

 ――ティアは、いい、しお。

「いい、しお」

 小さく、呟いた。

 路地の端の塀の上で、ルハが、薄目を開けて、ティアを見ていた。

 居眠りしているふりをずっと続けていたのだった。

 

  *

 

 夕方、宿に戻ったティアは、ナラムの顔を見るなり、言った。

「ナラム」

「ん、おかえり。どうした、顔が赤いぞ」

「こいびと、って、なに?」

 ナラムは、手に持っていた帳面を床に落とした。

「誰に聞いた」

「ミル。ミルが、ティアと、ナラムは、こいびと、って」

「子供の言うことだ。気にするな」

「こいびと、って、すきな、ひと、のこと?」

「まあ、そうだな」

「わたし、ナラム、すき。だから、こいびと?」

「ちがう」

「ちがう?」

「恋人ってのは、その……お互いが、好きだって、言い合って、初めて、恋人だ」

「おたがい」

「お互いだ」

 ティアは、ナラムをじっと見上げた。

「ナラムは、まだ、いってない」

 ナラムは、目を逸らした。

「だから、まだ、こいびと、じゃない?」

「そういうことだ」

「ふうん」

 ティアは少しだけ唇を尖らせた。

 それから、ふいに笑った。

「じゃあ、まってる」

「は?」

「ナラムが、いうの、まってる。あとで、ねだん、つけるって、いったから」

 ナラムは何も言い返せなかった。

 床に落ちた帳面を拾い上げて、顔を隠すように開いた。

 背中で、ルハが、腹を抱えて笑っているのが、聞こえた。

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