ひとりの少女が、山道の脇に座り込んで泣いていた。
「痛いよ……沈兄……お兄ちゃん、どこ……?」
擦りむいた膝から血が滲んでいる。瞬光は涙を拭うことも忘れ、心細そうに辺りを見回していた。
「
聞き慣れた声に、瞬光が勢いよく顔を上げる。
「やっと見つけた……!大丈夫か、瞬光?」
「沈兄……!」
駆け寄ってきた少年の姿を見た途端、瞬光の顔がくしゃりと歪んだ。
「お、おい。泣くなって。……膝、怪我したのか」
沈衡は瞬光の前にしゃがみ込んで傷を確かめると、いつものように彼女の肩へ手を置いた。
「ほら、いつものおまじない!」
瞬光も涙を拭いながら、沈衡の顔を見る。
『いたいのはんぶんこ!』
二人の声が重なった。
「これで痛いの、我慢できるか?」
「……うん!できる!」
「よし。じゃあ、ほら。背中掴まって」
沈衡が背を向けると、瞬光は嬉しそうにしがみついた。
「ありがとう、沈兄……!」
「いいって。ほんと瞬光は、俺がいないと駄目だな!」
「そんなことないもん!」
「はいはい」
「ほんとだもん!」
そんな言い合いをしながら、二人は笑って山道を帰っていった。
◇
ジリリリリ――。
枕元の目覚ましが、けたたましい音を立てる。
「……懐かしい夢見たな」
手を伸ばしてアラームを止め、俺はしばらく天井を眺めていた。
俺は
……とは言っても、剣術も術法もからっきし。俺より後から入門してきた弟子たちにも、とっくに追い抜かれている。それでも何もしていないわけじゃない。師匠が教えてくれた通り、自分にしかできないこと、自分がやるべきことをずっと探してきた。
顔を洗って着替えると、まだ静かな廊下へ出た。みんなが起きてくる前に、まずは掃除。廊下を掃いて、雑巾をかけ、それが終われば今度は洗濯物を集める。昔から掃除や洗濯ばかりやってきたせいか、この二つだけは人並み以上にできる。剣を握っている時間より、箒や洗濯籠を持っている時間の方が長いんじゃないかと思うくらいだ。
「沈衡、今日も精が出るな」
後ろから声をかけられ、振り返る。
「宗主!おはようございます!」
そこにいたのは、雲嶽山第十三代宗主――
「朝から元気だな。少しくらい他の者に任せても罰は当たらんぞ」
「俺にはこれくらいしかできませんから!」
いつもの調子で笑って返す。
その時だった。
「おい、あいつまた宗主に媚び売ってるぜ」
「術法も剣術もダメダメなのに、よくやるよな」
近くを通った二人の門弟が、わざとこちらに聞こえるような声で笑っていく。
別に気にするほどのことじゃない。術法もできず、剣だって後から入ってきた連中に抜かれている。そんなことは、俺が一番よく分かっていた。
「……」
隣にいた宗主が二人へひと睨みを利かせる。
さっきまで笑っていた二人は途端に口を閉ざし、そそくさと廊下の向こうへ消えていった。
「……ふん」
宗主は面白くなさそうに鼻を鳴らすと、腕を組み直して俺を見る。
「沈衡。お前さん、本当にこのままでいいのか?」
「何がです?」
「お前さんさえよければ、いつでも私の門下へ移してやれる。姉様の弟子だったことが消えるわけでもない」
たぶん、さっきの二人のことも気にしてくれているんだろう。ありがたい話だったが、答えはずっと前から決まっている。
「宗主……ありがとうございます。俺のこと、気にしてくれて」
一度頭を下げてから、顔を上げる。
「でも、俺の師匠は
宗主はしばらく俺を見つめていた。やがて、それ以上は何も言わず、小さく息を吐く。
「……そうか」
その顔は、どこか悲しそうだった。もしかしたら、昔のことをまだ気にしているのかもしれない。
俺はもう、気にしてないのに。
ふと時計を見ると、そろそろいい時間になっていた。
「すいません、宗主。俺、そろそろ朝飯の準備に行ってきます」
「……ああ」
宗主はそれ以上引き止めず、俺が離れるまでその顔にはどこか寂しそうな色が残っていた。
◇
台所へ向かうと、すでに
「おはよう、潘」
声をかけると、大きな体がこちらへ向く。
「おお、兄弟子!おはよう!今日はちょいと遅かったな」
「だから、俺は兄弟子じゃ……」
「おれより先に入門してるなら、兄弟子だろう!」
「そうだけど……」
俺は儀降さんの弟子で、潘たちは宗主の弟子だ。厳密に言えば同じ門下ではないのだが、潘は昔からそんな細かいことをまったく気にしない。
「それより、早く始めようぜ。もたもたしてたら朝飯に間に合わなくなるぞ!」
「それもそうだな。急ぐか」
俺たちは手分けして、みんなの分の朝食を作り始めた。自慢するつもりはないが、料理は得意な方だ。今まで、俺の料理に文句を言われたことはほとんどない。
それに――
「沈兄!潘さん!おはよう!今日のご飯なに?ワタシ、もうお腹すいちゃった!」
聞き慣れた声と一緒に、瞬光が台所へ顔を覗かせる。
「おはよう、瞬光。もう少しでできるから待ってろよ」
「ほんと?楽しみ!」
ぱっと顔を明るくする瞬光を見て、思わず頬が緩んだ。
感覚の鈍くなり始めた腕を動かし、出来上がった料理を皿へ盛りつけていく。いつもより手間取った気もするが、見た目は問題ない。
「ほら、できたよ!」
「ありがとう、沈兄!う~ん、いい匂い!」
瞬光は待ってましたと言わんばかりに箸を取り、さっそく料理を口へ運ぶ。少しだけ緊張しながらその様子を見ていると、瞬光の表情がほころんだ。
「おいしい!やっぱりワタシ、沈兄のご飯好きだな!」
「ありがとう。そう言ってもらえると、作った甲斐があるよ」
俺が笑うと、瞬光も嬉しそうに笑って、また箸を動かし始めた。
残りの料理を盛りつけ終え、俺も瞬光の隣へ腰を下ろす。ふと見ると、瞬光の口元に小さく食べかすがついていた。
「ほら、ついてるぞ」
「え?」
手を伸ばし、指先でそっと拭ってやる。瞬光は一瞬きょとんとしたあと、頬を赤くして目を逸らした。
「あ、ありがとう……」
「ん?どうした?」
「べ、別に何でもない!」
「そうか?」
さっきまで勢いよく動いていた箸が、わずかに鈍る。まあ、気にするほどでもないか。しばらくすると、瞬光はまたいつもの笑顔に戻り、料理を食べ始めた。
その顔を見ていると、ふと昔のことを思い出す。
――今でなくてもいい。いつか、あなたにしかできないことが見つかる。
師匠にそう言われた時、俺にはその意味がよく分からなかった。剣も術法も駄目で、後から入ってきた連中に次々追い抜かれて、俺にしかできないことなんて本当にあるのかと思っていた。
でも、今なら分かる。俺にしかできないことが、ちゃんとある。
だから俺は、それをやる。
目の前で瞬光が、俺の作った飯を美味しいと言って、何も知らずに嬉しそうに箸を動かしている。
この笑顔を守れるなら、そのためにできることは何だってするつもりだ。
たとえ、そのせいでいつか瞬光に嫌われることになったとしても。