厨房に入ると、ちょうど蒸籠から白い湯気が立ち上っているところだった。蓋を少し持ち上げて中を覗くと、丸く膨らんだ生地が綺麗に並んでいる。そろそろ蒸し上がる頃だろう。火加減を確かめていると、背後から聞き慣れた声がした。
「おお、兄弟子!もう来てたのか!」
振り返ると、潘が食材の入った籠を抱えて立っていた。
「おはよう、潘。今日は随分と買い込んだな」
「ああ!昨日いい店を見つけてな。野菜をまとめて買ったら、かなり安くしてくれたんだ。これだけあれば、しばらくは食材に困らんぞ!」
得意げに笑う潘から籠を受け取り、作業台の上に置く。中には青々とした葉物野菜や根菜が詰め込まれていた。どれも状態がよく、料理するには申し分ない。
「相変わらず買い物上手だな。これだけ揃えると結構かかるだろ?」
「ハハハ!そこが腕の見せ所ってやつだ!浮いた金で、今日はちょいといい肉も買えたぞ」
潘がもう一つの袋を持ち上げる。なるほど、朝から機嫌がいいわけだ。
「じゃあ、今日の昼は少し豪華にするか」
「おう!兄弟子も手伝ってくれるなら百人力だ!」
「俺は料理くらいしかできないんだから、そっちは任せろよ」
「何言ってる!料理だって立派な腕前じゃないか。おれも兄弟子の味付けには勉強させられることがあるんだぞ!」
潘はそう言って、豪快に笑った。昔は、こうして自分の得意なことを褒められるたびに、どう返せばいいのか困っていた。今でも少し照れくさいけれど、潘が本気でそう思ってくれていることは分かる。
俺たちは手分けして食材を片づけ、昼食の仕込みを始めた。
「そういえば兄弟子、そっちの蒸籠は?」
「ああ、チャーシューまん。昨日のうちに仕込んでおいたんだ」
「おお、いいな!ちょうど小腹が空いてたところだ!」
「それ、みんなのおやつ用だから全部食うなよ?」
「分かってるって!……一つくらいならいいだろう?」
思わず笑ってしまった。
「いいよ。ちょうど蒸し上がったところだし、味見してくれ」
蒸籠から一つ取り出して皿に乗せ、潘へ渡す。潘は熱さに気をつけながらひと口かじると、満足そうに頷いた。
「うん、美味い!皮もふんわりしてるし、肉の味もしっかりしてる。やっぱり兄弟子のチャーシューまんはいいな!」
「ありがとな。昔から作ってるから、これだけは自信あるんだ」
俺も一つ手に取り、味を確かめた。甘辛い肉の旨味が口いっぱいに広がる。うん、今日も上手くできている。
何度も作ってきた料理だけど、こうして味を確かめるたびに師匠のことを思い出す。初めて食べさせてもらった日のことも、三人で一緒に食べていた頃のことも。できることなら、もう一度あの頃みたいに、二人に食べてもらいたかった。
「……兄弟子?」
「ん?どうした?」
「いや、ちょいとぼんやりしてたからな。寝不足か?」
「そんなことないよ。昔のこと思い出してただけ」
「そうか。まあ、今日は仕事も多いし、無理するなよ。昼の仕込みはおれが進めとくから」
「ありがと。でも大丈夫だって」
そう返して、俺は作業台に置かれた野菜へ手を伸ばし、いつものように包丁で切り始めた。
右手の感覚は、相変わらず鈍い。指は問題なく動くし、目で確認すれば力加減もある程度分かる。昔から包丁を握ってきたおかげか、今のところ料理に大きな支障は出ていなかった。それでも、以前より慎重に動かさなければならないことが増えた。少し面倒だけど、慣れればどうにかなるだろう。
◇
午前中の仕込みが一段落した頃、厨房の外から声をかけられた。
「おい、沈衡。ちょっといいか?」
顔を覗かせたのは、同じ雲嶽山の門弟だった。
「ああ、どうした?」
「倉庫の荷物が届いたんだけどさ、まだ片づけが終わってないんだ。悪いけど、代わりにやってくれないか?」
「倉庫?今日はお前たちが担当じゃなかったっけ?」
「そうなんだけど、午後から修行があるからさ。お前、どうせ厨房の手伝いが終わったら暇だろ?」
言い方には少し棘があった。俺が返事をする前に、もう一人が廊下から顔を出す。
「こっちは術法の修行で忙しいんだよ。お前はそういうの得意じゃないんだし、できる方の仕事をやってくれた方が助かるだろ?」
そう言って笑う。別に間違ったことは言っていない。俺が修行に出たところで、あいつらほど役に立てるわけじゃない。それなら荷物を片づけておいた方が、全体としては仕事が進むだろう。
「分かったよ。昼の準備が終わったら行くから、荷物はそのままにしておいて」
「助かるわ。じゃ、頼んだぞ」
二人はそれだけ言うと、さっさと行ってしまった。
近くで話を聞いていた潘が、野菜を洗う手を止める。
「……兄弟子。今の連中、また仕事を押しつけてきたのか?」
「まあ、倉庫の片づけくらいなら大したことないし」
「そういう問題じゃないだろう。あいつら、最近ちょいと調子に乗りすぎじゃないか?」
潘の声には、普段の明るさとは違うものが混じっていた。
「本来あいつらの仕事なんだろう?自分の修行が忙しいからって、何でも兄弟子に任せていいわけじゃないぞ」
「でも、俺は修行の方じゃ役に立てないからさ。こういう時くらい手伝わないと」
「……まったく。兄弟子は人がいいな」
呆れたように言う潘へ、俺は笑ってみせた。
「それに、本当に困った時はちゃんと頼るから。今日はちょっと片づけてくるだけだよ」
「だったら、おれも手伝うぞ!」
「いや、昼飯はどうするんだよ。みんな腹空かせて待ってるぞ?」
それを聞いた潘は、厨房の方へ目を向けた。しばらく考えてから、観念したように息を吐く。
「……分かった。けど、あんまり無理するんじゃないぞ。終わらなかったら、ちゃんとおれを呼べよ!」
「了解。いざとなったら大声で呼ぶよ。昼飯、頼んだぞ」
そう答えて、俺は残りの仕込みを進めた。
◇
倉庫に行ってみると、思っていたより荷物が多かった。食材や日用品の入った木箱が、入口の近くにいくつも積まれている。これを全部棚に収めるとなると、少し時間がかかりそうだ。
「……結構あるな」
とりあえず軽いものから片づけよう。中身を確認し、種類ごとに分けて棚へ運んでいく。普段からやっている仕事なので、手順そのものは難しくない。ただ、右手の感覚が鈍いせいで、重いものを持つ時は少し気をつける必要があった。左手で箱の重さを確かめ、右手で底を支える。慎重に持ち上げたところで、ふと右手が滑った。
「おっと……!」
慌てて抱え直す。幸い、箱を落とさずに済んだ。中身は食器だったらしく、危うく割ってしまうところだった。
「……危ない危ない」
一度箱を床に下ろし、右手を開いてみる。指はちゃんと動く。ただ、さっき箱が滑った時も、手から離れかけていることに気づくのが少し遅れた。昔なら、こんな失敗はしなかったんだけどな。少しだけ困ったものだと思いながら、今度は持ち方を変えて箱を運んだ。
何度か休憩を挟み、ようやく最後の荷物を片づけた頃には、昼をだいぶ過ぎていた。腹も減ったし、そろそろ戻ろう。そう考えて倉庫を出ると、廊下の向こうから見慣れた姿が歩いてきた。
「あっ、沈兄!」
瞬光だった。俺を見つけるなり、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「こんなところにいたんだ!探してたんだよ?」
「瞬光?今日は午後まで修行じゃなかったのか?」
「今日は早く終わったの。それより沈兄、もうお昼食べた?」
「あー……まだだな」
そう答えた途端、瞬光が眉を寄せた。
「もう!またご飯食べるの忘れてたの?」
「忘れてたわけじゃないよ。ちょっと片づけが長引いて……」
「それ、いつも言ってるじゃない。沈兄はみんなのご飯を作ってくれるのに、自分のことになると適当なんだから」
言いながら、瞬光は俺の手を取った。
「ほら、行こう!潘さんが沈兄の分を取っておいてくれてるんだから」
「分かった分かった。そんな引っ張らなくてもちゃんと行くって」
「沈兄の『ちゃんと行く』は信用できないもん」
そう言って、瞬光は楽しそうに笑った。
その手に引かれながら歩いていると、ふと昔のことを思い出す。まだ小さかった瞬光は、よく俺の後ろをついて歩いていた。少し目を離せばどこかへ行ってしまうし、転んで泣いていることもあったから、手を引いて連れ帰ったことも一度や二度じゃない。それが今では、俺の方が連れていかれている。
「……大きくなったなあ」
「え?何が?」
「いや、瞬光も昔は小さかったのになって」
「もう!いつまで子供扱いするの?」
不満そうに頬を膨らませる瞬光に、つい吹き出してしまった。
「悪い悪い。でも、俺からすれば昔から変わらないところもあるからさ」
「……沈兄だって、昔から変わってないところあるよ」
「そうか?」
「そうよ。ご飯作るのも、掃除するのも、誰かの世話を焼くのも大好きでしょ?でも、自分が疲れてる時はすぐ隠そうとするんだから」
思いがけない言葉に、少し驚いた。瞬光は前を向いたまま続ける。
「だから、たまにはワタシにも頼ってよね。沈兄には小さい頃からいっぱい助けてもらってるんだから」
「……そうだな。ありがと、瞬光」
素直に礼を言うと、瞬光がこちらを振り返った。
「ふふ、どういたしまして!」
その顔を見ていると、何だか昔の師匠を思い出す。誰かを支えられるように。そして、誰かに支えてもらえるように。師匠が俺の名前に込めてくれた願いは、きっとこういうことだったんだろう。
もっとも、今の俺には瞬光を助けられる方法がある。だから、せめて助ける側だけは、俺がやってやりたいと思ってしまう。
◇
厨房へ戻ると、潘が待ち構えていた。
「おお、兄弟子!やっと戻ってきたか!」
「悪い悪い。ちょっと時間かかっちゃって」
「まったくだ!瞬ちゃんが迎えに行ってくれなかったら、おれが倉庫まで乗り込むところだったぞ」
「潘さん、沈兄ってばまだお昼食べてなかったんだよ!」
「やっぱりか!ほら、飯は取ってあるから早く食え!」
言いながら、潘が温め直した料理を運んでくる。皿には、朝一緒に仕込んだ野菜と肉の炒め物が盛られていた。出来たてとまではいかないけれど、まだ十分温かい。
「ありがとう、潘」
「気にするな!その代わり、ちゃんと全部食べるんだぞ!」
俺が席に座ると、瞬光も当然のように隣へ腰を下ろした。
「……瞬光はもう食べたんだろ?」
「うん!」
「じゃあ、何で座ってるんだ?」
「沈兄とお話ししたいから!」
あまりにも当たり前のように言われて、思わず笑ってしまった。
「そっか。じゃあ、食べながらでいいか?」
「もちろん!」
箸を手に取り、料理を口へ運ぶ。うん、美味い。少し冷めても味が崩れていないあたり、さすが潘だと思う。
「そういえば沈兄、今朝のチャーシューまん、すっごく美味しかったよ!」
「食べたのか?」
「うん!潘さんがくれたの。皮がふわふわで、お肉も美味しかった!」
「そりゃよかった。最近作ってなかったから、ちょっと心配だったんだ」
「そんなことないよ!ワタシ、沈兄のチャーシューまん大好きだもん!」
そこへ、潘が横から口を挟んだ。
「そうだぞ兄弟子!おれなんか毎日でも食いたいくらいだ!」
「えへへ、でも潘さんのご飯も大好きだよ!」
「おお、嬉しいこと言ってくれるじゃないか!」
潘は気分をよくしたらしく、また厨房へ戻っていった。瞬光はその背中を見送ると、少し声を落として俺に話しかけてきた。
「ねえ、沈兄」
「ん?」
「今度、ワタシにも作り方教えてくれない?」
「チャーシューまんの?」
「うん!いつも食べさせてもらってばっかりだから、たまにはワタシが作ってあげたいなって」
意外な申し出だった。瞬光が料理に興味を持つこと自体は珍しくない。前にも潘に教わって菓子を作っていたし、手伝いを頼めば喜んで引き受けてくれる。でも、俺のために作りたいと言われるのは、やっぱり嬉しいものだ。
「いいよ。じゃあ今度、時間がある時に一緒に作るか」
「ほんと!?やった!」
瞬光は嬉しそうに笑ったあと、何か考えるように顎へ指を当てた。
「でも、沈兄の作るやつって結構難しそうだよね。ワタシにもできるかな……」
「最初から上手く作ろうとしなくていいんだよ。俺だって、昔は失敗ばっかりだったし」
「沈兄も?」
「そりゃそうだよ。生地が硬くなったり、具の味付けを間違えたりさ。師匠に何度も食べてもらって、ようやく今の味になったんだから」
「……そっか」
瞬光が、少しだけ表情を和らげた。
「儀降師伯も、沈兄のチャーシューまんが好きだったんだよね」
「ああ。宗主も昔はよく食べてくれたんだけどな」
懐かしい話をすると、瞬光は静かに頷いた。瞬光だって、師匠のことを知らないわけじゃない。幼い頃から何度も話してきたし、儀玄にとって大切な姉だったことも知っている。
「じゃあ、ちゃんと練習しないとね」
「ん?何で?」
「だって、沈兄が大切にしてる味なんでしょ?ワタシも上手に作れるようになりたいもの」
そう言って笑う瞬光を見て、少しだけ胸が温かくなった。師匠が教えてくれた味。俺が何度も練習して、ようやく作れるようになったもの。それを今度は、瞬光と一緒に作れる。
「……そっか。じゃあ、しっかり教えないとな」
「うん!よろしくね、沈兄!」
その返事を聞きながら、俺は残りの料理を食べ始めた。
◇
夕方。厨房の片づけを済ませたところで、宗主に声をかけられた。
「沈衡。少し時間はあるか?」
「宗主?はい、大丈夫ですけど」
「なら、ちょっと付き合え」
連れていかれたのは、庭に面した縁側だった。日が傾き始めた空を見上げながら、宗主はしばらく何も言わなかった。俺も隣に腰を下ろし、話し始めるのを待つ。やがて宗主が、こちらを見た。
「……腕の具合はどうだ?」
ああ、やっぱりその話か。
「前とそんなに変わりませんよ。ちょっと感覚が鈍いくらいです」
「その『ちょっと』が、どれほどのものなのか聞いているんだがな」
「……料理はちゃんとできてますよ?」
「料理ができるかどうかだけの話ではないだろう」
宗主は呆れたように息を吐いた。どうやら、誤魔化すのは難しそうだ。
「右手の感覚が、あんまりないんです。でも動かす分には問題ありませんし、左手は普通に使えるので」
「……そうか」
宗主はそれ以上、すぐには何も言わなかった。ただ、俺の右腕を見つめている。
「今日も倉庫で荷物を運んでいたそうだな」
「え?知ってたんですか?」
「潘から聞いた。大したことはないと言っていたようだが、今のお前さんが無理をしていい理由にはならん」
なるほど、潘が話したらしい。あいつも心配性だな。
「でも、倉庫の仕事はちゃんと終わりましたよ。途中で少し手間取ったくらいで」
「沈衡」
名前を呼ばれて、口を閉じた。宗主は俺の方へ身体を向け、真剣な表情で続ける。
「お前さんが瞬光を大切に思っていることは知っている。だが、そのために自分の身体を粗末にしていいわけではない」
「……はい」
「青溟剣の代償は、何をどれだけ奪うのかも分からんものだ。お前さんが肩代わりできる理由も、いまだにはっきりしていない。それなのに、何度も繰り返して……」
そこで宗主は言葉を切った。俺を見る表情が、少しだけ苦しそうになる。
「……私は、お前さんまで失うのは御免だ」
その言葉に、返事ができなかった。宗主が何を心配しているのかは、ちゃんと分かっている。師匠を失ったあの日のことも、瞬光の代償を初めて引き受けた時のことも、忘れたわけじゃない。宗主は俺の力を喜んだりしなかった。むしろ、誰よりも強く止めようとしてくれた。それでも俺は、何度も同じことを繰り返している。
「……すみません」
謝ると、宗主は小さく首を振った。
「謝ってほしいわけではない。お前さん自身にも、もう少し自分のことを大切にしてほしいだけだ」
「……はい」
「本当に分かっているのか?」
「分かってますよ、宗主」
そう答えると、宗主は何とも言えない表情をした。分かっていることと、その通りにすることは別だ。それはお互いに承知しているのだろう。
しばらくして、宗主が空を見上げる。
「……昔のお前さんは、もう少し遠慮がなかった気がするな」
「え?」
「姉様がいた頃だ。私のことも、呼び捨てにしていたではないか」
思いがけない話に、思わず口元が緩んだ。
「ああ、そうでしたね。儀玄って呼ぶたびに怒られてましたっけ」
「まったく。姉様が面白がって止めなかったからな」
宗主の口元にも、わずかに笑みが浮かんだ。
「……今は随分と行儀がよくなったものだ」
「そりゃ、宗主ですから。昔みたいに呼び捨てにするわけにもいかないでしょう?」
「私は別に構わんぞ」
「え?」
宗主は平然とした顔で続けた。
「山門をくぐる以上、俗世の礼儀作法にこだわる必要もなかろう。それに、お前さんは姉様の弟子だ。私からすれば、昔から知っている弟弟子のようなものだからな」
そんなことを言われるとは思わなかった。少し迷ってから、口を開く。
「……儀玄?」
「うむ」
「……何か、久しぶりですね」
「そうだな」
宗主は小さく笑った。昔と同じ顔だった。師匠がいた頃、俺が何か失敗するたびに呆れながら助けてくれた、あの頃の儀玄と同じ顔。何だか懐かしくなって、俺も笑った。
それから少しの間、二人で他愛もない話をした。潘がまた食材を大量に買ってきたことや、瞬光が料理を教えてほしいと言い出したこと。宗主は時々相槌を打ちながら、静かに聞いてくれた。
「そういえば、今日はチャーシューまんも作ったんですよ」
何気なくそう言うと、宗主の視線がこちらへ向いた。
「……そうか」
「瞬光が作り方を教えてほしいって言ってくれて。今度、一緒に作る予定なんです」
「ふむ。それはいいことだな」
宗主はそう答え、少しだけ目を細めた。
「姉様も、喜ぶだろう」
「……そうだといいですね」
俺は空を見上げた。昔、三人で食べたチャーシューまん。師匠がいなくなってから、儀玄はあれを食べなくなってしまった。でも、いつかまた食べてくれる日が来るかもしれない。それまでは、俺が作り続ければいい。
「宗主」
「なんだ?」
「いつか、また食べたくなったら言ってくださいね。チャーシューまん、いつでも作りますから」
宗主は少し驚いたようだった。けれど、すぐに穏やかな表情へ戻る。
「……ああ。その時は頼む」
それだけ答えると、宗主はゆっくり立ち上がった。
「さて、随分話し込んでしまったな。お前さんも、そろそろ戻るといい」
「はい。宗主もちゃんと夕飯食べてくださいよ?」
「分かっている。……お前さんも、な」
最後にそう言って、宗主は歩き去っていった。俺も立ち上がり、厨房へ戻ることにした。
◇
厨房へ戻る頃には、外はすっかり暗くなっていた。夕飯の時間も近い。そろそろ手伝いに入らないとな。そんなことを考えながら食堂へ入ると、ひとつの机に見慣れた姿があった。
瞬光だ。机に頬杖をつき、ぼんやりと窓の外を眺めている。
「……瞬光?」
声をかけると、ぱっとこちらを向いた。
「あっ、沈兄!やっと帰ってきた!」
「どうした?こんなところで」
「待ってたの!」
「俺を?」
「うん!一緒に夕飯食べようと思って」
よく見ると、机には二人分の食器が並べられていた。料理はまだ運ばれてきていないけれど、席はちゃんと空けてある。
「先に食べててよかったのに。俺、いつ戻るか分からなかっただろ?」
「でも、沈兄と一緒に食べたかったんだもん」
瞬光は少しだけ口を尖らせた。
「いつも沈兄がワタシのこと待っててくれるでしょ?だから今日は、ワタシが待ってようかなって」
「……そっか」
俺は隣の席に腰を下ろした。そういえば、誰かに待っていてもらうなんて、いつ以来だろう。普段は待つ側だから、少し不思議な気分だった。
「ありがとな、瞬光」
「えへへ、いいの。ワタシが待ちたかっただけだもん」
瞬光が嬉しそうに笑う。その顔を見ていると、今日一日の疲れが少し軽くなった気がした。
「そうだ、沈兄。明日は何する予定?」
「明日?いつも通り掃除して、洗濯して、飯作って……かな」
「もう、全部いつも通りじゃない!」
「だって、いつも通りなんだからしょうがないだろ」
瞬光は少し考えてから、机の上に身を乗り出した。
「じゃあ、明日はワタシも手伝う!」
「修行は?」
「午前中だけだから、午後なら空いてるよ。チャーシューまんの作り方も教えてほしいし!」
「そうだったな。じゃあ、昼飯を食べ終わってから一緒に作るか」
「約束ね!修行が終わったら、すぐ帰ってくるから!」
「慌てなくていいから、気をつけて帰ってこいよ」
「うん!」
瞬光は満足そうに頷くと、椅子へ座り直した。その横顔を眺めながら、俺は少しだけ明日のことを考える。
きっと、いつもと変わらない一日になるだろう。朝起きて、掃除をして、洗濯をして、飯を作る。瞬光は修行へ出かけて、俺は帰ってくるのを待つ。そして、帰ってきた瞬光に飯を食べさせて、またいつものように笑い合う。
昔の俺は、そんな生活ができるなんて思ってもいなかった。何もできなければ捨てられる。役に立たなければ、そこにいてはいけない。ずっとそう思っていたからだ。でも、師匠は違った。何もできなくても、ここにいていいと言ってくれた。儀玄も、潘も、瞬光も。みんな、俺が何かできるかどうかとは関係なく、こうして一緒にいてくれる。
「……沈兄?」
「ん?」
「何か嬉しそうだね」
瞬光が不思議そうに首を傾げる。
「そうか?」
「うん。さっきからずっと笑ってる」
言われて初めて気づいた。確かに、頬が緩んでいる。
「まあ、明日が楽しみだからかな」
「ふふ、ワタシも!」
瞬光はそう言って、嬉しそうに笑った。
少しして、潘が夕飯を運んできた。俺たちは並んで箸を取り、いつものように他愛もない話をしながら食事を始める。美味しいものを食べて、笑って、明日の約束をする。そんな時間が、俺は好きだった。
今の俺には、瞬光を助けるためにできることがある。それがいつか何を奪うのか、正直なところ分からない。でも、こうして一緒に過ごせる時間も、同じくらい大切にしたいと思っている。
いつもなら、俺が誰かの帰りを待っている。でも今日みたいに、誰かが俺を待っていてくれる日があってもいいのかもしれない。
そんなことを思いながら、俺は隣で楽しそうに食事をする瞬光を見ていた。