The Child Leading Beyond the Wall 作:housen
死を乞う声など
掻き消すような
渇望の声が
お前を彩る
[ フ ィ ン ガ ー ズ の 診 療 所 ]
電⼦錠が外れて扉が内側に滑る。
待合室には消毒液と古い油の匂いが籠もってた。
合成⾰の⻑椅⼦は座⾯のあちこちが裂けて、中の詰め物がはみ出してる。
壁の顔写真の列の前で、フィンガーズが客の顎を指でつまんだまま、扉のほうを振り向く。
開いた扉の向こうには誰もいない。
少なくとも、フィンガーズの義眼と客の義眼の中ではそうなってる。
「……⾵か?」
フィンガーズは⾸をかしげて、客の顎に指を戻した。客の義眼の焦点の合わせ⽅について、もったいぶった説明を続けてる。
客の帰り道を早めてやることにした。客の義眼の端に着信の印を⼀つ灯す。⼥房からの⾄急の呼び出し。
客は慌てて⽴ち上がって⾦も払わずに階段を駆け下りていった。
着信の名前は客の端末の連絡先から借りた。
フィンガーズが⾆打ちをする。
その⽬の前に俺は⾃分の姿を戻した。
⽩い仮⾯の背の低いガキと、その後ろの作業着に帽⼦の⼤男。
フィンガーズの⼗本の指が⼀⻫に跳ねた。施術⽤の細いサイバーウェアの指先から、メスみたいな刃が半分だけせり出す。
「どっから⼊った。タイガークロウズの⾒張りは何をしている」
「扉からだよ。開いてたろ?⾒張りなら階段の下で通りを眺めてる。いい天気だからな」
フィンガーズの⽬が俺の仮⾯と後ろの器の腕を往復する。器の袖⼝から覗くミリテクの軍⽤の義腕の継ぎ⽬。
それを⾒て、刃がもう⼀段伸びた。
「何の⽤だ?施術なら予約を取れ」
「奥の部屋の患者を引き取りに来た。⽑布つきでな」
フィンガーズの顔から表情が抜けた。
「……誰に頼まれた」
「チームのメンバーに」
刃が俺の喉に向かって伸びる。
伸びきる前に⼗本とも⽌めた。
フィンガーズの指は、刃を半分出したまま固まってる。
⼿⾸から先が⾃分のものじゃなくなったような顔でフィンガーズは⾃分の指を⾒下ろした。
「⼗本ともしばらく寝かせとく。安⼼しろよ、悪いようにしない。商売道具だろ?」
フィンガーズは床に膝をつく。
動かない⼿を胸の前に抱えたまま、少しずつ呼吸が乱れていく。⽩⾐の胸ポケットから、施術の予約を書き込んだ紙の⼿帳が滑り落ちた。今どき紙の手帳を使うリパードクはこの街にそう何⼈もいない。
⼿帳は器に拾わせて、上着のポケットにしまう。
「待て。待ってくれ。あの⼥は俺が買ったんじゃないっウッドマンの野郎に押しつけられたんだ。直そうとした。本当だ。焼けたチップなんか、俺の⼿じゃどうにもならなかった。置いとけばタイガークロウズに何を⾔われるかわからねえ。だから……」
「知ってる。婆様の取り分は、売り上げの⼆割だろ」
フィンガーズの⼝が開いたまま⽌まった。
「悪いな、⾔い訳の受付窓⼝はここじゃねえんだ。婆様のところの若いのが後で迎えに来る。それまでに上手い⾔い訳を考えときな」
殺す理由はあった。けどこの男の始末は婆さんの若いのの仕事だ。
奥の部屋の電⼦錠を開ける。
窓のない、狭い部屋だった。
壁際の棚に、使い古しの施術道具とラベルの剥がれた薬の瓶が並んでる。天井の換気扇が⼀枚、⽻根の⽋けたままかたかたと回ってた。
施術⽤の古い椅⼦の上でエヴリンが眠ってる。
腕のベルトを器に外させる。クラウドの薄いドレスの上に⽑布が⼀枚。唇の端に⼀週間前に引いたままの⼝紅が⾊の抜けた線になって残ってる。
点滴の管が細い腕に⼆本。
⽚⽅は栄養剤で、⽚⽅はゆうべから倍に増やされた鎮静剤だ。鎮静剤のほうだけ器の指で抜かせる。
エヴリンの体をスキャンした。
⾸の後ろにチップが⼆枚。⽚⽅は、クラウドの⼈形として客の相⼿をするために挿されてたチップ。こっちは眠ってるだけだ。
もう⽚⽅がエヴリン⾃⾝の動きを束ねる中枢のチップだった。
焼けてた。
焼き⽅に癖がある。外から⼀点だけを狙って針の先ほどの⽳を開けてそこから中⾝を内側に向かって溶かしてある。
腕のいいネットランナーの仕事だ。
慌てて焼いたんじゃない。最初から、いつかこうするつもりで鍵⽳を⼀つ開けておいた焼き⽅だった。
その焼け跡の奥に、まだ何かいた。
⼩さい。チップの焼け残りの隙間に、丸まって息を潜めてる。エヴリンの神経の感情を司る束に、細い根を三本だけ伸ばしてた。
根の先から、何かをほんの少しずつ流し込んでる。
流し込んでるのは、命令だった。
疲れた、もういい、終わりにしよう。
⼀⽇に⼀回、聞こえるか聞こえないかの⼩ささで。
眠ってる今はまだ届いてない。⽬を覚ましたら毎⽇届きはじめるだろう。
ゲームの中で、エヴリンはジュディの部屋の浴槽で死んだ。壊れた⼼のせいだと、俺は思ってた。
焼け跡に丸まったデーモンの根の付け根をたどる。
細い回線が⼀本、街の南⻄の方角へ伸びてた。
パシフィカ
あそこはヴードゥー・ボーイズの縄張りだ。
回線の向こう端に誰かの⼿の癖が残ってる。
慌てない、正確な、気取った⼿つき。
【ブリジット】
デーモンにAIを⼀体だけ向ける。
AIが焼け跡の隙間に滑り込む。デーモンはようやく何かが来たことに気づいて根を引き抜こうとしたが三本の内、⼀本⽬が抜けかけたところでAIの⼝が閉じる。デーモンは根ごと⾷われた。
抵抗する間もなく焼け跡の隙間が空っぽになる。
パシフィカから伸びてた細い回線が、ぷつりと切れた。
回線の向こう端で、誰かが⼀瞬だけ⾝を起こした気配がした。
⾃分の仕込んだものが何の前触れもなく消えた。その消え⽅に⼼当たりがない。そんなところか?
今は放っておく。向こうから来るならそのときに相⼿をすればいい。
焼けたチップはここでは直さない。専用の設備と、時間がいる。
今は、焼け跡がこれ以上広がらないように、AIを⼀体⾒張りに置いておく。
器にエヴリンを⽑布ごと抱え上げさせる。
細い体が、器の軍⽤の腕の中にほとんど重さもなく収まった。
⽑布の端を、エヴリンの顔にかからない程度に器の指で直させる。
*
待合室を通り抜けるとき、床に膝をついたままのフィンガーズが顔を上げた。
「お、おい。俺の指は。いつまでこのままなんだ」
「婆様の若いのが来るまでだよ。来たら動くようにしといてやる。アフターサービスつきだ。逃げる前にちゃんと話はしとけよ」
逃げたなら、もう知らんよ
階段を降りる。
階段の下でタイガークロウズの⾒張りが⼆⼈、通りのほうを向いて⽴ってた。
器の腕の中の⽑布の塊が⼆⼈のすぐ横を通り過ぎる。⼆⼈の義眼の中では、階段からは誰も降りてきてない。
通りの向こう、パチンコ屋の⾃動扉の前に⾒慣れた⼤男が⽴ってた。隣にV。ジャッキーは膝をさすりながらこっちを⾒てる。
多分俺達が⾒えてる。
あいつの⽬には、何も細工してないからな。
⽚⼿を上げてやった。ジャッキーは膝をさすった⼿のまま⽬を丸くしてる。
器が⽑布の塊をタクシーの後部座席のシートを倒しそこに寝かせて俺はその隣に乗り込む。器は帽⼦を押さえながら、助⼿席に体を押し込んだ。
タクシーが動き出す。
後部座席で⽑布の塊が⼩さく⾝じろぎした。
鎮静剤が切れはじめてるんだろう。
⽑布の端から出た⽩い指が、何かを探すみたいに座席の上を這って、俺の上着の裾を掴んだ。
振りほどかなかった。
指の⼒は⼦どもより弱い。
乾いた唇が何か形を作った。
声にはならない。ジュ、の形までは読めた。
ゲームでは初めて会った時、リジーズの奥のカウンターでエヴリンはグラスを指先で回しながら、こっちを値踏みする⽬で笑ってた。
今、俺の上着の裾を掴んでる指には、その時の気取りがどこにも残ってない。
ジャッキーの⽿に声を流して、膝の具合を訊いた。返ってきたのは、シャード⼀枚と婆さんからの伝⾔だった。今度、顔を⾒せに来い。茶を⽤意して待ってる、仮面を置いていけと。
『顔を見せる』ってそういう意味じゃねえよ
変声機越しに爆笑してから、回線を切った。
訂正はしない。その方が面白いだろ?
それからジュディに繋ぐ。約束の⼆時間にはまだ四⼗分ある。
『……アノン?』
⼀回⽬の呼び出しでジュディは出た。
「朗報だ、ジュディ。エヴリンは⽣きてる。配達まであと⼗分。⽞関開けていい子にして待ってな」
回線の向こうで、何かが床に落ちる⾳がした。
『怪我は?どこか、ひどいの⋯?」
「拷問部屋に⼊る前に横からかっさらった。ただ、頭の中のチップが⼀枚焦げてる。今はおねんね中だ」
ジュディが息を呑むのが聞こえた。
『治るの?』
「直せるさ、時間はかかるけどな。チップは俺が新品に仕⽴て直す。その後、中⾝の方は」
⾔いかけて、やめた。⾔わなくても、ジュディにはわかってる
。
「で、湯は沸かしといたか」
『……沸かしてる。もう三回⽬。冷めるたびに、また沸かしてる』
「上等だ」
[ ジ ュ デ ィ の 部 屋 ]
古いメガビルディングの前でタクシーが⽌まる。外壁の塗装が剥げて、外廊下の⼿すりには洗濯物が何枚も揺れてる。⼀階の屋台から出汁の匂いが流れてきてた。三階の⼿すりから、髪の⽚側を刈り上げた⼥が⼀⼈、⾝を乗り出して下を⾒てる。
【ジュディ・アルヴァレス】
器が⽑布の塊を抱えて降りる。⽑布の端から⾦⾊の髪がこぼれる。
⼿すりの上の顔がくしゃくしゃに歪んだ。
ジュディはエレベーターを待たなかった。
外階段を⼆段⾶ばしで駆け下りてくる⾜⾳が建物の壁に反響する。
俺はタクシーの中からそれを⾒てた。
ジュディは器の腕からエヴリンを奪い取って、その場に膝をついた。⽑布ごと、エヴリンの頭を胸に押しつける。
⾦⾊の髪に顔を埋めて何か⾔ってる。
やがて、ジュディが顔を上げた。器の向こうの、タクシーの窓を⾒る。俺の仮⾯をまっすぐ⾒てた。
窓を下ろした。
「……あんたが、アノン?Vの⋯」
「チームメンバー様だ」
ジュディは笑わなかった。泣き腫らした⽬のまま、エヴリンを抱え直す。
「ありがとう。……顔、⾒せてくれないの」
「やめとけ。夢に出るぞ」
ジュディは⽬を逸らさない。
「どんな顔でもいい。エヴリンを連れてきてくれた顔なら」
「明⽇、道具⼀式抱えて往診に来る。その後の⾯倒は、お前の担当だ」
ジュディが頷く。エヴリンを抱えたまま⽴ち上がろうとして、よろけた。器が横から⽀える。
ジュディは器の帽⼦の下の焦点の合わない⽬を⼀度だけ⾒て、何も訊かずにその腕を借りた。
三⼈が外階段を上がっていくのを、俺は黙って見送った
*
器が戻ってくるのを待つ間に、上着のポケットからフィンガーズの紙の⼿帳を出した。
細かい字で⽇付と名前、⾦額が並んでる。ページをめくる度に同じ名前が何度も出てくる。丸の中に名前、その横には決まって⼆割、と書き添えてある。
⼀週間前の⽇付のところに、⼗⼀、とだけ書いてあった。
クラウドの、⼗⼀番の個室。
⼿帳を閉じてポケットに戻した。
今度、婆さんの店に顔を出すときは⼿⼟産がある。茶は二杯出してもらえそうだ。
器が助⼿席に戻ってくる。帽⼦がさっきより斜めになってた。ジュディの部屋の⽞関でどこかにぶつけたらしい。
タクシーの⾏き先を荒野に書き換える。
⾛り出してすぐ、Vから短い⽂が⼀本届いた。
『助かった』
返事を考えて、三回書き直した。
『サブクエスト報酬は、エンチラーダ⼤盛りで頼むぜ』
送ってから、仮⾯の内側で笑った。
荒野の⼀本道に出たころ、街の南⻄のほうから探りの⼿が何本も伸びてきた。
パシフィカからだ。
さっき切れた回線と同じ、気取った⼿つきだ。
ジグジグ・ストリートの診療所の周りを、何度も撫でるみたいに探って回ってる。
デーモンを消した相⼿を探してるんだろう。
探りの⼿は、診療所の扉の前で何も⾒つけられないまま引き返していった。俺のすぐ脇を素通りしていくのをタクシーの中でしばらく眺めていた。