そして、私たちがこのアパートへ引っ越してきてから、一年と少しが経った頃のことです。
ヤチヨがずっと待ち望んでいた彩葉が、ついに隣の部屋へと引っ越してきました。
引っ越しの挨拶に来た彩葉と、私たちが初めて顔を合わせた日。
……もっとも、ヤチヨはなぜか押し入れの中に隠れてしまっていたのですが。
「ヤチヨ、せっかく彩葉が来てくれたんですよ? 会いに行かないんですか?」
「う、うん……。もちろん会いたいよ? すっごく会いたいんだけど……」
「だけど?」
「……なんか、こう、踏ん切りがつかないというか……。いざ目の前にすると、どうしたらいいのか分からなくなっちゃって……」
どうやら、八千年もの間ずっと会いたいと願っていた相手を前にして、すっかり臆病になってしまったようです。
会いたいのに会えない。会いたいけれど、いざ会うとなると怖くなってしまう。
そんなふうに押し入れの中でうじうじしているヤチヨを見ていると、正直、少しだけ呆れてしまいました。
……仕方ありません。
私はヤチヨを押し入れから引っ張り出し、半ば強引に彩葉のところへ連れていきました。
そして、二人はようやく顔を合わせることができたのです。
「は、初めまして……。月城千夜です」
それが、ヤチヨがこの時初めて使った偽名でした。
もちろん、彩葉にとっては紛れもない初対面です。けれど、ヤチヨにとっては八千年ぶりの再会。
目を大きく見開いて固まり、何かを言おうとしているのに言葉が出てこない。最後には、今にも泣き出しそうな顔で笑っていました。
それでも、どうにか挨拶を交わすことはできました。
……本当に、よかったです。
それから一年以上。
私たちは隣人として、少しずつ彩葉と交流を重ねてきました。
ただ、その間に私が何度も驚かされることになったのが、彩葉の生活です。
ヤチヨから話は何度も聞いていました。何でも一人で抱え込んでしまう、無茶をしがちな人なのだと。
ですから、ある程度は覚悟していたつもりでした。
……ですが、まさかここまでとは。
高校一年生で一人上京したことだけなら、まだ分かります。けれど、そこから週五日もアルバイトに入り、生活費と学費を自分で稼ぎながら、学校の成績は常に上位を維持するために勉強。
そのうえ、睡眠時間は平均三時間ほど。食事も水や粉のパンケーキをはじめとした簡単なもので済ませるか、アルバイト先の賄いに頼ることが多いようでした。
時には疲れを紛らわせるために、エナジードリンクまで飲んでいるそうです。
……うん。
改めて並べてみると、これはひどいです。
しかも、本人にはあまり無理をしている自覚がないようでした。
引っ越してきて半年ほど経った頃には、さすがに疲れが顔に出始めていましたが、それでも彩葉はいつも通りに振る舞っていました。
まだ頑張れる。これくらいなら大丈夫。
そんなふうに考えているのでしょう。
その姿を見て、私はようやく前回ヤチヨが話していたことの意味を理解しました。
これは確かに、放っておけません。
とはいえ、いきなり生活習慣を変えてほしいと言っても、彩葉は素直に聞いてくれないでしょう。
そこで私は、まず食生活だけでも改善してもらおうと考えました。
幸い、8000年の間に料理のスキルレベルは上げてきました。
日持ちするものや、栄養のバランスを考えた料理を少し多めに作り、「作りすぎてしまったので、お裾分けです」と持っていくことにしました。
最初は遠慮していた彩葉も、何度か続けるうちに受け取ってくれるようになり、自然と会話をする機会も増えていきました。
やがて交流が深まると、今度は私たちの部屋に招いて夕食を一緒に食べることもありました。
その時、久しぶりに誰かと食卓を囲めたことが嬉しかったのか、彩葉が少し泣いてしまったことがあります。
それを見たヤチヨも、つられて泣き出してしまい……。
結局、私は二人をなだめながら夕食を続けることになりました。
まったく、二人とも泣き虫ですね。
……でも、あの時の食卓は、とても温かいものでした。
そんな日々を過ごしてきた私たちですが。
ついに、やって来たのです。
運命の日である、七月十二日。
そう。この日は、かぐやと酒寄彩葉が出会う日です。
この日のことは、ヤチヨも八千年経った今なお、はっきりと覚えているそうです。
ヤチヨから聞いた話しでは、電柱から現れた赤ん坊の自分を、彩葉が部屋まで連れて帰り、必死になってあやしてくれたのだと。
その話をしていた時のヤチヨはとても複雑そうな顔をしていました。
「だ、だって! 自分が赤ちゃんだった頃のお世話されてる姿を見せられるんだよ!? そんな羞恥プレイ無理!! 恥ずかしすぎてヤッチョ、顔から火が出る通り越して爆発しちゃうよ!!」
「えっと……つまり、今日は会わないんですか?」
「今日はちょっと用事があるので、ヤッチョはお留守番です!」
「……ツクヨミの方で、ですか?」
「そう! あっちでやることがあるの!」
そう言うなり、ヤチヨは慌ただしく荷物をまとめ、今は仕事場として使っている以前のアパートへと飛んでいってしまいました。
……本当に、恥ずかしがり屋ですね。
まあ、ヤチヨの気持ちも分からなくはありません。
八千年ぶりに再会した大切な人に、自分の赤ちゃん時代の話を聞かされるのですから。本人にとっては、なかなか耐え難いことなのでしょう。
そんなわけで、今日は私一人でその時を待つことになりました。
七月十二日。
かぐやが彩葉のもとへやって来る日。
ヤチヨから聞いていた話を思い返しながら、私は窓から夜空に浮かんでいる月を眺めて静かにその瞬間を待ち続けていました。
*
「へへへ……三連休がついにやってまいりやした。超久しぶりに一日六時間は寝られる」
その日、私は今日も今日とて、注文という名の弾丸飛び交うアルバイト先から命から柄生還して、ようやくアパートへと帰ってきたところだった。
途中見えた流れ星に「か、金……。」と言いう全く華の女子高校らしくない願いごとをしたが、仕方ないじゃ無いか!こちとら限界苦学生なんたよっ! 文句あるか!
いやホント、今日も今日とて、なかなかに充実した一日である。
……いや、充実という言葉で片付けていいのかは、少々疑問だけど。
とにかく、疲れた。
今すぐお風呂に入って、ご飯を食べて、できることならそのままベッドに倒れ込みたい。
そんなことを考えながらアパートの前まで戻ってきた時だった。
ふと、視界の端で何かが光った。
アパートのすぐ横に立っている、見慣れた電柱。
その電柱が、なぜか七色に輝いていた。
「げ、ゲーミング……電柱……!?」
ゲーミング電柱。
そう言い表すしかないほど、電柱は七色に光り輝いていた。
え、なにこれ?
新手の防犯装置?
思わず足を止め、その光景をじっと見つめてしまう。
待て待て、なんだこれ。わけが分からない。
スマコンは付けていないし、AR機能が働いているわけでもない。
ということは、目の前で起きていることは現実ということになる。
「…………」
……いや、待て。
もしかして、これは幻覚なのでは?
そうだ。きっとそうに違いない。
「……よし、今日は夜更かしせずに寝よう!」
以前アリスちゃんも言っていたが、やはり睡眠はとても大事なことなのかもしれない。
だって、睡眠不足と疲労によって、こんな幻覚を見始めるくらいだ。きっと私は、自分が思っている以上に疲れているんだろう。
うん。そういうことにしておこう。
よし、さっさと帰って寝よう。
私は光り輝く電柱に背を向け、自分の部屋へ戻ろうとした。
その時だった。
――ボフッ。
「…………え?」
背後から、何やら妙な音が聞こえた。
振り返ると、七色に輝く電柱が、もくもくと煙を吐き出し始めていた。
まるで、立ち去ろうとする私を呼び止めるかのように。
「お、おいおいおい……」
嘘だろ?
勘弁してください。
一体、何が始まろうって言うんですか。
意味が分からない。
目の前で起こっている超常現象に、脳が理解を拒んでいる。
なんで電柱が光っているのか。
どうして煙まで出ているのか。
どうして電柱の表面に、扉のような切れ目ができているのか。
しかも、その中央には竹をモチーフにしたような取っ手まで付いている。
……いや、もう本当に意味が分からない。
なぜ、今、ここで、私の前で、こんな訳の分からないことが起こっているのだ。
頼むから、変な私を巻き込まないでくれ。
そんな私の願いも虚しく、電柱に現れた扉は、ゆっくりと観音開きに開いていく。
「いや、開くな!」
咄嗟に手で押し込んで扉を閉めた。
いや、開くのはダメだろう。開くのは聞いてない。光ると開くのでは大違いだ。
でも───。
「ぐおっ、うっ、力づくかい」
押し返される。力つよっ。そうなのだ。完璧女子高校生酒寄彩葉、実は筋トレだけは抜かっていた。
なすすべなく、バイーンと開かれた扉の向こうには、ベビーベッドと思われる空間が広がっていた。
フリフリのクッションに、ピンク色のガラガラ。くるくると回る、小さなメリーゴーランドのおもちゃ。
……い、意味が分からない。
そして、その空間には、それらのベビー用品の主たる存在がいた。
「あ、赤ちゃん……!?」
小さな赤ん坊が、電柱の中にちょこんと収まっていた。
え、なにこれ?
何が起こってるの?
目の前の光景に、頭がまったく追いついてくれない。
お、落ち着け。
冷静になって状況を整理しよう。
まず、電柱が光っている。
次に、電柱から煙が出ている。
そして、電柱の中に赤ちゃんがいる。
……。
いや、落ち着けるか!!目の前に赤ちゃんがいる時点で無理があるだろ!
とりあえず、もう一度状況を整理しよう。
私は酒寄彩葉。十七歳。高校二年生。現在、深夜のアパート前で、電柱の中から出てきた赤ちゃんと対面している。
うん。意味が分からない。
何度考えても意味が分からない。そもそも電柱の中に赤ちゃんがいるという時点で、私の常識が通用する話ではないのだ。
「ふえっ……」
「ひっ!」
赤ちゃんが小さく声を漏らした。
……うん。生きてる。間違いなく生きてる。
しかも、こちらをじっと見つめている。まるで、私がどうするのかを待っているみたいに。
「えっと……」
どうしよう。
警察? いや、まずは警察に連絡するべきだろう。明らかに普通じゃない状況だけど、赤ちゃんがいる以上、放置するわけにはいかない。
でも、その前に。
私は恐る恐る赤ちゃんへ手を伸ばした。
「……抱っこ、してもいい?」
当然、返事はない。
そっと両腕を差し入れ、持ち上げる。
「わっ……」
軽い。
思っていた以上に軽かった。
腕の中に収まった小さな身体は、驚くほど柔らかくて温かい。少しでも力を入れすぎれば壊れてしまいそうで、どう抱えればいいのかすら分からない。
……これ、本当に人間なの?
いや、見た目はどう見ても赤ちゃんだけど。
「ふえっ、ふえっ」
「わ、分かった! 分かったから、そんなに動かないで!」
慌てて抱き直す。
すると、赤ちゃんは私の顔を見上げて、ぱちぱちと目を瞬かせた。
そして。
「……だいじ♡」
「…………」
……え?
今、何て言った?
いや、気のせいだ。赤ちゃんがそんな言葉を話すわけがない。きっと私の疲れた脳みそが都合よく聞き間違えたのだ。
そうに違いない。
……にしても。
「どうして、こんなところにいるんだろうね……」
当然、答えは返ってこない。
私は赤ちゃんを抱いたまま、もう一度電柱へ目を向けた。
しかし、そこには先ほどまでの七色の光も、煙も、扉もない。何事もなかったかのように、ただの電柱が立っているだけだった。
「……おい。ちょっと待って」
まさか、これで終わり?
いやいやいや。待ってほしい。
そっちが勝手に出てきたんだから、せめて説明くらいしていってよ!
私は電柱に近づき、空いている手でぺしぺしと叩いてみる。
「もしもーし。お忘れ物ですよー。赤ちゃん、置いていってますよー」
……反応なし。
「おーい」
……反応なし。
「…………」
やられた。
完全に押し付けられた。
「うそでしょ……」
腕の中では、赤ちゃんが何やらご機嫌そうに私を見つめている。
その顔を見ていると、どうにも強く言えなくなってしまう。
……いや、だからといって私にどうしろと?
私は十七歳の女子高校生だ。育児経験なんてないし、赤ちゃん用品だって持っていない。そもそも自分の生活だけで手一杯なのに、突然赤ちゃんのお世話までできるわけがない。
絶対に無理。
これはもう、警察に届けるしかない。
「よし。そうしよう」
そう決めて歩き出した、その時だった。
「ふえええええええええん!!」
「うわっ!? 泣いた!?」
突然、赤ちゃんが大声で泣き始めた。
ちょ、ちょっと待って。何? どうしたの? お腹が空いた? 眠い? それとも、どこか痛いの?
「え、えっと……よしよし? 大丈夫だよー?」
とりあえず、背中を軽く叩いてみる。
しかし、泣き声は一向に収まらない。
「ふええええええん!!」
「わ、分かった! 分かったから! お願い、ちょっと静かに!」
深夜の住宅街に響き渡る赤ちゃんの泣き声。
これはまずい。
非常にまずい。
近所迷惑という言葉が頭をよぎる。下の階の人だって寝ているだろうし、隣や向かいの部屋にだって聞こえているはずだ。
こんな時間に赤ちゃんの泣き声を響かせていたら、迷惑になるに決まっている。
いや、そもそも私はこの子をどうすればいいんだ。
「と、とにかく一度部屋に戻ろう!」
私は赤ちゃんを抱き直し、アパートの階段を駆け上がった。
幸い、誰ともすれ違うことなく自室へ到着。鍵を開けて中へ入り、すぐに扉を閉める。
……ふぅ。
これでひとまず安心。
いや、全然安心できないけど。
私は玄関先に立ったまま、腕の中の赤ちゃんを見下ろした。
「…………」
「…………」
「……えーっと」
何で持って帰ってきちゃったんだろう、私。
警察に届けるつもりだったはずなのに、気づけば自宅に連れ帰っている。
これでは完全に私が保護者みたいじゃないか。
「……どうしよう」
赤ちゃんは泣き止んでいた。
私の顔をじっと見つめ、何が楽しいのか、ふにゃりと笑っている。
……ああ、もう。
そんな顔をされたら、怒るに怒れないじゃないか。
ひとまず、床に置くわけにもいかないので、リビングまで運んでソファに腰を下ろす。
さて、どうする。
まずは警察に連絡。それから、必要なら病院にも相談するべきだろう。赤ちゃんの身元も分からないし、そもそもあんな場所から出てきたのだから、何か異常がないか確認してもらわなければ。
……うん。やることは決まった。
決まったけど。
「ふええええええん!」
「だから、どうしてまた泣くの!?」
再び響き渡る泣き声。
私は慌てて赤ちゃんを抱き上げ、ぎこちない手つきで背中をさすった。
「よしよし、大丈夫。大丈夫だからね」
……何が大丈夫なのかは、私にも分からない。
それでも、腕の中の小さな身体を落とさないように気をつけながら、ひたすら声を掛け続ける。
けれど、泣き声はなかなか止まらない。
「うう……どうすればいいのよ……」
時計を見る。もうすっかり深夜だ。
下の階の人も、ほかの住人も、きっと眠っている時間だろう。さすがにこのまま泣かせ続けるわけにはいかない。
私は赤ちゃんの顔を覗き込み、できるだけ優しく語りかけた。
「ねえ、お願い。ちょっとだけ静かにしてくれないかな? みんな寝てるんだからさ……」
もちろん、赤ちゃんにそんな事情が分かるはずもない。
「ふええええええん!!」
「わ、分かった! 分かったから! お願い、ちょっとだけ静かにして!」
だめだ。全然泣き止まない。
抱き方が悪いのかと思って向きを変えてみたり、背中を優しく叩いてみたり、ゆっくり揺らしてみたり。思いつく限りのことは試しているのに、赤ちゃんは一向に泣き止む気配がない。
「ええと、お腹が空いたのかな? それとも眠い? もしかして、どこか痛いとか……?」
当然、返事はない。
そりゃそうだ。相手は赤ちゃんなのだから。
というか、そもそも私は何をしているんだろう。つい数十分前まで、普通にバイト帰りの道を歩いていただけなのに。どうして今、自宅で見知らぬ赤ちゃんを抱きながら育児に奮闘しているのか。
意味が分からない。誰か説明してほしい。
「お願いだから、泣き止んでよぉ……」
さすがに疲れてきた。
時計を見れば、もうすっかり深夜。下の階の人も、ほかの住人も寝ている時間だ。これ以上泣かせ続けるのは、いくら何でも申し訳ない。
とはいえ、どうすればいいのか分からない。
このままでは本当にお手上げだ。
そんなことを考えていた、その時。
――ピンポーン。
「……え?」
玄関のチャイムが鳴った。
こんな時間に誰だろう。
まさか、苦情?
いや、そりゃそうだよね。これだけ泣き声が響いていたら、苦情の一つくらい来てもおかしくない。
私は赤ちゃんを抱えたまま、恐る恐る玄関へと目を向けた。
――ピンポーン。
「は、はい! 今出ます!」
慌てて返事をして、玄関へ向かう。
そして、扉を開けると。
「こんばんは、彩葉さん!勇者が助っ人にやってきました!」
「……アリスちゃん?」
そこに立っていたのは、隣に住んでいる少女――アリスちゃんだった。