龍園クラスの眠れる修羅 作:かいさる
七月。
青い空を、白い雲がゆっくりと流れていた。
陽光を反射する海面は、宝石を散りばめたようにきらきらと輝いている。船首が波を割るたび、白い飛沫が生まれては消え、心地よい潮風が甲板を吹き抜けていった。
その海上を、一隻の大型クルーザーが進んでいた。
船体は白く、磨き上げられた甲板には高級感が漂っている。広々としたデッキ、整然と並んだ座席、ゆったりとくつろげる船内の設備。そのどれもが、これから始まる時間への期待を抱かせるものだった。
乗船しているのは、東京都高度育成高等学校の一年生たち。
彼らは現在、学校が用意した船で、とある無人島へと向かっていた。
目的は、バカンス。
少なくとも、生徒たちはそう聞かされていた。
「いやー、最高じゃねえか!」
Cクラスの石崎大地が、甲板の手すりに両手を置きながら声を上げた。
「学校の金でクルーザーに乗れて、しかも無人島で遊べるとか! こんなの、普通の学校じゃ絶対にできねえだろ!」
「石崎くん、あまり身を乗り出すと危ないですよ?」
その隣で、華洛幽星が穏やかに声をかけた。
長い髪が潮風に揺れる。
彼女は薄く微笑みながら、手すりから少し離れるように石崎を促した。
「あ、すんません。でも、テンション上がりません? こんな景色、なかなか見られないっすよ!」
「ふふ、確かにそうですね。とてもきれいです」
幽星は水平線へと視線を向けた。
どこまでも続く青。
海と空の境界は曖昧で、遠くには小さな船影さえ見当たらない。
風は穏やかで、波も比較的静かだった。
なるほど、確かにバカンスにはうってつけの天候だろう。
「華洛さんは、こういうの好きなんすか?」
「ええ。静かな場所は好きですよ」
「へえー! 意外っすね。なんか、華洛さんってもっとこう……おしゃれなカフェとか、高級なレストランとか、そういうところが好きそうなイメージがあるんすけど」
「そういう場所も嫌いではありませんよ。でも、自然の中で過ごす時間も素敵だと思います」
「なるほどなあ……」
石崎は感心したようにうなずいた。
「やっぱ華洛さんって、お嬢様っぽいっすよね」
「まあ。そんなことはありませんよ」
幽星は控えめに笑った。
「私も、皆さんと同じ高校生ですから」
「いやいや、そういうところっすよ!」
石崎が大げさに手を振る。
「俺だったら、こんな船に乗ったら騒ぎまくってると思うんすけど、華洛さんはずっと落ち着いてるし……。何か、育ちが違うって感じがするんすよね」
「ふふ。褒めても何も出ませんよ?」
「いや、別に何かもらおうと思ってるわけじゃないっす!」
そんな他愛のない会話を交わしながら、二人はしばらく海を眺めていた。
周囲には、同じように浮かれた様子の生徒たちがいる。
普段の学校生活では見られない開放的な表情。
クラスの垣根を越えて友人と話す者もいれば、船内の設備を見て回る者もいる。これから訪れる島で何をするか、どんな遊びを楽しむか、そんな話題があちこちから聞こえてきた。
誰もが、この旅行を楽しみにしていた。
そして、幽星もまた。
周囲から見れば、同じように旅行を楽しんでいる少女にしか見えなかった。
「華洛」
不意に、背後から声がした。
振り返ると、龍園翔が数人のクラスメイトを引き連れて歩いてきていた。
両手をポケットに突っ込み、周囲の景色にもさほど興味を示していない。
まるで、この程度の旅行など大したことではないと言わんばかりの態度だった。
「龍園くん。どうかしましたか?」
「別に。お前らが何を話してるのか、少し気になっただけだ」
「島に着いたら何をしようか、という話をしていたんです」
「へえ」
龍園は興味なさそうに相槌を打った。
「で、何をするつもりなんだ?」
「そうですね……。せっかくですから、島を散策してみたいです。珍しい植物や景色もあるかもしれませんし」
「散策ねえ」
龍園は鼻で笑った。
「お前らしいっちゃ、お前らしいな」
「そうでしょうか?」
「そうだろ。お前は何をやらせても、優等生らしい答えしか返してこねえ」
「まあ。困りましたね」
幽星は、少しも困っていないような顔で微笑んだ。
「龍園くんは、何か楽しみにしていることはありますか?」
「俺か?」
「あ、俺も気になるっす!」
石崎が横から口を挟んだ。
「龍園さんなら、何か面白いことを考えてそうじゃないっすか!」
「面白いこと、ねえ……」
龍園は、遠くの水平線へ目を向けた。
「さあな。着いてから考えりゃいいだろ」
「えー、そんな適当な!」
「うるせえ。旅行なんざ、楽しけりゃそれでいいんだよ」
「おお! さすが龍園さん!」
石崎が感心したように声を上げる。
幽星は、そのやり取りを静かに眺めていた。
(楽しければ、それでいい……ね)
(ふふ。あなたの場合、きっと少し意味が違うのでしょうけれど)
もちろん、口にはしない。
龍園翔という男は、単純に見えて、どこか捉えどころがない。
何を考えているのか分からない瞬間がある。
けれど、今の幽星には、それを深く追及する理由もなかった。
彼女はただ、クラスメイトの一人として、彼と会話をしている。
それだけで十分だった。
「おい、龍園」
別の声が割って入った。
振り返ると、伊吹澪がデッキの出入口付近に立っていた。
「いつまでこんなところで油売ってんのよ。あんた、さっきからずっとふらふらしてるじゃない」
「お前こそ、何をそんなにイライラしてやがる」
「別に。あんたの顔を見てると、なんとなく腹が立つだけ」
「はっ、そりゃ結構だ」
龍園は愉快そうに笑った。
伊吹は露骨に顔をしかめる。
その様子を見ていた石崎が、困ったように頭をかいた。
「伊吹、せっかくの旅行なんだから、もうちょっと楽しもうぜ……」
「うるさいわね。私は楽しんでるわよ」
「どこが!?」
「少なくとも、あんたみたいに騒いではいないわ」
「ひでえ!」
幽星は思わず小さく笑った。
「ふふ。皆さん、仲がよろしいですね」
「どこがよ」
伊吹が即座に返す。
「そうっすよ! 俺、今めちゃくちゃ傷ついたんすけど!」
「それは大変ですね、石崎くん」
「華洛さんまで!?」
賑やかな笑い声が、潮風に乗って広がっていく。
その光景は、どこにでもある学生たちの旅行風景だった。
龍園も、伊吹も、石崎も。
そして幽星も。
この瞬間だけを切り取るなら、誰もがこれから始まる休暇を楽しみにしている、普通の高校生に見えただろう。
ただ一人、龍園だけは。
海の向こうを眺めるその目に、どこか別の色を宿していた。
◇
「ねえねえ、島に着いたら何する?」
「やっぱり海で泳ぐんじゃない?」
「でも、無人島なんでしょ? 砂浜とか、きれいなのかな?」
「そりゃ、きれいでしょ! わざわざ学校が用意したんだし!」
船内のラウンジでは、女子生徒たちが楽しそうに話していた。
テーブルの上には飲み物や軽食が並び、窓の向こうにはどこまでも広がる海が見える。
普段の教室とは違う、開放的な空間。
誰もが、学校生活から少し離れた非日常を満喫していた。
幽星もその輪の中にいた。
「華洛さんは、何をする予定?」
友人の一人が尋ねる。
「私は、まず島を見て回りたいですね。どんなところなのか、少し気になりますから」
「やっぱり散策なんだ!」
「はい。あとは、皆さんと一緒に過ごせれば十分です」
「華洛さんって、本当に優しいよねえ」
「そうでしょうか?」
「そうだよ! いつも周りのことを気にかけてるし、話しやすいし!」
「ありがとうございます。そう言っていただけるとうれしいです」
幽星は、柔らかな笑顔を浮かべた。
その笑顔に、嘘はない。
誰かが喜ぶことを、彼女は嫌っていなかった。
誰かの話を聞くことも、誰かに頼られることも。
それらは、彼女が人間社会で生きていくうえで、自然に身につけたものだった。
ただし。
彼女の内側にあるものを、それらだけで説明することはできない。
「ねえ、華洛さん」
「はい?」
「もし島にすごく珍しい動物とかいたら、どうする?」
「そうですね……。驚くと思います」
「それだけ?」
「ふふ。もちろん、危険がないか確認してから、少し離れて観察したいですね」
「なんか、華洛さんらしい!」
女子生徒たちが笑う。
幽星も一緒に笑った。
(珍しい動物、ね)
(人間という生き物のほうが、よほど興味深いと思うけれど)
彼女は、窓の外へ視線を向けた。
波が船体にぶつかり、白い泡となって流れていく。
その向こうには、まだ見えない島がある。
どんな場所なのだろう。
どんな景色が待っているのだろう。
そして、そこではどんなことが起こるのだろう。
普通の生徒なら、そんな期待を抱くのかもしれない。
幽星も、同じようなことを考えていた。
ただし、彼女の期待は、少しだけ違っていた。
(何も起こらなければ、それはそれで構わないわ)
(けれど……)
(もし、この旅が退屈なだけでは終わらないのなら)
彼女は、ほんのわずかに目を細めた。
(それも、悪くないわね)
「華洛さん?」
「あら。どうしました?」
「何だか、楽しそうな顔してたから」
「そうですか? きっと、島に着くのが楽しみなんですね」
「ふふっ、そういうことにしておくね!」
女子生徒は笑った。
幽星も微笑み返す。
その表情は、どこまでも自然だった。
誰にも疑われない。
誰にも見抜かれない。
彼女は、今日も完璧に自分を隠していた。