【彩葉視点】
翌朝。
昨夜、アリスちゃんからお裾分けしてもらった肉じゃがを朝食にいただき、私はいつも通り学校へ行く準備を済ませた。
それにしても、アリスちゃんの作ってくれた肉じゃが、おいしかったなあ。
私が普段作っているような節約重視の貧乏飯とは、比べるのもおこがましい。バイト先でいただく賄いだって十分おいしいけれど、それとはまた違う、何だかほっとするような温かさがあった。
誰かが自分のために作ってくれた料理って、こんなにも心が安らぐものなんだな……。
朝食を食べて、身支度を整えて、忘れ物がないか確認する。毎朝繰り返している一連の作業だ。慣れたものではあるけれど、寝起きの頭でこれをこなすのは、なかなかに面倒くさい。
まあ、寝坊して慌てるよりはずっとマシなのだけど。
鞄を肩に掛け、玄関の扉を開ける。
すると、ちょうど隣の部屋から一人の女性が出てくるところだった。
「あれ、千夜ちゃん。おはよう」
「おや、彩葉! おはようございますぞよ~!」
にこにこと手を振ってくる彼女の名前は、
私が東京へ上京してきてから一か月ほど経った頃、アリスちゃんに紹介された、もう一人の隣人だ。
白に近い淡い銀色の長い髪に、紫と青緑が混ざったような瞳。黒を基調とした服装も相まって、どこか浮世離れした雰囲気を持つ人である。
初めて会ったときは、少し様子がおかしかったのを覚えている。
私の顔を見るなり目を見開いて固まり、何か言いたそうにしているのに、なかなか言葉が出てこない。最後には、今にも泣き出しそうな顔で笑っていた。
……いや、本当に何だったんだろう、あれ。
もっとも、そんな初対面から二年近く経った今では、すっかり気の置けない友人の一人だ。同性で年も近いし、何より話していて楽しい。今ではお互い下の名前で呼び合う仲である。
それにしても。
「千夜ちゃんって、たまにヤチヨに雰囲気が似てるよね」
「……おや?」
「あ、ごめん。変なこと言った?」
「いえいえ! それはもう、光栄の極みですぞよ~!」
千夜ちゃんは、なぜか嬉しそうに胸を張った。
私の大好きな配信者、ヤチヨ。
明るくて自由奔放で、見ているだけでこちらまで楽しくなってしまうような人だ。千夜ちゃんの髪や瞳の色、そして時折見せる表情や独特の話し方がどことなく似ている。
もちろん、似ているだけだろう。
まさか、あのヤチヨ本人がこんなところに住んでいるわけもない。そもそも、そんな偶然があってたまるか。
「ところで彩葉。今日は学校ですかな?」
「うん。いつも通りだよ」
「そっかそっか。今日もバイトがあるの?」
「うん。学校が終わったら、そのままお店に行く予定」
「おお、それは大変ですなぁ。昨日も遅くまで勉強していたようですし、ちゃんと休めていますかな?」
「大丈夫だよ。寝る時間は確保してるし、ご飯だって食べてるから」
「むむむ……。その言葉、前にも聞いたような気がしますぞよ?」
千夜ちゃんは、少し疑わしそうに私の顔を覗き込んだ。
「本当に無理はしていませんかな? 彩葉は頑張り屋さんだから、ついつい自分のことを後回しにしちゃいそうで心配なのです」
「そんなことないって。ちゃんと自分で管理してるよ」
「本当かなぁ~?」
「本当だってば」
……どうにも信用されていないらしい。
まあ、学校に通いながら週五日もバイトをして、その合間に家事と勉強をこなしているのだから、心配されるのも仕方がないのかもしれない。
でも、別に無理をしているつもりはない。自分で決めた生活だし、今のところ何とかなっている。
多少眠い日があるくらい、女子高生なら珍しくもないはずだ。たぶん。
「何かあったら遠慮なく頼ってくださいな。お隣さん同士、助け合いですぞよ!」
「うん。ありがとう、千夜ちゃん」
こういうところは、アリスちゃんとよく似ている。
二人とも、私が忙しくしているのを何かと気に掛けてくれるのだ。昨夜の肉じゃがだってそう。何度かお裾分けをもらっているけれど、毎回ありがたいと思っている。
ただ、あまり心配を掛けるのも申し訳ない。
「それじゃあ、そろそろ行くね。遅刻したら大変だし」
「おっと、それはいけませんな! 学生の本分は学業ですぞよ!」
「千夜ちゃんも、朝から出掛けるの?」
「ヤッチョ……じゃなくて、千夜ちゃんはちょっと用事がありましてな。まあ、のんびり済ませてきますとも!」
「そっか。それじゃあ、またね」
「はいな! いってらっしゃい、彩葉!」
千夜ちゃんに見送られながら、私はアパートを後にした。
さて、今日も学校にバイトにと忙しい一日が始まる。
帰ったら夕飯を作って、課題を片付けて、それから少しだけ自由時間。昨日の肉じゃがもまだあるし、夕飯の手間が省けたのは地味にありがたい。
……うん。今日も何とか乗り切れそうだ。
□□□
【ヤチヨ視点】
「…………」
彩葉の姿が見えなくなるまで見送った月城千夜、いやヤチヨは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「……ふぃ~~~」
先ほどまでの明るい笑顔とは違い、その表情にはどこか安堵したような、名残惜しそうな色が浮かんでいた。
やがて彼女は踵を返し、隣の部屋の扉を開ける。
「ただいま、アリス~」
「おかえりなさい、ヤチヨ」
部屋の中では、アリスが朝の支度をしていた。
「彩葉とは会えましたか?」
「うん! 今日も元気そうだったよ~。ちょっと忙しそうだったけどね」
「そうですか。それならよかったです」
アリスは小さく頷いた。
それから、ヤチヨの顔を見て首を傾げる。
「……ヤチヨ、また泣きそうになっていましたね?」
「えへへ。バレちゃった?」
「バレます。だって、ヤチヨは彩葉と会うたびに嬉しそうですから」
「そりゃあ、そうだよ~」
ヤチヨは笑った。
八千年。
長い、長い旅路だった。
その果てに、ようやく巡り会えた大切な人。けれど、今の彩葉にとっては、千夜という名前の隣人でしかない。
それでいい。
今はまだ、何も知らなくていいのだ。
「……それにしても、こうして拠点をここに移してから、もうすぐ三年になりますね」
アリスがふと、懐かしむように部屋の中を見回す。
「そうだねぇ。まさか、またこうしてここで暮らすことになるなんてね。今でもなんだか不思議な気分だよ。懐かしいような、夢を見ているような……」
「最初は、こんな予定ではありませんでしたからね」
「ふふっ。そうだったね」
二人がこのアパートを拠点に選んだのには、もちろん理由がある。
それは、彩葉がここへ越してくるよりも前のこと。
そもそも、私たちがこの場所に住むことを決めたきっかけは、今でもはっきりと覚えている。
三年前――初めて彩葉が、私のライブに来てくれた日のことだった。