精霊がいるなら悪魔がいたってよくない? 作:うぃっふぃ
早朝。
五河士道は、人生というものについてひとつの結論に達していた。
――厄介事というものは、どうやら連鎖するらしい。
「おはよう、士道くん!」
「……おはよう」
「わあ、朝から元気がないね! どうしたの? 昨日はよく眠れなかった?」
「誰のせいだと思ってんだ……」
自宅の玄関先。
そこには、黒髪に赤い瞳という、どう考えても一般的な高校生の枠には収まらない少年が立っていた。
悪乃魔幽(あくの・まゆう)。
自称・世界唯一の悪魔であり、人間の願いという概念そのものが形を得た存在。
昨日、突如として士道の前に現れた彼は、当然のような顔をして五河家の門前に居座っていた。
しかも、その手にはビニール袋が下げられている。
「はい、これ。朝ごはん!」
「……なんでお前が俺の家にいるんだ?」
「え? 士道くに会いに来たからだけど?」
「いや、そうじゃなくてだな……」
「それとも朝ごはんは自分で用意する派? だったらごめんね!」
「そこじゃない!」
士道はガシガシと頭をかき抱いた。
そもそも、なぜ住所を知っているのか。どうやってここまで来たのか。そして、なぜ初対面同然の相手にこれほど遠慮なく懐けるのか。
疑問を挙げればキリがない。だが、そのすべてを追及していては、学校に着く前に日が暮れてしまう。
「……いいか、魔幽。俺はこれから学校に行く。お前も来るのか?」
「うん!」
「即答かよ……」
「だって、士道くんのそばにいるって決めたからね!」
「誰が決めたんだ、誰が……」
深々とため息をつく。
もっとも、魔幽が同行すること自体は、必ずしも悪手ではないのかもしれない。
正体不明。能力不明。目的すらあやふや。
だが昨日、少なくともひとつだけわかったことがある。
魔幽は、人間に興味を持っている。
そしてその興味の中心には、人間が抱く「願い」がある。
ならば彼が近くにいることで、精霊について新しい手がかりが得られる可能性もあるのではないか――そんな淡い期待が、士道の胸の片隅にあった。
(……まあ、それ以上に不安のほうが大きいんだけどな)
「……とりあえず、行くぞ」
「はーい!」
こうして、五河士道の新しい朝は、昨日よりもさらに騒々しく始まったのだった。
*
同じ頃。
空中艦<フラクシナス>の艦橋では、五河琴里が不機嫌そうにチュッパチャプスを噛み砕いていた。
「それで? 士道は今、何をしているの」
『現在、対象とともに登校中です』
「対象じゃないわよ。あの自称・悪魔!」
琴里が吐き捨てる。
大型モニターには、並んで歩く士道と魔幽の姿が映し出されていた。困り果てた表情の士道に対し、魔幽は実に楽しそうに周囲を見回している。転校初日の生徒というより、観光地にやってきた異国の旅行者のようだった。
「……本当に、何なのよあいつは」
昨日から何度目になるかわからない呟き。
「既存の精霊とは異なる反応。空間震を伴わない出現。さらに、遠隔監視への干渉……」
村雨令音が手元の端末を操作しながら、淡々と告げる。
「少なくとも、普通の人間でないことだけは確実だね」
「そんなこと分かってるわよ」
「ただし、明確な敵対行動は確認されていない。士道に同行している目的も、現時点では不明だ」
「本人は『精霊に興味がある』とか言ってたんでしょ?」
「そうだね」
「……不気味ね」
琴里は目を細めた。
士道は精霊を救うために動いている。それは彼にしかできないことであり、だからこそ自分たちは全力で彼をバックアップしてきた。
だが、魔幽は異物だ。彼が士道の味方なのか、あるいはただの観察者なのか。判断がつかない以上、安易に懐へ入れるわけにはいかない。
「令音、引き続き監視をお願い。少しでも霊力に似た反応が出たらすぐに報告して」
「了解」
「それと、士道には余計な真似をしないよう釘を刺しておいて。あいつ、放っておくと誰彼構わず首を突っ込むんだから」
「それは君も同じだと思うけれど」
「……何か言った?」
「いいえ。何も」
令音はいつも通りの眠たげな顔でかわした。
琴里は不満げに鼻を鳴らし、再びモニターへ視線を戻す。
画面の中で、魔幽がふいにこちらを振り返った。
カメラのレンズ越しに視線が交差する。
そして――口の動きだけで、彼はこう告げた。
――『おはよう、お姉さん』
「…………」
琴里は無言のまま、手すりを握りつぶさんばかりの力で握りしめた。
「士道ォ……!」
艦橋に、低く不穏な声が響き渡った。
*
その日の昼休み。
士道は校舎裏のベンチに腰掛けていた。隣には、当然のように魔幽が収まっている。
「ねえ、士道くん」
「なんだ?」
「人間って、どうして学校に通うの?」
「どうしてって……勉強するためだろ」
「ふうん。じゃあ、勉強ができるようになれば、みんな幸せになれるの?」
「いや、そういうわけでもないけど……」
「じゃあ、何のために?」
「……何のため、か」
改めて問われると、答えに詰まる。
知識を得るため。将来のため。友人を作るため。人によって答えは千差万別だろう。
だが士道にとって学校とは、守るべき「当たり前の日常」そのものだった。精霊たちと関わるようになってから、その平凡な時間の尊さを、以前よりも強く実感するようになっている。
「……いろんなことを知って、いろんな人と出会って、自分が本当にやりたいことを見つけるため、かな」
「へえ」
魔幽は感心したように頷いた。
「じゃあ、士道くんは学校に来ることで、自分の『願い』を探しているんだね」
「いや、そんな大げさな話じゃ……」
「そうかな?」
魔幽はベンチの背もたれに体を預け、秋の澄んだ空を見上げた。
「人間って面白よね。生まれたときから願いを持っているのに、自分が何を願っているのか分からなくなっちゃうことがある」
「……それは、そうかもしれないな」
「それに、願いが分かったところで、それを叶える術を持たないこともある」
不意に、赤い瞳が士道を射抜いた。
「ねえ、士道くん。もしも君が誰かを救うことで、別の誰かが傷つくとしたら……君はどうする?」
「……え?」
「ひとりを救うために、ひとりを犠牲にしなきゃいけない。そんなとき、君はどっちを選ぶの?」
唐突で、あまりにも重い問いかけ。
だが、魔幽の表情に冗談めかした色は一切なかった。
「……そんなの、わからないよ」
士道は素直に首を振った。
「実際にその場に立ってみなきゃ……どうするかなんて、答えられない」
「そっか」
魔幽はあっさりと頷いた。
「でも君はきっと、どっちも助けようとするんだろうね」
「……どうしてそう思うんだ?」
「だって、君はそういう人間だから」
魔幽は無邪気に笑ってみせた。
「自分がどれだけボロボロになっても、誰かを見捨てるのが嫌なんでしょう?」
士道は返す言葉を失った。
それは、彼自身が自覚している自分の歪みそのものだったからだ。
誰かが困っているなら、手を伸ばしたい。誰かが泣いているなら、その涙を拭いたい。
たとえその相手が、世界を滅ぼしかねない精霊であったとしても。
「……まあ、できることならな」
「うん。いいと思うよ」
魔幽は楽しそうに微笑んだ。
先ほどまでの哲学的な重圧は消え去り、ただの無邪気な少年に戻っている。
だが、その直後――。
『――士道! 聞こえる!?』
耳元の通信機から、琴里の切迫した声が鼓膜を叩いた。
「うわっ!? 琴里!?」
『緊急事態よ! 市街地に空間震の発生予測が出たわ!』
「空間震……!?」
士道は弾かれたように立ち上がった。
精霊の現界に伴う災害。だが、今回の琴里の声には普段以上の緊張が走っていた。
『今回は発生源の特定が遅れているの! それに、ASTの部隊がすでに出動しているわ!』
「ASTが……!?」
『士道、すぐに現場から離れて! いい? 絶対に無茶はしないで!』
「わかった!」
通信が途切れる。士道が駆け出そうとした瞬間、肩をちょんちょんと叩かれた。
「ねえ、士道くん」
「悪い魔幽! 今はちょっと――」
「うん。わかってるよ」
魔幽は校舎の向こう、市街地の方角を見つめていた。その赤い瞳から無邪気さが完全に削ぎ落とされている。
「……あっちだね」
「え?」
「空気がざわざわしてる。怖い、嫌だ、逃げたい、守りたい……いろんな願いが、ひとつの場所に集まってる」
魔幽は低く呟いた。
「その中に、ひときわ強い願いがある」
「それって……精霊なのか!?」
「さあ。どうだろうね」
曖昧な返事を残し、魔幽はすでに走り出していた。
「ちょ、ちょっと待て! どこへ行くんだ!?」
「見に行くんだよ!」
「危ないぞ!」
「うん。だから士道くんは安全なところにいてね!」
「お前こそ――!」
呼び止める士道を振り返り、魔幽はいたずらっぽく笑った。
「大丈夫。ボク、悪魔だから!」
そのまま、風のように走り去っていく。
「……ああ、もうっ!」
士道は一瞬だけ逡巡し、すぐさまその背中を追った。
危険だと分かっていても、放っておくことなどできない。それが五河士道という男だった。
*
市街地の外れ。
立ち並ぶ建物の合間をぬって現場へ辿り着いた士道は、凄惨な異光景を目撃した。
上空に舞う複数の人影。白を基調とした装甲服(ワイヤリング・スーツ)を纏い、背部ユニットを噴射させる対精霊部隊――AST。
隊員たちは一列に展開し、路地の奥へ向けて一斉に各種火器を構えていた。
「目標を確認! 射撃姿勢に入れ!」
「周辺住民の避難完了! 攻撃を開始する!」
「待ってくれ!」
士道は飛び出し、叫んだ。隊員たちの視線が一斉に突き刺さる。
「一般人!? なぜこんな所に!」
「そこにいるのは精霊なのか!? だったら話を聞かせてくれ! その子は何も――」
「下がれ! ここは戦闘区域だ!」
会話の余地など皆無だった。
ASTにとって精霊は害悪であり、駆逐すべき対象でしかない。彼女たちは人類を守るという義務感のもとで引き金を引くのだ。
だが、士道は知っている。精霊にも心があり、願いがあることを。
「お願いだ、まずは対話を――」
「問答無用! 目標を排除する!」
隊員の一人が容赦なく引き金を引いた。
魔導リアクターから放たれた高出力の光弾が、空気を引き裂く。
その刹那。
「――魔幽!?」
士道の前に、影が躍り出た。
閃光。轟音。
直後、魔幽の身体が大きくのけぞる。
肉が弾ける嫌な音が響き、彼の腹部を光の弾丸が容易く貫通した。
「……え?」
士道の思考が凍りつく。
魔幽は二歩、三歩とよろめき、血に染まる腹部を押さえた。そのまま糸の切れた人形のように、アスファルトの上へ崩れ落ちる。
「魔幽――ッ!!」
悲鳴を上げて駆け寄ろうとする士道。しかし、上空のAST隊員の声がそれを制した。
「命中を確認! 生命反応を観測しろ!」
「待って……! 今の、精霊じゃないわ! 見た目は人間の子供で――」
「何を言っている! あの反応は明らかに――」
「違うの、見ればわかるでしょ!?」
若手隊員の叫びが焦燥に震える。
「今の攻撃、直撃したのよ!? それなのに……霊力反応が……!」
士道は魔幽の傍らに膝をついた。
「おい、魔幽! しっかりしろ! おい……!」
応答はない。傷口から溢れ出る鮮血が、地面を赤く染めていく。
昨日まであれほど楽しそうに笑っていた少年が。人間の願いについて語っていた存在が。目の前で物言わぬ肉塊へと変わり果てようとしている。
「……なんでだよ」
士道は歯を喰いしばり、拳を握りしめた。
「なんで……こんな……!」
自分が連れてきたわけではない。戦いを望んだわけでもない。
それでも、目の前で誰かが傷つき、死んでいくのを止められなかったという絶望が、胸を苦しく締め付ける。
「魔幽……!」
その時だった。
ぽたり、と。
魔幽の傷口から、黒い雫が滴り落ちた。
血ではない。それは煙のように揺らめく、実体を持たない「闇」だった。
次の瞬間、傷口から泥状の黒い瘴気が噴出し、魔幽の全身を包み込んだ。
「……な……っ!?」
士道は息を飲んだ。
瘴気は生き物のようにうごめき、弾け飛んだ制服の隙間を埋めていく。
肉体が再生する。
断ち切られた内臓が粘着質な音を立てて結合し、流出した血が逆流するように体内へ戻る。皮膚の傷痕すら、黒い霧に呑まれて瞬く間に消失した。
わずか数秒。
あまりにも異常な再生現象。
魔幽は何事もなかったかのように、ゆっくりと立ち上がった。
「……ふう」
彼は制服についた埃をパンパンと払い、自分の腹を軽く叩いた。
「びっくりしたあ。いきなり撃ってくるなんてひどいなあ」
「…………」
士道は開いた口が塞がらなかった。
それは上空のASTも同様だった。致命傷だった。確実に死んでいるはずだった。
それなのに少年は傷ひとつなく立っている。服に穿たれた穴を除けば、何の変化もない。
「……そんな、馬鹿な……」
隊員の一人が戦慄の声を漏らす。
「直撃したのよ……! 確かに貫通したのに……!」
「霊力反応が変質している! でも、これは……!」
照準器を覗き込む隊員の指が震える。
「既存の精霊と違う! こんな波形、見たことがない……!」
魔幽はきょとんとした顔で空を見上げ、それから、にっこりと微笑んだ。
「だって、悪魔だからね」
あまりにも軽薄な響き。
だが、その言葉が発せられた瞬間、周囲の空間の「質」が一変した。
魔幽の足元から、底なしの黒い影が広がり始める。
それは物理的な影ではない。空間を侵食し、光を塗りつぶしながら伸びていく純粋な闇。
その中心で、少年の赤い瞳が妖しく細められた。
「……さて」
魔幽は小さく首を傾げた。
「君たちは、どうしてボクを撃ったのかな?」
「な……!?」
「ボクが危険だから? 人間じゃないから? それとも、君たちが倒すべき敵だと判断したから?」
声はどこまでも穏やかだった。怒りも、憎しみも、殺気すらない。
ただ純粋に、知的好奇心から理由を問いかけている。
「まあ、どれでもいいんだけどね」
魔幽は両手をふわりと広げた。
「でも君たちは、少しだけ勘違いしているみたいだ」
足元の瘴気が渦を巻き、激しさを増す。
「ボクは、君たちを殺したいわけじゃない」
士道はハッと顔を上げた。魔幽の表情には、相変わらず柔らかな笑みが浮かんでいる。
「ただ――君たちの『願い』が、ちょっとだけ気になるんだ」
「願い……?」
「うん」
魔幽はASTの隊員たちを一人一人見つめた。
「人間を守りたい。精霊を倒したい。仲間を守りたい。己の正しさを証明したい。あるいは……恐ろしいものを前にして、何もできない自分になりたくない」
見透かすような赤い光。
「いろんな願いがあるよね」
隊員たちの顔が強張る。
「な、何を言っている……!」
「でもね」
魔幽はふっと笑った。
「願いを抱いているからって、いつでも自分の思い通りにできるわけじゃないんだよ」
彼が片手を掲げた。
その指先に、黒い光が灯る。光と呼ぶにはあまりに暗く、周囲の色彩を吸い上げて胸の奥に狂おしい渇きをもたらす、異質の輝き。
魔幽の唇が、滑らかに紡がれる。
「――満たされぬ者よ、耳を澄ませ」
その声は重低音となって空気を揺らした。
「手を伸ばしても届かぬもの。掴んだはずなのに零れ落ちるもの。叶えたはずなのに、なお胸の奥を蝕むもの」
黒い輝きが、波紋のように広がっていく。
「愛を求め、承認を求め、明日を求めて人は願う。願いは希望となり、希望は渇きとなり、渇きはやがて……己を喰らう牙となる」
士道は息をすることさえ忘れていた。
声自体はいつもの魔幽のものだ。なのに、今の言葉には世界の底から響くような果てしない深淵が宿っていた。
「満たされぬ心よ。届かぬ願いよ。己が欲するものを、己が望むままに得られると信じた者たちよ」
魔幽の瞳が、爛々と輝く。
「その『渇き』を、ボクに見せてごらん」
静かなる宣告。
「――《渇望の権能》」
瞬間。
世界からすべての音が消失した。
*
異変は、まずASTの装備に現れた。
「……っ!? 何これ……!?」
隊員たちの耳元で、絶え間ない警告音が鳴り響く。コンバットドレスのディスプレイが狂ったように明滅し、見たこともないエラーコードが埋め尽くしていく。
「武装システム全般に異常発生! 出力が上がらない!」
「飛行ユニットの制御が……! 姿勢制御(スラスター)が死んだ!?」
「霊力供給ラインが遮断されました! ダメ、動かない!」
必死にコンソールを操作する隊員たち。
だが、どれほどキーを叩こうと、システムは一切の反応を示さない。
銃口から充填されていた光が霧散する。
砲身を覆っていた装甲が黒い斑点に侵食され、まるで何十年も放置された廃墟のように亀裂が走り、錆びついていく。
破壊されたのではない。
機能が停止したわけでもない。
ただ――その兵器が存在するための「戦う理由(目的)」そのものが、根こそぎ奪い去られたかのように。
魔幽はその光景を、観察者の目で見つめていた。
「うん、なるほどね」
実験結果に満足したような、軽い口調。
「君たちの本当の願いは、『武器を持つこと』じゃない」
魔幽の視線が、ひとりの隊員に注がれる。
「君たちが真に望んでいるのは『敵を倒すこと』であり、『大切なものを守り抜くこと』だ」
隊員の握る銃が、黒い霧となって指の隙間から崩れ落ちた。
「だから、その願いを叶えるための手段(おもちゃ)を、少しだけ不全にしてみたんだ」
「ふざけるな……!」
隊員が歯を剥き出しにして叫ぶ。
「こんな真似をして、何が目的だ!!」
「うーん……」
魔幽は首をかしげた。
「君たちがボクを撃たなくなれば、それで十分かな?」
「……っ!」
「それに」
魔幽がパチンと指を鳴らした。
それだけで、上空で浮力を失っていた隊員たちの背部ユニットが、完全に沈黙した。
「君たち、飛ぶのは得意みたいだけど、落ちるのは下手くそでしょ?」
「なっ――!?」
重力に引かれ、墜落していく隊員たち。
しかし、地面へ激突する寸前――周囲に漂っていた黒い瘴気が柔らかなクッションとなって彼女たちの身体を包み込んだ。
ゆっくりと、まるで見えない手に抱き抱えられるように。
隊員たちは一人残らず、安全に地面へと着地させられた。
全員、意識はある。怪我もない。
だが、コンバットドレスは沈黙し、武器は塵と化した。戦闘能力だけが、完璧に無力化されていた。
「……無力化……されたの……?」
誰かが呆然と呟いた。
魔幽は満足そうに頷く。
「うん。これでおしまい!」
威圧感は綺麗に霧散し、いつもの明るい声が戻っていた。
黒い瘴気が彼の身体へと収束し、影も元通りになる。
あとに残されたのは、沈黙した武装と、地面にへたり込むASTの隊員たちだけだった。
*
「……魔幽」
士道は搾り出すように声をかけた。
「お前……今の力は……」
「ん?」
魔幽が振り返る。
「どうしたの、士道くん?」
「どうしたの、じゃないだろ! お前、お腹撃ち抜かれたんだぞ!?」
「うん。痛かったよ?」
「痛かったよ、じゃない!」
「でも、もう治ったし!」
「そういう問題じゃない!!」
士道は頭を抱えた。
目の前で起きた現象が理解の枠組みを超えている。
致命傷からの完全再生。そしてASTの全武装を一瞬で概念ごと無力化する力。
これが精霊の力なのか。それとも、彼が口にする「悪魔」の力なのか。
「……お前、どうしてあいつらを殺さなかったんだ?」
ふと、士道は問いかけていた。
魔幽はパチクリと目を瞬かせる。
「どうして?」
「だって……あれだけの力があれば、反撃して全員倒すことだってできたはずだ」
「うん。そうだね」
魔幽はあっさりと認めた。
「でも、殺す必要なんてないでしょう?」
「……!」
「ボクはあの人たちを恨んでいないし。あの人たちにだって、願いがあるんだもの」
魔幽の視線が、呆然とする隊員たちに向けられる。
「人間を守りたい。精霊を倒したい。大切なものを失いたくない。そういう願いがあるから、あの人たちは戦っている。……なら、その願いを持っていること自体を、ボクが否定する理由にはならないよ」
当たり前の真理を語るような口調。
「願いがあることは、悪いことじゃないからね」
士道は言葉を失い、魔幽を見つめ続けた。
圧倒的な脅威を見せつけた直後の言葉とは思えないほど、それは穏やかで、澄んでいた。
この少年は、どこまで人間を解しているのだろうか。
願いを知り、それを利用し、力で屈服させることすらできる。それなのに、彼は願いそのものを決して蔑まない。善悪の彼岸で、ただあるがままを受け入れている。
それは慈悲なのか。それとも、果てしない無関心なのか。
「……魔幽」
「なあに?」
「さっきは……ありがとう」
士道は深々と頭を下げた。
「俺ひとりじゃどうにもできなかった。お前がいなかったら、誰かが死んでいたかもしれない」
「えへへ、どういたしまして!」
嬉しそうに笑う魔幽。だが、彼はふと表情を和らげると、士道を見つめた。
「でもね、士道くん。君が『助けてほしい』って思ったから、ボクは手を貸したんだよ」
「……え?」
「君、さっきあの人たちに『話を聞いてほしい』って言ってたでしょう?」
「……あ」
「君は誰も傷つけたくなかった。精霊も、あの人たちも、両方救いたかった」
赤い瞳が、士道の内面を透かし見る。
「だからボクは、君の願いをお手伝いしたの。それだけだよ」
士道は胸を突かれた。
自分が抱いた無茶な願い。魔幽はそれを完璧に理解した上で、力を使ったのだ。手段があまりにも常軌を逸していたとはいえ。
「……お前、本当に不思議なやつだな」
「そうかな?」
「ああ」
「えへへ、よく言われる!」
「誰にだよ……」
士道が苦笑した、その時。
『士道! 応答しなさい! 今の異常反応は何なの!?』
通信機から琴里の雷鳴のような怒声が響いた。
「うわっ!? 琴里、聞こえてたのか!?」
『全部丸聞こえよ! 何なのあの黒い霧は! ASTの機能停止は何!? それにそいつ、今あからさまに腹部を穿たれたでしょうが!!』
「いや、それはその……」
『説明しなさい! 今すぐに!!』
助けを求めるように魔幽を見ると、彼は無邪気に手を振った。
「やあ、お姉さん! 今日も元気だね!」
『あんたは黙ってなさい!!』
「えー、ひどい!」
『士道、そいつを絶対に逃がさないで! 今すぐ<フラクシナス>で精密検査を――』
「待ってくれ琴里! まずは帰ってから話を――」
通信の向こうで、琴里が深く、重い息を吐き出す音がした。
『……いい? 士道。帰ったら覚悟しておきなさい』
ブツン、と通信が切れる。
「…………」
士道は天を仰いだ。
まだ昼過ぎだというのに、一週間分の寿命を縮めた気分だった。
「……帰りたくない」
「え? どうして?」
「お前のせいだよ!」
「あははっ!」
魔幽の乾いた笑い声が、静まり返った街に虚しく響き渡った。
*
夕方。五河家の居間。
腕を組み、仁王立ちする琴里の前に、士道と魔幽が並んで正座していた。
「……で?」
低い声。琴里の目が据わっている。
「説明してもらおうかしら」
「えっと……現場でASTと遭遇して……」
「それは見たわ」
「魔幽が俺をかばって……」
「腹を打ち抜かれたわね」
「で、傷が勝手に治って……」
「ASTの兵器を全部狂わせた」
「……はい」
「…………」
琴里は深々とこめかみを押さえた。
「……なんなのよ、一体」
「えへへ」
「褒めてない!」
速攻で一喝。琴里の額に青筋が浮かぶ。
「まず、あんた!」
「はい!」
「自分が何者なのか、順を追って説明しなさい!」
「悪魔です!」
「それはもう聞いた!」
「世界唯一の悪魔、悪乃魔幽くんです!」
「自己紹介の再放送を求めてるんじゃないの!」
士道が慌てて間に挟まる。
「ま、待てよ琴里! 魔幽は俺を助けてくれたんだ。それに、ASTの隊員たちも誰一人殺していない!」
「そんなことは分かってるわよ」
琴里は少しだけ声を落とした。
「でも士道。この子が今後も同じように理性的でいる保証がどこにあるの? 今日は武器を壊すだけで済んだけど、同じ力を使えば街一つを壊滅させることだってできるかもしれないのよ? 本人の思考も、能力の発動条件も、何一つ分かっていないの」
琴里の言い分は正論だった。
魔幽の存在はあまりにも不確定要素が多すぎる。彼自身ですら、己の能力の全貌を把握しているか怪しいのだ。
手放しで信用できるはずがない。司令官として、琴里の判断は極めて正しい。
「……分かってる。でも、魔幽は……」
「士道くん」
魔幽がそっと制した。
「無理にかばわなくてもいいよ」
「……え?」
「お姉さんが心配するのも当然だもの。ボクは君たちにとって『未知』なんだから」
魔幽は琴里へ視線を向けた。
「だから、警戒されるのは間違っていないよ」
「……ッ」
あっさりと認められ、琴里は言葉を詰まらせた。
「でもね」
魔幽は無垢な笑みを浮かべる。
「今日、士道くんの願いを手伝ったのは本当だよ。ボクは誰も殺していないし、これからも理由なく人を傷つけるつもりはないよ」
「……『理由があれば』傷つけるってこと?」
「うーん。そこは場合によるかな?」
「…………」
「だって、人間だってそうでしょ?」
魔幽は首を傾げた。
「大切なものを守るために戦うこともある。誰かを救うために別の誰かと敵対することもある。願いを叶えるために、誰かの願いを踏みにじることだってある」
赤き瞳が琴里を射抜く。
「それなのに、どうしてボクにだけ『絶対に間違えないこと』を求めるの?」
静まり返る居間。
琴里は反論の言葉を見失っていた。
魔幽の指摘は、核心を突いていたからだ。
人間自身が正しさを証明できないにもかかわらず、未知の存在にだけ完全な善性を求める。それは人間のエゴに過ぎない。
「……それでも」
琴里は絞り出すように言った。
「自分が何をしたのか、何をする可能性があるのか。それを自覚して選択することくらいは必要でしょ」
「……!」
「願いがあるからって何をしてもいいわけじゃない。自分の願いのために他人を踏みにじっていい理由にはならないの」
司令官としての、そして一人の人間としての誇りが込もった言葉。
「それが人間だろうと、精霊だろうと、悪魔だろうと関係ないわ」
魔幽はしばらく琴里を見つめていた。
やがて――。
「あはっ」
楽しそうに笑った。
「なるほどねえ。君、面白いことを言うんだね」
「……何よ」
「ううん。君の『願い』も、少し分かった気がしたから」
琴里の身体が強張る。
「……私の、願い?」
「うん」
魔幽は己の胸に手を当てた。
「君は、みんなを守りたいんだね。士道くんも、精霊も、<フラクシナス>のみんなも。自分の手が届く範囲のひとたちを、傷つけたくない」
「……ッ」
「でも守るためには、時に厳しい顔をしなきゃいけない。嫌われても、危険を止めなきゃいけない」
魔幽は慈しむように目を細めた。
「大変だね」
「……余計なお世話よ!」
琴里はプイッと顔を背けた。
その耳たぶが、ほんのりと赤くなっているのを士道は見逃さなかった。
魔幽はただ、嬉しそうに微笑んでいた。
*
士道が夜刀神十香に続き、四糸乃の霊力封印にも成功してから数日後。
来禅高校の2年4組は、朝からどこか浮足立っていた。
理由は明快。転校生が来るからだ。しかも二人同時に。
朝のホームルーム。担任の「タマちゃん」こと岡峰珠恵が教壇に立った。
「えーっと、今日は転校生を紹介しますよぉ。二人いるから、みんな仲良くしてあげてくださいねー」
教室が一気にざわめく。
「二人同時に!?」
「男子かな? 女子かな?」
期待に胸を膨らませるクラスメイトたちの中で、士道だけは胃のあたりに重い塊を感じていた。
予感があった。昨夜の琴里との会話が脳裏をよぎる。
――身元不明の魔幽を放置するのは危険だが、社会性を観察するためにも一定の監視下におく。
――ついては、手っ取り早く士道と同じ学校・クラスに編入させる。
権力を行使した力業の手続き。そして何より、その決定を聞いたときの魔幽の輝かんばかりの笑顔。
(頼むから……平和に終わってくれよ……)
士道の祈りは、扉が開くと同時にあっけなく打ち砕かれた。
「それじゃ、入ってきてくださーい」
ガラガラと扉が開き、最初に入ってきたのは一人の少女だった。
流れるような黒髪。淑やかな立ち振る舞い。そして、見る者を呑み込むような妖艶な微笑。
彼女は教壇の横に立つと、教室全体を見渡し、優雅にお辞儀をした。
「皆様、ごきげんよう」
鈴の鳴るような、甘く、どこか危険な響きを帯びた声。
「時崎狂三と申しますわ。以後、お見知りおきを。……あぁ、それと。わたくし、精霊ですのよ」
瞬間。
士道の背筋を、氷の刃で撫でられたような戦慄が駆け抜けた。
「精霊」という言葉そのものの衝撃。
だがそれ以上に、彼女から放たれる異質な気配。圧倒的な美しさの裏に隠された、 底知れぬ闇と狂気。
男子生徒たちが「うおお!」と歓声を上げる中で、士道だけが汗を流していた。
「それじゃあ、もう一人の方もどうぞー」
珠恵先生が呼びかける。
続いて教室へ入ってきたのは――小柄で華奢な、黒髪赤瞳の少年だった。
彼は教室に入るやいなや、ぱっと顔をほころばせた。
「はーい!」
教壇の前に立ち、元気に手を挙げる。
「悪乃魔幽です! よろしくね!」
…………。
教室が、妙な静寂に包まれた。
士道は顔を覆った。
知っていた。分かっていた。だが、現実になると頭が痛い。
「……魔幽、お前……」
小声で漏らす士道に、魔幽はにこりと手を振った。
「えへへ。今日から同じクラスだね、士道くん!」
「なんでお前がここにいるんだよ……!」
「え? 編入したから?」
「答えになってない!」
珠恵先生は二人のやり取りを不思議そうに見つつも、あっけらかんと指示を出した。
「時崎さんはあちらの空席へ。悪乃くんは五河くんの隣が空いているから、そこに座ってくださいね」
「はーい!」
魔幽が軽快な足取りで士道の隣の席へ向かう。
その途中――すれ違いざまに、時崎狂三がちらりと魔幽へ視線を向けた。
ほんの一瞬。
狂三の微笑みが、わずかに深くなる。
魔幽もまた、足を止めずに視線を返した。
赤い瞳と、狂三のオッドアイ(時計の文字盤を宿した左眼)が交差する。
言葉はない。挨拶もない。
ただ、互いの領域を確かめ合うような、息の詰まる視線の交錯。
そして魔幽は、何事もなかったかのように士道の隣へ腰を下ろした。
「ねえ、士道くん」
「……なんだよ」
「この学校、面白そうな人がいっぱいいるね!」
「……お前なあ」
士道は深々と溜息をついた。
転校生が二人。
一人は世界を脅かす危険な香りを纏った謎の精霊。
もう一人は、己を悪魔と称する規格外の存在。
その二人と、これから同じ日常を過ごすことになる。
頭痛の種が増えたどころの話ではない。士道は思考を放棄することにした。
一方、窓際の席に着いた狂三は、頬に手を添え、優雅に外を眺めながら静かに微笑んでいた。
時崎狂三。
その胸中に秘められた、途方もない「願い」を、まだ誰も知らない。
そして、悪乃魔幽。
人間の願いそのものから生まれたと騙る、正体不明の悪魔。
願いを叶える力を追う少年と、巨大な願いを背負って現れた少女。
二人がこの教室に集ったのは、果たして偶然か。
あるいは、この世界に満ちる無数の「願い」が手繰り寄せた引き寄せの糸なのか。
魔幽は窓の外、青く澄み渡る空を見上げた。
「……へえ」
誰にも聞こえないほどの小声。
赤い瞳が、妖しく細められる。
「君も、ずいぶんと大きくて……悲しい願いを抱えているんだね」
その言葉が誰に向けられたものなのか、知る者はまだいない。
だが、悪魔は笑っていた。
人間の願いが集まる場所。願いがぶつかり合い、誰かの希望が誰かの絶望へと変貌する場所。
そして、願いの果てに人間が何を選ぶのかを見届けられる特等席。
来禅高校。
そこは悪魔にとって、これ以上ないほど魅力的な観察孔だった。
――さて。
これからこの場所で、どんな願いが生まれるのだろう。
どんな願いが潰え、どんな願いが世界を塗り替えるのだろう。
そして最後に笑うのは、泣くのは、一体誰なのだろうか。
魔幽は、心底楽しそうに目を細めた。
「これからよろしくね、みんな!」
その声はどこまでも無邪気で、澄み切っていた。
まるで、この先に待つものが祝福に満ちた未来だけであると信じ切っているかのように。
けれど――願いはいつだって、光だけをもたらすわけではない。
時にそれは悲劇を呼び、憎しみを育て、人の心を二度と戻れない深淵へと引きずり落とす。
それでも人は願うのだ。
満たされないから。諦められないから。生きているから。
そして悪魔は、その滑稽で美しい営みを見つめ続ける。
そのすべてが、いつか自分の理解を超えていく日が来ることなど、まだ知る由もなく。
――悪魔と、時間を騙る少女。
二つの異物が揃ったその日から、五河士道の日常は完全に崩壊し、新たな混沌へと舵を切った。
そしてまだ誰も知らない。
この教室に集いし願いの中に、世界そのものの運命を狂わせる「種」が、確かに芽吹き始めていることを。