埋み火
第一章 鍋
ヨルンの部落に着いたのは、日が山の端に引っかかったまま動かなくなる頃だった。北の秋の日は低い。昼を過ぎるともう沈む気配だけを見せて、そこから先がやけに長い。
ハルドは馬の手綱を引いて、坂の上から部落を見下ろした。家は二十ほど。煙が上がっているのはそのうちの六つか七つで、残りは屋根に苔をのせたまま黙っている。畑だったらしい区画には枯れた茎が倒れ、羊の囲いは柵が半分抜けていた。
屋根の上に、灰色のものが点々とへばりついていた。煙の上がっている家の、煙突の根元ばかりだった。近づいてみると、犬ほどの大きさの小竜だった。煉瓦の温もりに腹を押しつけ、羽で背中を覆って目を閉じている。煙の上がっていない家の屋根には、一匹もいなかった。
依頼書には、山羊が小竜に攫われて困っている、とあった。差出人はベルタという名で、字は震えていたが読めた。報酬は銀貨八枚。南の相場なら鼻で笑う額だが、北の小竜の駆除なら妥当だった。犬ほどの大きさの、羽の生えた蜥蜴を何匹か追い払えばいい。冬が来る前の小遣い稼ぎのつもりだった。
部落の入口で、薪を割っていた老人に声をかけた。老人は斧を下ろし、ハルドの剣と鎧を順に眺めて、それから顎で一番奥の家を示した。
「ベルタ婆なら、あそこだ」
「若い者はいないのか」
「みんな南だ」
老人はそれだけ言って、また斧を振り上げた。
奥の家は、他より少しだけ煙が多かった。戸を叩いても返事はない。中から鍋の煮える音と、何かを刻む音がする。ハルドは戸を押し開けた。
暖炉の前に、毛布の塊があった。
塊が動いた。毛布の端から、赤みがかった銀色の髪がこぼれる。顔を上げたのは、十五、六に見える娘だった。頬は白く、唇の色が悪い。金色の目の中で、瞳孔が縦に細く絞られた。
髪の間から、黒い角が二本、後ろへ向かって伸びている。毛布の下で何かが畳まれていて、それが羽だと分かったのは、娘が身じろぎした拍子に骨張った先端が覗いたからだった。床に投げ出された尻尾が、ゆっくりと持ち上がる。
ハルドの手は、考えるより先に柄にかかっていた。
北の連中は竜を見慣れている。羽の生えた蜥蜴が山羊を攫い、屋根で昼寝をし、冬には納屋に潜り込む。だから羽と尻尾のある娘がいても、また変わった竜が出たくらいにしか思わないのだろう。
だがハルドは南から来た。南の空を、城ほどもある竜が横切るのを見たことがある。そして竜の中で人の形をとれるのは、ああいう連中だけだということも知っていた。
抜いた剣の切っ先が、暖炉の火を映した。
娘が毛布をはねのけた。立ち上がる動作の途中で、白い頬に鱗が浮いた。首筋から腕へ、波が走るように鱗が広がる。背中の羽が音を立てて半分開き、部屋の空気がぐらりと揺れた。熱が来る、とハルドは思った。
来なかった。
鱗は肌の上で一度だけ鈍く光り、そのまま沈むように消えた。開きかけた羽が震えて、力なく閉じる。娘の喉の奥で何かが詰まったような音がして、口の端から細い煙が漏れた。娘は咳き込み、膝をつきかけて、暖炉の縁を掴んで踏みとどまった。
それでも、顔だけは上げていた。
「わらわに、剣を向けるか」
声は掠れていたが、言葉は古風で、妙に堂々としていた。
「人間ごときが」
尻尾が床を叩いた。威嚇のつもりらしい。毛布を失った肩が、目に見えて震えている。
ハルドは剣を下ろさなかった。下ろさなかったが、斬りかかりもしなかった。今のは何だ、と頭の半分が考えていた。変身しようとして、しくじった。人の形をとれる竜が、竜に戻れない。そんな話は聞いたことがない。
奥の土間から、足音がした。
小柄な老婆が、両手で鍋を抱えて出てきた。腰は曲がっているが、足取りは確かだった。老婆は剣を構えた男と、暖炉の縁にしがみついて唸る娘を順に見て、眉ひとつ動かさずに卓の上へ鍋を置いた。
「何をしとる。座れ」
「婆さん」とハルドは言った。「そいつが何か、分かってるのか」
「竜じゃろ。羽が生えとる」
「ただの竜じゃない。人の形をしてる竜は――」
「知らん」老婆は椀を三つ並べた。「わしは今年で八十じゃ。竜に食われて死ぬなら上等よ。それより鍋が冷める」
あんたがベルタか、と訊く前に、老婆は鍋の蓋を取った。湯気が立ちのぼった。中身は茶色かった。蕪と、芋と、皺の寄った人参。どれも秋に掘って、土に埋めて保たせてきたものだろう。干した肉が数切れ沈み、表面に脂の膜が浮いていた。青いものは一つも入っていない。北の冬に、葉物は育たない。
ベルタは卓の上に、黒いパンを一塊置いた。ライ麦のパンだった。ハルドが手に取ると、見た目よりずっと重かった。南のパンのように膨らんでいない。ずっしりと詰まって、切り口がねっとりと湿っている。
「寒すぎて、生地がよう膨らまんのじゃ」ベルタはパンを厚く切り分けながら言った。「竈の脇に一晩置いても、ちっとも動かん。三日かけて、ようやくこれよ。昔は麦も取れたが、今はライ麦しか育たん」
ハルドはパンを汁に浸して齧った。酸っぱく、重く、噛むほどに腹に溜まった。南で食べていたものとは別物だったが、雪の中を歩いてきた体には、この重さがありがたかった。
娘の目が、鍋に吸い寄せられた。
唸り声が途切れた。娘は唇を引き結び、ハルドを睨み直そうとして、また鍋を見た。床の上で、尻尾の先が小さく揺れている。本人は気づいていないようだった。
ハルドは長く息を吐いた。剣を鞘に戻すまでに、少し時間がかかった。
「……依頼で来た。小竜の駆除だ」
「おう、あんたか。遠いところをご苦労じゃったな」ベルタは椀に汁をよそった。「山羊のことは明日でええ。ほれ、ミナ。お前もじゃ」
「ミナ?」とハルドは言った。
娘が顎を上げた。毛布を肩に引っかけたまま、背筋だけは伸ばした。
「控えよ、人間。わらわは赤銀の災い、ゼルトの穀倉を焼きし者、アルミナス河の悪夢、三度の討伐を退けし者、ヴァーレン公の宝冠を奪いし盗人、銀貨四百枚の首、灰鱗の――」
「長い」
ベルタが椀を置いた。
「毎晩それを聞かされとったら鍋が冷める。アルミナスの何とかじゃから、ミナじゃ」
「まだ半分も名乗っておらぬ」
「残りは明日聞いたる」
ハルドは、名乗りの途中の一句に引っかかっていた。銀貨四百枚の首。南の街道の詰所に、何年も前から貼られている手配書の文句だった。赤銀の鱗の竜、生死を問わず。紙は日に焼けて端が丸まり、誰も本気で読まなくなっていた。
穀倉を焼かれた村の言い伝え。討伐隊が帰ってきて付けたあだ名。手配書の文面。並んでいたのは、どれも人間がこの竜に付けた呼び名だった。それを竜は、自分の名として胸を張って唱えていた。
ミナは不服そうに唇を引き結び、しばらく動かなかった。それから毛布を拾い上げて肩からかぶり直し、ハルドから一番遠い席に座った。椅子を暖炉のほうへ寄せるのは忘れなかった。
三人で黙って食べた。
ミナはパンには手をつけず、汁と肉だけを骨ごと噛み砕いた。ベルタは何も言わずに、ミナの椀にだけ脂の浮いたところを多めによそった。ミナは三杯おかわりをした。一杯目は警戒しながら、二杯目は夢中で、三杯目には頬にわずかに赤みが差していた。食べ終えると椀を両手で包んだまま、残った温みを逃すまいとしている。ハルドが動くたびに、金色の目がこちらを射抜いた。
「客間はない。そこらで寝てくれ」ベルタはそう言って、奥へ引っ込んだ。
ハルドは戸口に近い壁に背を預け、剣を膝に置いた。眠るつもりはなかった。暖炉の向こうで、ミナが毛布の塊に戻っていく。火が小さくなるにつれて、塊はじりじりと暖炉に近づいていった。
眠りに落ちる前に、ミナは尻尾の先を暖炉の灰の中に差し入れた。熾火の残る灰に、鱗の先を埋めるようにして。それが竜の寝方なのか、この娘の癖なのか、ハルドには分からなかった。
いつの間にか、目を閉じていたらしい。
夜明け前、背中に重みを感じて目が覚めた。暖炉の火は灰の下に沈んでいた。部屋は冷え切っていた。
毛布の塊が、ハルドの背にぴたりと張りついていた。
剣に手を伸ばしかけて、止まった。背中越しに伝わってくる体は、石のように冷たかった。眠っている。浅い寝息に合わせて、角の先が肩甲骨のあたりを小さくつついていた。
振りほどけば、起きるだろう。起きれば、また唸るだろう。
ハルドは剣から手を離し、夜が明けるのを待つことにした。
第二章 炉守様
朝になってミナが目を覚ましたとき、最初にしたのはハルドの背中を突き飛ばすことだった。
「勘違いするでないぞ」
毛布を胸元でかき合わせ、角の先まで真っ赤にして言う。
「暖を取っておっただけじゃ。お主はたまたま、火の消えた部屋でいちばん温い物であった。それ以上の意味はない」
「そうか」
「そうじゃ」
それで話は終わった。ハルドにしても、それ以上の意味があるとは思っていなかった。冷え切った体が、熱のあるほうへ寄っていく。蛇が日向に出るのと同じだ。
昼のうちに、山羊を攫う小竜を片づけた。裏山の岩場に巣があり、犬ほどの大きさの灰色の竜が四匹いた。鱗は薄く、羽は小さく、火も吐かない。北の寒さに耐えられるのは、こういう燃費の悪くない小物だけだ。棒で巣を突き、松明で追い立てると、四匹とも尾根の向こうへ逃げていった。殺す必要もなかった。
戻ると、ミナが戸口の日溜まりにしゃがみ込んでいた。逃げていく小竜を遠目に見ていたらしい。
「あのような小物と、わらわを一緒にするでないぞ」
「誰もしてない」
「この部落の者どもは、みなしておる。昨日も隣の爺が、わらわの尻尾を見て『今年のは毛色が違うな』などと抜かしおった」
ミナは唇を尖らせた。日が傾いて日溜まりが動くと、彼女もしゃがんだまま半歩ずつ移動した。
夜、暖炉の前で、ベルタが昔の話をした。
「わしが娘の時分にはな、ここにも夏があった」
部落の北に、白峰という山がある。頂からはいつも細い煙が上がっていて、麓には湯が湧き、山腹では鉄が掘れた。冬は寒かったが、雪は春になればちゃんと解けて、畑には麦が実った。
「白峰の上にはな、でかい竜が住んどった。わしらは炉守様と呼んどった。姿を見たもんはほとんどおらん。ただ、煙が上がっとる限り、この辺りは暮らせた」
ベルタが二十歳になる頃、煙が細くなった。三年かけて少しずつ細くなって、ある冬、ふっと消えた。翌年から雪解けが遅れ、湯が冷め、鉱山は凍った坑道を捨てた。夏はひと月縮み、またひと月縮んだ。
「若いもんから、南へ出ていった。わしの息子もな。仕事があるのは南だけじゃ。残ったのは、動けん年寄りばかりよ」
ミナは黙って聞いていた。椀を両手で包んで、火を見ていた。
「お主はなぜ北へ来た」とハルドは訊いた。
しばらく答えはなかった。それから、ミナはつまらなそうに言った。
「ナワバリ争いに負けた。それだけのことじゃ」
南の竜は土地を巡って争う。若い竜が古い竜に挑み、負ければ追われる。ミナは負けて、追われ、南の竜の誰もいない方角へ飛んだ。それが北だった。
「わらわの種は寒さに弱い。知ってはおった。じゃが、逃げる先を選べる身でもなかった」
北へ入って三日目に、体の中の火が細くなった。五日目には、羽ばたくたびに失速するようになった。七日目、雪の中に落ちた。このままでは死ぬと思った。だから縮んだ。
「縮む?」
「竜はな、食うものがない冬には体を小さくして眠るのじゃ。そうすれば火を絞っても生きていける。わらわはそれを、人の形でやった」
「なぜ人の形を」
「人の家には火がある」
ミナはこともなげに言った。
「小さな竜の姿で丸まっておっても、誰も暖炉の前には入れてくれぬ。人の形をしておれば、まあ、こうして入れてくれる婆もおる」
ベルタが鼻を鳴らした。
ハルドは、ミナが椀を持つ手首を見ていた。袖口から覗いた肌に、鱗が数枚、浮いたまま沈まずに残っている。その色が、昨日の夕方に見た頬の鱗とは違った。銀ではなく、くすんだ灰色だった。
「それは」
ミナは袖を引いて手首を隠した。
「……火はな、冷えたまま長く置くと、二度と点かなくなる」
火袋が冷えた状態が続くと、少しずつ劣化していく。鱗の色が抜けるのはその兆しで、いずれ火花も出なくなる。そうなれば竜には戻れない。人の形のまま、竜としての寿命も削られていく。
「どれくらい持つ」
「知らぬ。わらわも初めてじゃ」
ミナは椀に残った汁を飲み干した。
「暖かい土地へ行けば、火は戻る。南へ下ればよいだけの話じゃ。じゃが、この形では飛べぬ。歩けば、寒さで途中で動けなくなる。春を待てば、それまで火が持つか分からぬ」
だから、ここで暖炉の前に座っている。座っているしかない。
ベルタが立ち上がって、奥へ消えた。戻ってきたとき、両手で小さな木箱を抱えていた。卓の上に置いて蓋を開ける。銀貨と銅貨が、底が見えないくらい詰まっていた。
ミナが身を乗り出した。鍋を見たときと同じ目つきだった。
「竜が金銀を溜め込むのはな」とハルドの視線に気づいたミナが言った。「光るからではない。人間はそこを勘違いしておる。金物は熱を溜める。寝床に敷き詰めておけば、眠っておるあいだに火を絞っても、腹の下が冷えぬ」
「宝の山は、布団か」
「寝床じゃ。布団などと一緒にするでない」
ミナは名残惜しそうに、銀貨から目を離した。
「息子が南から送ってきた金じゃ。毎年な。一枚も使っとらん」
「婆さん」
「あんた、南から来たんじゃろ。道を知っとる。これで、この娘を南へ連れていけ」
ハルドは箱を見て、ベルタを見た。
「息子の金だろう。いつか帰ってきたときに――」
「帰ってこんよ」
ベルタは静かに言った。
「向こうで所帯を持った。孫もおるそうじゃ。こんな凍った土地に帰ってくる理由がない。わしもそれでええと思うとる。じゃから、この金には使い道がないんじゃ」
暖炉の薪が崩れて、火の粉が上がった。
ハルドは傭兵だった。金を出されて断る理由は、たいていの場合、金額が足りないときだけだ。箱の中身は、足りないどころではなかった。
それに、と思った。ここで断れば、この竜はこの部屋で冬を越すことになる。越せるかどうかは分からない。人の形をとれるほどの竜が、北の果ての暖炉の前で灰色になって死ぬ。その光景は、どういうわけか、ハルドには妙に気に入らなかった。
「……半分でいい」
「全部持っていけ。道中、この娘はよう食うぞ」
三日後に発った。
出発の朝、ベルタはミナに古い毛皮の外套を着せた。袖が長すぎて、ミナの手は指先しか出なかった。角に引っかからないように、フードの縁には切れ込みが入れてあった。いつの間に縫ったのか、ハルドは知らなかった。
「……礼は言わぬぞ」
外套の襟に顔を埋めて、ミナが言った。
「いらん」ベルタは手を振った。「春になったら、顔を見せに来い」
ミナは答えなかった。答えないまま、馬の背に押し上げられた。ハルドは手綱を取って、坂を下り始めた。
振り返ると、ベルタは戸口に立ったまま、こちらを見送っていた。部落の煙は、相変わらず六つか七つしか上がっていなかった。
第三章 廃坑
ミナは馬に一人で乗っていられなかった。
最初の半日は鞍の上で背筋を伸ばし、遠くの山並みを眺めて、竜の目には人の歩みなど止まっているように見える、などと言っていた。昼を過ぎて風が出ると口数が減った。日が傾く頃には外套の中で体を丸め、鞍の上で左右に揺れ始めた。落ちる、とハルドが思ったときには、もう半分落ちていた。
それからは、ハルドが前に乗り、ミナが後ろに乗った。ミナはハルドの背中に額を押し当て、両腕を腰に回して、外套ごと張りついた。
「これは、保温じゃ」
背中越しにくぐもった声がした。
「火を落とさぬための処置である。冷え切ってからでは、温め直すのに半日かかる。それより、ある程度の温みを保っておくほうが理にかなっておる」
「分かってる」
「分かっておるなら、よい」
腰に回された腕に、少し力がこもった。
四日目に、ガルムという町に入った。
町と呼ぶには静かすぎた。山肌に沿って石造りの家が段々に並び、その上に坑道の口がいくつも黒く開いている。家の窓はほとんどが板で塞がれていた。通りの真ん中に、錆びたトロッコが横倒しのまま放置されている。
煙が一本だけ上がっていた。坂の一番上、ひときわ大きな建物の煙突だった。
建物の中には、背丈の三倍ほどもある煉瓦の炉があった。製鉄用の溶鉱炉だろう。炉の口は冷え切って煤けていたが、その脇の小さな暖炉に火が入っていて、老人が一人、薪をくべていた。
「客とは珍しい」
オットと名乗った老人は、ハルドの剣とミナの角を一度ずつ見て、それ以上は何も言わなかった。北の人間らしい反応だった。
老人は、四十年前までこの炉で鉄を溶かしていたと言った。
「白峰の煙が消えてから、地面が年々冷たくなってな。坑道の浅いところから凍っていった。掘っても掘っても、鉄より先に氷が出る。そのうち誰も掘らなくなった」
「あんたはなぜ残った」
「炉を置いていけなかった」
老人は煉瓦の炉を見上げた。
「わしが火を入れて、わしが火を落とした炉だ。誰かが見ておらんと、崩れたときに誰も気づかん」
その夜は、炉のある建物に泊めてもらうことになった。
夜更けに、ミナがいなくなった。
暖炉の火はまだ残っていた。毛布は畳んであった。外に出ると、雪の上に小さな足跡が坑道のほうへ続いていた。ハルドは松明を持って跡を追った。
坑道の中は、外より温かかった。
最初は気のせいかと思った。だが奥へ進むほど、確かに空気がぬるくなっていく。壁の霜が消え、岩肌がしっとりと湿り始めた。
一番奥の、少し広くなった空洞に、ミナがいた。
岩壁に背中を預けて座り込み、目を閉じている。その周りに、灰色の小竜が何匹も丸まっていた。十匹か、それ以上。ミナの膝の上にも一匹、肩にも一匹。尻尾には三匹がしがみついていた。
よく見ると、小竜たちは少しずつ動いていた。山の外側で丸まっていた一匹が、もぞもぞと内側へ潜り込む。押し出された一匹が外側に回る。そうやって、誰も冷え切らないように、ゆっくりと順番を入れ替えている。真ん中にいるミナだけが、一度も外へ押し出されなかった。
松明の光に、ミナが片目を開けた。
「……何も言うな」
「何も言ってない」
「言いたそうな顔をしておる」
ハルドは岩壁に手を当てた。指先に、ほのかな温みが伝わってきた。人肌よりは冷たい。だが雪の降る夜の岩としては、ありえない温度だった。
「地の底が温いのじゃ」とミナは言った。「わらわも、来てみて驚いた。小物どもはとうに知っておったらしい」
翌朝、オットにそのことを話した。老人は驚かなかった。
「白峰の下は、まだ温い」
老人は暖炉に薪を足しながら言った。
「わしが若い頃は、もっと浅いところまで温かった。それが年々、奥へ奥へと引っ込んでいく。山が死んだと皆は言うが、わしはそうは思わん。底のほうで、まだ息をしとる。灰の下の熾火みたいなもんだ」
ミナが、椀を持つ手を止めた。
「炉守様とやらは、死んだのか」
「知らん。煙が消えた。それしか、わしらには分からん」
ガルムを発つ前の晩、オットは溶鉱炉に火を入れた。
裏の倉に、閉山のときに使わずに残した石炭が積んであった。老人一人では運べない量で、ハルドが半日かけて炉の口まで運んだ。ミナは手伝わなかった。手伝わずに、炉の前で一番いい場所を確保していた。
火が入ると、煉瓦の炉は低く唸った。四十年ぶりに、建物の中が汗ばむほど熱くなった。煙突から上がる煙は、坂の下からでも見えただろう。誰も見る者はいなかったが。
ミナは炉の前に座り込み、目を細めて熱を浴びていた。頬に赤みが差し、尻尾がゆっくりと揺れていた。灰色だった手首の鱗が、ほんのわずかに銀色を取り戻したように見えた。
オットは炉を見上げて、長いあいだ黙っていた。
「これで、もう心残りはない」
翌朝、炉は冷えていた。石炭は燃え尽きていた。ハルドが礼を言うと、老人は手を振って、また暖炉の前に座った。
町を出るとき、ミナは一度だけ振り返った。坑道の口から、灰色の小竜が何匹か顔を出していた。
「あやつら、わらわの尻尾を寝床と勘違いしおって」
「懐かれたな」
「小物に懐かれても嬉しくなどない」
そう言って、ミナはハルドの背中に額を押しつけた。ハルドは手綱を取り、南へ向かう道に馬を入れた。
第四章 枯れ湯
リンデの谷は、昔は湯の町だった。
谷底を流れる川の両岸に宿が軒を連ね、どの宿にも岩を組んだ湯船があったという。今は宿の看板がほとんど落ちて、川は凍り、岩の湯船には雪が積もっている。湯が冷めたのは、六十年前だった。
それでも、一軒だけ湯気を上げている宿があった。
「湯は沸かしてるよ。薪でね」
宿の女将のマルタは、六十を少し過ぎたくらいに見えた。腕が太く、声が大きかった。湯が湧かなくなってからも、裏の大釜で薪を焚いて湯船に湯を張り続けている。客は年に十人も来ない。それでも毎日張る。
「死んだ亭主がね、湯を落とすなって言ったのさ。湯の町の宿が湯を落としたら、もうただの小屋だって」
ミナは湯船に入ったきり、出てこなかった。
一刻経っても出てこない。二刻経って、ハルドが様子を見に行こうとしたところで、ようやく浴場の戸が開いた。湯気をまとって出てきたミナは、頬から首まで桃色に染まり、髪から湯を滴らせ、背筋をまっすぐに伸ばしていた。
「人間の湯というものも、存外悪くないの」
声に張りがあった。ハルドが初めて聞く声だった。
その晩のミナは、よく喋った。暖炉の前の一番いい椅子に陣取り、湯上がりの体を火に向けたまま、南の空の話をした。雲の上を何日も飛び続けたこと。海の上で嵐をやり過ごしたこと。若い頃に古竜の巣へ忍び込み、宝石を三つくすねて逃げおおせたこと。
「三つだけか」とハルドは言った。
「四つ目に手を伸ばしたところで目を覚まされた。あれは惜しかった」
マルタが腹を抱えて笑った。ミナは得意げに角を反らした。尻尾が椅子の脚に巻きついて、機嫌よく揺れていた。
その夜遅く、湯を落としに行ったマルタが、湯船の底から灰色の薄片を何枚も拾い上げてきた。爪ほどの大きさで、灯にかざすと半ば透けていた。
「あんたの鱗だろ。湯でふやけて剥がれたんだね」
「古い鱗じゃ」ミナは鼻を鳴らした。「くれてやる」
マルタは一番形のいい一枚を、帳場の脇の棚に飾った。湯の宿に竜の鱗とは縁起がいい、と笑った。
翌朝、薪が足りなくなった。
裏の薪小屋はほとんど空だった。マルタは毎朝、自分で山へ入って枝を拾い、割って運んでいるらしい。ハルドは斧を借りて山へ入った。泊めてもらう礼のつもりだった。
「わらわも行く」
ミナが外套を着て出てきた。昨夜の勢いが、まだ残っていた。
戸を開けて、外へ一歩出た。
二歩目で、口数が減った。十歩で、黙った。宿の裏の坂を登りきる前に、ミナの足が止まった。ハルドが振り返ると、外套のフードの下で、さっきまで桃色だった頬が紙のように白くなっていた。唇が青い。
「……戻れ」
「まだ、行ける」
声が震えていた。強がりではなく、本当に震えていた。もう一歩踏み出そうとして、ミナの膝が雪に落ちた。
ハルドは斧を置いて、ミナを担いで宿へ戻った。担いだ体は、湯上がりの一刻前と同じものとは思えないほど冷えていた。
暖炉の前に下ろすと、ミナは毛布にくるまって火を睨んだ。しばらく何も言わなかった。
「湯に浸かっても、火に当たっても」
やがて、ぽつりと言った。
「温まるのは外側だけじゃ。腹の火は点いておらぬ。外に出れば、外の冷たさにすぐ負ける」
毛布から出た手首を、ミナは黙って見下ろした。鱗の灰色が、ガルムを出たときより広がっていた。手首から肘のほうへ、じわじわと這い上がっている。
角の先も、少し欠けていた。昨夜、得意げに反らしていた角だった。
「ここに春まで置いてもらう手もある」とハルドは言った。
「春まで火が持てばの」ミナは毛布を引き寄せた。「それに、この暖炉の前から一歩も出られぬのなら、それは生きておるとは言わぬ。籠の中じゃ」
その日の午後、ハルドは一人で山へ入り、三日分の薪を割って運んだ。マルタは礼を言い、晩飯に干し肉を倍出した。
夜、ミナが女将に訊いた。
「お主は、なぜ湯を張り続ける。亭主の言いつけというだけでは、あるまい」
マルタは大釜の火を見ながら、しばらく黙っていた。
「娘がね、南にいるんだよ」
十五で南へ出て、もう二十年近く帰ってこない。手紙は来る。元気でやっている、子供が二人いる、と書いてある。帰るとは書いていない。
「でもさ、いつかふらっと帰ってきたとき、湯が冷めてたら嫌じゃないか。あの子、ここの湯が好きだったんだよ」
ミナは何も言わなかった。
翌朝、宿を発った。マルタは湯気の立つ宿の前で手を振った。
馬の背で、ミナが小さく言った。
「北の者は、みな火を守って待っておるのじゃな」
「そうみたいだな」
「待っておる相手は、帰ってこぬのにの」
ハルドは答えなかった。背中に押し当てられたミナの額が、昨日より少しだけ冷たかった。
第五章 灯台
山を下りきると、海が見えた。
灰色の海だった。空も灰色で、境目がはっきりしない。それでも、風の匂いが変わった。山の風は乾いて刺すようだったが、海の風は湿って重く、肌にまとわりつくように冷たい。冷たいことに変わりはない。だが刺さらない。
「海は冬でも凍らぬ」とミナが言った。「水は熱を溜める。じゃから海べりは山より温い」
実際、ヘルケの港町に着いた日、ミナは昼のあいだ、宿の軒先の日溜まりに一人で座っていられた。外套にくるまって、膝を抱えて、海を眺めていた。リンデでは十歩も歩けなかったことを思えば、それは小さくない変化だった。
ヘルケの岬には灯台が立っていた。
灯台守のケルドは、片足が木の義足だった。昔は船乗りで、嵐で足を失ってから灯台に上がった。それから三十年、一晩も灯を絶やしたことがないという。
「南と北を行き来する船は、もう月に一、二隻だ。それでも来る。来る以上は灯がいる」
ケルドの悩みは油だった。灯の油は南から船で運ばれてくる。その船が遅れていて、油の樽はあと三晩分しか残っていなかった。
三日目の夕方、嵐が来た。
風が窓を叩き、波が岬の岩を越えて砕けた。ケルドは最後の樽を灯に注ぎ、義足を引きずって螺旋階段を上った。上りきったところで、風に煽られた鎧戸が外れ、灯室のガラスが割れた。吹き込んだ雨が灯を消した。
ハルドが代わりに上った。割れた窓に板を打ちつけ、濡れた芯を替え、火口箱で何度も火を起こし直した。指がかじかんで、火花が芯に移らない。
いつの間にか、ミナが後ろにいた。
「何をしに来た。下で寝てろ」
「ここが一番、風の当たらぬ場所だと思うた」
嘘だった。灯室は塔の中で一番風が吹き込んでいた。ミナは震えながら、ハルドの手元を覗き込んだ。
「右手じゃ」とミナが言った。「お主の右手は、もう冷え切っておる。左で擦れ」
「見えるのか」
「竜の目はな、熱が見える。暗くても、人がどこにおるかは分かる。温いものは明るく、冷たいものは暗く見える」
ハルドは火口箱を左手に持ち替えた。
五度目で、芯に火が移った。灯が灯ると、ガラスの反射鏡が光を集めて、嵐の海へ太い光の帯を投げた。
二人で灯室の床に座り込んだ。灯の熱が、狭い部屋をわずかに温めていた。ミナはハルドの肩に頭を預けた。もう保温だとは言わなかった。
「お主、なぜ北へ来た」
ミナが訊いた。ベルタの家でハルドが訊いたのと、同じ問いだった。
ハルドはしばらく、嵐の音を聞いていた。
「南で、町を守る仕事をしてた」
十年前のことだ。南の平野にある町で、領主に雇われて城壁の守りについていた。ある年、その平野の上で二頭の竜がナワバリを争った。
竜たちは町を狙ったわけではなかった。町のことなど、たぶん目にも入っていなかった。ただ、争いの場所の真下に、たまたま町があった。
「三日で終わった。勝ったほうが残って、負けたほうが去った。町は残らなかった」
城壁の上から見ていた。炎が通りを舐め、塔が崩れ、人が逃げ惑う。剣も弓も、何の役にも立たなかった。竜はこちらを見てもいなかった。
「全部終わったあと、焼け跡を一人で歩いてる女がいた。角と尻尾があった。灰を蹴って、焦げた梁を跨いで、新しく手に入れた土地を検分してた」
勝った竜が、人の形をとっていた。焼け跡に人の死体がいくつも転がっているのに、女は一度も足を止めなかった。
「それで知った。人の形をとれるのは、ああいう竜だけだって」
ハルドは傭兵を辞めかけ、結局辞めずに北へ流れた。北の竜は小さく、羽の生えた蜥蜴でしかない。北なら、あれを見ずに済むと思った。
灯がじりじりと鳴った。
「わらわも」とミナが言った。「そういう争いを、しておった側じゃ」
「知ってる」
「わらわが負けた争いの下にも、人の村があったやもしれぬ。わらわは覚えておらぬ。見ておらなんだ」
詫びる口調ではなかった。言い訳でもなかった。ただ、事実を並べていた。
「竜は、人の町など見ておらぬのじゃ。見えておらぬ。わらわも、ベルタの家に転がり込むまでは、そうであった」
空の上から見ると、人の町は焚き火の燠のように、ぼんやりと赤い小さな点でしかないのだと、ミナは言った。暖炉と、竈と、人の体。それが寄り集まった、地面の小さな温い染み。それが燃え上がっても、空からは焚き火が少し大きくなったようにしか見えない。
「知ってる」
ハルドはもう一度言った。
ミナは顔を上げて、ハルドを見た。
「では、なぜベルタの金を受け取った。わらわを南へ連れていけば、いずれわらわはまた、ああいう竜に戻るのじゃぞ」
「金がよかった」
ミナは鼻を鳴らした。
「嘘が下手じゃの、お主は」
それきり、ミナは何も言わなかった。ハルドの肩に頭を預けたまま、灯の熱に目を細めていた。
夜明けに嵐は去った。油は朝まで持った。昼過ぎに、遅れていた南からの船が港に入った。積み荷に油の樽があった。
ケルドは礼に、その船への乗船を口利きしてくれた。船は二日後に南へ戻る。霧の港まで行く。
「海を渡れば、陸を行くより十日は早い」とケルドは言った。「それに、船の上は思ったほど寒くない。海が温いからな」
ミナは岬の先で、出ていく船の航路を眺めていた。外套の袖から出た手首の灰色は、ヘルケに着いてから広がっていなかった。
第六章 霧の港
船の上で、ミナは一人で歩いた。
甲板を船首から船尾まで、手すりに掴まりながら往復した。三往復目で息が切れて、帆柱の陰に座り込んだ。それでも、立って歩いた。ヘルケの軒先で膝を抱えていた娘が、揺れる甲板の上を自分の足で歩いていた。
「見たか」
座り込んだまま、ミナが言った。息を切らしながら、角を反らしていた。
「見た」
「わらわの足じゃ。誰の背も借りておらぬ」
船乗りたちは最初、角と尻尾のある娘を気味悪そうに遠巻きにしていた。北の港から乗ってきた客だから、北の竜の変わり種だろう、くらいに思ったらしい。三日目には、若い水夫がミナに干し魚を分けてやっていた。ミナは礼も言わずに受け取って、骨まで噛み砕いた。
五日目の朝、船は霧の中に入った。
白い霧だった。北の霧のように凍てついていない。湿って、ぬるく、頬を撫でていく。霧の向こうから鐘の音が聞こえ、やがて岸壁と、無数の帆柱と、斜面にびっしりと並んだ家々の屋根が浮かび上がった。
フィヨルの港は、ヘルケの十倍は大きかった。
岸壁には人が溢れていた。荷を担ぐ人足、魚を売る女、樽を転がす子供。南から来た船と北から来た船がここで荷を積み替え、人も積み替えられる。北と南の、ちょうど真ん中の町だった。
そして、ここではミナの角が目立った。
通りを歩くと、人が振り返った。指をさす子供がいた。露骨に道を空ける男もいた。北の部落では誰も気にしなかった羽と尻尾が、ここでは異物だった。フィヨルにも小竜はいるが、人の形をした竜はいない。
ミナは角を隠そうとしなかった。外套のフードも被らなかった。顎を上げて、指をさす子供を見返していた。
「隠さないのか」とハルドは訊いた。
「なぜ隠す。わらわは竜じゃ」
その日の午後、港の市場で、ミナがくしゃみをした。
焼き栗の屋台の前だった。屋台の親父が渋い顔をしながらも、一袋売ってくれた。熱い栗を頬張ったミナが、湯気を吸い込んで、大きくくしゃみをした。
口から、火花が散った。
赤い火の粉が三つ四つ、ぱっと宙に飛んで、屋台の日除けの布に落ちた。布の端が小さく焦げて、煙が上がった。親父が悲鳴を上げて水をかけた。
ミナは、口を押さえて固まっていた。
「……今の」
「見た」
「火じゃ」
ミナはハルドの腕を掴んだ。掴んだ手が、震えていた。寒さで震えているのではなかった。
「火じゃ、ハルド。わらわの、腹の火じゃ」
ハルドの名前を呼んだのは、それが初めてだった。
竜の火は、喉の奥の種火から点くのだという。火袋が冷えていても、種火さえ残っていれば、何かの拍子に火花は出る。くしゃみのように、喉が勝手に動いたときに。
「種火が残っておった」とミナは言った。「まだ、死んでおらなんだ」
屋台の親父には、焦がした布の代金の倍を払った。ミナは残りの栗を全部抱えて、港の石段に座り込み、一つずつ大事そうに食べた。そのたびに小さく息を吐いて、火花が出ないか確かめていた。二度目は出なかった。それでもミナは笑っていた。
夕方、宿の手配をしに港の事務所へ行ったとき、ハルドは帳場の女に声をかけられた。
「お客さん、北から来たの」
三十半ばくらいの女だった。袖をまくった腕が太く、声が大きかった。どこかで見たような顔だと思った。
「リンデの谷を通ったよ」とハルドは言った。
女の手が、帳簿の上で止まった。
「……宿は。湯の宿は、まだやってた?」
「やってた。湯も張ってた。薪で沸かしてる」
女は帳簿に目を落とした。しばらく顔を上げなかった。
「母さん、まだ湯張ってるんだ」
声が少しだけ揺れていた。
「帰ってやれって、言いたいんでしょ」
「言ってない」
「言いたい顔してる」
女は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「帰れないよ。子供がいるし、亭主の仕事はここにしかない。北には仕事がないんだ。帰ったって、母さんと二人で凍えるだけ」
「分かってる」
「でも、湯が張ってあるのは、嬉しいな」
女は帳簿に宿の名前を書きつけて、鍵を差し出した。
宿へ戻ると、ミナが窓辺で霧の港を眺めていた。外套は脱いで、椅子の背に掛けてあった。
「マルタの娘がいた」
ミナは振り返らずに、そうか、と言った。
「帰るのか」
「帰れないそうだ。北には仕事がない」
「……仕事がないのは、土地が冷えておるからじゃな」
ミナは窓の外を見たまま、手首の鱗を指でなぞった。灰色は、まだそこにあった。だが、その縁がわずかに銀色に光っていた。
第七章 隠す者
フィヨルから街道を南へ六日歩くと、アウレンの城壁が見えてくる。
六日目のミナは、もう馬に乗っていなかった。昼のあいだは自分の足で歩き、ときどきハルドを追い越して振り返り、遅いと言った。外套は前を開けて羽織るだけになった。夜になるとまだ冷えて、焚き火の前でハルドの隣に寄ってきたが、朝には自分から離れた。
手首の鱗は、ほとんど銀色に戻っていた。
アウレンは大きな街だった。石畳の大通りに商館が並び、運河を荷舟が行き交う。冬だというのに、日向では外套がいらないほどだった。通りの花壇には、北では見たことのない色の花が咲いていた。
ここでも、ミナの角は振り返られた。だがフィヨルとは少し違った。指をさす者はいなかった。代わりに、目を逸らす者が多かった。見てはいけないものを見たように。
三日目に、迎えが来た。
宿の前に馬車が止まり、仕立てのいい服を着た男が降りてきて、主人がお目にかかりたいと申しております、と言った。主人の名はセレス。この街で一番大きな商館の持ち主だという。
「行くな」とハルドは言った。
「匂いで分かる」ミナは馬車を見ていた。「同族じゃ」
商館の最上階の部屋は、暖炉が三つあって、汗ばむほど暖かかった。
セレスは窓辺の長椅子に腰かけていた。三十前後に見える女で、黒い髪を高く結い上げ、深い緑の衣を着ていた。角はなかった。尻尾も羽も見えなかった。金色の目の瞳孔だけが、縦に細かった。
「ずいぶん遠くから来たのね」
セレスは微笑んで、ミナの頭のてっぺんから爪先までを眺めた。
「角も尻尾も出したまま、街を歩いてるって聞いたわ。まるで北の小物みたいに」
ミナの尻尾が、床を打った。
「わらわを小物と――」
「怒らないで。褒めてないけど、貶してもいないの」
セレスは指先で、結い上げた髪の根元を軽く叩いた。そこに角が畳まれているのだ、とハルドは気づいた。髪で覆えるほどに、小さく。
近くで見ると、結い上げた髪の生え際に、白い筋が何本も走っていた。古い傷のようだった。
「削ってるのよ」セレスは、ミナの視線に気づいて言った。「伸びるたびに、やすりでね。髪で隠れるくらいにしておかないと。尻尾も同じ。衣の下で骨が曲がるように、若い頃から縛ってあるの」
ミナの尻尾が、床の上で無意識に丸まった。
「南ではね、人の形で暮らすなら隠すのが作法なの。人は竜を怖がる。怖がる相手とは商売ができない。だから隠す。隠せば、人は竜を使えるし、竜も人を使える」
暖かい土地では、人の形でいても代謝が落ちない。だから南の竜は、人の形で長く暮らせる。角を畳み、尻尾を衣の下に収め、何十年も人の街で商いをする。アウレンの商館の半分は、そういう竜が持っているという。
セレスの前の卓には、焼いた肉と果物が山のように盛られていた。話しながら、セレスはそれを絶えずつまんでいた。品のいい手つきで、休みなく。人の形を保つのは、暖かい土地でもただではないのだ、とハルドは思った。商館の半分を竜が持っているのも、食い扶持を稼ぐためなのかもしれなかった。
「あなた、北で火を落としかけたんでしょう。鱗の色で分かる」
セレスは紅茶を勧めた。ミナは手をつけなかった。
「北へ行く竜なんて、今どきいないわ。あそこは空き地よ」
「空き地」
「白峰の古竜が死んでから、誰も手をつけない。寒くて、何もなくて、取る価値がない」
ミナが顔を上げた。
「炉守様を、知っておるのか」
「炉守? 北の人間はそう呼んでたの。可愛いわね」
セレスは懐かしむように目を細めた。
「白峰の古竜は、うんと古い竜だった。火の竜の中でも一番古い血筋。あの山の火口で眠って、自分の火で山の底を温め続けてた。山の熱は、竜が眠ってる限り絶えない。眠りが深いほど、火は長く持つ」
「なぜ死んだ」
「寿命よ。争いも何もなかった。ある冬に眠ったまま、起きなかった。それだけ」
炉守がいなくなって、山の底の火は少しずつ冷えた。六十年かけて、北全体が冷えた。
「誰も後を継がなかったのか」
「継ぐ?」セレスは笑った。「誰が好き好んで、あんな凍った土地に行くの。火を絶やさないように、何百年も山の中で眠り続けるのよ。ナワバリ争いの勝ち負けで言えば、あれは負けた竜が流れ着く場所」
ミナは黙った。
セレスは、今度はハルドを見た。
「そちらの方は、護衛?」
「傭兵だ」
「南の出身ね。言葉で分かる」
セレスは紅茶の杯を置いた。
「この先の平野を通るつもりなら、気をつけて。あそこは今、グラウのナワバリよ」
ミナの肩がこわばった。
「その名は知っておる」
「でしょうね。あなたを追い出した竜だもの」
セレスはハルドに向き直った。
「グラウは十年前に、南の平野で古いナワバリを奪い取った。下に町があったけど、気にもしなかった。勝ったあと、人の形で焼け跡を検分して歩いたそうよ。灰を蹴りながら。竜のあいだでは、ちょっとした語り草」
ハルドは何も言わなかった。言えなかった。灯台の灯室で、焼け跡を歩く女の話をしたとき、ミナはその女の名前を知っていたのだろうか。知らなかったのだろう。ミナもまた、見ていなかったのだから。
帰り際、セレスはミナを呼び止めた。
「ここに残りなさい。角の隠し方を教えてあげる。南の暖かい街で、人の形で、楽に暮らせるわ。もうナワバリで争う必要もない」
ミナは扉の前で立ち止まった。振り返らなかった。
「わらわは、隠さぬ」
宿へ戻る道で、ミナは一言も喋らなかった。運河の橋の上で、ようやく足を止めた。
「お主の町を焼いたのは、グラウか」
「そうらしい」
「わらわは、そのグラウに負けて追われた」
ミナは欄干に手をついて、暗い水面を見下ろした。
「お主は、わらわをグラウのところへ連れていくことになる」
「平野を抜けなきゃ、暖かい土地には出られない」
「知っておる」
橋の下を、荷舟が一艘くぐっていった。舟の灯が水面に揺れて、消えた。
第八章 再点火
アウレンを出て南へ三日、丘陵地帯に入った。
なだらかな丘がどこまでも続き、冬枯れの草の間に羊が散っていた。風は乾いて、やわらかかった。朝の霜は、日が高くなる前に消えた。
この三日、ミナは夜も焚き火から離れて眠った。外套を枕にして、草の上で丸くなって、朝まで起きなかった。ハルドの隣には来なかった。来なかったことに、ハルドは三日目の夜になって気づいた。
四日目の明け方、地面が揺れた。
ハルドは剣を掴んで跳ね起きた。焚き火は消えていた。夜明け前の青い光の中で、ミナが寝ていた場所に、何か大きなものがうずくまっていた。
最初は丘だと思った。丘がひとつ増えている、と。
それが息をした。
赤銀の鱗が、明けかけた空の光を鈍く跳ね返していた。畳まれた羽は、帆船の帆ほどもあった。首が持ち上がる。角が、ハルドの背丈の倍の高さで空を突いた。金色の目が開いた。縦長の瞳孔が、ハルドを見下ろした。
城ほどもある、とは言えなかった。南の空を横切った竜たちに比べれば、小さかった。若い竜なのだ、とハルドは思った。それでも、ハルドがこれまで剣を向けたどんなものよりも大きかった。
竜の喉の奥で、低い音が鳴った。
「……戻った」
声は、ミナの声だった。ただし、腹の底に響く大きさで。
竜は首を空に向け、口を開けた。
炎が吹き上がった。夜明けの空に赤い柱が立ち、丘の上の霜が一瞬で蒸気になった。熱がハルドの顔を叩いた。羊たちが一斉に逃げ出した。炎は長く続き、やがて細くなって、最後に満足げな煙の輪をひとつ吐いて止まった。
「見たか、ハルド」
竜が首を下ろして、ハルドの目の高さまで顔を寄せた。鼻息で髪が乱れた。熱かった。
「見た」
「わらわの火じゃ。腹の底から、燃えておる」
竜の尻尾が、地面を叩いた。地面が揺れた。人の形のときと同じ仕草だった。
竜の足元の草の上に、毛皮の外套がきちんと畳んで置いてあった。ベルタが縫った外套だった。袖の長すぎるそれを、ミナは眠る前に脱いで、角の切れ込みが潰れないように畳んでおいたらしい。今夜あたり何かが起きると、分かっていたのかもしれなかった。
ミナはそのまま、丘の上で半日を過ごした。羽を広げて日を浴び、ときどき空に向かって炎を吐き、そのたびに嬉しそうに喉を鳴らした。ハルドは少し離れた岩に座って、それを眺めていた。
昼前、ミナは羊を二頭食べた。逃げ遅れた羊だった。丘の向こうから羊飼いが血相を変えて駆けてきたので、ハルドはベルタの銀貨で四頭分を払った。竜の体を満たすには、人の形のときの何十倍も食べねばならないのだと、ミナは口の周りを舐めながら言った。人の形が省エネの形だというのは、本当らしかった。
昼過ぎ、ミナは羽を広げた。
「乗れ」
「何に」
「わらわの背じゃ。ほかに何がある」
ハルドは首の付け根によじ登った。鱗は熱く、硬く、手をかける場所がいくらでもあった。ミナが羽ばたいた。一度で、地面が遠ざかった。二度で、丘が絨毯のように小さくなった。三度目で、風の音しか聞こえなくなった。
眼下に、南の大地が広がっていた。
丘陵の先に、広い平野があった。川が蛇行し、森が点在し、ところどころに村が見える。平野の南の果ては霞んで見えなかった。暖かい土地だった。冬でも緑が残っていた。
平野の手前の川べりに、黒い染みのような場所があった。
城壁の跡だった。崩れた石が円を描いて並び、その内側に焦げた梁が何本も突き出していた。十年経っても、草はそこだけ生えていなかった。
ミナが、旋回を緩めた。
「あれか」
「ああ」
ミナは焼け跡の上を、ゆっくりと一周した。低く、羽音を殺して。焼け跡の周りには、新しい村ができていた。小さな村だった。畑があり、煙が上がっていた。焼け跡には、誰も近づいていなかった。
「上から見ると、小さいの」
ミナがぽつりと言った。
「わらわは、こういうものを見ておらなんだ。飛んでおると、人の町は地面の模様にしか見えぬ」
ハルドは何も言わなかった。
平野の真ん中に、低い岩山があった。その上に、何か大きなものがうずくまっていた。遠くて形は分からなかった。だが、ミナの体が一瞬こわばったのが、鱗越しに伝わってきた。
「グラウじゃ」
ミナは岩山には近づかず、大きく弧を描いて丘陵へ引き返した。
その夜、ミナは竜の姿のまま眠った。
焚き火は要らなかった。ミナの体そのものが、焚き火よりずっと熱かった。ハルドは毛布を一枚だけ持って、ミナの脇腹のそばに座った。鱗から伝わってくる熱は、火の前に座っているのと変わらなかった。
「冷えるか」とミナが訊いた。目は閉じたままだった。
「いや」
「寒ければ、もっと寄れ」
ハルドは少し考えて、脇腹の鱗に背中を預けた。熱かった。北の部落で、夜明け前に背中に張りついてきた体は、石のように冷たかったのに。
「保温か」とハルドは言った。
竜の喉の奥で、低い音が鳴った。笑ったのだと、少ししてから分かった。
「お主が冷えると、わらわが困る。それだけのことじゃ」
夜半、ハルドが目を覚ますと、ミナの片目が開いていた。星を見ていた。その視線の先は、北だった。
第九章 ナワバリ
グラウのほうから来た。
丘陵で炎を吐いたのが見えていたのだろう。昼前、南の空に影が現れ、みるみる大きくなった。灰色の鱗の竜だった。ミナより首ひとつ大きく、羽は一回り広かった。古い傷が、鱗のあちこちに白く走っていた。
灰色の竜は丘の上空を一度旋回して、低く唸った。言葉ではなかった。だが、意味は分かった。ここは私の土地だ、と。
ミナが立ち上がった。
「下がっておれ、ハルド」
「勝てるのか」
「勝てぬ」
ミナはあっさりと言った。
「一度負けた相手じゃ。火が戻ったところで、体の大きさは変わらぬ。じゃが、ここで尻尾を巻けば、わらわはまた追われる。今度は北へも逃げられぬ」
ミナは羽を広げ、地面を蹴った。
空の上の戦いは、ハルドの目には速すぎた。二頭の竜が絡み合い、離れ、また絡み合う。炎が交差し、鱗がぶつかる音が雷のように丘を揺らした。グラウの爪がミナの羽を裂き、ミナの牙がグラウの首を掠めた。
ハルドは、気づいた。
ミナは、ずっと北へ逃げていた。押されて退いているように見えた。だが、そうではなかった。グラウが平野の側へ回り込もうとするたびに、ミナは無理な角度で割り込み、自分から炎を浴びて、戦いを丘陵の上へ引き戻していた。
平野の手前には、焼け跡の隣にできた小さな村があった。
ミナは、村の上で戦わないようにしていた。そのために、避けられる攻撃を避けずに受けていた。
四度目に炎を浴びたとき、ミナの羽ばたきが乱れた。グラウの尻尾が横から叩きつけられ、ミナは丘の斜面に落ちた。土煙が上がり、地面が揺れた。
ハルドが駆けつけたとき、ミナはもう竜の姿ではなかった。
斜面にえぐれた溝の底で、人の姿のミナが倒れていた。外套は焼け焦げ、片方の羽は不自然な角度に折れていた。額から血が流れていた。それでも、目は開いていた。
「……やはり、勝てぬの」
頭上で、羽音がした。
グラウは降りてこなかった。降りてくる代わりに、空中で姿を縮め、人の形になって、ゆっくりと斜面に足をつけた。
竜同士のナワバリ争いでは、地に落ちたほうが負けになる。落ちた竜にとどめを刺す竜はいない、とミナは後で言った。殺し合えば、勝ったほうも深手を負う。深手を負えば、次の挑戦者に負ける。だから竜は、相手を地に落とすまでしか戦わない。下の町が丸ごと焼けても、竜同士は滅多に死なないのだ。
背の高い女だった。灰色の髪を短く刈り、角を隠していなかった。頬に白い古傷があった。女は焦げた草を踏み、ミナの倒れている溝の縁まで歩いてきた。
ハルドは剣を抜いて、その前に立った。
女は足を止め、ハルドを見た。剣を見た。それから、興味を失ったように視線をミナに戻した。
灰を蹴りながら焼け跡を歩いていた女が、そこにいた。十年前と同じ顔だった。ハルドを、まるで覚えていなかった。覚えているはずがなかった。あのときも、見てはいなかったのだから。
「十年前」とハルドは言った。「平野の川べりに、町があった」
「町?」
グラウは少し考えて、首を傾げた。
「あったかしら。あの頃は、あの辺りでいろいろ燃やしたから」
剣の柄が、手のひらの中で軋んだ。
斬りかかって、どうなるのか。ハルドは知っていた。十年前に城壁の上から、剣が竜に何の意味もないことを見ていた。今ここで踏み込めば、何も変わらないまま死ぬ。それだけだった。
ハルドは剣を下ろさなかった。下ろさないまま、動かなかった。
グラウは、もうハルドを見ていなかった。
「若いの。また来たの」
溝の底で、ミナが体を起こした。折れた羽を引きずって、ハルドの脇から顔を出した。
「通りかかっただけじゃ。お主の土地は要らぬ」
「じゃあ、どこへ行くの。南は全部、誰かの土地よ」
「北へ行く」
グラウが、初めて表情を変えた。眉を上げて、それから声を出して笑った。
「北? 白峰の空き地へ? あなた、寒いのが駄目な種でしょう。凍えて死にかけたって、噂で聞いたわよ」
「火が点いておれば、寒くはない」
「あそこで火を絶やさないってことは、何百年も山の中で眠るってことよ。若い竜が、一生を凍った山に捧げるの?」
「眠るのは得意じゃ」ミナは額の血を手の甲で拭った。「冬のあいだはの」
グラウはしばらくミナを眺めていた。それから、肩をすくめた。
「好きにすればいいわ。あんな土地、誰も欲しがらない。止める竜もいない」
グラウは踵を返した。数歩歩いて、空中に跳び、灰色の竜の姿に戻った。羽ばたきひとつで丘を越え、平野の岩山へ帰っていった。一度も振り返らなかった。
丘の上に、風の音だけが残った。
ハルドはようやく、剣を鞘に戻した。手のひらに、柄の跡がくっきり残っていた。
「斬らなんだか」とミナが言った。
「斬れなかった」
「同じことじゃ。わらわも、勝てなかった」
ミナは溝の縁に腰を下ろした。折れた羽が痛むのか、顔をしかめた。
「誰も勝っておらぬ。グラウも、勝ったとは思っておらぬじゃろう。あやつにとっては、蠅を追い払ったようなものじゃ」
ハルドは隣に座った。
「村の上で戦わなかったな」
ミナは答えなかった。しばらくして、小さく言った。
「上から見ると、小さいのじゃ。人の町は」
日が傾き始めた。平野の村から、夕餉の煙が上がっていた。
「お主との約束は、南へ連れていくことであったな」
「そうだ」
「では、果たされた。ここは南じゃ」
ミナは懐から、焦げた革袋を引っ張り出した。ベルタの木箱の中身を、ハルドが道中で分けて持たせていた分だった。銀貨が、まだ半分以上残っていた。
「これで、お主を新しく雇う」
「何の仕事だ」
「北へ帰る。わらわを、ヨルンの部落まで連れていけ」
「飛べばすぐだろう」
「羽が折れておる」
ミナは折れた羽を見せた。
「治るまで、歩いて帰る。春までには着くじゃろう」
ハルドは革袋を受け取った。重さを確かめて、ベルタの顔を思い出した。春になったら顔を見せに来い、と言っていた。
「全部は要らない。半分でいい」
「全部持っていけ。道中、わらわはよう食うぞ」
どこかで聞いた台詞だった。ハルドは笑った。ミナも、少しだけ笑った。
第十章 埋み火
北への帰り道を、ミナは竜の姿のまま歩いた。
人の形に戻れば、また代謝が落ちる。北へ向かえば寒くなる。せっかく点いた火を、二度と落とすわけにはいかなかった。羽が治るまでは飛べない。だから、歩いた。丘ほどもある竜が、街道を一歩ずつ北へ。ハルドはその背に揺られたり、隣を歩いたりした。どちらにいても、寒くはなかった。
アウレンの城壁の外を通ったとき、セレスの商館の窓から誰かが見ていた気がした。ミナは見上げもしなかった。
フィヨルの港では、子供たちが遠巻きに竜を見に来た。そのうち何人かが、ミナの脇腹に手を当てて、温かいと言って笑った。帳場の女が、母さんに渡してほしいと、手紙を一通ハルドに預けた。
海を渡る船には竜は乗れない。だから陸を行った。冬の山道を、雪を溶かしながら進んだ。ミナが通ったあとには、細い黒い道が残った。
ヘルケの岬では、灯台が変わらず灯っていた。ケルドは義足を鳴らして塔から降りてきて、ミナの鼻先を叩き、でかくなったな、と言った。
リンデの谷で、マルタに手紙を渡した。マルタは宿の前で手紙を読み、読み終えて、大釜の火を見に行った。戻ってきたときには目が赤かった。その晩、ミナは大釜の下に頭を突っ込んで火を吹き、薪一本使わずに湯を沸かした。マルタは腹を抱えて笑った。帳場の脇の棚には、あのときの鱗がまだ飾ってあった。湯は朝まで冷めなかった。
ガルムの町は、静かだった。
坂の一番上の建物から、煙が上がっていなかった。中に入ると、暖炉は冷え切っていた。溶鉱炉の前の椅子に、毛布が畳んで置いてあった。
隣の家の老人が、オットは真冬に死んだと教えてくれた。眠ったまま起きなかった。炉の前の椅子で見つかった。
ミナは溶鉱炉の口に首を差し入れて、長く火を吹いた。
煉瓦の炉が低く唸り、煙突から黒い煙が上がった。坂の下からでも見えただろう。見る者は少なかった。それでも何人かの年寄りが、坂を登ってきて、炉の熱に手をかざした。坑道の口からは、灰色の小竜たちが這い出してきて、ミナの尻尾にしがみついた。
「誰も見ておらぬと崩れる、と言うておったな」
ミナは炉を見上げた。
「見ておるぞ、オット」
ヨルンの部落に着いたのは、雪解けが始まる少し前だった。
坂の上から見下ろすと、煙は五つしか上がっていなかった。一番奥の家からは、上がっていなかった。
入口で、あの老人が薪を割っていた。竜を見ても斧を下ろさず、ハルドの顔を見て、それからようやく手を止めた。
「ベルタ婆なら、裏だ」
家の裏の、日当たりのいい斜面に、小さな石が置かれていた。名前は彫られていなかった。石の前に、欠けた椀がひとつ伏せてあった。
秋の終わりに風邪をこじらせて、そのまま冬を越せなかったという。最後まで鍋をかき回していたと、老人は言った。
ミナは人の形に戻った。
寒さがすぐに来た。白い頬から血の気が引いていくのが、ハルドにも分かった。それでもミナは、石の前に膝をついた。毛皮の外套の、長すぎる袖から指先だけを出して、伏せられた椀に触れた。
「春になったら、顔を見せに来いと言うたな」
声が震えていた。寒さのせいだけではなかった。
「まだ、春ではないぞ。婆。わらわは、少し早く来たのじゃ」
風が吹いた。誰も答えなかった。
ハルドは、ミナが震えて立てなくなる前に、肩を掴んで立たせた。ミナは逆らわなかった。立ち上がると、斜面の上の白峰を見上げた。頂には、何も上がっていなかった。
「羽は」
「治った」
ミナは竜の姿に戻った。今度は、一度でうまくいった。
赤銀の竜は、部落の上を一度だけ低く旋回した。薪割りの老人が、斧を持ったまま空を見上げた。家々の戸が開いて、年寄りたちが顔を出した。それから竜は、白峰に向かってまっすぐに飛んでいった。
ハルドは、ベルタの家の暖炉に火を入れた。
三日後、白峰の頂から、細い煙が上がった。
その年の春は、例年より十日早く雪が解けた。
次の年は、ひと月早かった。オットの坑道の浅いところで、氷が溶けて水が流れ出した。リンデの谷の川岸で、凍っていたはずの岩の隙間から、ぬるい湯が細く湧いた。マルタは手紙を書いた。
三年目の夏、ヨルンの部落の一番奥の家に、男が一人、女と子供を二人連れて帰ってきた。
男は戸口で長いあいだ立ち尽くしていた。家の中は掃除されていて、暖炉には灰が残り、卓の上に鍋がひとつ置かれていた。男が蓋を開けると、中は空で、よく磨かれていた。
暖炉の前で、傭兵が薪を割っていた。
「あんたの母親に、雇われてた」
ハルドはそう言って、男に家の鍵を渡した。
秋の初め、部落の煙は十一本になっていた。
夕方、白峰のほうから、人影が坂を下りてきた。赤みがかった銀髪の娘だった。夏だというのに、袖の長すぎる毛皮の外套を羽織っていた。角を二本、隠しもせずに生やし、尻尾を揺らし、後ろに灰色の小竜を三匹引き連れていた。
夏のあいだだけ、ミナは山を下りてくる。土地が温まった今なら、人の形でも夏は越せた。冬が来る前に、また火口へ戻って眠る。眠りが深いほど、火は長く持つ。
一番奥の家の窓から、子供が顔を出して、角だ、と叫んだ。父親が子供の頭を押さえた。北の人間らしく、竜を見ても驚かなかった。驚いたのは、その竜が戸口で立ち止まって、家の中を覗き込んだことだった。
「鍋はあるか」
ミナは偉そうに言った。
「この家の婆には、借りがある。婆の孫の顔を見に来た」
子供が、おそるおそる名前を訊いた。
ミナは胸を張った。
「わらわは赤銀の災い、ゼルトの穀倉を焼きし者、アルミナス河の悪夢、三度の討伐を退けし者――」
そこで言葉が止まった。子供が、きょとんとした顔でこちらを見上げていた。
ミナは少し黙って、それから咳払いをした。
「……ミナじゃ。この家の婆が、そう呼んだ」
その晩、家の中には五人が座った。ベルタの息子と、その妻と、子供が二人と、角の生えた娘が一人。傭兵は戸口の壁に背を預けていた。鍋の味は、ベルタのものとは少し違った。南で覚えたのか香草が入っていて、色が明るかった。卓のパンは、ふっくらと膨らんでいた。土地が温まって、生地が一晩で動くようになったのだ。ミナはパンを手に取って、軽い、と不満そうに言った。ミナは三杯おかわりをした。
夜が更けて、ハルドが外へ出ると、ミナもついてきた。
戸口の石段に並んで座った。夏の終わりの夜で、風はもうひんやりしていた。それでも、凍えるほどではなかった。白峰の頂から、細い煙が星空に溶けていた。
「明日、山へ戻る」
ミナが言った。
「冬のあいだは、眠らねばならぬ」
「知ってる」
「お主は、どうする」
「仕事がない。ここで冬を越す」
「来年も、そう言うのじゃろうな」
ハルドは答えなかった。
ミナは、ハルドの肩に頭を預けた。寒くはないはずだった。人の形のミナでも、この夜なら、一人で座っていられるはずだった。
「保温か」とハルドは言った。
「癖じゃ」
ミナは目を閉じた。
「春になったら、顔を見せに来る」
誰に言ったのか、ハルドには分からなかった。ハルドにかもしれないし、裏の斜面の、名前のない石にかもしれなかった。どちらでもいいと思った。
白峰の煙は、灰の下の熾火のように、細く、途切れずに上がり続けていた。