The Child Leading Beyond the Wall 作:housen
昇りもしない
沈みもしない
黒い空に浮かぶ故郷を
あなたの隣で見つめている
私の夢は
もう逃げる場所ではなくなった
【レベッカ】
シャトルが上がると、体が座席に埋まった。
背中から⾒えない⼿で押しつぶされてるみたい。息が吸えない。腕が上がらない。あたしの腕はもともと重い。それが何倍にもなって、肘掛けに縫い付けられる。
隣の席でデイビッドが⻭を⾷いしばってる。
その向こうの窓際で、ルーシーが⽬を開けたまま窓の外を⾒てた。顔が座席に押しつけられて、頬が歪んでる。それでも⽬は閉じてない。押しつぶされてたのは、たぶん何分か。もっと⻑かった気もする。
それがふっと消えた。
体が座席から浮きかける。ベルトが腹に⾷い込んで⽌まった。床に落ちてたはずの誰かの紙コップが、くるくる回りながら⽬の前を横切っていく。
「……うわぁ」
声が出た。
前の席の⼦どもが笑いながら⼿を伸ばして紙コップを捕まえようとしてる。
窓の外は真っ黒。その下で、⻘と⽩の丸いものの端っこが回ってた。
「あれ、ナイトシティはどこ?」
「わかんねえよ、夜の方にあんだろ」
夜のほうって、どっち?
重ねて訊くと、窓の外の暗いほうの縁を指さす。そこに光の粒がいくつか散らばってた。どれがナイトシティなのか全然わからない。
「ちっちゃ」
思わず声に出た。
あんなにでかかった街が、窓の端で光の粒の⼀つにもなってない。
「ミラー様」
通路から客室乗務員が声をかけてきた。にこにこしてる。
誰のことかわからなくて、あたしは窓の外を⾒てた。
ルーシーがデイビッドの体越しにあたしの膝をつついた。
「……あ、あたしか。はい」
乗務員は飲み物の注⽂を聞いて、またにこにこしながら去っていった。
デイビッドが肩を震わせて笑いをこらえてる。
「笑うなよっ」
笑ってねえ、と⾔いながら、デイビッドはまだ肩を震わせてた。
⽂句があるなら⾃分で考えろって、あのチビは⾔ってたが考えなくてよかった。
⾃分の分もまだ覚えてないんだから。
*
⽉までは⻑かった。
あたしは途中で三回寝た。起きるたびに窓の外の⻘い丸が⼩さくなってる。かわりに反対側の窓の灰⾊の丸が⼤きくなってた。
着いたのは居住区の宇宙港。
シャトルを降りて⻑い通路を歩く。歩いた、と思う。最初の⼀歩で体が勝⼿に浮いた。
思ってたよりずっと⾼く浮いて、天井の照明に頭をぶつけかける。
「あだっ!」
「レベッカ」
ルーシーがあたしの腕を掴んで引き下ろした。
「床を蹴らないで。滑らせるの」
ルーシーはもう歩き⽅を覚えてる。でもデイビッドはまだまだで、⼀歩ごとにちょっとずつ跳ねてた。
六分の⼀、って宇宙港の案内の声が⾔ってた。ここでは体の重さが地球の六分の⼀になる。
あたしの腕も六分の⼀だ。
両腕を頭の上まで振り上げてみた。軽い。地球にいたころの腕とは別物。
居住区はでっかいドームの中にあった。
天井は透明で、その向こうが真っ黒。昼間のはずなのに空が黒い。ナイトシティの空は夜でも街の明かりで⽩っぽい。こんなに黒い空は⾒たことがなかった。
そのドームの天井の端に⻘い丸が浮いてる。
地球だ。
半分だけ光ってて、半分は影になってた。
あたしは⼝を開けたまま⾒上げてた。
隣でデイビッドとルーシーも⾒上げてる。⼆⼈とも何も⾔わない。デイビッドの⼿がルーシーの⼿を探して、⾒つけて、握った。
あたしはそれを横⽬で⾒る。
それから⼆⼈から三歩だけ離れた。
来て、ってルーシーに⾔われたとき、なんで、って思った。あたしがいたら邪魔だ。わかってるはずなのに。
今もちょっとはそう思ってる。
でも来なかったら、この地球は⾒られなかった。
*
⼣飯はホテルの⼀階のレストラン。
客はみんな⾝なりがいい。スーツの男。光る布のドレスの⼥。あたしたちの格好は明らかに浮いてた。あのチビが⽤意した服は地味で、ジャパンタウンの会社員っぽい。それが余計に浮いてる。
メニューを開いて、値段を⾒て、閉じた。
もう⼀回開いて、もう⼀回⾒た。
ゼロの数がナイトシティのメニューと⼀つ違う。
「……これ、払うの、あのチビだよね⋯?」
デイビッドは
「財布は俺持ちだって⾔ってたな⋯⋯」
とだけ言った。
あたしはメニューの⼀番上の、⼀番ゼロの多いやつを指さした。
運ばれてきたのは、⼩さな⽫に載った⾚い実が三つ。
いちご、ってウェイターが⾔ってた。居住区の中の畑で育てた本物だって。
⼀つ⼝に⼊れる。
⽢い。それからちょっとだけ酸っぱい。スコップにも合成スナックにも、こんな味はついてない。
「……なにこれぇ」
デイビッドが、いちごだって、と⾔った。そんなことは知ってる。知ってるけど、そういうことじゃない。
ルーシーが⾃分の⽫のデザートを黙ってあたしのほうに押してきた。デイビッドも同じことをした。
あたしは⼆⼈の分も⾷べた。
テーブルの下で両⼿を握ったり開いたりする。軽い。ガッツを持ってない⼿はやっぱり落ち着かなかった。
*
【ルーシー】
宇宙服は思ってたより窮屈だった。
ヘルメットの内側に⾃分の息の⾳が響く。外の⾳は何も聞こえない。聞こえるのは、無線越しのガイドの声と、隣のデイビッドの息の⾳だけ。
⽉⾯を歩くツアーは、居住区の外れのエアロックから出る。客は私とデイビッドを⼊れて⼗⼆⼈。レベッカは来なかった。⼆⼈で⾏ってきな、ってホテルの部屋から⼿を振ってた。
ガイドが先頭を歩いて、⼀列になってついていく。
エアロックの扉が開いた。
灰⾊の地⾯がどこまでも続いてる。
空は黒い。その黒の中で、太陽がただ⽩く光ってる。地⾯の灰⾊がその光を跳ね返して、⽬が痛いくらい明るかった。
⼀歩外に出た。
⾜の下で細かい砂が沈む。⾜を上げると、ブーツの形の跡が残った。その跡の縁から、砂がほんのわずかに崩れる。
⾵がないから、この跡は消えない。ガイドが無線でそう⾔ってた。誰かが踏まない限り、何万年も残る。
デイビッドが私の横で⾃分の⾜跡を⾒下ろしてる。
それから私の⾜跡の隣に、⾃分の⾜跡をもう⼀つつけた。
私はヘルメットの中で⼩さく笑った。デイビッドには聞こえてないはず。
*
⼦どものころからずっと逃げてきた。
アラサカの施設の⽩い部屋から逃げて、ナイトシティに来た。
この街は牢屋だと思った。どこにいても壁がある。企業の壁。ギャングの壁。お⾦の壁。ネットの中にも壁がある。
だから⽉に⾏きたかった。
⾏きたかった、だけ。⾏ける⽇が来るとは思ってなかった。
キーウィは誰も信じるなと教えた。夢を⾒るなとは⾔わなかった。夢も信じないものの⼀つだと、私は勝⼿に思ってた。
列の先頭でガイドが⽴ち⽌まった。
「あちらをご覧ください」
ガイドの⼿袋が空を指す。
黒い空に地球が浮いてた。
ドームの中から⾒たのと同じ地球。でもガラス越しじゃない。ヘルメットのバイザーの向こうにそのままある。
ガイドの声が無線で続いてる。⽉のこっち側から⾒ると、地球は空の同じところにずっと浮いてる。昇りもしないし、沈みもしない。満ちたり⽋けたりはする。
昇りも沈みもしない。
それを聞いて喉の奥が詰まった。
デイビッドの⼿袋が私の⼿袋を掴む。
厚い⼿袋同⼠だから、指の形もわからない。温かいかどうかもわからない。
それでも握られてるのはわかった。
*
居住区に戻る前に、⼀度だけネットに繋いだ。
ここのネットは⼩さくて狭い。居住区の中だけの、閉じたネット。ナイトシティのネットほど騒がしくないし、誰かが誰かを探してる気配もしない。
居住区のネットを通して、デイビッドの⾸の後ろの端⼦に繋ぐ。
デイビッドの神経の数値。グラフの線。今朝ホテルの部屋で⾒たのと同じところにある。
上がってない。下がってもない。ナイトシティを出る前と同じ、⽌まったままの線。
その線のあちこちで銀⾊の粒が何千も働いてる。それを動かしてる、壁の向こうから来たものも、ちゃんといた。
⽉まで来ても、あの⼦のものはデイビッドの中で仕事をしてる。
怖い、とはまだ思う。
でもデイビッドの線は崩れてない。
それでいいと思った。
ヘルメットの中で息を⼀つ吐く。
デイビッドが私を⾒た。バイザー越しに、何、って顔をしてる。
私は⾸を横に振った。
何でもない。
私は⽉に来たの、あなたと。
それだけ。
*
【デイビッド】
夜中に⽬が覚めた。
窓の外は着いた⽇からずっと昼だ。ここの昼は⼆週間続くって、ガイドが⾔ってた。ホテルの部屋の照明が夜の時間になると暗くなるだけ。空はずっと黒くて、ずっと地球が浮いてる。
ベッドの隣でルーシーが寝てる。
隣の部屋ではレベッカが寝てるはずだ。⼣飯のあと部屋の前で、あたしは寝るから、と⾔ってさっさと⾃分の部屋に⼊っていった。扉が閉まる直前にこっちを振り返ってちょっと笑った。
レベッカがなんであのとき笑ったのか、俺にもわかってた。わかってて、何も⾔えなかった。
ベッドを降りて窓の前に⽴つ。
頭の中は静かだ。
ナイトシティにいたころは、夜中に⽬が覚めると頭の中がうるさくて眠れなかった。枕元の抑制剤を⼝に放り込んで、無理やり寝た。
抑制剤は鞄の底に⼊れてきた。ここに来てからまだ⼀度も出してない。
*
窓の外の地球を⾒る。
地球は着いた⽇より細くなってた。
光ってるのは縁だけで、あとは夜の側がこっちを向いてる。黒い丸の上に光の粒がばらまいてある。あの粒のどれかがナイトシティだ。どれなのかはわからない。
⺟さんは俺に天辺に⾏けって⾔った。アラサカタワーの天辺。あの街で、⼀番⾼いところ。
俺はそこに⾏こうとした。体にサイバーウェアを⼊れて、⼊れて、⼊れて。
強くなる度に、天辺が近づいてる気がした。
実際に⾏けたのは、天辺の近くの窓のない部屋まで。そこから先は⾃分が誰かもわからなくなりかけてた。ルーシーの顔を⾒ても、ルーシーだとわからなかった。
それから広場で、アダム・スマッシャーに外⾻格を剥がされて、額に砲⼝を向けられて、終わるはずだった。
でも終わらなかった。
そして今、ここにいる。
あの街のどこよりも、⾼いところに。
天辺っていうのは、多分こういう場所のことじゃない。⺟さんが⾔ってたのはもっと別のことだ。それくらいは俺にもわかる。
わかってるけど、ここから⾒たらアラサカタワーはどこにも⾒えなかった。
*
⽉に⾏きたいって、ルーシーが⾔ったのはいつだったか。
ずっと、ずっと前だ。まだメインが⽣きてたころ。
俺は連れていくって⾔った。⾔ったときは本気だった。
でもどうやって連れていくのかは何も考えてなかった。
結局連れてきたのは俺じゃない。
あの仮⾯の子供が、休暇だって⾔って⾦を出して、名前を作って、全部⽤意した。
俺は⽉だって⾔っただけだ。
それが少し悔しかった。
でもアノンがいなかったら、俺は今ごろあの広場の⽯畳の上で死んでた。レベッカも多分死んでいた。
ルーシーは⼀⼈で⽉に来てたかもしれない。来てなかったかもしれない。
どっちにしても俺は隣にいなかった。
窓に⼿を当てる。
窓は冷たい。
あいつとの取引で俺の体は預かりものになってる。治るかどうかもまだわからない。
ルーシーとの約束は、これで果たしたことにしていいんだろうか。
答えは出なかった。
*
「……デイビッド」
後ろでルーシーの声がした。
振り向くと、ルーシーがベッドの上で体を起こしてた。⽑布を肩に掛けたまま、俺を⾒てる。
起こしたかと訊くと、ルーシーは⾸を横に振って、ベッドから降りてきた。⽉の重さにもう慣れた⾜取りで、俺の隣に来て並ぶ。
⼆⼈で窓の外の地球を⾒る。
「どれがナイトシティかな」
ルーシーが⾔った。
「わかんねえ。レベッカにも訊かれた。あいつ、シャトルの窓から⾒て、ちっちゃ、って⾔ってた」
ルーシーが⼩さく笑う。
それから俺の腕に頭を預けた。
「連れてきてくれた」
「俺じゃねえよ。あいつが」
ルーシーは地球を⾒たまま⾸を横に振った。
「デイビッドが⽉だって⾔った。私が⾔う前に」
俺は何も⾔えなかった。
窓の外で地球は昇りも沈みもしないで、ずっと同じところに浮いてる。
⺟さんにも⾒せたかった。
そう思ったら、⽬の奥が熱くなった。
ルーシーの頭が、俺の腕の上で少しだけ重くなる。六分の⼀の重さのはずなのに、ちゃんと重かった。