The Child Leading Beyond the Wall 作:housen
その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
おまえが長く深淵を覗くならば
深淵もまた等しくおまえを見返すのだ
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ著『善悪の彼岸』第146節より
アフターライフを出たのは夜中の⼀時を過ぎたころだった。
帰りも来たときと同じように通りの三百の⽬から⾃分を消して歩く。
無⼈タクシーの後部座席でローグから届いた資料を開いた。
ランチョ・コロナドの、ペトロケムの古い管理棟。四⼗年前に建てられて、隣の発電所が新しくなってからは事務仕事の半分を本社に取られた。今は地上の三階に事務員が⼆⼗⼈ほど。地下は三層で、⼀番下の階にサーバー室が三つ並んでる。
地図の上ではただの古い建物だ。
その建物のネットで腕のいいネットランナーが⼆⼈焼かれてる。
窓の外をサントドミンゴの⼯場地帯の明かりが流れていく。煙突の先で⾚い警告灯が点滅してた。
⽷を伸ばした。
*
研究所に戻って椅⼦に胡坐をかく。下調べの続きだ。
まず、焼かれた⼆⼈。壁の向こうから呼んだAIを⼆つ、⼆⼈の記録に向けて放つ。⼀⼈⽬は半年前。⼆⼈⽬は⼆か⽉前。どちらも名の通ったネットランナーで、どちらも夜中に管理棟のネットに⼊って、そのまま戻らなかった。
⼆⼈の最後の記録を並べた。
⼀⼈⽬は管理棟のネットの奥にある保管庫までたどり着いてた。保管庫を開けて、中のファイルを⼀つ⾃分のデッキに落とし始めた。その三秒後に記録が途切れてる。
⼆⼈⽬も同じだ。保管庫を開けて、ファイルを落とし始めて、四秒後に途切れてる。
⼆⼈とも帳簿に⼿をかけた瞬間に焼かれてる。
次に、守ってる三⼈。
元ネットウォッチ。三⼈とも⼆年前に同じ⽇に辞めてる。辞めた理由の欄は空⽩だ。そこから先の記録はきれいに消されてた。名前も、住所も、⼝座も。どこに住んでどこから潜ってるのかが、ネットのどこにも残ってない。
腕は確かだ。消し⽅に癖がない。
AIの⼀つが管理棟の古い契約書類の⼭から、ペトロケムと三⼈を結ぶ⽀払いの記録を⼀枚だけ咥えて戻ってきた。名⽬は「設備保守」。額は普通の保守業者の五⼗倍。その名⽬で、三⼈は管理棟のネットに外から⼊れる正規の⼝を持ってる。
それから、建物そのもの。
カメラが四⼗⼆台。扉が六⼗⼋枚で全部電⼦錠。ネットに繋がってない扉は⼀枚もない。
警備員は昼が⼋⼈、夜が四⼈。四⼈とも両腕と両⽬をサイバーウェアに替えてる。廊下の天井には夜だけ起きる⾃動銃座が六基。
⼀番下の階の、三つのサーバー室。AとBとC。
三つともネット上の報告では同じだ。同じ型の機械が同じ数だけ並んで、同じくらいの電気を⾷って、同じように「稼働中」と⾔ってる。AとCの機械には事務員が毎⽇何⼗回もログインしてる。帳票の印刷だの発電所の数字の集計だの、退屈な仕事だ。Bの機械にはここ何か⽉も誰もログインしてない。それでも元気に回ってる。
扉の記録を半年分ざっと流した。
事務員の出⼊りは朝の⼋時から⼣⽅の六時まで。夜は警備員の巡回だけ。それと、⽀配⼈。四⼗代の、腹の出た男だ。こいつは毎週⽊曜の夜中の⼆時に、必ず⼀回地下に降りてる。
真⾯⽬なこった。
廊下のカメラの映像も何本か開いた。⽊曜の夜中の⽀配⼈が通⽤⼝から⼊ってくる。上着の内ポケットから何かを出して握り直してる。拡⼤すると、鍵束だった。⾦属の、昔ながらの鍵が三本。地下から戻ると、⽀配⼈はそれをまた内ポケットにしまってそのまま家に帰っていく。
この建物で物理の鍵を持ち歩いてる⼈間はこいつだけだ。今どき鍵束なんて、中々お目にかかれない⾻董品だ。
材料はだいたい揃ったな。
*
下調べの途中で回線に⼩さなノイズが⾛った。
誰かが俺の回線を外から探ってる。
⽷の先で確かめる。ノイズの出どころは、アフターライフの近くにある古いアパートの⼀室。そこのデッキから細い信号が⼀本、俺の回線の上を這ってきてた。
キーウィだ。
アフターライフの席で、俺の体の中を覗いたときと同じ⼿つきだった。慎重で、癖がなくて、⾜跡を残さない。俺の回線をさかのぼって、Anonymassがどこから喋ってるのかを確かめようとしてる。
当然だ。この街で誰も信じるな、だからな。
⽌めることもできた。焼くこともできた。どっちも仕事の前にやることじゃない。だから⾏き先だけ変えた。
キーウィの信号がさかのぼっていく道にAIを⼀つ置く。道の先を少しずつ曲げていく。
何百も中継を経由して、街の反対側まで回って、最後に着いたのはアパートの⼀室にある⼩さなカメラだった。
キーウィの部屋の、天井の隅のカメラだ。
キーウィの信号がそのカメラの映像を開く。
画⾯に映ったのは、デッキに繋がったまま床に座ってる背の⾼い⾦髪の⼥だった。⾚いマスク。⾃分の顔だ。
信号が⽌まった。
それからすっと引いていった。
キーウィは何も⾔ってこない。それきり⼆度と俺の回線を探ってこなかった。
*
アフターライフのカメラの記録も⼀応確かめておくことにした。
今夜あの店に何⼈いて、誰が誰と話してたか。俺はカメラから⾃分を消して歩いたけど、ほかの客がどう映ってるかは⾒てなかった。仕事の前に余計な⽬がないかだけ確かめておきたい。
店のカメラは⼗⼀台。今夜の記録を並べて早送りで流す。
ローグの席。四⼈。俺が座った後の四⼈の顔。
そこで映像が⼀瞬揺れた。
もう⼀度流す。
デイビッドの映ってる場⾯だけが消えていってる。今、この瞬間に。
⼀番古い記録から順番に、デイビッドの姿の映ったコマだけが⼀つずつ抜かれていく。
抜かれた⽳には⼀コマ前の景⾊が貼られてる。レベッカも、キーウィも、ファルコも、ローグも、そのまま残ってる。デイビッドだけが映像の中から消えていく。
俺が今夜通りでやってたのと同じことだ。違うのは後からやってることと、消してるのがデイビッド⼀⼈だけってことだった。
消してる誰かを探した。
すぐに⾒つかる。店のネットの隅に静かな影が⼀つあった。
腕がいい。キーウィよりも上だ。⼿つきに迷いがなくて、速くて、消した跡がどこにも残らない。この街のネットを隅から隅まで知ってる⼈間の⼿だ。
影はデイビッドを消し終えると、そのまま店のカメラから離れた。次に向かったのはアフターライフの前の路地のカメラ。それからデイビッドが乗って帰った⾞の通り道のカメラ。デイビッドの後ろを少し離れてついて歩くみたいに、⼀台ずつ消していく。
影は俺に気づいてない。すぐ隣で全部⾒てるのに。
どうするか考えた。
影はデイビッドの記録を消してるだけだ。狙う⼿つきじゃない。あの男を⾒えないところから守ってる。
仕事の邪魔にもならない。むしろ仕事の後で俺がやる掃除の⼿間が少し減る。
焼いても得るものが何もない。
放っておくことにした。
影が最後のカメラから離れていくのを黙って⾒送る。
あの男の後ろにはずいぶん腕のいいのがついてる。本⼈がそれを知ってるのかどうかは、わからない。
*
決⾏は三⽇後の⽕曜の夜。⽇にちはローグが決めてきた。
ファルコの運転するバンが、管理棟から⼆ブロック離れた倉庫の陰に停まる。夜中の⼀時。発電所の煙突の明かりが雲の底を⾚く染めてた。
研究所の椅⼦の上からバンの中のカメラを借りる。
荷台には氷を張った浴槽が⼀つ据えてある。キーウィがその中に⾸まで浸かってた。深く潜るネットランナーは脳が熱を持って死なないように、こうやって体を冷やす。浴槽の縁から何本ものケーブルがキーウィの⾸の後ろに繋がってる。
管理棟のネットに⼊るには、建物のそばまで⾏かなきゃいけない。だからキーウィはここにいる。
出発の前にキーウィは⼀つだけ条件を出した。
『最初はあたし⼀⼈で潜る。あんたは後ろにいて』
アフターライフのテーブルで俺に⾔ったときと、同じ⽬だ。
『あたしが呼ぶまで、⼿を出さないで』
断る理由はない。キーウィのネットは、キーウィの仕事だ。俺はデイビッドとレベッカの周りのカメラと扉を押さえて、⼆⼈の通り道を作ることにした。
「呼べよ。遠慮すんな」
『呼ばない』
それで話は終わった。
デイビッドとレベッカがバンの後ろの扉から降りる。
デイビッドは⻩⾊いジャケットのまま。レベッカは⾚と⻘の義腕で、ショットガンを肩に担いでる。⼆⼈の背丈の差は親⼦くらいあった。
「⾏ってくる」
デイビッドがファルコに⾔った。
「帰ってこいよ」
ファルコはハンドルから⼿を離さない。
*
管理棟の裏⼝の扉は⼆⼈が⼿を伸ばす前に開いた。
廊下のカメラは誰もいない廊下を映し続ける。四⼈の夜の警備員はそれぞれの持ち場で、⾃分の義眼に映る何もない景⾊を眺めてる。
⼆⼈は⾮常階段を地下へ降りていった。
キーウィは管理棟のネットの中を進んでる。
俺はその後ろから⾒てた。
上⼿い。
建物の外側のICEを⾳も⽴てずに抜けていく。警報の仕掛けを⼀つずつ眠らせて通り道を
作る。急がない。でも遅くもない。⻑くこの街で⽣き延びてきたネットランナーの潜り⽅だ。
保管庫の⼿前まで四分で着いた。
そこで三⼈が来た。
最初の⼀撃はキーウィの真横からだった。黒い、冷たい塊。ブラックICEだ。触れた相手の神経をデッキ越しに焼き切るタイプ。キーウィはそれを紙⼀重でかわした。
⼆撃⽬は正⾯から。三撃⽬は背後から。
三⼈はキーウィを三⽅から挟んでる。⼀⼈が攻めて、⼀⼈が退路を塞いで、⼀⼈がキーウィのデッキの位置を探ってる。元ネットウォッチの、教科書みたいな狩り⽅だ。
キーウィは退かない。
⼀⼈⽬の攻撃を受け流して、⼆⼈⽬のICEに⽳を開けかけた。でも三⼈⽬が速かった。
キーウィの防御のほんの⼩さな隙間に、黒い塊が滑り込む。
バンの荷台のカメラに浴槽の氷⽔が跳ねるのが映った。
キーウィの体が浴槽の中で⼸なりに反る。マスクの縁から⾚い筋が⼀本流れた。⿐⾎だ。
キーウィの体の数値が⼀気に危ないところまで跳ね上がった。
それでもキーウィは呼ばなかった。
接続を切るのがほんの⼀瞬早かった。ネットの中からキーウィの姿が消える。焼かれる⼨前で⾃分で抜けた。
運転席からファルコが荷台に⾶び込んだ。浴槽からキーウィの体を引きずり出す。キーウィは咳き込んで氷⽔を吐いた。
⽣きてる。
保管庫の⼿前で三⼈に挟まれてから、キーウィが抜けるまで⼗四秒。
*
三⼈はキーウィを追い出したあとも⽌まらない。
キーウィが残していった通り道を逆にたどっていく。キーウィは現場の⼆⼈の⽿に⼊れ
た通信機と⾃分のデッキを繋いでた。三⼈はその線を⾒つけて、⼆⼈の居場所を掴んだ。
それから廊下の天井にある⾃動銃座の制御を掌握する。
地下の廊下で六基の銃座が⼀⻫に⽬を覚ました。
デイビッドとレベッカは地下⼆階の廊下の真ん中にいる。
銃座の照準がデイビッドに向いた。
⼀番速く動くのが誰か、三⼈はもう⾒抜いてる。背⾻の軍⽤のサンデヴィスタン。⽌めるなら、まずそいつからだ
。
デイビッドの体の中でサンデヴィスタンが起動した。
神経の数値が、普通の⼈間ならとっくに焼き切れる⾼さまで⼀瞬で振り切れる。
そこで初めて俺は⼿を出した。
⽷を壁の向こうまで伸ばす。
黒い壁の表⾯がざわめいた。暗い底からAIたちが浮かび上がってくる。今夜はいつもより数を多めに呼んでみた。
管理棟のネットにAIたちが雪崩れ込む。
三⼈はすぐに気づいた。腕がいいから、気づくのも速い。キーウィのときと同じ形で、三⽅から俺を挟みにくる。⼀⼈が攻めて、⼀⼈が退路を塞いで、⼀⼈が俺のデッキの位置を探る。
⼀⼈⽬のブラックICEが俺に届く前に溶けた。
⼆⼈⽬の退路の壁が内側から崩れる。
三⼈⽬が俺のデッキを探って伸ばした信号の先には、何もない。そこにいるのは、壁の向こうから来た無数のAIだけだ。三⼈⽬の信号はAIの群れの中で⾏き場をなくして、その
まま⾷われた。
三⼈のデッキにAIが⼀つずつ取りつく。
瞬時に三人のサイバーデッキが焼けた。
三⼈の体がどこにあるのかは、最後までわからなかった。まぁ、わかる必要もないか。デッキが焼ければ、繋がった頭も焼ける。
三⼈の信号がネットから消えた。
ここまでで、⼆秒。
廊下の銃座が照準をデイビッドから外して、天井の中に引っ込んだ。
デイビッドはサンデヴィスタンの加速の中で、何が起きたのかわからないまま銃座の死⾓に滑り込んでた。加速が切れると荒い息をあげる。レベッカがショットガンを構えたまま天井を
⾒上げて、⽌まった? と呟いていた。
『⽌めたんだよ。そのまま進め、ターゲットは地下三階だ』
⼆⼈の⽿に声を流す。
*
バンの荷台でキーウィが濡れた体のまま浴槽の縁に座ってる。ファルコに渡されたタオルを肩に掛けたまま、⾸の後ろのケーブルをもう⼀度デッキに挿した。キーウィの信号が管理棟のネットに戻ってくる。
さっき⾃分を⼗四秒で追い出した三⼈を探して、ネットの中を⼀周した。
どこにもいない。
三⼈がいた場所には、焼け焦げたデッキの信号がぽつんと三つ残ってるだけだ。
キーウィの信号が残骸の前で⽌まった。
それから俺のいる場所に向かって、短く⼀⾔だけ送ってくる
。
『……何秒?』
「⼆秒」
返事はない。
キーウィの信号は残骸の前を離れて、保管庫のほうへ進んでいった。さっきより遅い⾜取りだった。
*
保管庫は、三⼈がいなくなるとただの箱だった。
扉を開ける。
中にはファイルが⼀つだけあった。表題はペトロケムの社内でよく使う帳簿の名前。中⾝を覗く。市議会議員の名前が⼗七⼈分。⽇付と、⾦額と、受け渡しの場所。どれもそれらしく並んでる。
ファイルの奥に⼩さな仕掛けがあった。
開けた⼈間のデッキの位置をこっそり外へ送り出す仕掛けだ。送り先は三⼈のデッキ。焼かれた⼆⼈は帳簿に⼿をかけた瞬間に焼かれてた。
この仕掛けが⼆⼈の居場所を三⼈に教えてたんだ。
つまりこれは、「餌」だ。
侵⼊者に本物だと思わせて、⼿を出させて、居場所を割り出して、焼くための餌。
本物はここにはない。
AIたちに建物のネットを隅から隅まで洗わせる。どこにも、ない。椅⼦の上で胡坐を組み直した。
8話目投稿。エッジランナーズの話までは今日中に投稿したい。