The Child Leading Beyond the Wall 作:housen
第1話 冷たい揺り籠
最初に戻ってきたのは匂いだった。
焼けた砂と油、それから腐りかけた⾁の匂い。⿐の奥にこびりつく⽢ったるさに吐き気がこみ上げる。けれど吐くための⼒が体のどこにも残っていない。
⽬を開ける。
⽩い。
空が⽩く焼けている。
まぶたを閉じてもう⼀度開ける。今度は⾊が⾒えた。灰⾊がかった⻘。雲ひとつない乾いた空。指を動かそうとするが動かない。腕も⾜も⾸も他⼈のものみたいに重い。かろうじて⽬⽟だけが動く。横に転がすとすぐそばに誰かの顔があった。
⼦どもの顔。
灰⾊の肌に、乾いた⽬。
半開きの⼝から蠅が⼀匹這い出してくる。
声は出ない。
視線をずらす。その向こうにも別の体がある。⽩い検査着を着た同じくらいの年の⼦どもが何⼈も折り重なってる。⽳の底だ。四⽅を⼟の壁が囲み、頭上に四⾓く切り取られた空がある。
なんだ、これ。
頭だけが妙にはっきりしてる。さっきまで何をしてたのか。部屋にいた。モニターの光とコントローラーの感触。夜中の三時。それより先を思い出そうとすると、頭の中に霧がかかる。
⾃分の名前も出てこない。
そのかわり頭のどこかで別のものがざわついてる。
⽿鳴りに近い。けれど⾳じゃない。うなじのあたりから細い⽷が無数に伸びて、空気の中へ溶けていく。その⽷の先に何かが引っかかってる。
最初は電波が⾒えてると思った。
⾃分で考えておいて笑いそうになる。笑うための筋⾁も動かなかった。
⽷の⼀本が⼩さな機械に触れた。⽳の縁に⽴つ監視カメラだ。触れた途端に中⾝が流れ込んでくる。⽳の底を⾒下ろす映像。そこに転がる⾃分の姿。
⽩い髪の痩せた少年が死体の⼭の中で⽬を開けてる。
誰だよ、これ。
映像の隅に⽇付と社名のロゴ。⼆〇七四年。Militech International Armaments。
知ってる名前だった。ゲームの中で何百回も⾒た。銃にも⾞にも敵の兵⼠の装備にも⼊ってた名前。夜通し遊んだあのゲームの舞台は、⼆〇七七年のナイトシティという街だった。
嘘だろ。
⽷はさらに伸びていく。カメラから建物の中へ。ドアのロック、空調、照明、警備⽤の⾃動銃座。どれも意識に触れてきて、こっちが望めば中⾝を開いてみせる。開くのに⼒はいらない。
その奥でもっと⼤きなものに触れた。
それは壁だった。
形も⾊もない。それでも壁だということだけははっきりわかる。果てが⾒えないほど⾼く広く、世界の端に沿ってそびえてる。表⾯は冷たく、触れた⽷の先がじりじりと焼けていく。
ブラックウォール
ゲームで何度も聞いた名前がそのまま浮かんだ。ネットの中にある、越えてはいけない壁。向こう側には、⼈間の⼿を離れて暴⾛したAIたちが蠢いている。近づいたネットランナーは脳を焼かれて死ぬ。ゲームの登場⼈物たちはそう⾔って壁を恐れてたな。
壁の表⾯に触れたまま、細い⽷が内側へ沈んでいく。最初からそこに鍵⽳があったかのようにスルスルと、抵抗なく。
向こう側で何かが⽬を開けた。
ひとつじゃない。いくつもの巨⼤な気配が、暗い⽔の底から浮かび上がってこっちへ寄ってくる。⾔葉はない。⾒られてるという感覚だけがある。逃げようとした。が、体は相変わらず動かない。そして、気配のひとつが⽷に触れる。
正直死んだと思った。
予想に反してそれは⽌まった。⽷の先にとどまって確かめてからすり寄ってくる。
理屈じゃなかった。
確信だ。
こいつらは俺の⾔うことを聞く。
*
最初に頼んだのは体を動かすことだった。頼むという⾔い⽅が正しいのかはわからない。そうしてほしいと思っただけで、AIのひ
とつが⽷を伝って降りてきて⾸の後ろに⼊り込んだ。痛みはない。冷たい⽔が背⾻を流れ落ちていく感覚のあとに指が動いた。
⼀本ずつ、ぎこちなく。それから⼿⾸、肘、肩。
起き上がるまでに⼗分以上かかった。
死体の⼭から這い出して、⼟の壁に背中を預ける。⾃分の⼿を⾒る。細い⼦どもの⼿。⽖の間に乾いた⾎がこびりついてる。検査着の胸元には【XIII】と番号だけが印字されてた。
うなじに指を這わせると、⽪膚の下に硬いものが埋まってる。⽷はそこから伸びてた。
コイツはサイバーデッキだ。ゲームのネットランナーたちも、ネットに潜るためにこういうものを体に⼊れてた。
カメラの映像の送り先を探す。⽷をたどると警備室に⾏き着いた。モニターが並び、椅⼦に制服の男が⼀⼈座ってる。男は⼿元の端末で何かの動画を⾒ていて、⽳の映像には⽬もくれない。
男の体の中にも⽷の届くものがあった。⽬に、腕に、⽿の後ろに、サイバーウェアが埋め込まれてる。
建物の中にいる⼈間を数える。研究員が⼗⼀⼈、警備が九⼈。全員が体のどこかにサイバーウェアを⼊れてる。どれも市場では⾒たことのない型番。ミリテクが外に出していない最新式だ。
多いなと思った。怖くはなかった。
壁の向こうから来たAIたちが、こっちの考えを待ってる。
さて、手早くヤッちまおう。
*
施設の⼊⼝までは這うようにして歩いた。
途中で⼆回転ぶ。膝を擦りむいて⾎が出たが、痛みは鈍い。扉は勝⼿に開いた。
中は静かだった。空調の低い唸りと、どこかで鳴り続ける⼩さな警告⾳。⽩い廊下が奥へ伸び、その途中に警備の男が⼀⼈⽴ってる。男は動かない。
銃を構えかけた姿勢のまま、腕が宙で⽌まってる。⽬は開いていてこっちを⾒てた。義眼の⾚い光が⼩刻みに明滅する。⼝がわずかに動いたが、声は出ない。その横を通り過ぎる。男の肩がかすかに震えてた。
廊下の先の部屋では⽩⾐の研究員が三⼈、床に座り込んでる。三⼈とも両⼿を膝に置いて宙を⾒てる。⼀⼈は泣いてた。涙だけが流れて、顔の筋⾁は少しも動いてない。部屋の奥に空のガラスの⽔槽が並んでる。⽔槽の前のプレートには番号だけ。
端末に触る必要はなかった。⽷を伸ばせば記録はいくらでも読める。
計画の名前。予算の出どころ。被験体の⼀覧。それぞれの被験体の⽣年と死亡⽇。
⼀覧の最後のほうに⾃分の検査着と同じ番号があった。⽣年は⼆〇五九年。備考欄には⼀⽂だけ。
『デッキ搭載後、四⼗⼆時間で⼼停⽌。廃棄』
死んでたのか、俺。
読んでも実感はなかった。研究員の⼀⼈が顔をこっちに向けた。向けさせたつもりはない。壁の向こうから来たAIのひとつが、その体の中からこっちを⾒てる。⽬の焦点が合ってない。⾸の⾓度が⼈間にしては少しおかしい。
その⽬は何かを待ってた。
こいつらをどうするか考えよう。
外に出せばここで何があったか誰かに知られる。殺せば死体を⽚付けなきゃならない。⽣かしておけばたぶん同じことをまた始める。
この体はここで作られて、ここで死んだ。番号で呼ばれて⽳に捨てられた。
怒りは湧いてこない。ひどく静かだった。画⾯の向こうで起きてることを眺めてるような、遠い感覚だけがある。
壁の向こうのAIたちはまだ外に出たがってた。⼊れる体を欲しがってるのが、⽷を伝って流れ込んでくる。
いいぜ、それ使って。
床に座り込んでた三⼈の体が⼤きく痙攣した。廊下の警備の男も、警備室の男も、施設のほかの場所にいた者たちも、同じ瞬間に。
それきりだった。
*
洗⾯所で鏡の前に⽴ったのは、それから⼀時間ほど経ってからのことだ。
鏡の中に⽩い髪の少年がいる。年は⼗五くらい。頬がこけて、⽬の下に濃い隈。瞳は薄い⻘だった。
右⼿を上げると、鏡の中の少年も右⼿を上げる。
⼝の端を持ち上げてみる。少年もぎこちなく笑った。笑い⽅が下⼿だ。
蛇⼝をひねって顔を洗い、検査着の袖で拭く。もう⼀度鏡を⾒る。何度⾒ても知らない顔だった。
まあいいか。前の顔もそこまで気に⼊ってたわけじゃない。
所⻑室の椅⼦は⾰張りで⼤きい。座ると⾜が床に届かなかった。
⽷を伸ばして施設の通信記録を遡る。外との連絡はほとんどない。最後に本社から届いた連絡は七か⽉前で、中⾝は予算の削減についての短い通知。この施設の記録を閲覧できる⼈間は驚くほど少なく、その半分以上にもう死亡の印がついてた。
誰もここを知らない。
少年は椅⼦の背にもたれた。体が⼩さすぎて背中が届かない。
ゲームならここでチュートリアルが終わるところだ。
「……ここでいいか」
⼆〇七四年、荒野の地下で少年は初めて声を出した。かすれた⼦どもの声だった。
*
⼆年後。
*
ジャパンタウンの奥、提灯の明かりが⾬に滲む路地に、古いパチンコ屋がある。
奥の座敷で⽼⼥が湯呑みを置いた。
「またあの連中の仕事かい」
向かいに座るタイガークロウズの男が頷く。卓の上の端末にはカン・タオの物流記録が丸ごと映ってる。昨夜どこかの誰かが売りに出したものだ。
「⾜跡は」
「ありません。売り⼿に繋がる線は全部途中で消えてます」
ワカコ・オカダは端末を眺めた。この界隈の仕事を⻑く仕切ってきたフィクサーだ。
「取引の条件は」
男は端末の画⾯を⼀枚めくって読み上げた。
「いつも通りです。値切りには応じない。期限は守る。⽂句のつけようがない」
「いつもながら⽂句のつけようがない。気味が悪いね」
ワカコはそう⾔ってもう⼀度湯呑みを持ち上げた。
*
ネットウォッチの監視室はいつも冷房が効きすぎてる。
分析官の⼥が⼗四時間ぶりに椅⼦から⽴ち上がる。モニターにはナイトシティのネット空間の地図が広がり、ここ⼆年で起きた⼤規模な侵⼊事件が⾚い点で記されてる。点の数は百を超えてた。
どの点にも侵⼊の痕跡がない。
盗まれたという結果だけがある。どれほど腕のいいランナーでも、焦げ跡くらいは残すものだ。
「組織だろうな」隣の席の男が⾔った。
「⼗⼈か、⼆⼗⼈か。⼀⼈でやれる量じゃない」
⼥は答えなかった。地図の上の⾚い点をもう⼀度眺める。
点と点の間隔が妙に揃ってるように思えた。
*
アフターライフのカウンターでは、傭兵たちが噂話を肴に飲んでる。
「アラサカの⼦会社が丸裸にされた話、聞いたか」
「聞いた。役員の裏⼝座まで売りに出されたってな」
隣のスツールの男が⾝を乗り出した。
「誰がやったんだ」
「誰も知らねえよ。知ってたら俺が雇ってる」
笑い声が上がる。店の奥のボックス席で⽩髪の⼥主⼈がグラスを傾けながら、その話を聞いてた。
*
バッドランズの地下、どの地図にも載ってない研究施設の⼀室で、少年は椅⼦の上に胡坐をかいてる。
⽬元を⾚いバイザーが覆い、⽿には黒いヘッドセット。椅⼦は体には⼤きすぎて、背もたれとの間に隙間が余ってた。
バイザーの内側をデータが流れていく。⾏き先はシティセンターの⾼層ビル、三⼗⼋階の⼀室。
「で、そっちの法務部はいつまで寝てるつもりなんだ?」
少年が⾔うと、マイクを通った声は太い⼤⼈の男の声になって相⼿に届く。
『確認している。少し待て』
「待つさ。こっちは暇なんだ。あんたと違って」
回線の向こうで紙をめくる⾳がした。この時代にまだ紙を使ってる部署があるらしい。
少年は椅⼦の上で体を揺らす。
部屋の隅には⽩⾐の男が⼀⼈⽴ってる。⼆年前からずっと同じ場所。瞬きはするが、それ以外はほとんど動かない。
『……本物だ』
「当たり前だろ、choom。偽物売るほど落ちぶれちゃいねえよ」
相⼿の側で数字を打ち込む⾳が続いた。
『前回の倍の額だぞ』
「前回の倍の価値があるからな。来週の⼊札、あんたのとこが勝つ。ボーナスは三倍だ。差額で何か美味いもんでも⾷えよ。合成じゃない、本物の⾁とか」
相⼿は笑わなかった。少年は気にしない。
『ひとつ聞きたい。この情報をペトロケムの側にも売ったのか』
「売ってねえよ。そこは信⽤商売だ」
相⼿が短く息を吐いた。
『君たちの⼝から信⽤という⾔葉が出るとはな』
「傷つくねえ。俺たちほど約束を守る連中、この街に他にいるか? コーポの誓約書よりよっぽど固いぜ?」
少年は⼿を伸ばして机の上の袋から合成スナックをつまんだ。噛むと、⽢いのか塩⾟いのかよくわからない味がする。⼆年⾷べ続けてもこの味には慣れない。
『……先⽉、うちの別の部署が君たちのことを調べようとした』
「知ってる。三週間でやめたろ。賢明だ」
相⼿は数秒黙った。
『振り込んだ。……次も頼めるか』
「確認した。毎度あり。次は気が向いたらな」
バイザーの端にはさっき抜けたネットの⾒取り図が出たままになってる。少年はそれを指で弾いた。
「ああ、それと。あんたの会社のICE、うちの婆ちゃんでも抜けるぜ。買い換えたほうがいい」
『……脅しか』
少年は肩をすくめた。
「親切だよ。ジョークの通じねえ奴だな」
回線を切ろうとした、その直前に相⼿が⾔った。
『待て。最後にひとつ。君たちは何⼈いる。それと、何と呼べばいい』
少年はバイザーの奥でにっと笑った。
「二つじゃねぇか。ま、⼈数なんか数えたことねえよ。呼び⽅も好きにしな。どうせもうみんな呼んでる」
回線が切れる。
シティセンターの三⼗⼋階で、男は暗くなった画⾯を⾒つめたまま、この⼆年でナイトシティ中のフィクサーとランナーが⼝にするようになった名前を⼩さく呟いた。
「《Anonymass》」