その瞬間。
展開していた《時間遅延転移(ディレイ・テレポーテーション)》に反応があった。
(──来る!)
悟の意識が、生存のための戦術思考へと鋭く切り替わる。
転移。何者かが、この凍てつく戦場へと現れようとしている。
反応は──一つ、ではない。二つ。
(増援か!)
悟はスタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンの柄をみしりと握り直した。
眼前では、深紅の吸血鬼が未だに石像のように動きを止めている。
先ほど脳裏を過った特殊スキル《エインヘリヤル》の可能性も、まだ完全に否定できたわけではない。
シャルティア。
その分身たるエインヘリヤル。
さらに、これから転移してくる正体不明の二つの反応。
しかもこちらは〈次元封鎖《ディメンショナル・ロック》〉によって、最大の生命線である転移による撤退を完全に封じられているのだ。
(くそっ……!)
(どうする……どうする、俺……!)
シャルティア単体であれば、まだ手はある。
仮に《エインヘリヤル》が加わったとしても、今持ち得る知識を総動員すれば、辛うじて対処のしようはあるかもしれない。
だが、そこへさらに未知の二体が乱入してくるとなれば話は別だ。
何が転移してくるのかすら分からない現状、圧倒的に情報が足りなすぎる。
(転移直後の硬直を狙って高階位魔法を叩き込むか?)
一瞬だけ凶悪な選択肢が浮かんだが、即座に脳内で切り捨てる。
駄目だ。正体すら分からない未知の相手へ、己の貴重な手札を晒してまで先手を取るべきではない。
ならば、なりふり構わず全力でこの場から逃走を図るか。
──それも、シャルティアを眼前にした現状では自殺行為に等しい。
(くそっ、どうする……!)
心臓のない胸の奥で、暴れ馬のように焦燥が膨れ上がる。
直後。
眩い緑色の光が、躊躇なく悟の身体を駆け抜けた。
膨れ上がった感情の波動が、強引に限界まで抑え込まれる。
「…………」
一瞬にして冷徹な静けさを取り戻した頭脳に、ふと、かつて共に戦った戦術の天才の言葉が過った。
ギルド『アインズ・ウール・ゴウン』の誇る諸葛孔明──ぷにっと萌え。
彼がユグドラシル時代、敗色濃厚な盤面において、自分たちに語りかけたあの言葉。
それがどのような文脈で、何と言われた言葉だったのか、その正確な一字一句までは二百年の歳月の彼方に霞んで思い出せない。
だが、あの言葉の本質だけは、今も悟の魂の底に深く刻まれている。
(──そうですよね、ぷにっと萌えさん)
慌てる必要などどこにもない。
どれほど盤面が絶望的であろうとも、魔法詠唱者が冷静さを失った時点で、その戦闘の敗北は確定するのだから。
悟は深く息を吐き出すようにして、体勢を完全に立て直した。
バラバラになった戦況のピースを、もう一度論理的に組み直していく。
今、確実に分かっている確定要素は何だ。
シャルティアは、何故か不可解な硬直状態にある。
《エインヘリヤル》は、未だ発動したと決まったわけではない。
そして、今まさに転移してくる二体については、完全な不可知。
ならば。
情報を集めろ。
判断は、それからだ。
やがて、歪んだ空間がパチパチと音を立てて弾けた。
光の粒子と共に、二つの輪郭が現れる。
それは、悟の記憶にある姿と、何ひとつとして違わない一対の貌であった。
純白のドレスを纏った、圧倒的な美貌の悪魔──アルベド。
続いて現れたのは、ネクタイを締めた三つ揃いのスーツを隙なく着こなした、やり手のビジネスマンを彷彿とする悪魔──デミウルゴス。
かつて至高の四十一人によって築かれしナザリック最高幹部の二人であった。
(やはり、ナザリックのNPC……!)
だが、安心など一欠片もできなかった。
同じくナザリック階層守護者であるはずのシャルティアが、つい先ほどまで自分を殺す気満々で攻撃していたのだから。
二百年という歳月が彼らをどう変貌させたのか、確証は何もない。
悟はスタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンをいつでも解き放てる構えのまま、三者の微小な動きを冷酷に注視する。
しかし。
ドサリ、と。
アルベドが跪いた。
続いてデミウルゴスも、眼鏡の奥の瞳を伏せ、額が地に触れんばかりに深く頭を垂れた。
信じがたいその光景を見たシャルティアもまた、あれほど凶悪に握り締めていたスポイトランスを大地へ投げ出すようにして下ろし、同じようにその場へ跪いた。
「…………」
悟は動かなかった。
正確には、一歩たりとも動くことができなかった。
目の前で起きた事象が、あまりにも己の理解を超越していたからだ。
(…………何だ?)
攻撃は来ない。アルベドは跪いている。デミウルゴスも同じだ。シャルティアは武器を下ろした。
それらはすべて、悟自身の真紅の瞳が確かに観測した紛れもない事実であった。
──だが、だから何だというのだ。
(……どういうことだ…? ──罠か?)