The Child Leading Beyond the Wall 作:housen
届かぬ塔などどこにもない
余裕と嗤う唇の端から
死の匂いが零れ落ちていることにも気づかずに
ガラスの⼩瓶の中で銀⾊の液体がゆっくり回ってる。
研究所の地下⼆階の実験室。⽩⾐の男が作業台の前に座って、器の指で顕微鏡の焦点を合わせ直す。俺は椅⼦の上で胡坐をかいて器の⽬を借りて同じものを⾒てた。
液体の正体はナノマシンだ。⼀粒が細胞⼀つよりずっと⼩さい。それが⼩瓶⼀本に数えるのが⾺⿅らしいくらい詰まってる。
この研究所で⽬を覚ましてすぐ、俺は壁の向こうのAIたちと⼀緒にこの⼿のものを作り始めた。最初に作ったのは⾃分の体を直すための身体修復ナノマシンだ。死んだ体に⼊り込んだせいで体のあちこちがぼろぼろだったからな。上⼿くいってから色々作ったって訳よ。
だが、今⼩瓶の中で回ってるのはそのどれとも違う。
サイバーサイコシスの治療用ナノマシンだ。
*
きっかけはアフターライフで⾒たデイビッドの体だった。
⽣⾝よりサイバーウェアのほうが多い体。軍⽤のサンデヴィスタン。普通の⼈間の何倍もの免疫抑制剤。それでビールを飲んで笑ってた。
あれからずっと頭の隅に引っかかってる。
ゲームの中で俺はサイバーサイコを何⼈も追いかけた。体をサイバーウェアに替えすぎた⼈間がある⽇壊れる。壊れた⼈間は⽬に⼊るものを⽚っ端から殺しはじめる。
でも、なぜ壊れるのかはゲームの中の誰もはっきり⾔わなかった。サイバーウェアの⼊れすぎだと⾔うやつがいた。⼼の弱さだと⾔うやつがいた。薬が⾜りないと⾔うやつも、企業の陰謀だと⾔うやつもいた。
答えは出てこない。
デイビッドはあの量を⼊れてまだ壊れてなかった。
あいつの体のどこがほかの⼈間と違うのか。逆に⾔えば、壊れた連中の体のどこがあいつと違ったのか。
気になった。
気になったら、調べたくなる。
それでこの三週間、AIたちとこのナノマシンを試作してた。
まずAIたちにこの街のネットに残ってるサイバーサイコの記録を⽚っ端から集めさせた。病院のカルテ。マックス・タックの報告書。闇医者の施術記録。死んだ⼈間の神経の、最後の数値。何千⼈分も並べて、壊れる直前の体で何が起きてたのかを⼀つずつ⽐べさせる。
答えが⼀つに決まるほど単純な話じゃなかった。
でも壊れる直前の⼈間の神経には、どれも同じ形の乱れが出てた。サイバーウェアと神経の継ぎ⽬で、信号が少しずつずれていく。ずれが溜まって、ある⽇⼀気に崩れる。
だったらその継ぎ⽬に⼊り込んで、ずれを毎⽇少しずつ戻してやればいい。
理屈としてはそれだけだ。
⽩⾐の男の器が顕微鏡から顔を上げた。
培養した神経の細胞と、サイバーウェアの部品を繋いだ試料。わざとずれを起こさせたその試料の中で、ナノマシンが継ぎ⽬に集まってずれを戻してる。
試料の上では上⼿くいってる。
ここまで来るのに試作品を⼗⼀本捨てた。
⼀本⽬はずれを戻しすぎた。継ぎ⽬を元の形に戻そうとして、サイバーウェアのほうを神経から切り離してしまった。試料の上で義⼿の部品がただの⾦属の塊に戻った。五本⽬はずれを⾒つけるのが遅すぎた。⼋本⽬はナノマシン同⼠が継ぎ⽬の取り合いを始めて、試料ごと焼いた。
⼗⼆本⽬がこの⼩瓶だ。
⼈間の体の中で上⼿くいくかどうかはまだ誰も知らない。
*
バイザーの端に普段は使わない回線の印が灯った。
⼩瓶を作業台に置かせて、回線を開く。
『あんたに客だよ』
ローグの声がいつもより硬い。
『デイビッドがあんたと話したいってさ。あたしのところに泣きついてきた。繋ぐよ』
返事をする前に回線の向こうの声が変わった。
『アノン』
デイビッドの声だ。
息が荒い。声の後ろでエンジンの唸りと⾵を切る⾳がしてる。⾛ってる⾞の中だ。それと、デイビッドの声そのものに妙な響きが混じってた。⾦属の板越しに喋ってるみたいな響きだ。
⽷を伸ばしてデイビッドの体を開いた(スキャンした)。
アフターライフで⾒たときの体の上にもう⼀枚何かが被さってる。全⾝を覆う、外側の⾻組み。軍⽤の、試作品外⾻格だ。腕にも脚にも背中にも、⼈間の筋⾁の何⼗倍もの⼒を出す駆動装置が付いてて、それが全部デイビッドの神経に直に繋がってる。
【サイバー・スケルトン】
アラサカの型番が⼊ってた。
神経の数値を⾒る。
アフターライフのときでももうおかしかった。今のはそれと⽐べものにならない。サイバーウェアと神経の継ぎ⽬のずれが、そこら中で崩れる⼨前まで溜まってる。
俺が三週間かけて、何千⼈分の記録で⾒てきた形と同じだ。
壊れる直前の形だった。
『ルーシーがアラサカに捕まった』
デイビッドの声が続く。
『ファラデーに売られた。うちのフィクサーだ。キーウィもファラデーとつるんでた。俺たちを罠にはめた』
キーウィは、と訊いた。
『死んだ。ファラデーに消された。死ぬ前にファルコにルーシーの居場所を送ってきた』
間が空いた。
アフターライフのテーブルで、マスクの上の⽬で俺を⾒てた⼥の顔が浮かぶ。最初からあんたが前に出て。最後に会った夜にそう⾔ってた。
『ルーシーはアラサカタワーの中だ。今から取り返しに⾏く。でもネットランナーがいねえ。キーウィがいなくなって、うちには誰もいない。アノン、⼿を貸してくれ』
デイビッドの声が⼀瞬途切れた。
その⼀瞬の間に神経の数値が跳ねる。継ぎ⽬の⼀つが崩れかけて、また持ち直した。
『……⾦は、ねえ。ほとんど全部この体に使った。でも、何でもする』
回線の向こうで別の声がした。レベッカだ。デイビッド、寝てろって⾔ってるでしょ、と怒鳴ってる。運転席のほうからはファルコの低い声。シティセンターまでまだ⼀時間はかかる、と。
作業台の上の⼩瓶を⾒る。
器の⽬越しに銀⾊の液体が回ってる。
試料の上では上⼿くいってる。⼈間の体の中ではまだ誰も試してない。
そして今、回線の向こうに壊れる⼨前の神経を抱えたまま、まだ壊れずに喋ってる男がいる。
そして俺は空気が読める男。ここで「ルーシーって誰だよ」とは言わないぜ。デイビッドの様子を見れば察せるってもんよ。
「OK choom 取引といこうか」
回線の向こうでデイビッドが息を詰めるのがわかった。
「ルーシーを取り返す。お前らをタワーから⽣きて出す。その代わり、お前のその体を俺に預けろ」
回線の向こうが静かになった。
「お前の体で試したいものがある」
嘘をつく理由はない。
「今サイバーサイコシスを治すためのナノマシンを開発中だ。作ったばかりで、⼈間にはまだ⼀度も⼊れてない。効くかもしれないし、効かないかもしれない。効かなかったら、どうなるか
は俺にもわからねえ。保証書なしの新製品だ」
デイビッドはしばらく黙ってた。
それから笑うような息の⾳がした。笑ったのかどうかはわからない。
『いいぜ。どうせこのままじゃ持たねえ。⾃分でもわかってる。ただ、ルーシーが先だ』
「了解。客の注⽂は守る主義でね。交渉成⽴だ」
回線の端でローグが⼝を開いた。
『あたしは繋いだだけだよ。あとはあんたたちの話だ』
ローグの声はもう硬くない。いつもの、余計なもののない声に戻ってた。
『アノン。あのタワーにはアラサカの⼀番いい番⽝がいる。忘れるんじゃないよ』
それだけ⾔ってローグは回線から抜けた。
*
その番⽝のことはよぉく知ってるぜローグ。
ゲームの最後に俺はその番⽝と散々やり合った。
アダム・スマッシャー
体の9割がサイバーウェアで、⼈間の部分はもうほとんど残ってない。
だから平気だと思った。
体の中のサイバーウェアが多い相⼿ほど、俺にとっては楽だ。全⾝がサイバーウェアなら、全⾝が俺の⽷の届くところにある。
アラサカタワーといっても、建物は建物だ。扉もカメラも銃座もネットに繋がってる。
アラサカの警備のネットランナーがどれだけ腕がよくても、元ネットウォッチの三⼈より上ってことはないだろう。あの三⼈は⼆秒で済んだ。
余裕だ。
そう確信していた。
*
問題は試作品を⼊れるタイミングだ。
タワーから出てきたデイビッドをここまで運んでくる時間がもったいない。あの神経の数値だと、運んでくる途中で崩れてもおかしくない。⼀番良いのはタワーを出たその場ですぐに⼊れることだ。
それには俺がその場にいなきゃいけない。
俺の体は注射器を握ることはできても、デイビッドを担ぐことはできない。サイバー・スケルトンごと担ぐなんて論外だ。
部屋の隅に器が⼆体⽴ってる。⽩⾐の男と制服の男。
⽩⾐の男には試作品の⼩瓶と注射器と、ここ三週間の記録を全部持たせた。研究員の頭と⼿はこういうときのためにある。制服の男には担架を⼀つ。ミリテクの軍⽤の両腕なら、サイバースケルトンを着た⼈間でも担いで歩ける。
⼆⼈の器が⼀度だけ瞬きをした。
出る前にルーシーとやらの居場所だけ確かめておくか。
キーウィが死ぬ前に送ったという場所の記録をファルコの端末から借りた。アラサカタワーの上のほう。そこから先は、AIを⼀つ、タワーの外側の守りにある隙間から中へ滑り込ませる。
すぐに⾒つかったわ。
タワーの上層の、窓のない⼀室。床に座らされた⼥が⼀⼈。銀⾊に近い髪。⾸の後ろの差し込み⼝にはアラサカの機械が繋がれて、ネットへの出⼝を全部塞がれてる。
記録の隅にその⼥がネットで動いたときの癖が残ってた。
覚えがある。
アフターライフのカメラから、デイビッドの映った映像データだけを⼀つずつ消していった
影。管理棟の照準器の記録から、デイビッドだけを抜いていった影。迷いがなくて、速くて、跡を残さない、あの⼿つきだ。
あの影はこの⼥だったのか。
デイビッドの後ろを⾒えないところからずっとついて歩いてた⼥が、今、アラサカの部屋に閉じ込められてる。デイビッドはその⼥を取り返しに⾏こうとしてる。
なるほどね、と思った。やはりな、とも思った。
そして俺は仮⾯を被った。
*
無⼈タクシーは前と同じように誰も乗せていないことになってる。後部座席に俺と制服の男。助⼿席に⽩⾐の男。担架はトランクに押し込んである。
荒野の⼀本道をナイトシティの明かりに向かって⾛る。
窓の外を眺めながらAIたちを先に街へ放った。シティセンターのネット。アラサカタワーの外側の守り。タワーの周りを⾛る道路のカメラ。
街の様⼦はまともじゃない。
さっきまで、街の外れの道路でミリテクの部隊と何かが派⼿にやり合ってた記録が残ってる。装甲⾞が何台もひっくり返って燃えてる映像。その真ん中に黒い外⾻格を着た⼈影が⼀つ。
デイビッドだ。
ミリテクの部隊を⼀⼈で潰してた。サイバースケルトンの⼒で。
神経の数値の記録も映像と⼀緒に残ってる。部隊を⼀つ潰すたびに継ぎ⽬のずれが⼀段ずつ増えていってた。
そのデイビッドを乗せた⾞が、今、シティセンターに向かってる。ファルコが運転して、レベッカが荷台でデイビッドを押さえてる。デイビッドは途中で⼀回気を失ってた。
⾞の位置を地図に出す。
俺のタクシーより大分後ろを⾛ってる。
⾞の中のカメラを借りた。
荷台の床に黒い外⾻格が横たわってる。デイビッドだ。⽬は閉じてる。その横にレベッカがしゃがみ込んで、注射器をデイビッドの⾸筋に当ててた。免疫抑制剤だ。
空になった注射器を床に放って、次の⼀本を⼿に取る。
床にはもう空の注射器が何本も転がってる。
デイビッドの⾎の中で濃度がまた⼀段上がる。継ぎ⽬のずれが少しのあいだ⽌まる。だが戻りはしない。
レベッカは注射器を握ったままデイビッドの顔を⾒下ろしてる。
カメラ越しでもその指が震えてるのがわかった。
「ちょうどいいや」
先に着いて、タワーの守りを⼀通り崩しておこう。
タワーの外側の守りに軽く⽷をかけた。
アラサカの本社の守りだ。ICEが何層も重なって、黒い壁みたいにそびえてる。
⽷の先で⼀層⽬に触れる。
特段抵抗なく⼀層⽬がほどけた。
⼆層⽬も三層⽬もほとんど同じだ。俺が触れたところから、ICEが内側に向かって静かに崩れていく。崩れたことにアラサカの警備のネットランナーたちは誰も気づいてない。
やっぱり余裕だ。
窓の外でナイトシティの光がどんどん⼤きくなっていく。
その真ん中に⼀本だけ、ほかのどのビルよりも⾼い塔が⽴ってた。
アラサカタワー
塔のてっぺんの⾚い明かりがゆっくり点滅してる。
シートに背中を預けようとして、いつも通り背中が届かなかった。
「余裕、余裕」
誰に聞かせるでもなくそう⾔った。
助⼿席の⽩⾐の男が膝の上の⼩瓶のケースを少しだけ持ち直した。
次回予告!「2代目アラサカ◯ァッカーのお手伝い」