しょっぱい女神と真水の行商人 作:西都東都
路地の塩が消えたことは、翌日の昼には、町じゅうに知れ渡っていた。
「北の路地の塩が、一晩で消えたんだと」
「組合が片づけたのか」
「組合が、手数料を払ってない家の塩を、片づけるわけがあるか」
「じゃあ、誰が」
「噂じゃ、ほら、あの白い髪の娘を連れた行商人が」
「エシュヌで塩を買い取ったって男か」
「ああ。夜中に、北の路地を、荷車引いて歩いてたのを、見たやつがいるらしい」
市場の井戸端の噂話を、ナラムは、背中で聞いていた。
まずい、と思った。
思ったより、噂の回りが早い。夜のうちに、誰にも見られずに済ませたつもりだった。けれど、路地の住人の誰かが、口を滑らせたのかもしれない。あるいは、夜中に起きていた誰かが、窓から見ていたのかもしれない。
隣で、ティアが、不安そうにナラムの顔を見上げていた。
「ナラム」
「大丈夫だ。たぶん」
「たぶん?」
「たぶんだ」
*
その日の午後、ナラムが市場で店を広げていると男たちがやってきた。
五人。全員、腕に白い布を巻いていた。
先頭の男が、ナラムの荷車の前に立った。ガルザほどではないが、大きな男だった。
「お前が、ナラムか」
「ええ、そうですが」
「頭が、呼んでる」
「今、商売中でして」
「頭が、呼んでる」
男は、もう一度同じ言葉を繰り返した。
後ろの四人が、ナラムの荷車をぐるりと取り囲んだ。市場の客たちがさっと遠巻きになった。
ナラムはため息をついた。
「分かりました。ちょっと、店を片づけますので――」
「店は、俺たちが見ててやる」
「いや、それは」
「見ててやる、と言ってるんだ」
男の一人が、ナラムの荷車の大麦の袋に手をかけた。
ティアがすっと前に出た。
「さわらないで」
男たちがティアを見た。
ティアは、男たちをじっと見返していた。河口の色の目が細くなっていた。
「ナラムの、しょうひん。さわらないで」
「なんだ、このガキ」
「ティア。いい。下がってろ」
「でも」
「いいから」
ナラムは、ティアの肩を掴んで、自分の後ろに引き寄せた。
ティアの肩は少しだけ冷たかった。
ナラムは背筋がぞわりとした。ウンマの夜。イシンの夜。ティアの肩が冷たくなるとき、何が起きるか、ナラムはもう知っていた。
「ティア。落ち着け」
「おちついてる」
「落ち着いてない。肩が冷たい」
ティアは、唇を噛んで、うつむいた。
「頼む。今は、怒るな」
ティアは、黙ってナラムの袖を握った。
その手が、少しずつ、温かくなっていった。
ナラムは、男たちの方に向き直った。
「荷物は、宿に置いてきます。それから、伺います。それで、いいですね」
先頭の男は、ナラムとティアを交互に見た。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「日が沈む前に来い。来なけりゃ、こっちから迎えに行く」
男たちは去っていった。
市場の客たちが、ひそひそと何かを囁き合っていた。
*
「行くな」
宿に戻って事情を話すと、ルハは、開口一番そう言った。
「行ったら、ただじゃ済まないよ。ガルザは、本当に、人を塩の山に埋める男だ。あたしは、この目で見たことがある」
「行かなきゃ、向こうから来る」
「だったら、逃げな。今夜のうちに。荷物なんか置いていけばいい」
「荷物を置いて、逃げる行商人がどこにいる」
「命あっての物種だろ!」
ルハが、珍しく、声を荒らげた。
ティアがびくりと肩を震わせた。
ルハは、はっとして、口を押さえた。それから、深いため息をついた。
「ごめん、ティアちゃん。大きな声、出して」
「ううん」
ティアは首を振った。それから、ナラムを見上げた。
「ナラム。いく、の?」
「ああ。行く」
「わたしも、いく」
「だめだ」
「いく」
「だめだって。お前は、ここにいろ。ルハと一緒に」
「いや」
ティアはきっぱりと言った。
エシュヌの街道で、「いや」と言ったときと、同じ顔だった。
「ナラムが、うめられるなら、わたしも、いく」
「埋められねえよ。話をしに行くだけだ」
「ほんと?」
「本当だ」
「わからない」
ティアは、ナラムをじっと見上げた。
「ナラムの、ほんとか、うそか、わからない。だから、いく」
ナラムは口を閉じた。
ルハが、ナラムとティアを交互に見た。
「ティアちゃん。お兄さんの嘘は、分からないのかい」
「わからない。ほかのひとは、ちょっと、わかる。ナラムだけ、わからない」
「あたしのは?」
「ごふ、うるとき、すごく、しょっぱい」
ルハは吹き出した。
「そりゃあ、そうだ。でもね、ティアちゃん。この男の今のは、嘘だよ。あたしには、分かる。顔に、書いてある」
「ほんと?」
「ほんとさ。男の嘘は、ガキのころから、顔で見てきたからね」
ナラムはそっぽを向いた。
ルハはまた吹き出した。
「分かったよ。ティアちゃん、お兄さんと一緒に行きな。あたしも、行く」
「は?」
「ルハも?」
「あたしも、ガルザには、ちょっと、言ってやりたいことがあるんでね」
ルハは立ち上がった。
ナラムはルハを見上げた。
「あんた、なんでそこまで」
「言ったろ。借りがあるって」
「ラルサの井戸の件なら、もう、十分――」
「それだけじゃないよ」
ルハはナラムの言葉を遮った。
「この町で、昔、あたしの兄貴が死んだ」
部屋の中が静かになった。
「塩捨ての人足だった。十年、塩を担いで、山を登って、肺をやられて、死んだ。死ぬ前の冬に、組合の手数料を払えなくて、家の前に、よその町の塩を山ほど捨てられた。あたしは、そのとき、何もできなかった」
ルハは、窓の外の白い山脈を見た。
「だから、あんたが、北の路地で何をやったのか、聞いたとき――正直、ちょっと、胸がすっとしたんだ」
ナラムは何も言えなかった。
ティアが、立ち上がって、ルハのそばに行った。
そして、ルハの手をそっと握った。
「ルハ、かなしい、しょっぱさ」
「そうかい」
ルハはティアを見下ろした。
それから、ティアの白い髪をくしゃくしゃと撫でた。
「あんたって子は、ほんとに、変な子だねえ」
「よく、いわれる」
ルハは笑った。
笑いながら、目の端を指でぬぐった。
*
組合の詰め所の奥の部屋には、ガルザのほかに、もう一人、男がいた。
ガルザの隣の上座の椅子に痩せた男が座っていた。四十くらいだろうか。絹の上衣を隙なく着こなしている。髪は、香油できっちりと撫でつけられていた。指が長く、白かった。塩の粉一つ、ついていなかった。
この町で、塩の粉がついていない人間をナラムは初めて見た。
「塩税官の、ウトゥル様だ」
ルハがナラムの耳元で囁いた。
ウトゥルは、ナラムを見て、それから、ナラムの後ろのルハを見て、最後に、ナラムの袖を掴んでいるティアを見た。
ティアを見たとき、ウトゥルの目が、ほんの少しだけ細くなった。
「君が、ナラムくんか」
声は穏やかだった。役人らしい、丁寧で抑揚のない声。
「エシュヌで塩を買い取り、ラルサで井戸を清め、ギルスで錆を落とし、イシンの祭りで干し魚を売りさばいた。なかなか、忙しい旅をしているようだね」
ナラムは背筋が凍った。
全部、知られている。
「どこで、そのお話を」
「塩税官というのはね、塩に関わることなら、何でも耳に入るようにできているんだよ。塩の動きを追うのが、仕事だからね」
ウトゥルは、長い指で卓の上の帳面をめくった。
「エシュヌの塩捨ての手数料が、先月から、目に見えて減っている。町の塩が、減っているからだ。ラルサの東の路地の井戸の塩気が、急に抜けた。ギルスの鍛冶屋の錆びた鉄が、一晩で錆一つない地金になった。塩が、消えているんだよ。君の通った後で」
ウトゥルは、ナラムの顔を、ゆっくりと眺めた。
「不思議なことだね。実に、不思議なことだ」
ウトゥルは帳面を閉じた。
「さて、ナラムくん。この町の塩の捨て場は、王から任された、大事な仕事だ。南の町々の塩を、一手に引き受けて、捨てる。その手数料は、王の財源の、大事な一部になっている。わかるかね?」
「はい」
「塩が消えれば、手数料が減る。手数料が減れば、王の財源が減る。王の財源が減れば、私の首が飛ぶ。私は、首を飛ばされたくないんだよ」
ウトゥルは穏やかに微笑んだ。
「だから、聞かせてほしい。君は、どうやって、塩を消しているんだね?」
ナラムは口を開きかけた。
嘘をつこうとした。いつものように北の巫女様の秘薬だと。
けれど、ウトゥルの目を見て、やめた。
この男には通じない。
「商売上の、秘密です」
「秘密、か」
ウトゥルは少しだけ首を傾げた。それから、ガルザの方を向いた。
「ガルザ。この人は、秘密だそうだよ」
「なら、吐かせるまでだ」
ガルザが立ち上がった。椅子が、ごとん、と倒れた。
ナラムは、とっさにティアを背中にかばった。
ティアの手が、ナラムの袖をぎゅっと握った。冷たかった。
「ティア」
ティアの指が、さらに冷たくなった。
「ティア、落ち着け」
ガルザが、卓を回り込んで、ナラムの前に立った。見上げるほどの大きさだった。
「おい、行商人。痛い目を見たくなけりゃ、吐け」
ガルザの拳が、ゆっくりと持ち上がった。
「吐かねえなら――」
「待ちな」
声を上げたのはルハだった。
ルハは、ナラムの前にすっと割り込んだ。ガルザをまっすぐ見上げた。
「ガルザ。あんた、あたしの顔、覚えてるかい」
ガルザはルハを見下ろした。小さな目が少しだけ細くなった。
「知らねえな」
「十年前。北の路地の、エンリって人足の家の前に、よその町の塩を山ほど捨てさせたのを、覚えてるかい」
「知らねえな。そんなこと、いちいち覚えてられるか」
「エンリは、あたしの兄貴だ」
ガルザの顔は変わらなかった。
「それがどうした」
「兄貴は、その冬に、死んだよ。肺をやられてね。家の前の塩の山が崩れて、家の中まで塩が入ってきて、息ができなくなって、死んだ」
「それがどうした、と言ってるんだ」
ルハの拳がぶるぶると震えた。
ナラムはルハの肩に手を置いた。
「ルハ」
「分かってる」
ルハは深く息を吸った。それから、ガルザではなく、ウトゥルの方を向いた。
「ウトゥル様。あたしは、ルハ。この辺りの町を回ってる、護符売りです」
「知っているよ。ラルサの井戸の塩を抜いた、北の巫女様の護符を売っている女だろう」
「そうです。その護符売りが、一つ、商売のお話を持ってきました」
「商売?」
「この男の、秘密の話です」
ナラムは、ぎょっとして、ルハを見た。
ルハはナラムを見なかった。ウトゥルだけを見ていた。
「この男の秘密を、あたしが、知っています。あたしが、聞き出して、ウトゥル様にお伝えします。三日ください」
「ほう」
「その代わり、三日の間は、この男にも、この男の妹にも、手を出さないでいただきたい。手を出したら、秘密は、永遠に、闇の中です」
ウトゥルはルハをじっと見ていた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「面白い。三日だね」
「三日です」
「いいだろう。ガルザ、座りなさい」
ガルザは、不満そうに鼻を鳴らした。けれど、倒れた椅子を起こして、どさりと座った。
「ただし、三日の間、この三人には、組合の者を見張りにつける。町から出ようとしたら、そのときは、約束は無しだ」
「承知しました」
ルハは深々と頭を下げた。
ナラムは、何が起きているのか、分からなかった。分からないまま、ルハに腕を引かれて、部屋を出た。
*
「どういうつもりだ」
詰め所を出て、宿に向かう道すがら、ナラムは、低い声で言った。
後ろから、白い布を腕に巻いた男が二人、ついてきていた。見張りだ。
「時間稼ぎだよ」
ルハは、前を向いたまま、小声で答えた。
「あのままだったら、あんた、本当に、塩の山に埋められてた。それに」
「それに?」
「あんたの妹ちゃんの手、冷たかったろ」
ナラムはぎくりとした。
「あたしも、ティアちゃんの手を、ずっと見てた。あの部屋で、ガルザが立ち上がったとき、ティアちゃんの手のまわりで、床の塩の粉が、渦を巻いてた。あのままだったら、何かが起きてた。そうだろ?」
ナラムは答えなかった。
ルハはちらりとティアを見た。ティアは、ナラムの袖を掴んだまま、うつむいて歩いていた。
「何が起きるのかは、聞かない。聞かないって、言ったからね。でも、あんな場所で、あんな連中の前で、起きていいことじゃないのは、分かる」
「ああ」
「三日だ。三日で、どうするか、考えな」
ナラムは空を見上げた。
白い山脈の向こうに夕陽が沈もうとしていた。山脈が、血のような赤に染まっていた。
*
その夜、ナラムは眠れなかった。
宿の部屋の窓から、塩の山脈が見えた。月明かりの下で、白い稜線が、ぼんやりと光っていた。
部屋には寝台が二つあった。おかみが、気を利かせたのか、からかうのに飽きたのか、どちらかは分からない。ティアは、片方の寝台で丸くなって眠っていた。
ナラムは、もう片方の寝台に座って、帳面を開いていた。何も書いていなかった。ただ開いていた。
戸を叩く音がした。
「起きてるかい」
ルハだった。
ナラムは、ティアを起こさないようにそっと戸を開けた。廊下に、ルハが、灯りを持って立っていた。
「ちょっと、いいかい」
「ああ」
二人は宿の裏の井戸端に出た。
見張りの男たちが、宿の表で、居眠りをしているのが見えた。
ルハは井戸の縁に腰かけた。ナラムは、その隣に少し離れて座った。
「で、どうするんだい」
「考えてる」
「考えてるだけじゃ、三日なんて、あっという間だよ」
「分かってる」
ルハは灯りを地面に置いた。炎がゆらゆらと揺れた。
「ねえ、ナラム」
「ん」
「あの子、何なんだい」
ナラムは黙った。
「聞かないって、言ったよ。言ったけどさ。あんたが、あの子を守るために、塩の山に埋められそうになってるのを見たら、聞かずにいられなくなった」
ルハは、手の中の灯りに目を落とした。
「あの子、人間じゃ、ないんだろ」
ナラムは長いこと黙っていた。
それから、小さく、頷いた。
「ああ」
「何なんだい」
「分からない」
「分からない?」
「本当に、分からないんだ。塩の柱から、出てきた。エシュヌの手前の、振り返り女の柱だ。塩降りの日に、柱が割れて、中から出てきた。裸で。自分が誰なのかも、分からない。名前も、半分しか覚えてない」
ルハは目を見開いた。
「振り返り女の、柱から」
「ああ」
「それで、塩を食べる」
「食べる。触っただけで、吸い取る。井戸の塩も、錆の塩も、畑の塩も。それから」
ナラムは言葉を切った。
ウンマの夜。イシンの夜。ティアの声が、ティアのものではなくなったこと。ティアが怖がると塩が降ること。
それは言えなかった。言ったら、本当にそうなってしまう気がした。
「それから?」
「いや。それだけだ」
ルハは、ナラムの顔をじっと見ていた。
「あんた、いま、嘘ついたね」
「なんで分かる」
「顔に書いてあるのさ。あの子は、あんたの中身が読めないって言ってたけど、あたしには、顔で読める」
ナラムは苦笑した。
「で、あんたにとって、あの子は何なんだい」
「は?」
「妹じゃないのは、知ってる。じゃあ、何なんだい。拾いものかい。商売の道具かい」
ナラムの返事を待たずに、ルハは続けた。
「塩を吸い取る女なんて、使いようによっちゃ、とんでもない金になる。ウトゥルみたいな連中に売れば、一生遊んで暮らせるだけの銀が手に入る。あんた、それ、考えたこと、ないのかい」
ナラムはルハを見た。
ルハは、試すような目でナラムを見返していた。
「ない」
「嘘」
「嘘じゃねえ」
「あんたは商人だろ。考えないわけがない」
「考えたことは、あるかもしれない」
ナラムは正直に言った。
「最初は、商売の種だと思った。塩を安く買い取って、あいつに食わせれば、恩が売れる。情報が手に入る。宿が安くなる。それだけだった」
「今は?」
「今は」
ナラムは言葉に詰まった。
今は何だ。
ティアは何だ。
「今も、商売の相棒だ」
「本当に?」
「本当だ」
「嘘だね」
ルハがくすりと笑った。
ナラムは何も言い返せなかった。
「分からねえんだよ」
しばらくして、ナラムは、ぽつりと言った。
「あいつが何なのか、分からねえ。俺があいつを、どう思ってるのかも、分からねえ。分からねえことには、あとで値をつける。それが、親方の教えだった。でも、あいつには、値がつけられねえ」
ナラムは、乾いた地面に、指で線を引いた。
「いくらだって言われても、分からねえんだ。銀何粒、とか、大麦何升、とか。そういうもんじゃ、ねえんだよ」
ルハは黙って聞いていた。
それから、ふう、と長い息を吐いた。
「そうかい」
「なんだよ」
「別に。ただ、あんたは、思ったより、ずっと馬鹿な男だなと思って」
「おい」
「褒めてるんだよ」
ルハは立ち上がった。灯りを拾い上げた。
「あたしの惚れた男も、馬鹿な男だった。肺をやられた兄貴をかばって、組合に逆らって、塩の山に、埋められた。馬鹿な男は、嫌いじゃないよ」
灯りの火が、小さく揺れた。
「三日のうちに、どうにかしな。あたしも、できることは、する」
ルハは宿の中に戻っていった。
ナラムは、井戸端に一人で座っていた。
月が、白い山脈の上に高く昇っていた。
*
部屋に戻ると、ティアが、寝台の上で起きていた。
「起きてたのか」
「ルハと、はなしてた」
「ああ」
「なに、はなしてた?」
「商売の話だ」
「ほんと?」
黙ったままだった。
ナラムは、自分の寝台に腰を下ろした。
ティアは、膝を抱えて、ナラムを見ていた。
「ナラム」
「ん」
「わたし、ナラムの、なに?」
ナラムは顔を上げた。
ティアの目が、月明かりを受けて、河口の色に光っていた。
「聞いてたのか」
「きこえた。すこしだけ」
ティアは、ナラムの隣に、腰を下ろした。
「わたし、ナラムの、しょうばいの、あいぼう?」
「ああ」
「それだけ?」
ナラムは答えられなかった。
ティアは、しばらくナラムの答えを待っていた。それから、少しだけ寂しそうに笑った。
「わたし、ナラムの、しょうばいの、あいぼうで、いい」
ティアは、膝を抱えて、月を見上げた。
「でも、ナラムは、わたしの、しょうばいの、あいぼう、だけじゃない」
「どういう意味だ」
「わからない」
ティアは首を振った。
「わからない、けど、ナラムは、わたしの、ナラム」
ナラムは何も言えなかった。
ティアは、それだけ言うと、寝台に横になって、ナラムに背を向けた。
「おやすみ、ナラム」
「ああ。おやすみ」
ナラムは、長いことティアの白い髪を見ていた。
月明かりの中で、それは、塩の結晶のようにきらきらと光っていた。
*
翌朝、ナラムは北の路地を訪ねた。
見張りの男たちが、ぴったりと後ろについてきた。構わなかった。見られて困ることは今日はしない。
ミルの家の戸を叩くとミルの父親が出てきた。昨日より、少しだけ顔色がよかった。大麦の粥を腹いっぱい食べたのだろう。
「あんたか」
「ええ。少し、お話を伺いたくて」
「話?」
「組合の、人足の仕事のことです」
ミルの父親――名前を、アッダといった――は、ナラムの後ろの見張りたちをちらりと見た。それから、顔をしかめた。
「入れ」
家の中は狭かった。土間と奥に寝床が一つあるだけ。ミルが、寝床の上でティアに手を振った。ティアは手を振り返した。
「組合の仕事の、何が聞きたい」
「人足は、何人くらい、いるんですか」
「さあな。四百か、五百か。町の男の、三人に一人だ」
「みんな、日に二升で?」
「みんな、日に二升だ。頭の取り巻きの監督連中は、もっともらってるがな」
「辞めたいと思ってる人は」
アッダは乾いた笑い声を上げた。
「辞めたくない人足がいたら、会ってみたいね。だが、辞めてどうする。この町には、ほかに仕事がない。畑は、全部、塩にやられた。商売をしようにも、元手がない。組合を辞めたら、明日から、家族を食わせられなくなる」
アッダは、ひび割れた手を、膝の上でこすった。
「それに、辞めようとしたら、組合が許さねえ。辞めた人足の家の前には、塩が捨てられる。見せしめだ。だから、みんな、辞められねえんだ」
ナラムは黙って聞いていた。
アッダは激しく咳き込んだ。咳が収まるのを待って、ナラムは、言った。
「もし、塩の捨て場が、なくなったら?」
アッダは、きょとんとした顔をした。
「なくなる?」
「塩の山が、消えて、町の塩も、消えて、捨てる塩が、なくなったら。人足の仕事は、どうなります」
「そりゃあ、なくなるだろうな」
「そうなったら、困りますか」
アッダはしばらく考え込んだ。
「困る、だろうな。仕事がなくなる。稼ぎがなくなる。家族が、食えなくなる」
アッダは、そこで口をつぐんだ。
「だが」
アッダは寝床のミルの方を見た。ミルは、ティアと何やら小声で話していた。
「塩がなくなったら、畑が、戻るかもしれねえ。この町も、昔は、麦の町だった。俺の親父も、じいさんも、麦を作ってた。俺も、本当は、麦を作りたかった」
アッダは、咳を一つした。
「麦を作れるなら、人足なんか、今日にだって辞めてやる。肺をやられて死ぬのを待つより、ずっといい」
アッダは乾いた笑い声を上げた。
「馬鹿な話だ。塩がなくなるなんて、あるわけねえ。あの山を見ろ。十二年分だ。全部の人足が、死ぬまで担いで運んだって、一粒も減りゃしねえ」
ナラムは、窓の外の白い山脈を見た。
――ぜんぶ、たべたい。
ティアの声が耳の奥で響いた。
「そうですね」
ナラムは立ち上がった。
「ありがとうございました。参考になりました」
「何の参考だ」
「商売の、です」
アッダは怪訝な顔をした。
ティアが寝床から降りてきた。ミルが、ティアの手を握って、離さなかった。
「ティア、もう、いっちゃうの?」
「うん。また、くる」
「ほんと?」
「ほんと」
ティアは小指を立てた。ミルは、嬉しそうに自分の小指を絡めた。
*
宿に戻る道すがら、ナラムは、ずっと黙っていた。
ティアが、何度もナラムの顔を見上げた。
「ナラム。なに、かんがえてる?」
「計算だ」
「けいさん?」
「人足が、五百人。日に二升。ひと月で、三万升。塩の山がなくなったら、五百人の人足の家族が、路頭に迷う」
「ろとう?」
「食えなくなるってことだ」
ティアは黙った。
「でも、塩の山がなくなったら、この町の畑が戻るかもしれない。畑が戻れば、麦が作れる。麦が作れれば、人足は、人足じゃなくなる。ただし、ウンマのじいさんが言ってたろ。土が戻っても、麦が実るまでには、何年もかかる」
「なんねんも」
「その何年もの間、五百人の人足と、その家族は、何を食う」
ティアは答えられなかった。
ナラムも答えられなかった。
「ナラム」
「ん」
「わたし、しおの、やま、たべちゃ、だめ?」
ティアは、ナラムの袖を、そっと引いた。
「たべたら、ミルの、とうちゃん、こまる?」
「分からねえ」
「わからない?」
「困るかもしれない。困らないかもしれない。困るのは、最初の何年かだけかもしれない。でも、その何年かで、ミルの父ちゃんは、死ぬかもしれない」
ティアはうつむいた。
「むずかしい」
「ああ、難しい」
「しょうばい、むずかしい」
「ああ。商売は、難しいんだ」
ナラムは、ティアの頭をぽんと叩いた。
「だから、考える。考えて、考えて、いちばんましな値を、つける。それが、商人の仕事だ」
ティアはナラムを見上げた。
「ナラム、かっこいい」
「は?」
「いまの、ナラム、かっこよかった」
ナラムは、何も言わずに、早足になった。
後ろで、見張りの男たちが、くすくすと笑っているのが聞こえた。
*
二日目の昼下がり、ナラムが宿で帳面とにらめっこをしている間、ティアは、北の路地にいた。
見張りの男が一人、路地の入り口で、退屈そうにあくびをしていた。ナラムが、ティアを一人で出すのを渋ると、ルハが「子供と遊ぶだけさ。あたしがついてく」と言って、半ば強引に連れ出したのだ。
ルハは、路地の端の崩れかけた塀に腰かけて、居眠りをしていた。
ティアは、ミルと、路地の子供たちに囲まれていた。
「ティア、ティア、もう一回、やって!」
「やって、やって!」
子供たちが口々にせがんだ。
ティアは、地面に、小さな塩の粒を指先で撒いた。それから、その塩の粒にふうっと息を吹きかけた。
塩の粒が、ふわりと宙に浮かび上がった。
ティアの息に乗って、くるくると、渦を巻きながら、子供たちの頭の上を舞った。午後の陽を受けて、きらきらと光った。まるで、小さな星が、昼間の空に散らばったようだった。
「わあ……!」
「きれい!」
「雪みたい!」
「ゆき?」
「北の山に降る、白くて冷たいやつ! とうちゃんが、昔、見たって言ってた!」
ティアは、くすりと笑って、指先をくるりと回した。
宙を舞っていた塩の粒が、一斉に、ティアの指先に吸い寄せられて、すうっと消えた。
「ああー!」
「消えちゃった!」
「ティア、もう一回!」
「もう、おしまい」
「えー!」
「ティア、ケチ!」
「けち?」
「いじわるってこと!」
「わたし、いじわる、じゃない。ナラムが、ほどほどに、って、いった」
「ナラムって、だれ?」
「わたしの、しょうばいの、あいぼう」
「あいぼうって、なに?」
「いっしょに、しょうばいする、ひと」
「ふうん。恋人?」
ティアは目をぱちぱちさせた。
「こいびと?」
「好きな人のこと! とうちゃんと、かあちゃんみたいな!」
「すきな、ひと」
「ティア、ナラムのこと、好き?」
「すき」
「じゃあ、恋人だ!」
「こいびと」
ティアは、その言葉を口の中で転がした。
子供たちが、きゃあきゃあとはやし立てた。
「恋人! 恋人!」
「ティアとナラム、恋人!」
ティアは、なぜか、顔が熱くなった。
塩でできているはずなのに、ちゃんと熱くなった。
*
子供たちが、それぞれの家に呼ばれて帰っていったあと、ミルだけが、ティアの隣に残った。
二人は、ミルの家の戸口の前の塩の消えた地面に並んで座っていた。
「ティア」
「ん」
「ミルの、かあちゃん、ね」
「うん」
「しおで、しんだの」
ティアはミルの方を向いた。
ミルは、膝を抱えて、地面を見つめていた。
「しお、で?」
「うん。ミルが、もっと、ちいさいとき。しおふりの、よる。かあちゃん、よその、まちの、しおを、すてられた、いえの、まえの、しおを、どけようとして」
ミルの指が、膝の上で、ぎゅっと丸まった。
「しおの、やまが、くずれて、かあちゃん、うまっちゃった」
ミルは淡々と言った。泣いてはいなかった。何度も、何度も、自分に言い聞かせてきた言葉なのだろう。
「とうちゃん、すごく、ないた。それから、とうちゃん、せき、ひどくなった。ミル、とうちゃんも、しおで、しんじゃうと、おもった」
ティアは何も言えなかった。
ミルの横顔は塩で白く汚れていた。その白い汚れの下に、乾いた涙の跡が、うっすらと残っていた。
「でも、ティアが、きて、しお、たべてくれた。とうちゃん、せき、すこし、へった。だから、ミル、ティア、すき」
「ミル」
「ティア、しお、すき?」
「すき」
「ミル、しお、きらい。かあちゃん、うめた、から」
ティアはうつむいた。
しおはゴミ。
しおはみんなを困らせる。
しおは、ミルのかあちゃんをうめた。
ティアは、自分の手のひらを見つめた。白い手。塩と同じ色の手。
「ミル」
「ん」
「わたし、しお、だよ」
ミルは顔を上げた。
「しお?」
「わたし、しおで、できてる。たぶん」
「ティアが?」
「うん。だから、しお、すき。だから、しお、たべる」
ミルはティアをじっと見た。
ティアは、ミルの目を見返せなかった。
「ミルの、かあちゃん、うめた、しおと、わたし、おなじ」
ティアの声が、少し震えた。
「ミル、わたしも、きらい?」
しばらく、ミルは何も言わなかった。
ティアは、うつむいたまま、待っていた。
やがて、ミルの小さな手が、ティアの手に触れた。
「ティアは、ちがう」
「ちがう?」
「ティアは、しお、たべてくれる、しお。かあちゃん、うめた、しおは、ひとを、たべる、しお。ちがうよ」
ティアは顔を上げた。
ミルが、ティアの手をぎゅっと握っていた。
「ティアは、いい、しお」
「いい、しお」
「うん。いい、しお」
ミルはにっこり笑った。
ティアは、なぜか、目の奥が、熱くなった。
目の縁に、何かがにじんだ。塩の結晶ではなかった。ただの温かい、涙だった。
「ありがとう、ミル」
「どういたしまして」
ミルは、ティアの真似をして、ぺこりと頭を下げた。
*
「これ、ミルに、あげる」
ティアは、上衣の隠しから、粘土の護符を取り出した。
昨日、ルハと一緒に作った護符だった。二つの渦が、互いの尾を追いかけるように絡み合っている模様。
「ごふ?」
「うん。わたしが、つくった」
「ルハの、ごふ、ききめ、ないって、とうちゃん、いってた」
「これも、ききめ、ない、かも」
「えー」
「でも」
ティアは、護符をミルの手のひらに乗せた。
「これ、しおと、みずが、まざってる、もよう。わたしの、すきな、もよう」
「ティアの、すきな、もよう」
「うん。しお、だけだと、さみしい。みず、だけでも、さみしい。まざると、さみしく、ない」
ミルは護符をじっと見つめた。
「ティアと、ナラム、みたい」
「え?」
「ティアは、しお。ナラムは……ナラムは、なに?」
ティアは少し考えた。
ナラムの水。しょっぱくない、ナラム。いい匂いのナラム。
「ナラムは、みず、かも」
「じゃあ、これ、ティアと、ナラム!」
ミルは護符を空にかざした。
午後の陽差しを受けて、粘土の渦が、くっきりと影を落とした。
「ティアと、ナラムが、まざってる、ごふ!」
「まざってる」
「恋人の、ごふだ!」
「こいびと」
ティアはまた顔が熱くなった。
ミルは、きゃあきゃあと、はしゃいで、護符を胸に抱いた。
「ミル、これ、だいじにする! とうちゃんの、まくらもとに、かざる! とうちゃん、せき、もっと、へるように!」
「ききめ、ないかも、よ?」
「いいの! ティアが、つくったから、いいの!」
ミルは、走って、家の中に入っていった。
ティアは、一人、戸口の前に座ったまま、自分の手のひらを見つめていた。
白い手。塩の手。
――ティアは、いい、しお。
「いい、しお」
小さく、呟いた。
路地の端の塀の上で、ルハが、薄目を開けて、ティアを見ていた。
居眠りしているふりをずっと続けていたのだった。
*
夕方、宿に戻ったティアは、ナラムの顔を見るなり、言った。
「ナラム」
「ん、おかえり。どうした、顔が赤いぞ」
「こいびと、って、なに?」
ナラムは、手に持っていた帳面を床に落とした。
「誰に聞いた」
「ミル。ミルが、ティアと、ナラムは、こいびと、って」
「子供の言うことだ。気にするな」
「こいびと、って、すきな、ひと、のこと?」
「まあ、そうだな」
「わたし、ナラム、すき。だから、こいびと?」
「ちがう」
「ちがう?」
「恋人ってのは、その……お互いが、好きだって、言い合って、初めて、恋人だ」
「おたがい」
「お互いだ」
ティアは、ナラムをじっと見上げた。
「ナラムは、まだ、いってない」
ナラムは、目を逸らした。
「だから、まだ、こいびと、じゃない?」
「そういうことだ」
「ふうん」
ティアは少しだけ唇を尖らせた。
それから、ふいに笑った。
「じゃあ、まってる」
「は?」
「ナラムが、いうの、まってる。あとで、ねだん、つけるって、いったから」
ナラムは何も言い返せなかった。
床に落ちた帳面を拾い上げて、顔を隠すように開いた。
背中で、ルハが、腹を抱えて笑っているのが、聞こえた。