龍園クラスの眠れる修羅   作:かいさる

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第二話

 

 

翌日。朝のホームルームが始まるまで、まだわずかな猶予を残した教室。扉を荒々しく開け放ち、石崎大地が声を張り上げた。

 

「華洛! 悪い、ちょっといいか?」

 

窓際の席で参考書を捲っていた華洛幽星は、しなやかな指先で栞を挟み、静かに顔を上げる。

 

「はい。どうなさったのですか、石崎くん?」

 

「いや、昨日の数学なんだが……最後の問題がどうしても解けなくてさ」

 

石崎は手にしたノートを掲げ、困惑を滲ませて眉をひそめた。その表情には、解法が見出せない苛立ちと、他者に頼る気恥ずかしさが入り混じっている。もっとも彼の場合、後者は極めて薄い。

 

「教科書も参考書も読み返したんだが、途中からわけが分からなくなっちまって。なあ、少し教えてくれないか?」

 

「ええ、勿論です」

 

幽星は穏やかに微笑むと、机上を素早く整えた。

 

「一緒に考えてみましょう。どの段階で行き詰まってしまいましたか?」

 

「助かる!」

 

石崎の顔が瞬時に輝き、彼は遠慮なく隣の空席へ腰を下ろした。その無遠慮な挙動を少し離れた席から眺めていた伊吹澪が、呆れ混じりの息を吐き出す。

 

「石崎、あんた昨日も似たようなこと聞いてなかった?」

 

「うるせえ! 昨日と今日じゃ別の問題だろうが!」

 

「問題の形式が変わっても、あんたが根本を理解してないことに変わりないでしょ」

 

「なんだと、テメェ……!」

 

「お二人とも」

 

鈴を転がすような穏やかな声が、過熱しかけた歪みを制した。幽星が少し困ったように目元を緩めている。

 

「せっかくの爽やかな朝ですから、あまり声を荒らげてはいけませんよ。周りの方々の迷惑になってしまいますから」

 

「……おう」

 

「……分かったわよ」

 

二人は驚くほど素直に毒気を抜かれた。伊吹は言い負かされた不満を顔に滲ませつつも口を閉ざし、石崎に至っては口論の経緯すら頭から消し飛んでいる様子だった。

 

「で、華洛! ここなんだよ!」

 

「はい。では、まずは問題文の条件から確認しましょうか」

 

幽星は差し出されたノートを受け取り、視線を落とす。

 

わずか数秒。

 

それだけで問題の構造、陥りやすい罠、必要な公式、そして石崎がつまずいた論理の飛躍のすべてを把握した。彼女の視界には、すでに解法へと至る透明な道筋が見えている。

 

だが、幽星は即座に正解を差し出す真似はしない。

 

「石崎くん。この問題に取り組む際、まず最初に何を求めようとしましたか?」

 

「え? そりゃあ、とりあえず答えを……」

 

「ふふ、そうですね。ですが正解に辿り着くには、その前に整理すべき前提があります」

 

「前提?」

 

「ええ。与えられた条件の整理です。何が確定していて、何が未知なのか。それを可視化すれば、自ずと適用すべき公式は見えてきますよ」

 

幽星はノートの余白へ、簡潔かつ美しい図を滑らせるように書き込んだ。言葉の噛み砕き方、相手の理解度に応じた例えの提示、反芻の促し――その手腕は、熟練の教育者すら凌駕していた。

 

「……あっ!」

 

やがて、石崎の顔に雷撃が走ったようなひらめきが灯る。

 

「分かった! ここで先にこっちの値を導き出せばよかったのか!」

 

「はい。そこに自力で気づけたのなら、もう大丈夫ですね」

 

「すげえ、華洛! お前、教えるのがめちゃくちゃ上手いな!」

 

暗号の羅列に見えた数式が、鮮やかな一本の筋道として解き明かされた快感。石崎は心底感服した様子でノートを見つめている。

 

「そんなことはありませんよ。石崎くんが諦めずに思考を重ねた結果です。私はただ、道標を置いたに過ぎません」

 

「いやいや! 俺一人だったら絶対途中で投げ出してたぜ」

 

「まあ。それはいけませんね」

 

「あっ、いや、今のはその……!」

 

「ふふ、冗談ですよ」

 

幽星の愛らしい微笑に誘われ、石崎も破顔する。教室に和やかな空気が広がっていく中、頬杖をついた伊吹がぽつりと呟いた。

 

「……あんた、本当にお人好しね」

 

「そうでしょうか?」

 

「そうよ。こんな面倒な奴に、毎回付き合う必要なんてないでしょ」

 

「石崎くんは面倒な方ではありません。ただ、少し元気が良すぎるだけです」

 

「おい伊吹! 今俺のことバカにしただろ!」

 

「事実を言っただけよ」

 

「石崎くん」

 

「……はい」

 

「ノートの続き、最後まで解いてしまいましょうか」

 

「お、おう!」

 

再び素直に机に向かい直す石崎を見て、伊吹は呆れ果てたように肩をすくめた。

 

「……本当、調子が狂うわ」

 

伊吹は少しだけ目を細め、幽星の横顔を観察する。彼女に対して嫌悪感はない。むしろ好意的な部類だった。無駄な喧嘩を売らず、他者を見下さず、必要以上に干渉してこない。それでいて頼まれれば嫌な顔一つせず手を差し伸べる。表面上の彼女は、完璧な善人だった。

 

だからこそ、不気味だった。

 

華洛幽星は、相手が誰であれ態度が変わらない。騒々しい石崎にも、クラスを恐怖で統率する龍園翔にも、孤立を好む自分にも。怯えも媚びもなく、威圧も押しつけもない。

 

ただ、そこに当たり前に存在している。他者からの評価など、最初から意識の埒外にあるかのように。

 

そして何より――彼女は自分の過去を一切語らない。

 

「ねえ、華洛」

 

「はい?」

 

「……あんた、昔はどんな風に過ごしてたの?」

 

唐突な問いに、石崎も顔を上げた。

 

「おっ、確かに気になるな! 華洛って自分の話、全然しねえもんな」

 

悪意のない無邪気な好奇心。二人の視線が幽星に集まる。

 

幽星は一瞬だけ、睫毛を伏せた。

 

昔。その言葉が呼起するのは、温かな思い出などではない。

 

脳裏を掠めるのは、普通の子供が知る必要のない術理。他者の痛みを理解するより早く叩き込まれた、効率的に破滅をもたらす手法。死線を潜り抜けるための観察眼、思考の予測、間隙を突く鋭利な感覚。そして――その苛烈な日々の中で研ぎ澄まされた、不可解な衝動。

 

――ああ。

 

――あれも確かに、私の『日常』でしたね。

 

だが、それを露呈させる必要などどこにもない。

 

幽星は顔を上げ、過不足のない完璧な笑みを浮かべた。

 

「そうですね……勉強をして、本を読んで、時に身体を動かす。ごく普通の生活でしたよ」

 

「へえ、意外と普通なんだな」

 

「石崎、あんた失礼よ」

 

「なんでだよ!?」

 

「特別な何かを期待するような言い方でしょ」

 

「特別な生活、ですか……」

 

幽星はくすりと胸を揺らした。

 

「少なくとも、石崎くんが思い描くようなドラマチックなものではありませんよ」

 

それ以上、彼女が語ることはなかった。伊吹は幽星の瞳をじっと見つめていたが、やがて小さく息を吐いて視線を逸らした。

 

「……まあ、話したくないならいいけど」

 

「お気遣いありがとうございます、伊吹さん」

 

追及を諦めた二人を見送りながら、幽星は静かに笑みを深める。

 

誰も気づかない。彼女が語らなかった理由にも、彼女が言葉にした『普通』の異常性にも。そして、その微笑みの奥底に潜む、あまりにも異質な価値観にも。

 

その日の放課後。

 

静まり返り始めた教室の後方で、龍園翔は脚を組み、退屈そうにスマートフォンを操作していた。そこへ、満足げな顔をした石崎が近づいてくる。

 

「龍園さん、ちょっといいか?」

 

「……何だ」

 

視線を画面に向けたまま、短い返答。

 

「いや、華洛って結構すごいんだなって思ってさ。勉強を教えるのも上手いし、運動神経もいい。今日の数学も、あいつの説明を聞いたら一発で理解できたんだよ!」

 

「……お前が今まで頭を使ってこなかっただけだろ」

 

「うっ……それはそうかもしれねえけどよ! でもあいつ、頭も良くて人当たりも良くて、欠点が見当たらねえんだよな」

 

龍園は鼻で嘲笑した。

 

能力の有無など、龍園にとってさしたる問題ではない。重要なのは『何に使えるか』だけだ。

 

「使える能力があるなら使えばいい。それだけの話だろ。頭が良いなら試験の駒になり、運動ができるなら体力を要する場面で使え、愛想が良いなら交渉の盾になる」

 

龍園はスマートフォンをポケットに押し込み、鋭い眼光を石崎へ向けた。

 

「だが、能力があることと、勝利のために牙を研げるかどうかは別だ。本当に役に立つ奴かどうかは、盤上に放り込んでみなきゃ分からねえ」

 

「なるほど……さすが龍園さんだぜ!」

 

龍園の人間評価は極めて合理的だ。役に立つか、立たないか。従順か、反逆か。

 

華洛幽星という存在は、現時点では『優秀で害のない手駒』に過ぎない。余計な摩擦を起こさず、クラスの平均値を引き上げる存在。ならば、今あえて揺さぶる必要もない。

 

「まあ、あいつの本当の価値は特別試験が始まれば嫌でも分かる。使えるなら徹底的に利用するし、使えねえなら切り捨てて終わりだ」

 

「わかりやすいぜ!」

 

不敵に笑う龍園に、石崎は深く頷いた。龍園は己の『人間を見る目』に絶対の自信を持っている。恐怖、欲望、執着、保身――凡俗な人間が抱く醜悪な動機を見抜き、それを支配の糸として操る術に長けていたからだ。

 

だが、龍園はまだ知らない。

 

世界には、その物差しが一切通用しない狂気が存在することを。

 

利益や地位、あるいは恐怖による支配など意に介さず、ただ『己の内部にある衝動』に従って行動する異端が潜んでいることを。

 

「……まあいい。面白い奴なら、いずれボロを出す」

 

立ち上がる龍園の背中に、石崎が能天気に声をかける。

 

龍園の予測は半分だけ当たっていた。華洛幽星は、間違いなく『面白い』存在だ。ただし――彼が思い描くような意味合いでは、断じてなかった。

 

夜。学生寮の一室。

 

静寂が支配する部屋で、幽星は整然と並べられた参考書に向かい、今日の学習内容を淡々とノートへまとめていた。寸分の狂いもない正確な字並び。完璧なスケジュール管理。どこからどう見ても、理想的な優等生の姿がそこにあった。

 

最後の一行を書き終え、幽星はそっとペンを置く。

 

「……ふう」

 

白皙の首を軽く傾け、窓辺へと歩み寄る。漆黒のガラス窓に、自らの姿が映り込んでいた。柔らかな目元、可憐な唇、毒気のない穏やかな表情。

 

「平和ですねえ……」

 

吐息とともに漏れたのは、偽りのない本心だった。

 

この学校の構造は実に秀逸だ。表向きは自由を謳歌する楽園でありながら、裏ではポイントという数値によって人間の尊厳が天秤にかけられる。制度が欲望を揺さぶり、追い詰められた人間たちが疑心暗鬼に陥り、本性を剥き出しにして争い合う。

 

誰が裏切り、誰が足掻き、どのような醜悪な表情を見せるのか。それを観察するだけでも、それなりの娯楽にはなった。

 

「……けれど、やはりそれだけでは物足りませんわね」

 

ガラスに映る己の顔を見つめ、幽星は小さく微笑んだ。

 

彼女はこの『面』を気に入っている。他者を無警戒にさせ、懐に入り込み、容易に信頼を勝ち取るための完璧な仮面。困っている者を助け、穏やかに仲裁し、龍園の横暴にも従順なフリをする。そうしていれば、誰も彼女の深淵を覗こうとはしない。

 

「ふふっ……本当に、よくできていますわ」

 

その言葉が指すものが、完璧に作り込まれた自身の演技なのか、あるいは掌の上で転がされるクラスメイトたちなのかは、彼女にしか分からない。

 

他者に優しく接すること自体に嫌悪感はない。感謝されれば気分は悪くないし、日常の平穏も嫌いではなかった。

 

しかし――それだけで満たされるほど、彼女の精神は健全に作られてはいなかった。

 

指先でそっとガラスをなぞる。胸の奥底に燻り続ける、冷ややかな感触。

 

焦りでも怒りでもない。ただ延々と横たわる、底なしの退屈。

 

彼女が求めているのは、単なる刺激や目先の勝利などではない。己の予測を鮮やかに裏切る事象。理性を暴力的に揺さぶる試練。そして――自らの内側に眠る『修羅』を解放させるほどの激闘。

 

「さて……明日も良い一日になるとよろしいのですが」

 

カーテンを静かに引き閉める。

 

明日も彼女は、誰よりも優しく微笑むだろう。困った者に手を差し伸べ、聡明でお人好しな少女を完璧に演じきるだろう。

 

それでいい。彼女の真価を、今ここで明かす必要などどこにもないのだから。

 

龍園翔はまだ気づいていない。

 

自分が『使い勝手の良い手駒』として見定めている少女が、彼の掲げる勝利や支配という矮小な価値観を、どれほど冷ややかな目で見つめているのかを。

 

彼女にとって龍園は、退屈を紛らわせる玩具なのか。破滅へ導く標的なのか。それとも――牙を剥くに値する『敵』となり得るのか。

 

暗闇の中、彼女は静かにベッドへと横たわった。

 

――眠れる修羅は、今宵も穏やかな仮面を被り、静かにその時を待っている。

 

 

 

 

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