The Child Leading Beyond the Wall 作:housen
命を救ったではない
ただ
邪魔なノイズを消しただけ
[ ジ ュ デ ィ の 部 屋 ]
翌朝、外階段の三階の踊り場まで上がると扉のほうが先に開いた。
ジュディはゆうべと同じ服のまま。刈り上げた側の髪には寝癖の代わりに指で何度もかき上げた跡がついてる。
⽬の下の隈は⼀晩でずいぶん育ったらしい。
俺の後ろには⽩⾐の男の器。銀⾊の箱⼀つを両⼿で提げてる。ジュディの⽬が仮⾯と⽩⾐と箱を順番に通っていって、⽩⾐のところで⽌まった。
「往診に来たぜジュディ。予約は⼊ってるよな」
いや、この場合ジュディが予約したことになるのか?
ジュディは返事の代わりに体を横にずらして俺たちを通した。
狭い部屋の壁をブレインダンスの機材が埋め尽くしてる。
画⾯は全部消えてる。
床には夕べのうちに⽚付けたらしい物の⼭が隅の方に寄せてある。
台所のやかんが⼩さく湯気を吐いてた。
奥の寝台にエヴリンが寝かされてた。
服はクラウドの薄いドレスから、ジュディの⼤きすぎる部屋着に替わってる。
⼝紅の跡はもう残ってない。
⽬は半分だけ開いていた。開いてるだけでその目には何も写してない。
ジュディが寝台の脇に膝をつくと、⽩い指が⽑布の上で動いた。
「⼀晩中、こう。名前を呼ぶと、指だけちょっとだけ動くの」
ジュディの声はかすれてた。
銀⾊の箱を器に開けさせる。中には新しいチップが⼀枚。
ゆうべ研究所の機械で、⼀晩かけて焼け残りの隙間から元の配線の形を拾えるだけ拾って、拾えなかった分はエヴリンの神経のほうから逆に読み取って埋めた。チップがどこに何を伝えてたかは、伝えられる側の神経が覚えてる。
「ジュディ、寝台の頭のほうに座ってな。こいつが⽬を開けたら真正⾯に来る位置だ。ソイツが寝起きに⾒る顔はお前って決めてただろ?」
ジュディは⾔われたとおりに座り直した。エヴリンの⼿を両⼿で包んでる。
器の指をエヴリンの⾸の後ろに回す。
髪を分けるとチップの差し込み⼝が⼆つ並んでた。ドール⽤の方には触らない。もう⽚⽅の焼かれたチップを抜く。
焼け跡に置いてた⾒張りのAIを引き上げて、新しいチップを挿す。
チップがエヴリンの神経と会話を始める。最初はぎこちなく、⾏き違いばかり。指先に送るはずの信号が瞼に届く。瞼に送るはずの信号が喉で迷⼦になる。
⼀つずつ宛先を書き直していった。
指
⼿⾸
肘
瞼
喉
肺
エヴリンが息を吸った。
今までの寝息とは違う、⾃分の意思で吸った息だった。
半分だけ開いてた⽬に焦点が戻ってくる。天井の染みを⼀つ⾒て、それから、すぐ上にある顔に下りた。
「……ジュディ」
その声は、ほとんどかすれた息だった。
ジュディの顔が昨⽇⼿すりの上でそうなったのと同じ形に崩れた。エヴリンの⼿を包んだまま額を寝台の縁に押しつける。
何か⾔ってる。
俺は何も聞いてない。
エヴリンの⽬がジュディの肩越しに部屋の中をさまよった後、⽩⾐のところで⽌まる。
指が⽑布を強く掴んだ。
器を⽞関の外まで下がらせる。
俺も寝台から離れる。
離れる前に⼀つだけ確かめておく。エヴリンの頭の中の、精神を司る神経の束。デーモンが根を張ってた三か所には⼩さな傷跡が残ってるだけで何も流れてきてない。
流れてきてないのに、全体の信号が底のほうに沈んだまま上がってこない。
あれはデーモンの仕業じゃない。エヴリンのものだ。
あそこに⽷を通す気はなかった。通せば直せるかもしれない。
直せるが、治せるわけではないだろう⋯
⽞関で靴を履いてると、ジュディが追いかけてきた。
「待って。あんたにいくら払えばいいの?⾔って。何年かかっても払うからっ」
「Vのツケに乗せとく。あいつは払い終わるまで死ねなくなるからな」
ジュディは笑いかけて、途中でやめた。
台所の方でやかんが鳴りはじめてる。
「お茶くらい飲んでってよ。……もう、何回⽬かわかんない。沸かすの」
「お湯はエヴリンに取っとけ。喉が渇いてるはずだ。分かってると思うが、熱すぎないやつな」
ジュディは何か⾔い返そうとして、それから頷いた。
扉が閉まる前にはもう台所の方へ⾛っていった。
[ ワ カ コ の 店 ]
昼。パチンコ屋の⾃動扉をくぐると、⽟の流れ落ちる⾳が壁みたいに押し寄せてくる。
今⽇は誰の⽬からもを消してない。⽩い仮⾯のガキと⽩⾐の⼤男。
台の前の客が何⼈か振り向いて、すぐに台に⽬を戻した。
そりゃそうだ。パチンカス共にとって重要なのは俺じゃなく玉の行方だからな。
店の奥の扉の前で、タイガークロウズの若いのが⼆⼈、腕を組んで⽴ってる。⽚⽅が俺の仮⾯を⾒下ろして、何か⾔いかけたが、もう⽚⽅がその肘を⼩突く。
「ワカコさんがお待ちだ」
器を扉の外に残す。
奥の廊下は思ってたより短い。
板張りの床が⾜の裏でひやりとする。昨⽇この床の上でジャッキーとVが⼀時間以上正座させられてた。俺から見たら嫌がらせ以外の何ものでも無かったが、多分ナイトシティの流儀なんだろう。知らんけど。
でかいのの膝の具合は、回線越しに何度も聞かされてる。
俺は待たされなかったぜ。
廊下の突き当たりの襖が俺が前に⽴つより先に内側から開いた。
⼋畳の座敷
低い卓の向こうに、着物の上から薄い⽻織を引っかけた⼩柄な婆さんが座ってる。
ワカコ・オカダ
座敷のカメラ越しになら何度も⾒てるが、この⽬で⾒るのは初めてだった。
カメラを通して⾒てたより⼩さく感じて、⽬はずっと鋭く思う。
卓の上には湯呑みが⼆つ。どっちも湯気を⽴ててる。
座布団の上に正座した。この体は教わったことのないはずの座り⽅だが、俺自身が覚えてる。
ワカコの⽚⽅の眉が上がった。
「正座ができるのかい。この街の⼦にしちゃ、珍しいね」
「膝の作りがちょっと古⾵なんでね。婆さんの店じゃこっちのほうがウケがいいだろ」
ワカコはそれには答えずに、湯呑みの⽚⽅を俺のほうへ滑らせる。
「で。顔は」
「ジャッキーが言ってたが、マジでそっちの意味だったのかよ」
俺は笑いながら仮⾯に⼿をかけた。ヘッドセットとバイザーもまとめて⾸まで下ろす。変声機を通さない⾃分の声で⾔った。
「お望みどおり、顔⾒せに来たぜ⋯婆さん」
細くて⾼い声だった。ガキの声だ。
ワカコはしばらく何も⾔わなかった。⽬だけが、俺の⽩い髪と、⻘い⽬と、頬から⾸筋に這うケーブルをなぞっていく。
キロシで医療の仕事をしてた⼥の⽬だ。それから⾃分の湯呑みを持ち上げて、⼀⼝すすった。
「ちびすけってのは、ものの喩えのつもりだったんだけどね」
返す⾔葉がなくて、肩をすくめた。
湯呑みが卓に戻る。
こつん、と乾いた⾳。
去年、紙切れの仕事の終わりに回線越しに聞いたのと同じ⾳だった。
⾃分の湯呑みを持ち上げすする。
熱くて、渋い。⾆の奥に苦みが残る。ママの店のエンチラーダとは真逆の味がする。
ガキの舌には正直合わない。
湯呑みを置いて上着のポケットからフィンガーズの紙の⼿帳を出した。卓の上に置いて、ワカコのほうへ指で押し出す。
ワカコは⼿帳に⼿を伸ばさなかった。表紙に⽬を落としてから俺の顔に⽬を戻す。
「あの医者の⼿帳だね」
俺は頷いた。
「婆さんの名前がずいぶん並んでた。どのページにも⼆割って書き添えつきでな。いい商売だ」
「詫びなら、⼊れないよ」
ワカコの声は少しも揺れなかった。
「あたしは⼝を利いただけさ。売り物がどこの誰かなんて、いちいち気にしてたらこの通りじゃ⼀⽇も店を開けてられない」
「ハッ、その辺りの事情は俺も知ってるさ。アンタを慈善活動家だと思ったことは一回もないよ」
⼿帳の上に指を⼀本置いた。
「代わりに貸し借りの整理をしようぜ、婆さん。紙切れ⼀枚分の借りと、倉庫のシャードの代⾦。それからこの⼿帳。全部まとめて差し引きゼロだ」
ワカコの⽬が細くなる。
「勘定が合わないね。あんたの損だよ、それは」
「損得で⾔うなら荷物は軽い方が俺には得なんだよ。貸し借りを抱えて歩くのは性に合わねえ」
ワカコは⼿帳を⼿に取った。中を開きもせずに、⽻織の袂に落とし込む。
「あの医者なら、今朝街を出たよ。⽚道でね」
「そいつは残念だ。せっかく指のアフターサービスの話をしてやったのにな」
ワカコの⼝の端が動いた。笑ったのか、呆れたのか、どっちとも取れる動き⽅だった。
「⼀枚、まだ持ってるのかい?あの紙切れ」
「机の引き出しの⼀番奥に。おかげでうちで⼀番値の張る家具はあの引き出しってことになってる」
今度ははっきり笑った。喉の奥で、短く。
ヘッドセットとバイザーを戻して、仮⾯を被り直す。
変声機が、俺の声を太い⼤⼈の男の声に作り変える。
「ごちそうさん、婆さん。茶、美味かったぜ」
「その声のほうが、よっぽど似合ってないね」
襖を閉める前に、もう⼀度だけ振り返った。ワカコは俺の湯呑みを⾃分のほうへ引き寄せて、底に残った茶を眺めてた。
[ エ ル ‧ コ ヨ ー テ ‧ コ ホ ]
夜。店の扉を開けるとカウンターの端からでかい腕が上がった。
「来たな、配達屋っ! ママ!こいつに⼤盛りで頼む」
ジャッキーの隣で、Vがグラスを持ったまま振り返った。
仮⾯の俺を⾒てカウンターに⾦を置く。
「約束のエンチラーダだ。今夜は俺のおごりでいい」
「いいのか、V。俺の胃袋は底が抜けてるぞ。店ごと⾷っちまうかもしれねえ」
カウンターの向こうで、ママ・ウェルズがもう⽫を⼆枚並べてた。湯気の向こうからママの⽬が仮⾯を上から下まで眺める。
「あんた、今⽇も仮⾯のままかい」
「今⽇はもう⼀回外したんでね。⼀⽇⼀回までって医者に⽌められてんだ」
ママは呆れた顔で⾸を振って、⽫を俺の前に置いた。⾚いソースが⽫の縁からこぼれてる。
⼀⼝頬張る。
唐⾟⼦の⾟さに、昼の茶の苦みが押し流されていく。
Vがグラスを置いた。
「⋯⋯エヴリンは?」
「⽬を開けて、真っ先にジュディの名前を呼んだ。そこまでが俺の担当だ。そっから先はジュディの担当でね」
Vはグラスの縁を指でなぞって、⼩さく息を吐いた。
「……そうか」
ジャッキーが、エンチラーダを頬張ったまま俺の肩を肘で突く。
「で、婆さんには顔、⾒せたのか」
「⾒せたさ。茶二杯分の価値はある顔だからな」
Vが俺の仮⾯を横⽬で⾒た。
「俺は、まだ⾒てねえぞ」
「エンチラーダ⼀⽫じゃちょっと安いな。ママの店のメニューを端から端まで頼んでくれたら考える」
ジャッキーがカウンターを叩いて笑った。
「俺は⾒たぜ。惚れはしなかったけどな」
Vの⼿⾸で着信の印が光った。Vは画⾯に⽬を落として短く読み上げる。
「タケムラだ。明⽇の夜⼯業団地の倉庫を⾒に⾏く。三⼈で来い、だとよ」
「招待状が届くようになったら、俺たちも⼀⼈前だな」
ジャッキーがグラスを空けながら⾔った。
Vの⽬が、ふと、俺の隣の空いてる椅⼦に流れた。
誰も座ってない。カウンターの上にも何も置いてない。Vはその椅⼦のあたりを⾒たまま⼝の中で何か⾔った。声にはならない。
バイザーの内側で、Vの頭の中のチップの書き込みの速さを示す線が、ぴょんと跳ねる。⼗四本⽬が跳ねた分を追いかけて、なぞり直しにかかる。
「その席、予約⼊ってたか?V。ロッカーボーイの指定席なら席料は別に取るぞ」
Vが俺のほうを⾒た。驚いた顔がすぐに苦笑いに変わる。
「……⾒えてんのかお前。あいつが」
「⾒えねえよ。⼿元の線が跳ねただけだ。お前のほうは客が⼀⼈増えたって顔をしてたけどな」
線が元の⾼さまで下りていく。Vは空いた椅⼦から⽬を外してグラスを持ち直した。
カウンターの向こうでママが鍋を傾けた。
俺の⽫にだけ、エンチラーダがもう⼀切れ載る。
腕が細すぎる、と⼀⾔添えて。ジャッキーが⾃分の⽫を指さして抗議するとママは鍋の蓋を閉めながら、あんたはもう⼗分⼤きいでしょ、と返した。
情けない顔で⽫を⾒下ろすジャッキーを⾒て、Vが今夜はじめて声を出して笑った。
ジャッキーの恨めしそうな⽬の前で、増えた⼀切れを⼝に運んだ。