俺が師匠と出会ったのは、七歳の時だった。
あの頃の俺には、名前がなかった。正確には、名前の代わりに呼ばれていた番号があったけれど、それを名前だと思ったことは一度もない。あそこでは誰もが俺を番号で呼んでいたし、それで困ることもなかったからだ。
俺が生まれ育った場所は、讃頌会という組織の施設だった。連中は「始まりの主」と呼ばれる存在を崇拝していて、俺もそのために用意された子供のひとりだったらしい。もっとも、詳しいことはほとんど知らない。幼かった俺に教えてくれる人間なんていなかったし、聞いたところで理解できたかどうかも怪しい。
ただ、自分が失敗作だということだけは知っていた。
「また駄目か。これでは器として使い物にならんな」
「身体能力も術の適性も基準以下です。これ以上検査を続けても、結果は変わらないかと」
大人たちがそんな話をしているのを、何度も聞いた。
最初のうちは、何とか認めてもらおうと頑張っていたと思う。言われた通りに身体を動かし、できないこともできるようになるまで繰り返した。けれど結果は変わらず、やがて検査に呼ばれることも少なくなって、代わりに掃除や洗濯、食事の準備を任されるようになった。
そっちの方が、俺には向いていたらしい。床を綺麗にしておけば怒られないし、食器を洗っておけば余計な仕事を増やされずに済む。料理だって、言われた通りに作れば文句を言われることは少なかった。だから俺は、一生懸命働いた。
大人たちの顔色を窺うのも、その頃に覚えたことだ。誰が機嫌を悪くしているのか、誰に近づかない方がいいのか、誰が何をしてほしがっているのか。そんなことばかり考えていたら、いつの間にか相手の表情を見ただけで、ある程度のことは分かるようになっていた。
今思えば、あんまり子供らしくない生活だったと思う。でも当時は、それが普通だった。
◇
そんな暮らしが終わったのは、ある日のことだった。
施設の外から、突然大きな音が聞こえてきた。誰かが怒鳴り、廊下を走る足音が響く。普段は落ち着いている大人たちまで慌てていて、何か大変なことが起きているのだと、俺にも分かった。あとになって知った話だけど、どうやら施設が当局に摘発されたらしい。
「急げ!ここはもう持たん!」
「資料と重要なものだけ運び出せ!余計な荷物は捨てていけ!」
こういう時こそ何か手伝った方がいいのだろうかと思って廊下へ出ると、荷物を抱えた男がこちらへ向かってくるところだった。
「あの、俺は何をすれば……」
「邪魔だ!そこをどけ!」
肩を突き飛ばされて、床に尻餅をついた。男は振り返りもせずに走り去っていく。
俺はしばらくその背中を眺めていたが、誰も仕事を頼んでこないので、とりあえず廊下に散らばったものを片づけることにした。いつもなら、こうしていれば誰かが声をかけてくる。けれど、その日は違った。気づけば、施設の中は静まり返っていた。
「……あれ?」
人の気配がない。いつも寝泊まりしていた物置にも、食事を作っていた厨房にも、誰もいなかった。
どうすればいいのか分からず、俺はしばらくその場で待っていた。どれだけ待っても誰も戻ってこなかったので、仕方なく外へ出ることにした。
初めてひとりで歩く外の道は、思っていたよりずっと広かった。どこへ向かえばいいのかも分からない。足を止めたらもう二度と動けなくなる気がして、ただ歩き続けた。お腹が減ったし、足も痛くなってきたけれど、誰かに助けを求めるという考えは浮かばなかった。
俺は使い物にならなかったから、置いていかれた。きっと、それだけのことだった。
◇
「……君、大丈夫?」
声をかけられた時、最初は自分のことだと思わなかった。顔を上げると、ひとりの女性が目の前に立っていた。
綺麗な人だった。けれど、それより印象に残ったのは、俺を見つめる表情のほうだ。困っているような、心配しているような顔で、怒っているわけではないらしい。
「こんなところで、ひとりで何をしているの?」
「……歩いてました」
「それは見れば分かるかな。お家の人は?」
「いません」
女性は少し驚いたようだったが、すぐに俺と同じ目線になるようにしゃがんだ。
「そっか。……お腹は空いてない?」
聞かれた途端、腹が小さく鳴った。思わず押さえると、女性はくすりと笑った。
「ふふ、正直なお腹だね。ちょうど食べ物を持っているんだけど、一緒に食べない?」
差し出されたのは、包みに入ったチャーシューまんだった。まだ少し温かい。俺はそれを見つめてから、女性の顔を窺った。
「あの……何をすればいいですか?」
「うん?」
「掃除でも、洗濯でもできます。だから、その……」
女性が不思議そうに首を傾げる。
「何かしてからじゃないと、食べちゃ駄目なの?」
「……はい」
そう答えると、女性は黙ってしまった。怒らせただろうか。余計なことを言ってしまったかもしれないと身構えていると、彼女は包みを開き、チャーシューまんを俺の手に乗せた。
「じゃあ、まずはこれを食べること。それが今の君にお願いしたいことかな」
「……食べるだけでいいんですか?」
「うん。私もお腹が空いているからね。一緒に食べてくれたら嬉しいな」
そう言って、女性は自分の分を取り出した。俺はもう一度、彼女の顔を見た。嘘をついているようには見えなかった。だから恐る恐る、ひと口かじってみた。
「……おいしい」
温かくて、中の肉も柔らかい。噛むたびに甘辛い味が広がって、気づけば夢中になって食べていた。女性はそんな俺を見て、嬉しそうに笑っていた。
「ふふ、気に入ってくれたみたいだね。よかった」
それが、俺と儀降さんの出会いだった。
◇
食べ終わってから、儀降さんはいろいろなことを聞いてくれた。どこから来たのか、どうしてひとりなのか、家族はいないのか。俺は答えられることだけ答えた。讃頌会のことも話したけれど、詳しいことは自分でも知らなかったので、結局あまり説明にはならなかったと思う。それでも儀降さんは、最後まで聞いてくれた。
「……なるほどね。帰る場所がないなら、よかったら私と一緒に来ない?」
「どこにですか?」
「雲嶽山っていうところ。私の家みたいなものかな。ちょっと変わった人たちもいるけど、悪い場所じゃないよ」
「……俺、何もできませんよ?」
思わずそう答えてしまうと、儀降さんは少し考えてから、俺の頭を優しく撫でた。
「何もできなくても構わないよ。君がそこで暮らしたいと思ってくれるなら、それで十分だから」
どうしてそこまでしてくれるのか分からなかった。でも、不思議と怖くはなかった。
「……じゃあ、行きたいです」
「じゃあ、決まりだね」
儀降さんは立ち上がり、俺に手を差し出した。その手を握るまで、少し時間がかかったのを覚えている。
歩き出してしばらくした頃、儀降さんがふと思い出したようにこちらを見た。
「そういえば、まだ君の名前を聞いていなかったね」
「名前……?」
俺は、施設で呼ばれていた番号を伝えた。儀降さんの足が止まる。
「それが、君の名前?」
「……多分」
しばらく考え込んだあと、儀降さんはしゃがんで、俺の顔を覗き込んだ。
「だったら、新しい名前をつけてもいいかな?せっかく出会えたんだもの。私は君を、ちゃんと名前で呼びたいな」
名前。今まで必要だと思ったこともなかったものだ。でも、儀降さんがあまりにも嬉しそうに言うので、俺も少し欲しくなった。
「……お願いします」
「そうだなあ……」
儀降さんはしばらく考えていたが、やがて何か思いついたように微笑んだ。
「沈衡。……沈衡っていうのは、どうかな?」
「しんこう……」
初めて呼ばれた名前を、口の中で繰り返す。
「衡にはね、釣り合いを取るっていう意味があるんだ。いつか君が誰かを支えられるように。そして、君も誰かに支えてもらえるように」
儀降さんは、俺の手を両手で包んだ。
「どちらかひとりが頑張り続けるんじゃなくて、お互いに助け合って生きていけたらいいなって。そんな願いを込めてみたんだけど……どうかな?」
正直、難しくてよく分からなかった。誰かを支えるというのは、仕事をすることだろうか。それなら今までと変わらない。けれど、誰かに支えてもらうというのは、どういうことなんだろう。
「……いい名前だと思います」
「本当?よかった!」
俺がそう答えると、儀降さんは自分のことのように喜んでくれた。
「じゃあ、これからよろしくね。沈衡」
「……はい!」
あの日、初めて名前を呼んでもらった。その時の嬉しさは、今でもよく覚えている。
◇
雲嶽山での生活は、今までと何もかも違っていた。
まず、食事の時間が決まっていた。俺が掃除をしていようと洗濯をしていようと、時間になれば食べに来るように言われる。仕事が終わっていないからと断っても、儀降さんに連れていかれてしまうのだから困ったものだった。寝る場所もちゃんと用意してもらえた。鍵のかかる物置ではなく、布団のある部屋だ。最初の頃はどうにも落ち着かず、朝まで眠れないこともあったけれど、そんな俺を、儀降さんは気長に見守ってくれた。
もちろん、儀降さん以外にもいろいろな人と出会った。なかでも印象に残っているのが、儀降さんの妹である儀玄さんだった。
「姉様。また勝手に人を連れてきたのか?」
初めて会った時、儀玄さんは呆れた顔をしていた。
「勝手にって、人聞きが悪いなあ。ちゃんと本人にも聞いたよ」
「そういう問題じゃないだろう。連れてくるなら、せめて先に相談してくれ」
「ごめんごめん。困ってる子を見つけたら、放っておけなくてね」
二人のやり取りを聞きながら、俺は少し怖くなった。儀玄さんは怒っている。もしかすると、自分が来たせいで儀降さんが怒られているのかもしれない。
「あの……俺、掃除とかできますから。邪魔にならないようにします」
そう言って頭を下げると、儀玄さんが目を丸くした。
「……お前さん、何を言っている?」
「えっと……」
「誰も邪魔だとは言っておらんだろう」
儀玄さんは俺と儀降さんを見比べて、深いため息をついた。
「姉様。この子、一体どんな暮らしをしてきたんだ?」
「それは、あとでゆっくり話すよ」
儀降さんはそう答えて、俺の肩に手を置いた。
「紹介するね。この子は沈衡。今日からここで一緒に暮らすんだ」
「……そうか」
儀玄さんはもう一度俺の顔を見た。
「私は儀玄だ。困ったことがあれば、遠慮せずに言うといい」
「……はい。よろしくお願いします!」
俺が勢いよく頭を下げると、儀玄さんは少しだけ笑った。
あの頃は、二人が一緒にいるところをよく見かけた。儀玄さんが何かと小言を言い、儀降さんが笑って受け流す。時には二人で遅くまで何かを研究していることもあったし、揃って食事をしている時には、普通の姉妹らしく他愛もない話をしていた。そんな時間が、俺は好きだった。
雲嶽山へ来てしばらくしてから、俺は儀降さんに弟子入りをお願いした。せっかく拾ってもらったのだから、何かできるようになりたかった。儀降さんは喜んで引き受けてくれて、それから俺は彼女を師匠と呼ぶようになった。
雲嶽山の暮らしにも慣れた頃には、儀玄さんとも気兼ねなく話せるようになっていた。
ある日、師匠に頼まれて食材を運んでいた時のことだ。庭先を歩いていた儀玄さんを見つけた俺は、両手に抱えた荷物を持ち直して声をかけた。
「儀玄、これどこに置けばいい?」
「それなら厨房の奥に……いや、待て」
儀玄さんが足を止めた。なぜか俺の顔をじっと見つめている。
「お前さん、今なんと呼んだ?」
「儀玄?」
「……聞き間違いではなかったか」
儀玄さんは額に手を当てた。
「一応言っておくが、私はお前さんより先に入門している。姉弟子に当たるんだぞ?」
「うん、知ってるよ」
「だったら、もう少し呼び方というものがあるだろう。せめて『さん』くらいはつけんか」
言われて、俺は少し考えた。確かに、最初の頃は儀玄さんと呼んでいた気がする。でも、最近はずっと一緒にいるし、何か困ったことがあれば助けてくれる。師匠と同じくらい顔を合わせているのだから、今さら他人行儀にするのも変な気がした。
「師匠のことは師匠って呼ぶけど、儀玄は儀玄だろ?」
「いや、だからな……」
「あれ?二人ともどうしたの?」
そこへ、師匠がやってきた。儀玄がすぐに振り返る。
「姉様、聞いてくれ。こいつ、いつの間にか私を呼び捨てにしているんだ」
「ああ、そのこと?」
「知っていたのか?」
「最近はずっとそうだよ。仲良くなったみたいで、私は嬉しいけどなあ」
師匠は俺たちを見比べ、楽しそうに笑った。
「ほら、沈衡も儀玄のことが好きなんでしょう?」
「うん!」
迷わず頷くと、儀玄が妙な顔をした。怒っているようにも見えたけれど、いつものそれとは少し違う。
「……まったく。姉様も甘やかしすぎだ」
「ふふ、そうかな?」
「そうだとも」
儀玄はため息をつき、俺が抱えている荷物を半分持ってくれた。
「ほら、厨房に運ぶんだろう。手伝ってやるから、さっさと行くぞ」
「ありがとう、儀玄!」
「……もういい。好きに呼べ」
そう言いながら歩き出した儀玄の顔は、少しだけ笑っていた。結局、それからも俺は儀玄を呼び捨てにした。本人も時々文句を言っていたけれど、本気で嫌がっているわけじゃないことくらい、俺にも分かっていた。
そんな二人が、揃って気に入ってくれたものがあった。俺の作るチャーシューまんだ。
師匠と出会った日に食べさせてもらった味が忘れられず、雲嶽山へ来てから何度も作り方を練習した。最初は生地が硬くなったり、具の味が濃くなりすぎたりしたけれど、少しずつ上達していった。
ある日、上手にできたものを二人に持っていくと、師匠はひと口食べた途端、嬉しそうに頬を緩めた。
「うん、やっぱり沈衡の作るチャーシューまんは美味しいね」
「ほんとですか?よかった!」
「儀玄もそう思うでしょう?」
隣を見ると、儀玄もちょうど二つ目に手を伸ばしていた。
「ああ。前より皮がふんわりしているな。具の味付けもちょうどいい」
「やった!じゃあ、今度はもっと作るよ!」
「ほどほどにしておけ。美味いからといって、毎日食べるわけにもいかんだろう」
「ふふ、そう言いながら二つ目を食べてるね」
師匠が楽しそうに笑うと、儀玄は手元のチャーシューまんを見下ろした。
「……姉様、茶化さないでくれ」
「だって、儀玄も気に入ってくれたみたいで嬉しいんだもの」
「それは……まあ、美味いのは確かだ」
少し照れくさそうに答えた儀玄を見て、俺も嬉しくなった。
俺が作ったものを、師匠も儀玄も美味しそうに食べてくれる。施設にいた頃も料理はしていたけれど、こんなふうに誰かが喜んでくれることが嬉しいなんて、知らなかった。それからは、二人が揃っている時を見計らってチャーシューまんを作ることが増えた。師匠はいつも美味しいと言ってくれたし、儀玄も文句を言いながら毎回きちんと食べてくれた。そんな三人で過ごす時間が、俺は何より好きだった。
◇
弟子入りしてからの修行は、思っていた以上に大変だった。剣を握ればまともに振ることすら難しく、術法を教わっても、他の門弟たちのようにはできない。何度も練習したし、師匠も根気よく付き合ってくれたけれど、なかなか上達しなかった。
ある日、訓練で何度も失敗した俺は、ひとりで庭に座り込んでいた。手のひらには、剣を握り続けたせいでできた豆がある。昔と同じだった。場所が変わっても、結局俺は何もできないままだ。
「沈衡、ここにいたんだね」
顔を上げると、師匠が立っていた。手には包みを持っている。
「休憩しない?今日はチャーシューまんを買ってきたんだ」
「……師匠」
「うん?」
「俺、向いてないんでしょうか」
師匠は隣に腰を下ろした。
「剣術のこと?」
俺が頷くと、師匠は少し考えるように空を見上げた。
「そうだね。今のところ、得意とは言えないかな」
思っていたよりはっきり言われて、少し落ち込んだ。でも師匠は、それで話を終わらせなかった。
「だからって、何もできないわけじゃないでしょう?この前、みんなに料理を作ってくれたじゃない」
「あれは……前からやってたので」
「とっても美味しかったよ。あのチャーシューまんなんて、お店で買うより好きかもしれないな」
思いがけない言葉に顔を上げると、師匠は本当に嬉しそうに笑っていた。
「最初に師匠がくれたチャーシューまんが忘れられなくて、何度も練習したんです」
「それが嬉しいんだよ。私のために作ってくれたんでしょう?」
「……はい」
「ありがとう、沈衡」
胸のあたりが、なんだかくすぐったくなった。料理を作って褒められることは、今までもあった。けれど、こんなふうにお礼を言われたことはほとんどなかった。
「……でも、料理なんて誰でもできます」
「そうかな?私はあんなに上手に作れないけど」
「師匠は剣も術法もできるじゃないですか。俺だって、いつか何かできるようになりたいんです」
師匠はしばらく俺の話を聞いてから、頭にそっと手を置いた。
「今でなくてもいい。いつか、君にしかできないことが見つかるよ」
「……俺にしかできないこと?」
「だからね、それを見つけられるまで、何かを無理に頑張らなくてもいいんだよ。誰かを助けられる日もあれば、助けてもらう日だってある。それでいいんだ。前にも話したでしょう?君の名前には、そういう願いを込めたんだから」
俺は自分の名前を思い浮かべた。沈衡。師匠がくれた、初めての名前。
「……じゃあ、俺にもいつか見つかりますか?」
「もちろん」
師匠は迷わず頷いた。
「でもね、沈衡。ひとつだけ覚えていてほしいな。何もできない日があっても、君はここにいていいんだよ。私の弟子なんだから」
そう言って笑う師匠を見て、俺もようやく笑うことができた。師匠は持ってきた包みを開き、俺にもチャーシューまんをひとつ渡して、隣で一緒に食べてくれた。
いつか、自分にしかできないことを見つけたい。それまでは、せめて師匠の好きなものを作ろう。あの日の俺は、そんなことを考えていた。
◇
ずっと、あの生活が続くと思っていた。けれど、そんな日は突然終わってしまった。
旧都が陥落した、あの日。雲嶽山にも緊急の招集がかかり、門弟たちが次々と山を下りていった。俺も一緒に行こうとしたけれど、師匠に止められた。
「沈衡、君には避難してくる人たちの世話をお願いしたいんだ。みんな、お腹を空かせているだろうからね」
「でも、師匠たちが危ないんじゃ……」
「大丈夫。儀玄も一緒だし、私だってそう簡単にはやられないよ」
師匠は笑っていた。いつもと変わらない、優しい笑顔だった。
「帰ってきたら、また君のチャーシューまんを食べたいな」
「……分かりました。いっぱい作って待ってます」
「ふふ、楽しみにしてるね」
それが、出発前に交わした約束だった。
俺は言いつけ通り、避難してきた人たちのために食事を作った。運び込まれる食材を仕分けし、大きな鍋で粥を炊き、怪我をしている人には食べやすいものを用意する。できるだけ多くの人に行き渡るように、休む暇も惜しんで働いた。外からは絶えず騒音が聞こえ、怪我人も次々と運び込まれてきて、誰もが必死だった。
そんな中、一度だけ師匠が補給のために戻ってきた。
「師匠!」
駆け寄った俺は、すぐに足を止めた。顔色が悪い。いつも綺麗に整えられていた髪も乱れ、身体のあちこちに傷があった。それでも、師匠は俺を見つけると笑った。
「沈衡……頑張ってるみたいだね」
「師匠、怪我してるじゃないですか!早く休まないと……」
「そうしたいところなんだけどね、まだ助けを待ってる人たちがいるんだ」
師匠は近くの椅子に腰を下ろした。その手が、わずかに震えている。俺は慌てて厨房へ戻り、用意していたチャーシューまんを持ってきた。
「師匠、これ。少しでも食べてください」
「……ありがとう」
受け取った師匠は、ゆっくりとひと口食べた。けれど、いつものような笑顔にはならなかった。
「……師匠?」
「ごめんね。せっかく作ってくれたのに」
師匠は手元のチャーシューまんを見つめた。
「今は、あんまり味が分からないみたい」
「……え?」
「青溟剣を、少し使いすぎちゃったかな」
軽く笑っていたけれど、その声には疲れが滲んでいた。
青溟剣。雲嶽山に伝わる、強大な力と引き換えに五感や記憶を奪う剣。その恐ろしさは、俺だって聞いていた。
「だったら、もうやめてください!これ以上使ったら、師匠が……!」
気づけば、師匠の袖を掴んでいた。何かしなければと思ったのに、どうすればいいのか分からない。俺には剣を振るう力も、師匠を治す術法もない。今まで何度も感じてきた無力さが、あの時ほど嫌になったことはなかった。
師匠はそんな俺の手に、自分の手を重ねた。
「ありがとう、沈衡。心配してくれるんだね」
「……当たり前じゃないですか」
「……嬉しいよ」
少しだけ、師匠の指に力がこもった。
「でも、行かないと。……儀玄も、今頃頑張ってるだろうしね」
師匠がゆっくりと立ち上がる。俺は袖を掴んだまま、どうしても手を離せなかった。
「師匠、俺も何か……何かできませんか?」
「沈衡」
名前を呼ばれて、顔を上げた。
「君は、もう十分頑張ってくれているよ。ここにいる人たちは、君が用意したご飯を食べてるんでしょう?だったら、君のおかげで助かってる人がたくさんいるってことだよ」
「でも……」
「大丈夫。胸を張って」
優しく手を離される。師匠は最後に、俺の頭を撫でてくれた。
「帰ったら、また一緒に食べようね」
「……はい」
その時の俺には、そう答えることしかできなかった。師匠が再び戦場へ向かっていく。その背中を追いかけることもできず、俺はただ、立ち尽くしていた。
◇
師匠は、帰ってこなかった。
後から聞いた話では、最後まで青溟剣を振るい続けていたらしい。多くの人を救い、エリー都を守るために戦って、最後には自分が誰なのかも分からなくなっていたという。
儀玄が戻ってきた時、その顔を見ただけで何があったのか分かった。髪も身なりも乱れ、全身が傷だらけだった。それでも俺が真っ先に探したのは、儀玄の後ろだった。どれだけ待っても、師匠の姿は見えなかった。
「……儀玄」
声をかけると、儀玄がこちらを見た。
「師匠は……?」
儀玄の唇が動いた。でも、すぐには言葉が出てこない。その手には、見覚えのある髪飾りが握られていた。
ああ、そうか。
俺は、その場に立ったまま動けなくなった。
「……すまない、沈衡」
儀玄は、ひどく掠れた声でそう言った。謝る必要なんてない。儀玄だって、あんなに傷ついているのに。何か言おうと思った。せめて、休んでくれと伝えたかった。けれど、口を開いても言葉が出てこなかった。
俺はまた、何もできなかった。
◇
あの日、俺は師匠のために用意していたチャーシューまんを、ひとりで食べた。あんなに練習したのに、あまり美味しくなかった。師匠が好きだと言ってくれた味で、何度も食べてもらって、ようやく上手に作れるようになったものだった。でも、もう食べてくれる人はいなかった。
いや、ひとりだけいた。儀玄も、俺の作るチャーシューまんが好きだった。だから、何日か経って少し落ち着いた頃、俺はまたチャーシューまんを作った。師匠がいなくなってから、儀玄はまともに食事を取っていなかった。何を出しても少ししか食べてくれないので、せめて好きだったものなら食べてくれるかもしれないと思ったんだ。
「儀玄、これ……」
皿を差し出すと、儀玄は手元の書類から顔を上げた。
「……チャーシューまんか」
「うん。前に美味しいって言ってくれたから、また作ったんだ」
儀玄は皿を見つめたまま、しばらく動かなかった。やがて、目を逸らすように静かに首を振る。
「……すまない。今はいい」
その顔を見て、無理に勧めてはいけないのだと分かった。顔色を窺うのは、昔から得意だった。
「そっか。じゃあ、あとで食べられるように取っておくよ」
そう言って、俺は皿を下げた。その日は結局、食べてもらえなかった。
最初は、まだ食欲が戻っていないだけだと思っていた。けれど、儀玄が少しずつ普段の食事を取れるようになってからも、チャーシューまんだけは食べてくれない。何度か作ってみたけれど、結果は同じだった。
ある日、俺は思い切って尋ねてみた。
「……儀玄、もう俺のチャーシューまん好きじゃない?」
儀玄は驚いたように顔を上げた。
「何を言っている。そんなことはない」
「でも、最近全然食べてくれないから……。味が変わっちゃったのかなって」
「違う。お前さんの作るものは美味いよ」
それは本心だった。だからこそ、俺には分からなかった。
「じゃあ、なんで……?」
儀玄は答えなかった。代わりに、俺が持っている皿へ目を落とす。その表情を見て、ようやく気づいた。
師匠が好きだったもの。三人で一緒に食べたもの。師匠が美味しいと笑ってくれた、あの頃の思い出。儀玄も、全部覚えているんだ。
「……ごめん。無理に食べさせようとして」
俺が皿を引っ込めると、儀玄は小さく首を振った。
「お前さんが謝ることじゃない」
そう言いながらも、儀玄の視線は引っ込めた皿から離れなかった。やがてその目が伏せられる。
「……今は、まだ食べられそうにない」
「……うん。分かった」
「まだ」という言葉だけを拾って、それ以上は勧めなかった。
儀玄が悪いわけじゃない。俺だって、あの日からチャーシューまんを食べるたびに師匠のことを思い出していた。美味しいと言ってくれたこと。嬉しそうに二つ目を食べていた儀玄を、師匠がからかっていたこと。三人で笑い合っていた時間。俺はそれを思い出しながら食べていたけれど、儀玄にはそれが辛いのだろう。
それから俺は、儀玄にチャーシューまんを勧めなくなった。いつかまた、食べたいと思ってくれる日が来ればいい。その時には、昔よりもっと美味しいものを作ろう。そんなことを考えていた。
師匠がくれた名前も、かけてくれた言葉も、ちゃんと覚えている。誰かを支えて、誰かに支えてもらう。何もできなくても、ここにいていい。師匠が何を願ってくれていたのか、分かっているつもりだった。
それでも、あの時の俺は考えずにはいられなかった。もし、あの時、俺にも何かできていたら。師匠が苦しんでいた時、少しでもその痛みを引き受けられていたら。何か、変わっていたんだろうか。
答えの出ないことを考えながら、俺は手元に残っていたチャーシューまんの、最後のひと口を飲み込んだ。
師匠。
いつか見つけます。俺にしかできないことを。
だから、もし見つかったら、今度こそ、大切な人を助けられるように。
そんなことを思いながら、俺は師匠がくれた名前を、何度も心の中で繰り返していた。