【彩葉視点】
高校二年生になった私、酒寄彩葉は、現在東京で一人暮らしをしている。
京都の実家を離れてから、もう二年近くが経つ。
朝は学校へ行き、授業を受け、放課後はアルバイト。帰宅したら夕食の準備や洗濯といった家事を済ませ、宿題や予習復習に取り掛かる。そうして一通りのことを終えた頃には、日付が変わりそうになっていることも珍しくない。
アルバイト先は、隠れ家的な雰囲気が人気の喫茶店、BAMBOO cafe。週に五日ほど働いており、学校の予定と合わせて自分なりに上手く時間をやりくりしている。
住んでいる部屋は、決して広くも綺麗でもない。壁紙の端は少し剥がれかけているし、窓の立て付けだってあまり良くない。それでも家賃が安いのはありがたいし、生活する分には十分だった。
忙しい毎日ではあるけれど、特別つらいと思ったことはない。
世の中には、私よりもずっと忙しい人が大勢いる。学校に通いながら働いている人もいれば、仕事と家庭を両立している人だっている。
それに比べれば、私の生活なんてまだまだだ。
……お母さんなら、これくらい簡単にこなしてしまうのだろう。
ふと、そんなことを考える。
母は昔から何でもそつなくこなす人だった。仕事も勉強も、私から見ればいつだって完璧で、弱音を吐く姿なんてほとんど見たことがない。
だからだろうか。
私も、同じようにできなければいけないと思ってしまう。
自分で決めて東京に出てきたのだから、生活のことくらい自分で何とかしたい。勉強も、アルバイトも、家事も。誰かに頼らずにきちんとこなせるようになりたい。
そうすれば、いつか胸を張ってお母さんに報告できる日が来るかもしれない。
そんなことを、心のどこかで期待している。
もっとも、最近は少しばかり疲れが溜まっているようで、授業中にうとうとしてしまったり、鏡を見るたびに目元のクマが気になったりすることもある。
けれど、これくらいは大したことではない。
冷蔵庫に貼ってあるメモには、こう書いてある。
『パスタ四食分につきムダ飲み不可!』
これは、いざというときのために買い置きしているエナジードリンクについての注意書きだ。私にとっては、ここぞという場面で使うブーストアイテムのようなもの。無計画に消費するわけにはいかない。
……まあ、最近は少し使用頻度が増えている気もするけれど。
そんな私の生活を、京都から気にかけてくれる人がいる。
父だ。
父は今も京都で暮らしており、時折こうしてメッセージを送ってくる。
『ちゃんとご飯は食べてるか?』
『最近忙しそうやけど、無理はしてへんか?』
『困ったことがあったら、いつでも連絡してええからな』
どれも、何気ない言葉ばかり。
けれど、その一つひとつがありがたい。
私が東京へ出てからも、父は変わらず私のことを気にかけてくれている。電話をすれば、仕事の合間でも時間を作って話を聞いてくれるし、たまに送られてくる写真には、京都の実家で過ごす何気ない日常が写っていた。
以前なら当たり前だった光景が、今では少し懐かしい。
父が元気でいてくれること。それだけで、私は随分と安心できているのだと思う。
そういえば、東京へ出てくることを決めたときも、父は私の話を最後まで聞いてくれた。
大学では法律を学びたいこと。将来はお母さんと同じような道に進みたいこと。そして、そのために東京の高校へ進学したいこと。
私の話を聞いた父は、反対するでもなく、ただ少し考えるように黙っていた。
それから、ぽつりと尋ねたのだ。
「彩葉、それはほんまにお前がやりたいことなんか?」
「うん」
私は迷わず答えた。
法律を学びたい。それは本当だ。
お母さんのようになりたい。お母さんに認めてもらいたい。そういう気持ちが自分の中にあることも、当時の私はまだはっきりとは意識していなかった。
だから、あのときの返事に嘘はなかったのだと思う。
父は私の顔をしばらく見つめていた。
私に音楽の才能があることを、父は誰よりもよく知っている。小さい頃からピアノに触れてきた私が、音楽を楽しんでいる姿も見てきたはずだ。
だからこそ、少しだけ気になったのかもしれない。
「そっか。なら、応援したる」
そう言って、父は笑ってくれた。
「ただな、音楽も忘れんといてほしいな。彩葉が楽しそうに弾いとる姿、父さんは好きやで」
「もう、お父さんったら」
そのときは、照れ隠しに笑って返した。
父はそれ以上、何も言わなかった。
きっと、私の選択を尊重してくれたのだろう。それでも、あのときの父の表情は、今でも時折思い出す。
もしかしたら、私の返事だけでは分からない何かを感じ取っていたのかもしれない。
もちろん、今さら進路を変えるつもりはない。
私は自分で決めて、この道を歩いているのだから。
だから、返事にはいつも同じような言葉を添えている。
『大丈夫。ちゃんと食べてるし、無理もしてないよ』
少しくらい疲れていても、それは書かない。
父には安心していてほしいし、私が自分で決めた生活なのだから、できるだけ自分で頑張りたい。
そんな私にも、一日の終わりに楽しみにしている時間がある。
家事と勉強を済ませ、ようやく一息つけるようになった頃。私はスマートコンタクトレンズを通して、仮想空間ツクヨミへとログインする。
そこは、私にとって大切な友人たちと過ごせる場所だ。
ログインすると、いつものように友人の芦花と真実が待っていた。
私のアバターは、青を基調としたストリート系の服装に、和装やパーカーの要素を組み合わせたもの。腰にはベルトを巻き、足元はブーツ。頭には狐耳、腰の後ろにはふさふさの尻尾が揺れている。髪は肩ほどの長さで、青紫から夜色へと移り変わるグラデーションだ。
そんな姿で二人のいる家に顔を出すと、すぐに声が飛んできた。
「お、彩葉! おかえりー!」
「お疲れさま。今日もバイトだったんでしょ?」
「ただいま。うん、今日はちょっと忙しかったかな」
「BAMBOO cafe、今日はどうだった?」
「木曜日のBAMBOO cafeは戦場だった。なんで華の金曜日より客足が多いのか、未だに謎」
「また忙しかったんだ」
「まあ、いつものことだけどね」
二人は、私が来る時間に合わせてこうして待っていてくれることが多い。
特に約束をしているわけではない。私の生活が忙しいことを知っているから、無理に時間を合わせようとせず、ログインできたときに一緒に遊べればいい。そんな距離感が、私にはとても心地よかった。
現実の私は、どうしても周囲に気を遣ってしまう。頼るよりも先に自分で何とかしようとするし、誰かに迷惑をかけるくらいなら、自分が少し頑張ればいいと思ってしまう。
けれど、この場所ではそんなことを考えなくてもいい。
くだらない話をして、ゲームで遊んで、時には何時間も雑談をする。二人と過ごしていると、いつの間にか肩の力が抜けている自分に気づく。
そして、もう一つ。
私には、どうしても欠かせない楽しみがある。
月見ヤチヨ。
ツクヨミの管理人であり、仮想世界で活躍する人気AIライバー。そして、私が心の底から応援している、最愛の推しだ。
ヤチヨの配信は、スマートフォンやタブレットからでも視聴できる。だから、ツクヨミにログインする理由が彼女の配信を見るためだけというわけではない。
それでも、私の日常にヤチヨがいることは間違いない。
朝、目を覚ましたとき。学校へ向かう電車の中。アルバイトの休憩時間。そして、一日の用事を終えて自室に戻ったとき。
少しでも時間があれば、私はヤチヨの配信や動画を開いている。
楽しそうに笑う声。何気ない雑談。時折見せるお茶目な一面。そして、心にすっと入り込んでくるような歌声。
そのどれもが大好きだった。
疲れているときに配信を見れば、自然と笑顔になれる。気分が落ち込んでいるときに歌を聴けば、もう少し頑張ってみようと思える。
もちろん、ヤチヨが私のことを知っているわけではない。
私は大勢いる視聴者の一人に過ぎない。配信のコメントを読んでもらえることがあれば嬉しいし、名前を呼ばれたらきっと飛び上がるほど喜ぶだろう。けれど、それ以上のことを望んでいるわけではない。
画面の向こうで、たくさんの人を笑顔にしているヤチヨ。その姿を見ているだけで、私は十分幸せなのだ。
……ちなみに。
私の部屋には、小さな神棚がある。
といっても、立派なものではない。棚の上に小さな祭壇を設け、そこにヤチヨのアクリルスタンドを飾っているだけだ。
その周囲には、これまで集めたグッズや記念品。季節ごとに配置を変えたり、埃が付かないように丁寧に掃除したりと、管理にも余念がない。
朝起きたときには、ついそちらへ目を向けてしまうし、出かける前に心の中で挨拶をすることもある。
我ながら、少しばかり熱心すぎる気もする。
けれど、仕方がない。
私にとってヤチヨは、それくらい大切な存在なのだから。
……もしかすると、少し神格化してしまっているのかもしれない。
そんなことを考えていると、芦花がこちらを見てにやりと笑った。
「そういえば彩葉、明日ヤチヨの新曲が出るんだってね」
「えっ?」
思わず声が弾んだ。
「ライブ映像も一緒に公開されるらしいよ」
「本当に!?」
「うわ、反応早っ」
「いや、だって! 新曲ですよ!? しかもライブ映像まで!」
つい身を乗り出してしまう。
「昨日の告知、見てなかったの?」
「見ました! もちろん見ましたとも! ただ、改めて聞くと楽しみで……!」
「はいはい。分かった分かった」
真実がくすくすと笑う。
「明日は早めに帰ってこないとね」
「そうですね。明日の予定は……」
頭の中で、学校とアルバイトの時間を確認する。
幸い、明日はいつもより少しだけ余裕がある。帰宅して家事を済ませれば、配信には十分間に合うはずだ。
「大丈夫です。ちゃんと間に合います!」
「よかったね、彩葉」
「はい!」
楽しみが一つ増えた。
明日も学校とアルバイトがある。やることはたくさんあるし、きっと忙しい一日になるだろう。
それでも、帰宅すれば父からのメッセージが届いているかもしれない。夜になれば、こうして友人たちと遊ぶこともできる。そして何より、ヤチヨの新しい歌が待っている。
そう思うと、明日を迎えるのが少しだけ楽しみになった。
……うん。
もう少しだけ、頑張ってみよう。
私の日常は、そんな小さな楽しみの積み重ねでできている。
*
ツクヨミからログアウトし、スマートコンタクトレンズを外す。
時刻は、もう夜も遅い。
明日も朝から学校がある。そろそろ寝る準備をしなければ。
そう思って立ち上がったところで、ふと、玄関の方から音がした。
――ピンポーン。
こんな時間に誰だろう。
宅配便の予定はないし、友人が訪ねてくる約束もしていない。
少し不思議に思いながら玄関へ向かい、ドアスコープを覗いてみる。
そこに立っていたのは、見覚えのある少女だった。
「あれ?」
鍵を開けてドアを開く。
「こんばんは、彩葉さん!」
「こんばんは、
そこにいたのは、隣の部屋に住んでいる天童アリスちゃんだった。
私がこの部屋に引っ越してきたとき、挨拶に伺った隣人の子だ。正確には、もう一人居るんだけど、あのとき顔を合わせたのはアリスちゃんだけだったんだよね。
初対面のときから礼儀正しく、どこか独特な雰囲気のある子だった。今では顔を合わせれば挨拶を交わすし、時折こうして声を掛けてくれる。
「実は、夕食を少し多めに作ってしまいました!」
そう言って、アリスちゃんは手に持っていた容器を差し出した。
中には、温かそうな肉じゃがが入っている。うわ、すっごい美味しそう。
「よかったら、食べてください!」
「えっ、いいの?」
「はい! アリスたちだけでは食べきれそうになかったので!」
……まただ。
アリスちゃんは、時々こうして夕食のお裾分けをしてくれる。
最初は引っ越してきたばかりの頃だっただろうか。私が学校とアルバイトで忙しくしていることを知ってから、こうして何かと気に掛けてくれるようになった。
もちろん、ありがたいことではある。
と言え、自分よりも小柄な女の子に毎回のようにお世話になってしまうのは、少し……いや、かなり申し訳なくもあった。
「いつもありがとう。でも、毎回もらっちゃって悪いよ」
「気にしないでください! おいしいものを食べるのは大切なことです!」
アリスちゃんは、にこにこと屈託のない笑顔を浮かべている。
そのあまりにも純粋な笑顔に、私には彼女が天使のように見えた。
……ああ、ほら。頭の上に天使の輪っかまで見えてきた。
「それに、彩葉さんはいつも忙しそうです。ちゃんとご飯を食べて、元気をチャージしてください!」
「うっ……」
思わず言葉に詰まった。
もしかして、そんなに分かりやすく疲れているのだろうか。
「ええと……ちゃんと食べてるよ?」
「本当ですか?」
「本当、本当」
「なら、よかったです!」
疑う様子もなく、アリスちゃんは明るく頷いた。
……ううん。これは完全に心配されている気がする。
けれど、せっかく持ってきてくれたものを断るのも申し訳ない。
「じゃあ、お言葉に甘えていただくね。ありがとう、アリスちゃん」
「はい! どういたしまして!」
容器を受け取ると、アリスちゃんは満足そうに頷いた。
「それでは、アリスはこれで失礼します。おやすみなさい、彩葉さん!」
「うん。アリスちゃんもおやすみなさい」
軽く手を振って、アリスちゃんは隣の部屋へ戻っていった。
ドアを閉めてから、手元の容器に目を落とす。
まだ温かい。
きっと、わざわざ私の分まで用意してくれたのだろう。
「……本当に、優しい子だなぁ」
思わずそんな言葉が漏れた。
今度、何かお礼をしなければ。
そう考えながら、私は夕食の入った容器をキッチンへと運んだ。
明日のために、もうひと頑張りする必要はなさそうだ。
今夜は、少しだけ早く休めるかもしれない。
なんか話が飛んでいるような気もしますが、大丈夫飛んでません。
アリス達については、また説明がありますので、