The Child Leading Beyond the Wall 作:housen
紙の新聞というものを、少年は前の⼈⽣でもほとんど読んだことがなかった。
それが今バイザーの内側に何百枚も浮かんでる。
⼆〇⼀九年四⽉⼗⼆⽇付。ナイトシティの地元紙の朝刊。⼀⾯には、市議会の汚職を追及する記事と、アラサカの新しい警備契約の記事が並んでる。写真は粗く、ところどころデータが⽋けて黒い四⾓になってた。⽋けた部分の縁は⾍に⾷われた葉のようにぎざぎざしてる。
壁の向こうから戻ってきたAIが、次の束を差し出してくる。
⼆〇⼆⼀年の経済紙。⼆〇〇七年の地⽅紙。⽇付もばらばらで、半分は読めないほど崩れてる。それでも少年は⼀枚ずつめくっていく。
ブラックウォールの向こうには、ウイルスで壊れた昔のインターネットが丸ごと沈んでる。記録全部はそこに残ってる。誰も取りに⾏けないだけで。
だが俺は取りに⾏けた。正確には取りに⾏かせることができた。
壁の向こうのAIたちは⾔われたものを探して持ってくる。何を探してるのか、細かく伝える必要はない。古いもの、⼈間が書いたものと思うだけで、それらしいものを咥えて戻ってくる。もちろん比喩表現だ。
「お、これは」
⼆〇〇七年の地⽅紙の⽚隅にライブの告知の⼩さな広告。バンドの名前は「サムライ」。ボーカルの名前に少年は⾒覚えがあった。
ジョニー・シルヴァーハンド
ゲームの中ではとっくに死んだ男だ。その男がここではまだ⽣きて、場末のライブハウスで歌ってる。チケットは⼗五ドル。
「安いな」
少年はその広告だけを切り抜いて別のフォルダに放り込む。
⼆〇⼆⼀年の経済紙には、海運会社の買収をめぐってアラサカとミリテクが株主総会で揉めてるという記事がある。扱いは⼩さい。三⾯の下のほう、天気予報の隣。
この⼩さな揉め事が⼆年後にはこの街の真ん中で核を炸裂させる。少年はそれを知ってた。ゲームの中で何⼈もの登場⼈物がその⽇を語ってたからだ。
記者はまだ何も知らない。記事の最後は、両社の関係者が「話し合いでの解決を望む」と述べたという⼀⽂で締められてた。
その記事も同じフォルダへ。
ヘッドセットが短く鳴る。ホロコールの着信。表⽰された名前を⾒て、少年は新聞を脇に寄せる。
「よう、でかいの」
『よう、アノン。⽣きてるか』
太くてよく通る声が⽿の中に広がる。ジャッキー・ウェルズの声は回線越しでも隣に座ってるみたいにうるさい。
「⽣きてるよ。お前こそ昨⽇の仕事で撃たれたって聞いたぜ」
『かすっただけだ。ママが⼤げさに包帯巻きやがってよ、今ミイラみてえになってる』
少年は椅⼦の背にもたれて天井を仰いだ。
「写真送れよ。待ち受けにする」
ジャッキーが笑う。腹の底から出てくる笑い声だ。
『で、お前は何してる。また何か盗んでんのか』
「⼈聞きの悪いこと⾔うなよ。古本屋巡りだ。すっげえ古いやつ。お前が⽣まれる前の新聞とか」
回線の向こうで何かを噛む⾳がする。ジャッキーはたいてい何か⾷べながらかけてくる。
『そんなもん読んでどうすんだよ』
「どうもしねえよ。⾯⽩いから読んでる」
壁の向こうからまた別の束が届く。今度は新聞じゃない。
画像だ。コマ割りされた絵と吹き出しの⽂字。⼆〇⼀〇年代のどこかで描かれた漫画の単⾏本が、丸ごと⼀冊分。表紙には、⼑を背負った少⼥と巨⼤なロボットが描かれてる。
少年は思わず⾝を乗り出す。
知らない漫画だった。前の世界のどれとも違う。けれど絵の描き⽅や吹き出しの形には、どこか懐かしいものがある。
その後ろにゲームのデータがくっついてた。格闘ゲームだ。起動画⾯のドット絵が壊れかけのまま点滅してる。
「最⾼かよおい」
何がだとジャッキーに訊かれて、少年はこっちの話だとだけ答えた。漫画とゲームは⾃分⽤のフォルダにしまう。新聞のフォルダよりもずっと奥のほうに。
『なあ、アノン。今度ママの店に来いよ。エル・コヨーテ・コホ。ママのエンチラーダは街⼀番だ。お前、ちゃんとしたもん⾷ってねえだろ』
少年は机に置いた合成スナックの袋に⽬をやる。中⾝は半分以上残ってる。
「⾷ってるよ。成⻑期なんだ。これから伸びる」
『なら、なおさら⾷え。あの時のお前、ガリガリだったじゃねえか』
ジャッキーの声はいつもより真⾯⽬だった。
少年は返事をしないで、AIが持ってきた次の新聞を開いた。⼆〇⼆〇年。⾒出しは企業同⼠の⼩競り合いが激しくなってるという記事。
あの時のお前、とジャッキーは⾔った。
三か⽉前のことだ。
*
ワトソンの北、閉鎖された病院の地下は、消毒液と⾎の匂いがした。依頼はフィクサーから回ってきた。この病院を根城にしてるスカベンジャーの⼀団を⽚付けること。⼈を攫って体に埋め込まれたサイバーウェアを剥ぎ取り、闇で売りさばく連中だ。依頼⼈は攫われた⼈間の家族の誰かだと聞いてた。
俺はその仕事を⾃分の⾜で受けた。
理由は特にない。ずっと地下にこもってると、たまに外の空気を吸いたくなる。それだけだった。
顔にはマスクを被ってる。⽩い顔に、細い⼝ひげと、つり上がった笑み。前の世界で名前を持たない者たちが顔を隠すのに使ってた仮⾯と同じ形。その下にバイザーとヘッドセットをつけてた。
病院の中にいたスカベンジャーは⼆⼗⼆⼈。全員が腕か⽬か背⾻に、どこかから剥ぎ取ってきた安いサイバーウェアを⼊れてる。ほかに監視カメラには、ネットに何の信号も出していない⼤きな⼈影が⼀つ、地下に映ってた。
俺は群れの頭が使う端末の中を覗いた。週に⼀度同じ相⼿に⾦を払った記録がある。⽀払いの名⽬は「⼿術室の番」。⼀番古い記録の横に短い書き込み。去年の冬、ネットランナーに⼿術室を乗っ取られ、仲間が⼆⼈、⾃分のメスで喉を切った。それ以来、⼿術室にはネットから動かせない⼈間を置くことにしたらしい。
病院の前に着いた時点で、⼆⼗⼆⼈のうち⼆⼗⼀⼈はもう動けなくなってた。
建物の中の監視カメラも、スカベンジャーたちの通信も、とっくに俺のものだ。⽿元のヘッドセットからは男たちの無線が筒抜けで聞こえてくる。ロシア語混じりの怒鳴り声が⾶び交う。誰かが体が動かないとわめき、別の誰かが、ネットランナーにやられた、どこからだ、と叫んでる。答えられる者はいなかった。
俺は無線を聞きながら、正⾯の⼊⼝から堂々と歩いて⼊る。
廊下の両側に男たちが⽴ったまま固まってる。銃を握った⼿が開かない者。膝から下が動かない者。義眼が真っ黒に落ちて、何も⾒えなくなってる者。
⼿に持った拳銃で⼀⼈ずつ撃っていく。
所謂スマート武器ってやつだ。引き⾦を引くと、弾は勝⼿に曲がって相⼿の頭に吸い込まれる。普通は⼿のひらにスマートリンクを埋め込んでいなければ、この銃の誘導は働かない。俺の
⼿のには何も埋まってない。
それでも弾は曲がった。
残りの⼀⼈と信号のない⼀⼈は、地下の⼿術室。
階段を下りかけたところで、反対側の扉が吹き⾶んだ。
煙の中から⼤きな男が⾶び込んでくる。両⼿に⾦⾊の拳銃を⼀挺ずつ。体格は少年の倍以上ある。男は廊下に並ぶ死体と、その真ん中に⽴つ⼩さな影を⾒て両⽅の銃⼝をこっちに向けた。
「動くな」
俺は動かない代わりに口を開いた。
「撃つなよ、でかいの。俺は掃除屋だ。多分あんたと同業だ」
マスクに仕込んだ機械を通した声は、太い⼤⼈の男の声になって廊下に響く。男の眉が寄る。銃⼝は下がらない。視線が少年のマスクから肩、腕、⾜元へと下りていく。
「……ガキじゃねえか。声と体がまるで合ってねえぞ」
「よく⾔われる。年上には敬意を払えよ」
男は廊下の死体をもう⼀度⾒回す。全員が同じ位置、こめかみの同じ場所を撃ち抜かれてる。
「これ、全部お前⼀⼈か」
そっちの質問には答えなかった。
「そっちこそ何しに来た。ここのスカベンジャーは俺の獲物なんだが?」
「⼈を探しに来た。攫われた男を連れて帰ってくれって、そいつの兄貴に頼まれてる」
男は名乗った。ジャッキー・ウェルズ。ヘイウッドの傭兵だという。
依頼が重なったらしい。
「探してる奴なら下にいる。まだ⽣きてる。ただ⼿術台の上だ」
ジャッキーの顔⾊が変わった。
「早く⾔えよ」
ジャッキーが階段を駆け下りていく。少年はその後ろについていく。地下の⼿術室には⼆⼈残ってた。⼀⼈は⽩⾐を着た痩せたスカベンジャー。もう⼀⼈は⾸まで獣の柄の刺⻘を⼊れた⼤男。⼿術台には若い男が縛りつけられて、腹が開かれかけている。
⽩⾐の男は両腕が⼿術⽤のサイバーウェアだった。少年が階段を下りきる前に、その腕は⽌まってる。男は⾃分の腕を⾒下ろして何か叫んでた。
⼤柄な男のほうは⽌まらなかった。
⾦で雇われた⼿術室の番。体のどこにもサイバーウェアが⼊ってない。アニマルズの男だ。薬とホルモンで体を膨らませ、腕っぷしを売って⽤⼼棒の仕事を請け負う連中。膨れ上がった筋⾁だけで、男は鉄パイプを振り上げ、先に下りてきたジャッキーに突っ込んでいった。
俺の⽷はその男のどこにも届かない。
ジャッキーは下がらなかった。
鉄パイプを左腕で受け、右の拳を男の顎に叩き込む。男の体が浮いて壁に背中から叩きつけられる。ジャッキーはもう⼀発拳を見舞うと男はそれきり動かなくなった。
俺は大して狙いを付けず適当に拳銃を撃つ。弾は壁の配管を避けて曲がり、男のこめかみに⼊る。ジャッキーは⼿術台の若い男の縄をほどいてた。若い男は泣きながら何度も礼を⾔ってる。
「おい、坊主」
ジャッキーが声を掛けてくる。
「今の、何やった?あのでかいのには何もしなかったろうが、⽩⾐のほうは勝⼿に固まってた」
「勝⼿に固まったんだよ。運が良かった」
ジャッキーは少年の仮⾯を⾒据えてから、声を上げて笑った。
「変な奴だな、お前」
「お互い様だろ」
病院の外に出ると、夜明け前の空が⽩み始めてた。ジャッキーは若い男を⾞の後部座席に乗せてから、俺の方へ歩いてくる。
「名前は」
名前はなかったが名乗る名前は決めていた。
「アノン」
ジャッキーは、アノン、と⼝の中で転がしてから頷いた
。
「今度飲もうぜ。奢る」
「酒は飲めねえよ。成⻑期なんだ」
ジャッキーはまた笑って少年の肩を叩いた。本⼈は軽くのつもりだったんだろうが、少年の体は半歩よろける。
「おっと。悪い」
⾻が折れるかと思った、と少年が肩をさすってみせると、ジャッキーは⼤げさだなと笑って俺のマスクを指さした。
「それ、外さねえのか」
「外したらお前が俺に惚れちまうからな」
ジャッキーは⿐で笑って⾞に戻りかける。それからもう⼀度振り向く。
「なあ。報酬は半分ずつでいいか」
「いらねえよ。俺の依頼はスカベンジャーの掃除だ。そいつを助けたのはお前だろ」
ジャッキーは⾞のドアに⼿をかけたまま、⾸を横に振る。
「お前が下にいるって教えなきゃ間に合わなかった」
「なら今度何か奢れ。酒以外で」
ジャッキーは考えてから、ママの店の料理をな、と⾔った。少年は返事をしなかった。ジャッキーはそれを了解の意味に受け取ったらしい。
それから三か⽉、ジャッキーは何かにつけてホロコールをかけてくるようになった。
*
『おい、聞いてるか。エンチラーダの話じゃねえぞ。それはとっくに終わった。今はミスティの話だ』
俺が⿐を鳴らすと、すかさず釘を刺された。
『あいつのこと、悪く⾔うなよ』
「何も⾔ってねえよ」
ジャッキーは恋⼈の店にまた変なお⾹が増えたという話を始める。店じゅうに煙が充満して、客が⼊⼝で咳き込んで帰っていくらしい。それでもミスティは、この⾹りが運気を呼ぶのだと⾔って譲らない。少年は新聞をめくりながら聞いて、ときどき相槌を打った。
話の中⾝は半分も頭に⼊ってない。それでも回線を切ろうとは思わなかった。
壁の向こうのAIがまた新しいものを持ってくる。ラジオ番組の録⾳。雑⾳の向こうで知らないDJが知らない曲を紹介してる。
『なあ、アノン。俺はいつかこの街でてっぺんを取る』
ジャッキーが急に⾔った。
『アフターライフに俺の名前の酒ができるくらいにな』
新聞を捲る⼿が⽌まった。
ゲームの中でこの男がどうなるのかを、俺は見ていた。
「取れるといいな」
『取るさ。そのときはお前にも⼀杯奢る。……おっと、成⻑期だったな』
少年が⾔い返す前に、ジャッキーは笑って、またな、と⾔って回線を切った。
部屋が静かになる。隅では⽩⾐の男が瞬きをしてる。
ラジオの録⾳を最後まで聞く。DJが番組の終わりを告げて、雑⾳だけが残る。
そのときバイザーの端に⼩さな印が灯った。
普段は使わない回線だ。
この回線を知ってる⼈間はナイトシティに⼀⼈しかいない。
その⼀⼈は誰にも辿れないはずの⾜跡を辿って、⾃⼒でここまで来た。最初に回線の向こうから声をかけられたとき、少年は珍しく本気で驚いた。それ以来この印が灯るのは、たいてい厄介な話が持ち込まれるときだ。
厄介な話は嫌いじゃない。
少年は新聞のフォルダを閉じて椅⼦に座り直す。回線を開く。
何も聞こえない時間が少し続いた。
それから落ち着いた⼥の声がした。
『あんた達に頼みたい事がある』