悪魔とは、いったい何なのだろうか。
人を誘惑する者。魂を喰らう者。神に背き、秩序を乱し、善なるものを堕落させる者。
古今東西、数え切れないほどの神話や伝承、物語の中で、悪魔はおおむねそのように定義されてきた。人間を惑わし、欲望を煽り、破滅へと導く存在。人間にとって理解しがたいもの。恐ろしいもの。そして、できることなら自分とは無関係であってほしいもの。
では、なぜ人間は悪魔という存在を必要としたのだろう。
人を誘惑する悪魔がいるのなら、誘惑に負ける人間がいる。
魂を喰らう悪魔がいるのなら、自らの魂を差し出す人間がいる。
神に背く悪魔がいるのなら、そもそも神に従うことを善と定めた人間がいる。
そう考えれば、悪魔という概念は、必ずしも人間の外側に存在するものではないのかもしれない。むしろ、人間こそが悪魔を生み出したのではないだろうか。
自分の弱さを認めたくないから、誘惑する悪魔を。
自分の罪を背負いたくないから、堕落させる悪魔を。
自分の欲望を正当化したいから、耳元で甘い言葉を囁く悪魔を。
人間は、自らの内側にある醜いものを外側へと押し出し、それに名前を与え、恐れ、忌み嫌った。そうすることで、ようやく自分は善良な生き物なのだと信じることができた。
なんとも賢い。そして、なんとも愚かなことだろう。
けれど。
――ならば、願いとは何なのだろう。
誰かに愛されたい。
幸福になりたい。
大切なものを守りたい。
失ったものを取り戻したい。
死にたくない。
生きていたい。
人間は願う。呼吸をするように。心臓が脈打つように。あるいは、自分が確かに生きているのだと証明するために。
願いがあるから、人間は前に進める。願いがあるから、明日を迎えようとする。願いがあるから、誰かを愛し、誰かを憎み、時には誰かを傷つけることさえある。
そう。願いそのものに、善も悪もない。ただ、そこにあるだけだ。
誰かを救いたいという願いも。
誰かを独占したいという願いも。
世界を平和にしたいという願いも。
世界そのものを自分の思いどおりに変えたいという願いも。
生まれた瞬間から善悪が決まっているわけではない。問題は、その願いを抱いた人間が何を選ぶのか。そして、その願いが叶わなかったとき、何を犠牲にするのかということだ。
自分より幸福な人間を見たとき。
手に入らないものがあると知ったとき。
愛する者が、自分以外の誰かを選んだとき。
あるいは、自分の願いを叶えるために、誰かの願いを踏みにじらなければならなくなったとき。
人間は初めて、自分の願いがどれほど醜く、どれほど身勝手で、どれほど際限のないものなのかを知る。
それでも、人間は願うことをやめない。
満たされても、満たされても。
手に入れても、手に入れても。
幸福になっても、幸福になっても。
心のどこかに、新しい渇きが生まれる。
もっと欲しい。
もっと愛されたい。
もっと認められたい。
もっと強くなりたい。
もっと幸福になりたい。
もっと。もっと。もっと。
願いが叶えば、すべてが満たされると思っていた。けれど、ひとつの願いが叶った瞬間、次の願いが生まれる。満たされたはずの心に、また新しい空白ができる。
その空白を埋めるために、人間は再び願う。終わりのない渇きを抱えながら、満たされることを夢見続ける。
では、その果てにあるものを、人間は何と呼ぶのだろう。
神か。怪物か。それとも――悪魔か。
「……というわけで、ボクは悪魔なのです!」
「どういうわけだよ」
間髪入れずに返されたツッコミに、
黒い髪に、赤い瞳。雪を思わせる白い肌。整った顔立ちに、年頃の少女と見紛うほど華奢な体躯。制服の上からでもわかる細い肩と、すらりと伸びた手足。声変わりを終えていないかのような、中性的で澄んだ声。
その容姿だけを見れば、初対面の人間が彼を少女だと思い込んだとしても、決して無理はない。
もっとも。
彼はれっきとした男である。それも、自分で言うのも何だが、とびきり可愛らしい男の子だった。
――本人に言わせれば、そんなことはどうでもいいことにすぎないらしいが。
「えー? だって、精霊がいるなら悪魔がいたってよくない?」
「いや、そういう問題じゃないだろ……」
「そうかなぁ。精霊がいて、天使がいて、空間震なんてものまである世界だよ? そこに悪魔がひとりくらいいたって、別に不思議じゃないと思うんだけど」
「お前、自分のことを悪魔だって言ってるんだよな?」
「うん!」
魔幽は満面の笑みで頷いた。あまりにも迷いのない返事だった。自分の正体について語っているというのに、そこには秘密を抱えた者特有の緊張感も、相手を威圧しようとする気配もない。まるで、今日の天気について話しているかのように軽やかだった。
「世界唯一の悪魔、悪乃魔幽くんです! よろしくね、お兄さん!」
「……俺は五河士道。よろしく、悪乃」
「魔幽でいいよ!」
「わかった。魔幽」
「うんうん!」
嬉しそうに笑う魔幽を前に、五河士道は小さく息を吐いた。
どうしてこうなった。
それが、現在の彼の率直な感想だった。数日前、士道は精霊と呼ばれる存在と出会った。その少女の名は、夜刀神十香。初めて出会ったとき、彼女は世界にとっての脅威だった。彼女が出現するたびに空間震が発生し、ASTと呼ばれる対精霊部隊が彼女を追跡する。精霊である十香自身も、なぜ自分が追われているのか、なぜ人間たちが自分を恐れるのか、十分には理解していなかった。
彼女にとって世界は、理不尽な敵意に満ちた場所だったのだろう。士道は、そんな彼女と対話した。デートをし、彼女の好きなものを知り、その心に触れた。そして、彼女の力を封印することに成功した。
もちろん、それですべてが解決したわけではない。
精霊とは何なのか。空間震はなぜ発生するのか。自分に与えられた力は、いったい何を意味するのか。わからないことは、山ほどある。それでも、少なくとも十香は、今では士道にとってかけがえのない友人になっていた。
だからこそ、士道は思ったのだ。これからは少しずつ、平穏な日常を取り戻していけるのではないか、と。
甘かった。
まったくもって、甘かった。
平穏な日常というものは、どうやら彼のほうから全力で逃げていくらしい。なにしろ、今度は悪魔である。精霊の次は悪魔。いったい自分の人生は、どこへ向かっているのだろう。
「ところで、士道くん」
「なんだ?」
「君の妹さん、すっごく怖いね!」
「……何をしたんだ、お前」
士道の眉がぴくりと動いた。嫌な予感がした。それも、かなり強烈なやつだ。そして、その予感は見事なまでに的中する。
『五河士道。聞こえているかしら』
耳元の通信機から、氷のように冷ややかな少女の声が響いた。
『今すぐ、その得体の知れない男の子を連れてフラクシナスに来なさい』
「琴里!?」
『いいから来なさい。これは命令よ』
「いや、ちょっと待て! いきなりどうしたんだよ!?」
『説明は艦内でするわ。逃げようとしたら、あとで覚悟しておきなさい』
「逃げるつもりはないけど、せめて事情くらい――」
通信が切れた。耳元に残ったのは、無情な電子音だけだった。士道はしばらく虚空を見つめたあと、ゆっくりと魔幽へ視線を戻した。魔幽はというと、どこか楽しそうに目を細めていた。
「へえ。なるほどねえ」
「……お前、何をした?」
「何も?」
「本当か?」
「本当だよ。ボクはただ、彼女の願いを少しだけ覗いただけだから」
士道の表情が凍りついた。
「……願い?」
「うん」
魔幽は人差し指を立てた。
「人間って、面白いよね。表向きにはいろいろなことを言うくせに、心の奥底では別のことを願っているんだもの」
赤い瞳が、楽しげに細められる。
「たとえば、怒っている人間が本当は悲しんでいたり。誰かを守りたい人間が、本当は自分のことも守ってほしいと思っていたり。平気な顔をしている人間が、誰にも気づかれないところで、ずっと助けを求めていたり」
魔幽は、まるで秘密を打ち明けるように声を潜めた。
「人間って、自分の願いにさえ、嘘をつくんだね」
士道は何も答えられなかった。それはただの感想だったのかもしれない。しかし、妙に胸の奥へ引っかかる言葉でもあった。
「君の妹さんもそうだったよ」
「琴里の……?」
「うん。あの子、すごく強いんだね」
魔幽の口元から、わずかに笑みが薄れた。
「自分の感情を押し殺して、他人のために頑張って、誰にも弱いところを見せない。自分が傷ついても、それを誰かに知られるくらいなら、平気なふりをする」
士道は黙って魔幽を見つめた。
「そうやって、自分の中にあるものを上手に隠している。でもね」
魔幽は小首を傾げた。
「隠しているからって、なくなるわけじゃないのにね」
その言葉に、士道は何も返せなかった。琴里のことを、彼はどれほど理解できているのだろう。妹としての琴里。司令官としての琴里。そして、そのどちらでもない、ひとりの少女としての琴里。
彼女が何を考え、何を恐れ、何を願っているのか。自分は、それを本当に理解しているのだろうか。いつもそばにいるはずなのに。家族であるはずなのに。知らないことが、あまりにも多い。
「……お前、本当に何者なんだ?」
士道の問いに、魔幽はきょとんとした。
「悪魔だよ?」
「それ以外で!」
「うーん……」
魔幽は顎に指を当て、考え込むような仕草をした。もっとも、その表情には深刻さの欠片もない。数秒ほど考えたあと、彼はまるで夕飯の献立を決めたかのような気軽さで口を開いた。
「人間の『願う』っていう行為……あるいは、その概念が人間の形をしているもの、かな?」
「……は?」
「人間って、願うでしょう? 何かを手に入れたいとか、何かを失いたくないとか。誰かにそばにいてほしいとか、誰かにいなくなってほしいとか」
魔幽は胸に手を当てた。
「そういう気持ちをいっぱい抱えて、人間は生きている。だったら、その『願う』っていう行為そのものに、もしも生き物の形が与えられたらどうなるんだろう?」
赤い瞳が、士道を真っすぐに見つめた。
「その答えが、ボクなんじゃないかな」
「……お前が?」
「うん。だから、ボクは君たち人間が願う限り、きっと存在している」
あまりにも突拍子のない話だった。けれど、魔幽の口調には冗談めいた響きこそあれ、嘘をついているような気配はなかった。そもそも、彼は自分自身の正体について、何かを隠そうとしているのだろうか。それすらも、士道にはわかったものではなかった。
「もっとも、ボクが本当に悪魔なのかどうかは、ボクにもわからないけどね!」
「自分でもわからないのかよ!」
「うん!」
堂々とした返事だった。士道は頭を抱えた。十香と出会って以来、常識というものが日に日に遠ざかっている気がする。精霊。空間震。天使。そして、今度は悪魔。もはや何が出てきても驚かない自信があった。
……いや、やっぱり嘘だ。悪魔はさすがに驚く。
「それで、魔幽。お前は何のためにここへ来たんだ?」
士道がそう尋ねると、魔幽はぴたりと動きを止めた。ほんの一瞬。先ほどまでの軽薄な笑みが、薄紙を一枚剥がすように消えた。
赤い瞳が、士道の奥にある何かを見透かすように細められる。
「……君に興味があったから」
「俺に?」
「そう。君は精霊を救うんでしょう?」
「ああ。できることなら、そうしたい」
「どうして?」
「どうしてって……」
士道は言葉に詰まった。改めて問われると、意外と難しい質問だった。精霊を救いたい。そう思ったのは、十香と出会ったからだ。彼女が自分と同じように笑い、悲しみ、誰かと一緒にいたいと願う少女だと知ったからだ。
危険だからといって、傷つけていい理由にはならない。人間とは違うからといって、理解しようとしなくていい理由にはならない。目の前で苦しんでいる人間がいるのなら、手を伸ばしたい。たとえ、それが世界を脅かす存在だとしても。
「……目の前で困っている人がいたら、助けたいと思うだろ?」
それが、士道の答えだった。あまりにも単純で、あまりにも曖昧で。けれど、彼にとっては、それ以上でもそれ以下でもない答えだった。
魔幽はしばらく士道を見つめていた。やがて。
「あはっ」
楽しそうに笑った。
「なるほどねえ。君はそういう人間なんだ」
「何がおかしいんだよ?」
「ううん。別に。ただ――」
魔幽はくるりと踵を返した。黒髪が、夕暮れの風に揺れる。その隙間から覗いた赤い瞳が、一瞬だけ、血のように鮮やかな色を帯びた。
「君がどこまで願いを叶えられるのか、見てみたくなっただけ」
「……魔幽?」
「だってさ」
魔幽は振り返った。その顔に浮かんでいたのは、無邪気な子供のような笑みだった。
「人間って、願いを叶えるためなら、どこまででも頑張れるんでしょう?」
士道は答えられなかった。その言葉に、何か得体の知れないものを感じたからだ。期待だろうか。好奇心だろうか。あるいは、もっと別の何か。目の前の少年は、まるで人間という生き物を観察するために、この世界へやって来たかのようだった。
そして、その観察対象がどんな結末を迎えようとも、きっと最後まで見届けるつもりなのだ。それが救済であれ、破滅であれ。
「じゃあ、しばらく君のそばにいることにするよ。よろしくね、士道くん!」
「ちょ、ちょっと待て! そばにいるって、どういう――」
「え? だって、君の周りには精霊がいっぱいいるんでしょう?」
魔幽は不思議そうに瞬きをした。
「だったら、悪魔がひとりくらい混ざっていてもいいじゃない?」
「よくないだろ!」
「えー、どうして?」
「どうしても何もあるか!」
「むう……人間って、案外心が狭いんだね」
「お前が自由すぎるんだよ!」
魔幽は不満そうに頬を膨らませた。その姿だけを見れば、どこにでもいる年頃の少年にしか見えない。しかし、士道はどうしても、その笑顔を額面どおりに受け取ることができなかった。
人間の願いを覗く。人間の願いそのものが、自分の存在理由だと語る。そして、精霊を救おうとする士道に興味を示す。それらが偶然の積み重ねだとは、どうしても思えなかった。そもそも、彼はなぜ士道のことを知っていたのだろう。なぜ精霊を救うという目的を知っているのだろう。
尋ねたいことは、いくらでもあった。だが、士道が口を開くよりも早く、魔幽がにっこりと笑った。
「ま、細かいことは気にしないでよ。これからよろしくね、士道くん!」
「いや、気にするだろ、普通……」
そんなやり取りを交わしながら、士道はまだ知らなかった。目の前にいる少年が、本当に悪魔なのか。それとも、人間が生み出した新たな精霊のような存在なのか。あるいは、そのどちらとも異なる、世界にとって未知の何かなのか。
ただひとつ、確ことがあるとすれば。彼が現れたことで、士道の日常は、またしても大きく変わろうとしていた。そして、その変化の中心にいる悪魔は、士道に背を向けたまま、誰にも聞こえない声で、そっと呟いた。
「――さて。君たちは、いったい何を望むのかな?」
世界は願いで満ちている。満たされない願いで。叶わなかった願いで。そして、叶ってしまった願いで。そのすべてを、悪魔は愛している。
善悪など関係ない。正義も、道徳も、倫理も関係ない。願いとは、人間が生きているという証明なのだから。そして、その願いが、いつか人間自身を滅ぼすほどに膨れ上がったとき、悪魔はきっと、笑うのだろう。
――だって、それこそが。自分の生まれた理由なのだから。
『――以上が、対象との接触に関する報告です』
フラクシナスの艦橋。大型モニターに映し出された少年の姿を、五河琴里は険しい表情で睨みつけていた。
黒髪。赤い瞳。外見上の年齢は、十代半ばから後半ほど。
五河士道との接触を確認。身元不明。戸籍情報なし。過去の目撃情報なし。精霊反応、確認できず。
その一方で、通常の人間として扱うには、不可解な点が多すぎた。空間震の発生を伴わずに出現したこと。精霊に関する情報を把握していること。そして、何よりも――
「……願いを覗いた、ね」
琴里は不機嫌そうに呟いた。対象の発言が事実ならば、極めて危険な能力である。単純な読心能力なのか。人間の深層心理に干渉する精神操作系の能力なのか。あるいは、本人が語ったとおり、人間の願望そのものに関係する未知の力なのか。
どれも現時点では仮説にすぎない。だが、どれが事実だったとしても、警戒する必要があることに変わりはなかった。
「令音。どう思う?」
琴里が隣に立つ女性へ視線を向ける。村雨令音は、いつもの眠たげな目でモニターを眺めていた。
「現段階では断定できないね。ただ、ひとつ気になる点がある」
「何よ?」
「彼が出現した際、周辺の観測機器に異常が発生している。空間震の反応はなかったにもかかわらず、極めて微弱な霊力に似た反応が一瞬だけ記録されているんだ」
琴里の眉が寄った。
「霊力……? 精霊なの?」
「わからない。少なくとも、既存の精霊のデータとは一致しないよ」
「じゃあ、未知の精霊という可能性は?」
「否定はできないね。ただ、彼の出現に空間震が伴わなかった点を考えると、従来の精霊と同じ存在だと判断するのは早計だと思う」
「……まさか、本当に悪魔だとでも言うつもり?」
「それは彼に聞いてみないとわからないことだね」
「冗談じゃないわよ」
琴里は深々と息を吐いた。これ以上、厄介事を増やさないでほしい。せっかく士道が十香を救い、これからは精霊の保護と調査を本格化させようとしているところなのだ。ここで正体不明の第三勢力が出現するなど、頭痛の種以外の何物でもない。しかも、その第三勢力は自称・悪魔。おまけに、士道のそばに居座るつもりらしい。
頭が痛い。本当に頭が痛い。
「……士道には、しばらく監視をつけるわ」
「対象にも?」
「当然よ。あいつが本当に悪魔なら、なおさらね」
琴里はモニターへ視線を戻した。画面の中では、魔幽が士道と何やら楽しそうに話している。その表情に、敵意らしいものは見当たらない。
しかし、だからといって安全だと判断するほど、琴里は楽観的ではなかった。人間に危害を加える意思がないことと、人間にとって危険な存在ではないことは、まったく別の話なのだから。そもそも、彼は自分が何者なのかさえ、はっきりとは理解していないようだった。自分の正体すら定かではない存在を、いったい何を基準に評価すればいいのか。
琴里は腕を組み、しばらく考え込んだ。
そのときだった。
モニターの中で、魔幽がふいに顔を上げた。まるで、こちらの視線に気づいたかのように。赤い瞳が、まっすぐにカメラを捉える。
そして。
にっこりと笑った。
『――やあ』
スピーカーから、少年の声が響いた。艦橋の空気が、一瞬で凍りついた。
「……は?」
琴里が間の抜けた声を漏らす。
『そこのお姉さん。聞こえている?』
なっ……!?』
『監視するのはいいけど、あんまり覗き見するのは感心しないなあ。女の子なんだから、もうちょっと恥じらいを持たないと』
「だ、誰が覗き見よ! これは正当な監視であって――!」
『あ、でも安心してね。ボク、君たちに危害を加えるつもりはないから』
魔幽は小首を傾げた。
『今のところは、ね?』
その瞬間、艦橋の空気がさらに冷え込んだ。冗談めかした声。無邪気な笑顔。けれど、最後の一言だけは、どうにも聞き流せなかった。
『今のところは』。
それは単なる悪ふざけなのか。それとも、彼にとっては本当に、今後の気分次第でしかないということなのか。
判断材料がない。判断材料がないこと自体が、何よりも厄介だった。
『それじゃあ、またね!』
映像が途切れた。艦橋に重い沈黙が落ちる。誰もが、しばらく言葉を失っていた。
やがて琴里は、震える手で通信機を握りしめた。
「……士道ォォォォッ!!」
その怒声は、艦内の隅々にまで響き渡ったという。
かくして。
精霊の次は、悪魔。世界の常識を少しずつ書き換えていく少年、悪乃魔幽。彼がもたらすものは、救済か。破滅か。それとも、人類がまだ知らない第三の結末か。
答えは、まだ誰にもわからない。
ただ。
ひとつだけ、彼自身は知っていた。
この世界には、願いがある。誰かに愛されたいという願い。誰かを守りたいという願い。失ったものを取り戻したいという願い。そして、他者のすべてを犠牲にしてでも、自分だけは幸福になりたいという願い。
美しいものも、醜いものも。正しいものも、間違っているものも。人間が胸の内に抱く願いは、決してひとつではない。それらは互いに絡み合い、ときに支え合い、ときにぶつかり合いながら、人間という存在を形作っている。
願いがある限り、渇きは消えない。ひとつの願いが叶えば、新たな願いが生まれる。満たされた心は、やがて別の何かを求め始める。そして、人間はその渇きを満たすために、再び願うのだ。何度でも。何度でも。何度でも。
その果てに何が待っているのか。神の祝福か。怪物への変貌か。それとも、取り返しのつかない破滅か。
悪魔には、そのどれもが等しく興味深かった。なぜなら、悪魔にとって願いとは、善悪を裁くためのものではないからだ。
願いとは、人間が生きているという証明。人間が人間であり続けるための、尽きることのない衝動。そして、自らの存在をこの世界につなぎ止める、唯一の根拠なのだから。
だからこそ。悪魔は、すべての願いを愛している。
たとえそれが、誰かを救う願いであっても。
たとえそれが、誰かを傷つける願いであっても。
たとえそれが、世界そのものを滅ぼす願いであっても。
善悪など関係ない。正義も、道徳も、倫理も関係ない。願いが生まれることそのものに、罪はないのだから。
――では、その願いを叶えるために何を犠牲にするのか。
その問いに、人間が答えを出せなくなったとき。願いが、願う者自身の手に負えないほど膨れ上がったとき。人間が自らの欲望を正当化するために、再び悪魔という存在を必要としたとき。
悪魔はきっと、笑うのだろう。無邪気に。楽しそうに。まるで、ずっと昔からその瞬間を待ち望んでいたかのように。
――だって、それこそが。自分の生まれた理由なのだから。
そして、悪乃魔幽はまだ知らない。
この世界には、願いを叶えることよりも、願いを諦めることよりも、はるかに難しいものがあるということを。
自分以外の誰かの願いを、自分の願いと同じように大切にすること。そのために、自分の願いを曲げること。それでもなお、誰かと共に生きること。
人間たちがその矛盾の中で何を選ぶのか。そして、願いそのものとして生まれた悪魔が、その選択を目の当たりにしたとき、何を思うのか。
それを知るのは、もう少し先の話である。
ただひとつ、確かなことがある。
願いがある限り、渇きは消えない。
そして、渇きが消えない限り。
悪魔は、決して滅びない。