俺がいつものように夕飯の仕込みをしていると、任務に出ていた瞬光が帰ってきた。
手を止めて出迎えに行く。遠目にはいつも通りに見えたが、近くまで来ればすぐに分かった。顔色が良くない。歩き方もほんの少しだけ重い。どうやら、また無茶をしたらしい。
「おかえり、瞬光。また無茶したんだろ」
「ただいま、沈兄!」
瞬光は一瞬だけ見せた辛そうな表情を引っ込め、いつもの笑顔を作る。
「無茶なんてしてないよ?」
「嘘つけ。俺はお前の顔見れば分かるの」
「……やっぱり沈兄には隠し事できないな」
困ったように笑う。瞬光は昔から、自分が辛い時ほど隠そうとするところがある。心配をかけたくないんだろうけど、長いこと一緒にいる俺に通用したことなんてほとんどない。
「今回の任務、ちょっと無茶しちゃって……」
「青溟剣の反動か?」
今度は誤魔化さず、瞬光が静かに頷いた。
それを確認して、俺は瞬光のそばまで歩み寄り、昔から何度もやってきたように、その肩へ手を置いた。
「ほら、いつもの」
瞬光も分かっているようで、小さく笑った。
『いたいのはんぶんこ』
二人の声が重なる。
次の瞬間、肩に置いた手を通して何かが流れ込んでくる。形なんてない。ただ、瞬光の中にあった何かが自分へ移ってくる、その感覚だけはもう何度も経験していた。右腕の感覚が、少しずつ遠くなる。代わりに、瞬光の強張っていた表情から力が抜けていった。
「……ありがとう、沈兄」
肩から手を離すと、瞬光は何度か自分の手を握ったり開いたりしてから、不思議そうに笑う。
「沈兄のおまじない、なんでか分からないけど本当に楽になるんだよね」
「兄弟子のおまじない、舐めんなよ?」
「なにそれ!」
さっきまでの辛そうな顔はどこへやら、瞬光が声を上げて笑う。その笑顔を見られただけで十分だった。
「なんか楽になったら、お腹すいちゃった!沈兄、今日のご飯なに?」
「その前に手洗ってこい!」
「はーい!」
元気よく返事をして、瞬光が奥へ歩いていく。姿が見えなくなるまで見送ってから、俺は右腕へ目を落とした。
指を曲げてみる。動く。でも、握っているという感覚はほとんど返ってこない。
「……良かった。また腕だ」
思わず息を吐いた。
俺は、青溟剣が瞬光から奪うはずだったものを肩代わりできるらしい。どうしてそんなことができるのかは、今でも分からない。讃頌会にいた頃の俺の身体に何か理由があるのかもしれないし、まったく別の理由なのかもしれない。
でも、別に分からなくてもいい。
師匠が昔言ってくれた。
――いつか、あなたにしかできないことが見つかる。
剣も術法も駄目だった俺が、初めて見つけた。俺にしかできないことだった。
だから、これでいい。
……最初にそう思ったのは、いつだっただろう。たしか、初めて本当に『いたいのはんぶんこ』ができた、あの日だった。
◇
あれは、瞬光が初めて青溟剣の代償に苦しんだ時だった。経験したことのない感覚に、瞬光は明らかに混乱していた。宗主も釈淵も福福も潘も、もちろん俺も、みんなで瞬光を安心させようと必死だった。
俺だって、できることなら代わってやりたかった。小さい頃からずっと一緒に過ごしてきた妹弟子が、目の前で苦しんでいる。そんな姿を平気で見ていられるはずがない。
それなのに、俺には何もできなかった。剣も術法も駄目で、目の前で苦しんでいる女の子ひとり楽にしてやることすらできない。
だからせめて少しでも安心させたくて、俺は瞬光のそばまで行き、その肩へ手を置いた。小さい頃、怪我をするたびに何度もやってきたおまじない。今さらこんなものでどうにかなるはずがない。気休めにすらならないかもしれない。それでも、何もせずにはいられなかった。
『いたいのはんぶんこ』
いつもなら、それで終わるはずだった。次の瞬間、肩に置いた手を通して、何かが俺の中へ流れ込んでくる。
「……っ」
突然、片耳に違和感が走った。周囲の声が急に遠くなったような感覚に、思わず顔をしかめる。
何だ、これ。そう思った直後だった。
「……あれ?」
さっきまで苦しそうにしていた瞬光の表情から、少しだけ力が抜ける。
「瞬光?」
俺が声をかけるより先に、宗主が瞬光の様子を確かめた。
「……どうだ?」
「さっきより……ちょっと楽になったかも」
「本当か?」
「……うん!」
瞬光は自分の身体を確かめるようにしてから、こちらを見る。さっきまでの不安そうな表情とは違う。
「沈兄のおまじない、すごい!」
「……そうか」
耳の違和感は消えていない。むしろ、さっきより周囲の音が聞き取りづらくなっている。それでも、瞬光に気づかれるわけにはいかなかった。俺はいつも通りに笑ってみせる。
「なんたって、瞬光の沈兄だからな!」
「……ありがとう、沈兄!」
ようやく見せてくれた笑顔に、俺も笑い返す。その時の俺は、自分の身に何が起きたのかなんて分かっていなかった。ただひとり、少し離れたところにいた宗主だけが、笑う俺と楽になった瞬光を見比べながら、険しい顔をしていた。
瞬光が落ち着き、自分の部屋へ戻ったあと、俺は宗主に呼び止められた。
「沈衡。少し来い」
声がいつもより低い。連れてこられたのは、人通りの少ない場所だった。宗主は周囲に誰もいないことを確かめると、俺の方へ向き直る。
「単刀直入に聞く。沈衡、お前さん……瞬光に何をした?」
「何を、とは?」
「とぼけるな。お前さんが瞬光に触れた直後、顔をしかめただろう。その直後に瞬光は楽になったと言った。何もなかったとは思えん」
やっぱり見られていたらしい。俺は聞こえづらくなった片耳を押さえながら、さっきのことを思い返す。
「俺にも何が何だか分からないんです。少しでもマシになればと思って、昔から瞬光にやってたおまじないをしただけで……」
「おまじない?」
「肩に触って、『いたいのはんぶんこ』って。それをやったら急に、何かが身体の中へ流れ込んでくるような感じがして」
宗主の表情が変わった。俺の耳と、瞬光が去っていった方を交互に見る。
「……まさか」
小さく呟く。
「お前さん、青溟剣の代償を肩代わりしたのか……?」
「分かりません。でも、もし本当に俺が代わってやれるなら――」
引き受けます、と続けようとして、顔を上げた。
その時だった。
宗主の顔を見てしまった。ほんの一瞬だったと思う。それでも俺は、あの表情を忘れることはない。
◇
そんな馬鹿な。
青溟剣が要求する代償を、別の人間が肩代わりする。そんな都合のいいことができるはずがない。儀玄はそう考えた。
だが、実際に瞬光の症状は軽くなった。そして同じ瞬間に、沈衡の身体へ異常が現れた。
もし。
もし、この力があの頃にも使えていたなら――。
(……姉様は)
そこまで考えた瞬間、自分が何を思おうとしたのかに気づいた。
(姉様は、助かったんじゃないのか……?)
胸の奥が冷える。何を考えている。姉の代わりに沈衡へ苦しめと言うのか。あの子が姉のために傷つけばよかったと、そんなことを一瞬でも考えたのか。
違う。そんなことを姉様が望むはずがない。自分だって望んでいない。それなのに、ほんの一瞬だけ考えてしまった。
儀玄は自分自身への嫌悪を押し込め、沈衡を見る。そこで目が合った。
(……しまった)
沈衡は昔から、人の顔を見るのが妙に上手かった。機嫌が悪いのか、怒っているのか、困っているのか。本人が隠しているつもりでも、何か言いたいことがあれば簡単に見抜いてしまう。おそらく、雲嶽山へ来る以前の暮らしがそうさせたのだろう。
今の一瞬も見られた。そう思った時には遅かった。
「宗主」
沈衡が静かに口を開く。
「……今、師匠のこと考えました?」
「……」
否定できなかった。
沈衡はしばらくこちらを見ていたが、やがていつものように少し笑った。
「大丈夫ですよ」
「……何がだ」
何ひとつ大丈夫ではない。それなのに沈衡は、まるでこちらを安心させるように言った。
「今度は、俺も何かできますから」
◇
「やめろ」
宗主の声が強くなる。
「私も姉様も、そんなことは望んでいない。姉様の時に何もできなかったことを、お前さんが背負う必要はない」
俺は少し黙った。
言われていることは分かっている。師匠が、俺に代わりに苦しんでほしいなんて思うはずがないことも、宗主がさっきの一瞬を後悔していることも。全部分かっていた。
「分かってますよ、宗主。それでもです」
「沈衡……」
「助けられなかった師匠の分も、あの時ずっと苦しんでた宗主の分も」
俺は聞こえづらくなった耳へ触れる。指先に返ってくる感覚は、いつもと何も変わらない。失ったのは、その向こう側だけだった。
それでも、瞬光はさっきより楽そうに笑っていた。
なら、それでいい。
「今度は、俺が背負います」
宗主の顔が歪んだ。
「それを背負うとは言わん」
「……」
「お前さんひとりが、代わりに潰れようとしているだけだ」
その言葉にも反論できなかった。ただ、困ったように少し笑う。
「それでも、今度は間に合いますから」