The Child Leading Beyond the Wall 作:housen
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ
金子みすゞの詩「星とたんぽぽ」より
バイザーの端に、普段は使わない回線の印が灯った。
俺は壁の向こうから拾ってきた漫画の三巻⽬を読んでる。主⼈公がやっと⼑を抜いたところだが流石にこちらが優先だ。
『⼤きい仕事がある』
ローグの声はいつも通り低くて余計なものがない。回線の向こうで氷がグラスに当たる⾳がする。
「姐さんの⼤きいは、本当に⼤きいからなあ。どのくらい」
『現場に⼀つクルーを⼊れる。ネットはあんたに頼む。報酬はこの前のカン・タオの件の三倍』
⼝笛を吹いた。
「受けた」
『話は最後まで聞きな。今回は顔を出してほしい。アフターライフに来な。明⽇の夜、⼗⼀時。クルーと顔合わせをする』
間が空く。
「俺の仕事はいつもネット越しだぜ」
『知ってる。でも向こうは、顔も知らない相⼿に背中を預けるのは嫌だってさ。命を預ける相⼿の声くらい同じ部屋で聞きたいんだと』
もっともな話だ。俺がクルーの側でもたぶん同じことを⾔う。
それにフィクサーから⼤きな仕事を受けるときは、アフターライフのローグの席で話を聞く。ゲームで何度も⾒た場⾯だ。その席に⾃分が座る。
ちょっと⾯⽩そうだと思った。
「わかった。⾏く」
『仮⾯は着けてきな。あんたの顔は、あたしが知ってれば⼗分だ』
回線が切れた。
漫画の続きは帰ってから読むことにするか。
*
次の⽇の夜、研究所の地下から地上に出た。
外に出るのは、荒野のガソリンスタンドでカン・タオの技術者を⾒送った明け⽅以来だ。バッドランズの夜は昼の熱が嘘みたいに冷える。乾いた⾵がジャケットの襟から⾸筋に⼊り込んでくる。
迎えに来たのは無⼈タクシーだった。配⾞の記録は俺が呼ぶ前から書き換えてある。乗客なし、回送中。⾞は誰も乗せていないことになってるし、⾞内のカメラにも誰も映らない。
後部座席に体を沈める。シートが⼤きすぎて⾜が床に届かない。
⼀時間ほど⾛ると、地平線の向こうにナイトシティが⾒えてきた。
最初は夜空の下の方がほんのり明るいだけだ。それが近づくにつれて、光の塊になる。
⾼層ビルの頂上の⾚い航空灯
看板のネオン
⾼架道路を流れる⾞のライト
全部が混ざって、街の上の空まで薄く⾊がついてる。
何度⾒ても慣れない。前の⼈⽣ではこの街を画⾯越しに何百時間も歩いたのに。
*
リトル・チャイナの⼿前でタクシーを降りた。
通りは⼈で埋まってる。屋台から湯気と油の匂いが流れてくる。頭上には看板が何段も重なって、漢字とカタカナと英語が⾚や緑や紫に光ってる。どこかで誰かが怒鳴り合ってて、別のどこかで⾳楽が鳴ってる。⾬上がりの湿った空気が通りの上に溜まってた。
ここからは歩きだ。
バイザーの内側で周りの景⾊にもう⼀枚の景⾊を重ねる。この通りにいる⼈間の⽬と、通りに向いたカメラの⽬。全部で三百と少し。
⽷を伸ばした。
壁の向こうから呼んだAIたちが、その⼀つ⼀つに取りつく。屋台の主⼈の義眼。肩を組んで歩く酔っ払い⼆⼈の義眼。路地の⼊⼝で客を引いてる⼥の義眼。電柱の上の監視カメラ。店の軒先の防犯カメラ。
それぞれの⽬に映った映像から、俺の姿だけを切り取る。空いた⽳には⼀コマ前の景⾊を貼る。俺が⼀歩進むたびに、三百の映像の中で三百の⼩さな⽳が塗りつぶされていく。
雑踏の中を歩く。
誰も俺を⾒ない。正⾯から歩いてきた⼤男が俺のいる場所に向かって突っ込んでくるので半歩よける。⼤男は⾃分が何かにぶつかりそうになったことにも気づかずに通り過ぎていく。
この街の⼈間はほとんど全員が義眼を⼊れてる。⾒てるのは⾃分の⽬じゃなくて、サイバーウェアが組み⽴てた映像だ。
そう、『ほとんど全員』だ。
屋台の前で⼩さな⼥の⼦が⺟親の⼿を握ってる。五つか六つくらい。その⼦の⽬には何も⼊ってない。⽣まれたままの⽬だった。
⼥の⼦がこっちを⾒た。
⽩い仮⾯の、背の低いやつ。多分そう⾒えてる。
俺は仮⾯の前で指を⼀本⽴てた。静かに、のつもりだ。⼥の⼦は真似して笑いながら⾃分の⼝に指を当てた。
⺟親は、娘が誰もいない場所に向かって指を⽴ててるのを⾒て、⾸をかしげるがあまり気にせず娘の⼿を引いて⼈混みの中へ消えた。
*
アフターライフは通りから⼀本⼊った薄暗い路地の奥にある。
元は死体安置所だった建物だ。看板は⼩さくて、知らない⼈間なら通り過ぎる。⼊⼝の脇に⾸の太い⽤⼼棒が⼀⼈⽴ってた。厳つい両⽬を光らせ客の顔を⼀⼈ずつ確かめ、紹介のないやつを追い返してる。
路地の壁際で待った。
傭兵が三⼈、笑いながら路地に⼊ってくる。⽤⼼棒が顔を確かめて顎で中を⽰した。
扉が開く。
俺は三⼈の後ろについて中に⼊った。⽤⼼棒の⽬の中では、扉をくぐったのは三⼈だけだ。悪いね
階段を下りる。
下の空気は外よりひんやりとしてる。低い天井、⾚みがかった照明、壁際に並んだボックス席。
カウンターの奥の壁には酒の名前を書いた板が掛かってる。
知らない名前ばかりだ。
全部⼈の名前だった。この店では、死んだ伝説の傭兵の名前がそのまま酒の名前になる。ゲームの中で俺はその板の前に何度も⽴った。
あのとき、板の上にはジャッキーの名前もあったが、今はまだない。
ジャッキーはいつかこの板に⾃分の名前を載せるんだと⾔ってた。ゲームの中でそれがどうやって叶うのかを俺は知ってる。
板から⽬を離した。
カウンターの中にバーテンダーの⼥が⼀⼈いた。
⽷を伸ばした。何にも触れない。その⼥の体にはサイバーウェアが⼀つも⼊ってなかった。腕も、⽬も、⽿も。この店にいる⼈間の中で、たぶんこの⼥だけだ。
せっかくの演出だ、少し考えよう。あの⽬には俺が映る。どうするか⋯
カウンターの前を通らないと、奥の席には⾏けない。階段の下で⽴ち⽌まって⼥の⼿元を⾒る。客が⼀⼈、空のグラスを振って次を頼んだ。⼥が背中を向けて、棚の上の瓶に⼿を伸ばす。猶予は約三秒
その三秒でカウンターの前を抜けた。
*
⼀番奥のボックス席にローグが座ってた。
⼋⼗を過ぎてるはずなのに、背筋はまっすぐだ。短く刈った髪は⽩に近い⾦⾊。両⽬のサイバーウェアが照明を受けてかすかに光ってる。グラスを⽚⼿に向かいの客たちの顔を順番に⾒てた。
客は四⼈。
席から⼆歩離れた柱の陰に⽴つ。俺は誰の⽬にも俺は映ってない。ローグの⽬にもだ。
ついでに四⼈の体の中を覗いておくことにした。これから命を預け合う相⼿だ。中⾝を知らずに組む理由はない。
そっと⽷を伸ばす。
⼀⼈⽬は背の⾼い⼥だ。とにかく背が⾼い。座っていても、頭がほかの三⼈より⼀つ上にある。明るい⾦髪を顎の線で切りそろえて、顔の下半分を⾚いマスクで覆ってる。マスクの下はサイバーウェアの顎だった。⾸の後ろにはデッキの差し込み⼝とパーソナルリンクが何本も。肌には光る蜘蛛の巣の刺⻘。
ネットランナーだ。それも⻑くこの街で⽣きてきた⼿合いだ。体の中の記録がどこもきれいに掃除されてる。⾃分の⾜跡を消す癖が体の隅々までついてる。
⼆⼈⽬は⼩柄な⼥。俺といい勝負の背丈だ。肌は⽩くて、⻘みがかってる。緑の髪を⼆つに結んで、⾸と腹に派⼿な刺⻘。両腕だけが体に釣り合わないほど⼤きい。右が⾚、左が⻘の、ごつい義腕。⽬はピンクと⻩⾊の義眼。それ以外はほとんど⽣⾝だった。腕だけ借り物みたいに⾒える。テーブルの上に銃⾝を詰めた⼤きなショットガンが⼀挺、無造作に置いてあった。
三⼈⽬は⼝ひげを整えた男。年は四⼈の中で⼀番上だ。ベストに⽩いシャツ、腰のホルスターに⼤型の拳銃。右腕が⼀本だけ、銀と黒の義腕になってる。この男は黙ってグラスを傾けてる。周りを⾒てないようで、店の出⼊⼝と階段と柱の位置を全部視界の端に⼊れてた。
四⼈⽬を開いて、⼿が⽌まった。
若い男だ。俺より少し年上くらい。⻩⾊いジャケットを着てて、袖に救急隊の古いマークが⼊ってる。
腕は両⽅ともゴリラアーム。殴り合い⽤の、怪⼒の義腕だ。その⽚⽅の前腕には、⼩型のミサイルを撃ち出すプロジェクタイルランチャーが仕込んである。脚は着地の衝撃に耐えるように⾜⾸から補強されてる。⽪膚の下には装甲。肺は合成。⾻格には動きを補助するフレームを通してる。神経には⼤容量の処理装置。
そして背⾻に、サンデヴィスタン。
それも店で買えるやつじゃない。軍⽤の試作品だ。型番がどの製品の⼀覧にも載ってない。
数えるのをやめた。
⽣⾝の部分よりサイバーウェアの部分のほうが多い。
⾎の中を覗く。免疫抑制剤の濃度が普通の⼈間に処⽅される量の何倍もある。体が⾃分の体じゃないものを敵だと思って暴れ出さないように、無理やり黙らせてる。それでも拒絶の兆しがあちこちに出てた。
その体で男はビールを飲んでる。
隣の⼩柄な⼥に何か⾔われて笑ってた。普通に。
コイツ、マジかぁ。
ゲームの中で俺はサイバーサイコを何⼈も追いかけた。体をサイバーウェアで埋め尽くして、最後に壊れた連中だ。あいつらの中には、この男よりサイバーウェアの少ないやつがいくらでもいた。
この男はそれより多いものを詰め込んで、まだ普通に笑ってる。
驚いたというより、呆れた。⾼いビルの⼿すりの外側を散歩みたいに歩いてるやつを⾒た気分だ。落ちたらどうなるか、たぶん本⼈もわかってる。わかってて平気な顔で歩いてる。
まぁ、俺には関係ないか。そう思って⽷を引いた。
*
「仕事の中⾝は、こうだ」
ローグがグラスを置く。
「サントドミンゴの、ランチョ・コロナド。ペトロケムの古い管理棟がある。その地下に帳簿が⼀冊眠ってる。市議会の誰に、いくら流れたかを書いたやつだ。それを持ってきてほしい」
⼩柄な⼥がショットガンの銃⾝を指で叩いた。
「ペトロケムかよ。あそこの警備、ぬるいって聞くけど」
「表の警備はね」
ローグは⻩⾊いジャケットの男を⾒た。
「デイビッド。あんたたちには現場をやってもらう。建物に⼊って帳簿を持って出てくる」
背の⾼い⼥がマスクの奥でこもった声を出した。
「ネットはあたしがやる。いつも通り」
「キーウィ。管理棟のネットを守ってるのは、元ネットウォッチのネットランナーが三⼈だ」
キーウィと呼ばれた⼥は何も⾔わない
「この半年で⼆⼈がそこに潜った。⼆⼈とも脳を焼かれて帰ってこなかった。腕の悪い⼆⼈じゃなかった」
ローグはグラスを持ち上げて⼀⼝飲んだ。
「あんたの腕を疑ってるわけじゃない。でも三⼈を⼀⼈で相⼿にさせる気はないよ。ネットの⽅は別に頼んである」
「誰に?」
デイビッドが訊いた。
「【Anonymass】」
その名前が出た瞬間に、ローグの⽬から⾃分を消すのをやめた。
四⼈の⽬からもだ。
俺はローグの隣に座ってる。柱の陰から席まで、⼆歩。名前が出るまでの間に、もう座ってた。
テーブルの向かいで四⼈の⽬が⼀⻫にこっちを向いた。
⼩柄な⼥の⼿がショットガンを掴む。銃⼝がテーブルの上を滑って、俺の仮⾯に向いた。⼀秒もかかってない。速い。
デイビッドはビールのジョッキを持ったまま固まってる。
キーウィは⽬を細めた。⼿は動かさない。代わりに⾸の後ろのパーソナルリンクから、細い信号が⼀本、俺に向かって伸びてくる。俺の体の中を探ってる。
⼝ひげの男はグラスを持った⼿を⽌めただけだった。
「よう」
仮⾯の内側の機械を通した声は、太い⼤⼈の男の声になって、テーブルの上に落ちた。
「お呼びにあずかりまして」
「……いつからいた」
⼩柄な⼥の声が低い。銃⼝は動かない。
最初から、と答えた。
「嘘つけ。あたしの⽬に何も映ってなかった」
映らないようにしてたんだから、当たり前だ。わざわざ⾔い返すことでもない。ローグは俺のほうを⾒もしない。グラスを置いて、⼩柄な⼥に⾔った。
「レベッカ。銃を下ろしな。あたしの店であたしの客に向けるもんじゃないよ」
レベッカは俺の仮⾯を睨んだまま動かない。それから⾆打ちをして、ショットガンをテーブルの上に戻した。⼿は銃把から離さない。
「チビじゃん」
肩をすくめてみせた。
レベッカの⼝の端がわずかに動く。笑ったのか、怒ったのか、わからない。キーウィの信号が俺の体の中を⼀周して戻っていった。キーウィはマスクの上の⽬で俺をじっと⾒る。
「デッキが⼀つ。それ以外、何も⼊ってない」
デイビッドがキーウィを⾒た。それから俺を⾒る。
「何もだよ。⽬も腕も、⽣まれたまま」
キーウィが重ねた。デイビッドの⽬が俺の仮⾯と、細い腕と、テーブルの縁に届くか届かないかという肩の⾼さを、順番に⾒た。
さっき俺がこいつの体を開いたときと、たぶん同じ顔をしてる。
「それでさっき誰にも⾒えてなかったのか」
「まあな」
デイビッドは考える顔をした。それからジョッキをテーブルに置いて、どうやったのかと訊いてくる。
「企業秘密だ」
そこまで聞いて⼝ひげの男が初めて⼝を開いた。
「ローグ。こいつで間違いないんだな」
南のほうの訛りが混じった、ゆっくりした声だ。
「間違いないよ、ファルコ」
ローグはやっと俺のほうを向いた。
「遅かったね」
「時間ぴったりだろ?とずっとそこの柱の陰にいた」
「なら、次からは座って待ってな。ここはあたしの店だ」
ローグはそれ以上何も⾔わない。隣に客が湧いて出ても、グラスの氷の⾳⼀つ変わらなかった。
ファルコがグラスの残りを飲み⼲した。
「顔を⾒せろとは⾔わねえよ。声は聞いた」
「そりゃどうも」
キーウィはまだ俺を⾒てる。⽬を逸らさない。
「この街じゃ、誰も信じるな。弟⼦にはそう教えてる」
キーウィの指がテーブルの縁をなぞった。
「あたしも、あんたを信じない。仕事は⼀緒にやる。それだけ」
「良いんじゃねぇの?それで十分だろ」
デイビッドがテーブルの上で拳を握る。それからまっすぐ俺の仮⾯を⾒て⾔った。
「デイビッド・マルティネス。このクルーを仕切ってる」
「アノン」
デイビッドが笑った。
「よろしくな、アノン」
向かいの若い男の顔を⾒る。笑うと、年相応のガキの顔になった。その体の中で軍⽤のサンデヴィスタンが静かに眠ってる。
俺は頷いた。
ローグがグラスの氷を鳴らした。
「じゃあ、仕事の話を続けるよ」
某JUMPマンガのように冒頭のポエムに憧れる。
ナイトシティのどの勢力も主人公の容姿は把握していないのでここまで執拗に身を隠してアフターライフに来店したのは偏に作中の演出(イタズラ)をやってやりたいというただそれだけの為だったのです。彼はそんなに深く考えてません(´・ω・`)