瞬光とチャーシューまんを作る約束をしてから、しばらく経った。
本当なら翌日に作る予定だったのだが、俺の仕事と瞬光の修行が重なってしまい、結局その日は見送ることになった。瞬光は随分と残念がっていたものの、次に時間ができたら必ず一緒に作ろうと約束し直すと、何とか納得してくれた。
それからも日々は過ぎ、宗主は本山での用事を終えると、再び衛非地区での活動へ戻っていった。適当観を拠点にするようになってからは、宗主たちが本山を長く留守にすることも珍しくなくなっている。福福たちも向こうでの仕事が忙しいらしく、以前のように顔を合わせる機会は減っていた。
一方、瞬光は宗主の言いつけで本山に残り、修行を続けていた。青溟剣の剣主である以上、宗主が慎重になるのも無理はない。俺だって瞬光の身体が心配だったし、できることなら危ない目には遭ってほしくなかった。ただ、瞬光にしてみれば面白くないだろう。宗主たちは街でいろいろな仕事をしているのに、自分だけは本山で修行する毎日だ。時々、外へ出たいとぼやいている姿も見かけたけれど、俺には話を聞いてやることくらいしかできなかった。
そんな中、一度だけ妙なことがあった。ある夜、いつもより遅く戻ってきた瞬光が、やけに機嫌よく厨房へ顔を出したのだ。何かいいことでもあったのかと尋ねると、少し迷ったあと、実はこっそり山を下りて適当観へ行っていたのだと白状した。そこでリンという新しい妹弟子に会ったらしい。
「すっごく可愛い子だったんだよ!ワタシのこと、姉弟子って呼んでくれたの!」
そう嬉しそうに話す瞬光を見て、まずは無事に帰ってきたことに安心した。もちろん、勝手に下山したことについては注意したけれど、本人はすでに反省したと言い張っている。そのうえ、宗主には内緒にしてほしいと頼み込まれてしまった。まったく、あいつは。
やがて、瞬光の修行がようやくひと段落した。ちょうどその頃、宗主と直弟子たちが急な用事で市内へ向かったらしい。それを聞いた瞬光が妙にそわそわしていたのは覚えている。まさか、また黙って山を下りるつもりだったとは思わなかったけどな。
その日の昼頃、いつものように厨房で仕事をしていると、窓の向こうに見慣れた人影が通り過ぎた。
「……ん?」
瞬光だった。それ自体は珍しくない。問題は、背中に荷物を背負い、周囲を気にしながら山門の方へ歩いていることだった。しかも、誰かとすれ違いそうになるたびに物陰へ隠れている。
……あいつ、まさか。
俺は手を止め、急いで厨房を飛び出した。
「おーい、瞬光!」
「ひゃっ!?し、沈兄!?」
声をかけた途端、瞬光が飛び上がった。振り返った顔を見る限り、何か後ろめたいことがあるのは間違いなさそうだった。
「お前、そんな荷物持ってどこ行くんだ?」
「えっと……ちょっと、お出かけしようかなって」
「お出かけ?随分と大荷物だな。前みたいに、すぐ帰ってくるつもりじゃないだろ」
「そ、それは……まだ決めてない、かな?」
「……宗主には話したのか?」
瞬光が目を逸らす。やっぱりか。
「瞬光。前にも言ったけど、黙って下山したら宗主が心配するだろ」
「分かってるよ!でも、ワタシだってたまには街に行きたいんだもん。師匠も福姐さんも、みんな適当観でいろんなことをしてるのに、ワタシだけずっと本山で修行してるんだよ?」
そう言って、瞬光は不満そうに頬を膨らませた。
「それに、修行だってちゃんとひと段落したんだから、少しくらい外に出てもいいと思わない?」
「気持ちは分かるよ。でも、だからって勝手に行くのは駄目だろ。せめて宗主に連絡してからにしよう」
「それじゃ絶対止められちゃうよ!」
「……止められる理由があるのは、お前も分かってるだろ?」
俺がそう返すと、瞬光は口を閉じた。
青溟剣のことだ。宗主が瞬光を本山に留めているのは、単に厳しいからじゃない。剣棺によって力を封じていても、青溟剣と瞬光のつながりが消えたわけではなかった。実際、剣を抜いていない時でも、以前の反動が残っているのか、瞬光がふいに体調を崩すことはあった。そんな時、俺は昔と同じように瞬光の肩へ触れ、代わりになってあげたいと願うことで、代償の一部を引き受けてきた。瞬光はあの幼い頃のおまじないが効いているのだと思っているけれど、実際には俺の身体へ負担が移っている。
どれだけ肩代わりできているのかも、どうして俺にそんなことができるのかも、まだはっきりとは分からない。それでも、瞬光が少し楽になるのは確かだった。だからこそ、できる限りそばにいてやりたい。
「……沈兄」
考え込んでいると、瞬光が俺の袖を軽く引いた。
「ワタシね、ただ遊びたいだけじゃないんだよ」
「……うん?」
「本山で修行するのも大事だけど、外に出なきゃ分からないことだってあるでしょ?困ってる人がいたら助けたいし、いろんな人とも会ってみたいの」
瞬光は真剣な顔で続けた。
「ワタシ、ちゃんと自分の足で歩いてみたいんだ」
その顔を見て、少し困ってしまった。こういう時の瞬光は、昔から頑固だ。一度自分で決めたことは、簡単には曲げない。それに、あの夜に一度下山してからというもの、瞬光はますます街へ出ることを楽しみにしていた。リンという妹弟子に会えたことが、よほど嬉しかったらしい。
「……はあ。分かったよ」
「ほんと!?」
「ただし、一人で行くのは駄目だ」
俺がそう言うと、瞬光は不思議そうに首を傾げた。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「俺もついていく」
「……えっ?」
「お前が一人で勝手に行くくらいなら、俺が一緒にいた方が安心だからな。どうせ止めても行くつもりなんだろ?」
図星だったらしい。瞬光は少し気まずそうに笑ったあと、ぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、沈兄も一緒にお出かけしてくれるの!?」
「まあ、そういうことになるな。ただし、宗主に怒られる時は一緒だからな」
「うん!ありがとう、沈兄!」
そう言って、瞬光が勢いよく抱きついてきた。突然のことで少しよろけたが、左手で何とか受け止める。
「おっと……!ほら、そんなに飛びつくなって。もう子供じゃないんだろ?」
「えへへ、嬉しくて!」
まったく、昔からこういうところは変わらない。
とはいえ、このまま出かけるわけにもいかないので、まずは厨房へ戻って仕事を引き継ぐことにした。残っている門弟にしばらく不在になることを伝え、仕込みの続きを頼んでおく。急にいなくなれば迷惑がかかるし、何かあった時に連絡が取れないのも困る。宗主に無断で瞬光と下山するのは褒められたことじゃないけれど、俺まで何も言わずに消えるわけにはいかないからな。
引き継ぎを終えて戻ると、瞬光は山門の近くで待っていた。
「沈兄!準備できた?」
「ああ。……お前、まだ行ってなかったんだな」
「行かないよ!沈兄と一緒に行くって決めたんだから!」
その返事を聞いて、少し安心した。
「じゃあ、行くか」
「うん!」
こうして俺は、瞬光の二度目の無断下山に付き合うことになった。
◇
本山を離れ、衛非地区へ向かう。久しぶりに外へ出られたのがよほど嬉しいのか、瞬光は道中ずっと楽しそうにしていた。見慣れない店や人の集まりを見つけるたびに立ち止まり、俺へ話しかけてくる。
「沈兄、あのお店知ってる?」
「ん?ああ、前に潘と買い出しに来た時に寄ったことあるぞ」
「いいなあ!ワタシも行ってみたい!」
「じゃあ、あとで寄ってみるか。時間があればだけどな」
「ほんと!?やった!」
そんなに喜んでくれるなら、連れてきた甲斐もあったというものだ。もちろん、俺が勝手に下山を許可していいわけじゃないんだけど。
「そういえば沈兄、チャーシューまんの約束、まだ覚えてる?」
「そりゃ覚えてるよ。お前が何度も確認してきたんだからな」
「だって、なかなか時間が合わなかったんだもん!」
瞬光は不満そうに言いながらも、すぐに笑った。
「でも、適当観に行けば厨房もあるでしょ?そこで一緒に作れないかな?」
「作れると思うけど、勝手に厨房を借りるわけにはいかないぞ。リンたちに確認してからな」
「うん!リンも喜んでくれそう!」
「ああ。どうせなら、みんなの分も作るか」
「えへへ、楽しみ!」
本当に楽しみにしてくれているらしい。師匠に初めて料理を褒めてもらった時も嬉しかったけれど、こうして瞬光が自分から教えてほしいと言ってくれるのも、また違った嬉しさがある。
ふと、隣を歩く瞬光へ目を向けた。小さい頃は俺の後ろをついて歩いていたのに、今では俺よりずっと強くなった。それでも、こうして隣で笑ってくれるところは昔のままだ。
「……沈兄?」
「ん?どうした?」
「何か嬉しそうだね」
「そうか?まあ、お前が楽しそうだからな」
そう答えると、瞬光は少しだけ驚いた顔をした。それから、嬉しそうに笑う。
「……そっか。えへへ」
何だか照れくさそうだったけれど、特に気にすることでもないだろう。俺たちはそのまま、衛非地区の街へ向かった。
◇
その後の数日間、俺たちは衛非地区をあちこち歩き回ることになった。
途中で出会ったのが、シシオだった。どうやらあいつも本山を抜け出していたらしく、瞬光の姿を見つけた途端、随分と慌てた様子で逃げ出そうとした。
「ンナッ!?ンナナナ!」
「ちょ、ちょっと待って!ワタシ、捕まえに来たんじゃないよ!」
瞬光が慌てて呼び止める。シシオは警戒したように俺たちを見比べていたが、瞬光もこっそり下山してきたのだと知ると、急に態度を変えた。
「ンナ、ンナナ!」
何やら胸を張って力説している。
「……何だって?」
「一緒に世を巡る修行の旅に出よう、だって!」
瞬光が嬉しそうに通訳してくれた。
「……修行の旅?」
「うん!街には困ってる人がいっぱいいるかもしれないし、ワタシも雲嶽山の弟子として人助けをしたいの!」
シシオも賛成らしく、勢いよく両腕を振っている。どうやら、二人ともすっかりその気になってしまったらしい。
「……まあ、人助けするのはいいけどさ。危ないことだけはするなよ?」
「大丈夫!沈兄も一緒でしょ?」
「俺が一緒だからって、何でもできるわけじゃないんだけどな……」
そう言いながらも、結局二人についていくことにした。
それからの日々は、思っていた以上に賑やかだった。道に迷った人を案内したり、荷物を運ぶのを手伝ったり、困っている店主の仕事を引き受けたり。瞬光は誰かが困っていると放っておけない。シシオもそのたびに張り切っていたが、難しい言葉を使っているらしく、瞬光に通訳してもらっても相手に伝わらないことがあった。そういう時は、俺が話を整理して伝え直すことになる。
「沈兄!さっきのおばあさん、すっごく喜んでくれたね!」
「ああ。荷物が重くて困ってたみたいだし、助かったんじゃないか?」
「えへへ。やっぱり街に出てきてよかった!」
嬉しそうに笑う瞬光を見ていると、俺も悪い気はしなかった。それに、こうして街を歩くのは俺にとっても久しぶりだった。普段は本山で料理や掃除をしていることが多いから、見慣れないものがいろいろあって面白い。
ただ、問題がひとつあった。
「……瞬光」
「なあに、沈兄?」
「そろそろ金が厳しくなってきたんだけど」
持ってきた財布を確認しながら言うと、瞬光がきょとんとした顔をした。
「えっ、もう?」
「もうって……何日経ったと思ってるんだよ。三人で食事したり泊まったりしてるんだから、そりゃ減るって」
瞬光は指を折りながら日数を数え始めた。途中で何かに気づいたらしく、気まずそうに俺を見る。
「……結構経っちゃったね」
「そうだな」
「でも、まだ行ってみたいところもあるんだよね……」
本当に欲張りな奴だと思う。とはいえ、これ以上あちこち歩き回るのも考えものだった。俺も急いで本山を出てきたので、大して金を持ってきていない。
「だったら、一度適当観に行ってみるか。リンにも会いたいんだろ?」
「……いいの?」
「ああ。ただし、泊めてもらえるかどうかは聞いてみないと分からないぞ。いつまでも外で宿を探してるよりはいいだろ」
「うん!じゃあ、適当観に行こう!」
瞬光が嬉しそうに頷いた。シシオも大賛成らしく、元気よく鳴いている。
それにしても、結局チャーシューまんはまだ作れていない。せっかくの約束なのに、随分と待たせてしまったな。まあ、適当観に着いて落ち着いたら、今度こそ一緒に作ればいいか。
◇
適当観に着くと、ちょうど本堂の前に人だかりができていた。どうやら占いをしてほしい人たちが集まっているらしい。けれど、肝心の門弟たちの姿が見えない。
「……随分賑やかだな」
俺がそう呟くと、シシオが何やら得意げに鳴いた。どうやら、今日は適当観の人たちが外へ出ていると知っていたらしい。
「じゃあ、今はリンたちもいないのかな?」
瞬光が少し残念そうに呟く。せっかく再会できると思っていたのに、留守だったらしい。
「まあ、少し待ってみよう。帰ってくるかもしれないしさ」
そう言いかけたところで、瞬光が何かを思いついたように顔を上げた。
「……よし!」
「ん?」
「ここはワタシに任せて!」
そう言って、瞬光はシシオと一緒に前へ出ていった。何をするつもりなのかと思って見ていると、こいつは急に背筋を伸ばし、普段とは違う落ち着いた声で話し始めた。
「ふむ……なるほど。そなたの悩み、しかと聞き届けた」
……おい。どこかで聞いたことのある喋り方だな。
「人の世には様々な縁がある。焦らず、まずは己の心を静めることだ」
ああ、これ宗主の真似か。よく聞いているなと思う反面、本人に見つかったらどうなるか少し心配になってきた。
「ンナ、ンナナ!」
シシオも隣で大げさな身振りをしている。二人とも随分と楽しそうだった。ただ、訪れた人たちは本気で相談しているようなので、あまり適当なことを言わせるわけにもいかない。俺は少し離れたところで、二人の様子を見守ることにした。
「先生、うちの子が最近なかなか言うことを聞かなくてねえ……」
「ふむ。子供というものは、己の道を探す時期があるものだ。時には見守ることも必要だろう」
「なるほど……!ありがとうございます!」
……何だか、まともなことを言っているな。自分が黙って下山してきたばかりだということは、すっかり棚に上げているみたいだけど。
その後も瞬光は、訪れた人たちの相談に乗り続けた。シシオは隣で張り切っていたし、気づけば二人ともすっかり適当観の顔になっている。
「……本当に大丈夫かな、これ」
そう呟いたところで、本堂の方から聞き慣れない声がした。
「……あれ?姉弟子?」
振り返ると、一人の女の子が立っていた。確か、リンという妹弟子だったはずだ。瞬光が少し前に出会ったと、嬉しそうに話していた相手。
「姉弟子、こんなところで何してるの?」
「えっ!?リ、リン!?」
瞬光が驚いたように振り返る。けれど、すぐに周囲の視線に気づいたらしく、慌てて咳払いをした。
「こ、こほん!リン、今は大事な占いの最中なの。ちゃんと観主代理って呼んで!」
「……観主代理?」
リンが目を丸くした。
「えっと……分かった、観主代理?」
「う、うむ。よろしい!」
……何だか、随分と無理をしているな。リンも戸惑っているようだったが、瞬光が必死に目配せしているのを見て、何となく事情を察したらしい。
「それじゃ、今日の占いはここまで!また困ったことがあったら、適当観へ来るといいわ!」
瞬光はそう言って占いを切り上げると、リンの手を取って人の少ない場所へ向かった。俺とシシオも、その後を追うことにした。
◇
「ふぅ……危なかったぁ」
人目のないところまで来ると、瞬光はようやく肩の力を抜いた。さっきまでの落ち着いた喋り方はどこへやら、すっかりいつもの瞬光に戻っている。
「もう、姉弟子ったら。びっくりしたよ!どうしてまた適当観にいるの?」
「えへへ……それがね、ちょっと事情があって」
瞬光はそう言って、今回の下山について話し始めた。修行がひと段落したこと。宗主たちが留守にしていること。それからシシオと出会い、街で困っている人たちを助けて回っていたこと。リンは最初こそ驚いていたものの、話が進むにつれて楽しそうに笑っていた。
「へえ、そうだったんだ!瞬光先輩、随分いろんなことしてたんだね」
「うん!すっごく楽しかったよ!シシオも頑張ってくれたしね!」
「ンナ!」
シシオが得意げに胸を張る。リンはそんなシシオを見て笑ったあと、ようやく俺の方へ目を向けた。
「あれ?そういえば、こちらの方も雲嶽山の先輩なの?」
「ああ。初めまして、リン。俺は沈衡っていうんだ」
「沈衡先輩だね!初めまして、私はリンです!」
リンが笑顔で挨拶してくれた。それから瞬光と俺を見比べる。
「もしかして、沈衡先輩も一緒に下山してきたの?」
「まあな。瞬光が一人で行こうとしてたから、心配でついてきたんだ」
「……なるほど」
リンは納得したように頷いた。
「瞬光先輩のこと、すごく大切にしてるんだね」
「そりゃまあ、小さい頃から一緒だからな。放っておけないんだよ」
そう答えると、リンが小さく笑った。
「ふふ、何だか私と似てるかもしれないな」
「リンと?」
「うん。お兄ちゃん、普段は落ち着いてるんだけど、一度決めたらなかなか譲らないところがあってね。それで結局、私がついていくことになるの」
「はは、それは俺と同じだな。瞬光が一人で行くくらいなら、一緒に行った方が安心だし」
「そうそう!心配だからこそ、放っておけないっていうか」
リンが笑う。つられて俺も笑ってしまった。
「……ねえ、沈兄」
隣から声がした。振り返ると、瞬光がこちらを見ていた。
「ん?どうした?」
「……リンと、もう仲良くなったんだね」
「ああ。今ちょうど、似た者同士だなって話してたんだよ」
「……そっか」
瞬光は小さく頷いた。どうしたんだろう。さっきまであんなに嬉しそうだったのに、少しだけ元気がなくなったように見える。
「疲れたか?何日も歩き回ってたもんな。休めるところがあるなら、少し座らせてもらうか?」
「えっ?ううん!大丈夫だよ!」
瞬光は慌てて首を振った。疲れているようには見えない。ただ、何か気になることがあるような顔だった。
そんな瞬光を見ていると、リンがふと首を傾げた。
「そういえば瞬光先輩、これからどうするつもりなの?もう本山に戻るの?」
「……あっ」
瞬光が何かを思い出したように声を上げる。
「そうだった!リン、お願いがあるの!」
「なあに?」
瞬光は俺とシシオを交互に見てから、少し困ったように笑った。
「実はね、街でいろんな人を助けて回ってたら、いつの間にかお金がほとんどなくなっちゃって……」
「えっ、大丈夫なの?」
「う、うん!今のところは大丈夫なんだけど、このままだと泊まるところもなくなっちゃうから……」
瞬光はリンの手を両手で握った。
「お願い、リン!ワタシたちを適当観に泊めてもらえないかな?」
「……えっ?」
「ワタシとシシオ、それから沈兄も!ちょっとの間だけでいいの!」
リンは一瞬きょとんとしたあと、すぐに笑顔になった。
「なあんだ、そんなこと?もちろんいいよ!」
「ほんと!?」
「うん!適当観だって雲嶽山の拠点なんだから、姉弟子にとっては自分のお家みたいなものでしょ?それに、みんなで過ごした方が賑やかで楽しいし!」
「リン……!」
瞬光の顔がぱっと明るくなる。俺もようやく安心した。これでしばらくは、泊まる場所を探して歩き回らずに済みそうだ。
「助かるよ、リン。急に押しかけて悪いな」
「気にしないで、沈衡先輩!お兄ちゃんにも話しておくね」
「ありがとう」
俺が礼を言うと、リンは笑顔で頷いた。ただ、その横で瞬光が何やら考え込んでいる。
「……あっ、そうだ」
「どうしたの、姉弟子?」
「えっとね、リン。もうひとつお願いがあるんだけど……」
瞬光は少しもじもじしながら、リンの顔を覗き込んだ。
「その前に、もう一回『瞬光先輩』って呼んでくれない?」
「……え?」
「その……何回か!」
リンが不思議そうに瞬きをする。俺も思わず瞬光の顔を見た。何をお願いするのかと思ったら、そんなことか。
「えっと……瞬光先輩?」
「うんうん!」
「瞬光先輩、瞬光先輩!……これでいい?」
瞬光は何とも嬉しそうに頬を緩めた。
「えへへ……もうちょっと聞いてたいけど、今はそれどころじゃないよね」
「……?」
リンが首を傾げる。瞬光は名残惜しそうにしながらも、少し真面目な顔になった。
「実は、ここにいる他の弟子たちには、ワタシの正体を秘密にしてほしいの。師匠に知られたら、すぐ本山に連れ戻されちゃうかもしれないから……」
「……なるほど」
「だから、人前では『姉弟子』とか『瞬光先輩』って呼ぶのはなし!代わりに『光ちゃん』って呼んでくれない?」
「光ちゃん?」
「うん!ワタシもリンのことは名前で呼ぶし、普通のお友達みたいにしてくれたら嬉しいな」
リンは少し考えてから、にっこり笑った。
「分かった!じゃあ、他の弟子たちには雲嶽山に憧れて遊びに来た友達ってことにしておくね」
「やった!ありがとう、リン!」
瞬光が嬉しそうに抱きつく。その勢いに少し驚きながらも、リンは笑って受け止めていた。
「もう、光ちゃんったら!」
「えへへ……!」
早速そう呼ばれて、瞬光は少し照れくさそうに笑った。
……それにしても。本山から下りてきた理由を秘密にしたいのは分かるけど、俺まで一緒にいる以上、どこまで隠し通せるのかは怪しいところだ。まあ、必要以上に騒ぎを大きくすることもないだろう。
「沈兄も、ちゃんと合わせてよ?」
「えっ、俺もか?」
「当たり前でしょ!沈兄がみんなの前で『瞬光は雲嶽山の姉弟子だから』なんて言ったら、全部ばれちゃうんだから!」
「そんなことわざわざ言わないって」
「ほんとに?」
「……信用ないなあ」
俺が苦笑すると、瞬光は満足そうに頷いた。
◇
そのあと、適当観の中へ案内してもらった。出迎えてくれたのが、リンの兄であるアキラだった。
「あれ、リン?お客さん?」
「うん!この子が光ちゃん。前に話した、雲嶽山に興味がある友達だよ!」
「こんにちは、アキラ!」
瞬光が元気よく挨拶する。アキラは少し驚いたようだったが、すぐに笑顔を浮かべた。
「こんにちは。アキラです。よろしくね」
「うん!よろしく!」
どうやら、瞬光とアキラが直接顔を合わせるのは今回が初めてらしい。俺もアキラとは初対面だったので、リンから紹介してもらい、改めて挨拶を交わした。
「沈衡先輩ですね。初めまして、リンの兄のアキラです」
「ああ、初めまして。急に押しかけちゃって悪いな」
「いえ、大丈夫ですよ」
それからリンが宿泊のことを説明すると、アキラも快く了承してくれた。
「客室なら空いていますし、しばらく使ってもらって構いませんよ」
「ありがとう。助かるよ」
正直、少し安心した。少なくとも、寝る場所を探して街を歩き回る必要はなくなったわけだ。ただ、瞬光にはあとでちゃんと宗主への連絡について話しておかないとな。
「それにしても、沈衡先輩も大変でしたね」
リンがこちらを見て笑った。
「光ちゃんに付き合って、ずっと一緒にいたんでしょう?」
「まあな。でも、こいつが楽しそうだったからよかったよ。元気に帰ってきてくれるだけで嬉しいし、何か美味いものでも作ってやりたくなる」
「分かる!私も、お兄ちゃんが帰ってきた時に好きなものを用意してあげたいなって思うことがあるんだ」
リンが嬉しそうに頷く。
「そういえば沈衡先輩、料理が得意なんだよね?」
「ああ。まあ、それくらいしか取り柄がないからな」
「そんなことないと思うけど……あ、よかったら今度、私にも何か教えてもらえない?」
「もちろんいいよ。作ってみたいものでもあるのか?」
「お兄ちゃんの好きな料理を作ってあげたくて。いつも私の分までご飯を用意してくれるから、たまにはお返ししたいなって思ってるんだ」
なるほど。リンもアキラのことを大切に思っているんだな。
「いいじゃないか。じゃあ今度、アキラの好きなものを教えてくれよ。一緒に作ってみよう」
「本当?ありがとう!」
リンが嬉しそうに笑った。
「でも、お兄ちゃんには内緒でお願いね。せっかくだし、驚かせたいから!」
「ああ、分かった。楽しみにしてるよ」
そう答えると、リンは満足そうに頷いた。何だか、リンとは話が合う気がする。誰かの帰りを待つことも、その人のために何かを用意したいと思うことも。俺が普段から当たり前にしていることを、リンも同じように考えているらしい。
「……ねえ、沈兄」
隣から声がした。振り返ると、瞬光がこちらを見ていた。何か言いたそうに口を開きかけて、すぐに閉じる。
「……瞬光?」
声をかけると、瞬光ははっとしたように顔を上げた。
「あっ、ううん!何でもないよ!」
さっきもこんな顔をしていた気がするけれど、理由は思い当たらなかった。瞬光は笑って誤魔化したあと、少し迷うように俺を見た。
「……ねえ、沈兄。チャーシューまんの約束、忘れてないよね?」
「忘れてないって。適当観の厨房を借りられるなら、明日にでも作るか?」
「……ほんと?」
「ああ。今度こそちゃんとな」
そう答えると、瞬光の表情がぱっと明るくなった。
「えへへ、やった!」
よかった。やっぱり、料理を楽しみにしてたんだな。俺も嬉しくなって笑うと、瞬光も満足そうに頷いた。その横から、リンが身を乗り出す。
「えっ、チャーシューまん!?私も食べたい!」
今度は三人で厨房を使うことになりそうだった。
◇
やがて、部屋の用意ができた。俺はアキラと一緒に荷物を運び、瞬光はリンに案内されて奥へ向かった。廊下を歩きながら、アキラが何気なく声をかけてくる。
「沈衡先輩といる時の光ちゃん、すごく楽しそうでしたね。ああいう顔を見ると、何だか安心します」
「そうか?」
「ええ。……僕たちも、光ちゃんには楽しく過ごしてほしいと思っているので」
「ありがとな。俺も同じだよ」
本当に、それだけで十分だった。瞬光が元気に笑ってくれる。美味い飯を食べて、好きなことをして、何でもない毎日を過ごせる。そんな日が続けばいいと思っている。だからこそ、青溟剣のことだけは心配だった。もし瞬光が苦しむことになったら、その時は、また俺が何とかしてやればいい。そう考えながら、俺は荷物を部屋へ運び込んだ。
◇
一方、リンに案内されて廊下を歩いていた瞬光は、先ほどの会話を思い出していた。
沈兄とリン。二人とも楽しそうに笑っていた。別に、それ自体は何もおかしくない。リンは明るくて優しいし、沈兄だって誰とでも仲良くなれる人だ。それなのに、どうしてだろう。二人が楽しそうに話しているのを見ると、何だか胸の奥が落ち着かなくなる。
「……光ちゃん?」
前を歩いていたリンが振り返った。
「どうかした?」
「えっ?ううん!何でもないよ!」
慌てて首を振る。リンは少し不思議そうな顔をしたが、すぐに笑った。
「そう?あ、そうだ。明日のチャーシューまん作り、私も楽しみにしてるね!」
「……うん!」
瞬光は笑顔で頷いた。リンのことは好きだ。一緒にいると楽しいし、こうして親切にしてくれるのも嬉しい。沈兄がリンと仲良くなったなら、本当は喜んでいいはずなのに。それでも、さっきの光景が頭から離れない。
「……ねえ、リン」
「なあに?」
「沈兄と、話が合うんだね」
「ああ、そうなんだよ!何だか考えてることが似てるみたいで、話してて楽しかった!」
リンが嬉しそうに答える。瞬光は、その笑顔を見ながら小さく頷いた。
「……そっか」
何だろう。別に、リンが悪いわけじゃない。沈兄だって、何か特別なことをしたわけじゃない。なのに。
「……ワタシだって、沈兄のこといっぱい知ってるもん」
思わず、小さな声で呟いていた。
「えっ?」
「な、何でもない!」
慌てて顔を上げる。リンが不思議そうにこちらを見ていた。
「えへへ……ちょっと独り言!」
そう誤魔化して、瞬光は歩き出した。
沈兄は、ずっとそばにいてくれた。小さい頃から何度も助けてもらって、いつだって自分のことを心配してくれる。帰ってきた時には必ず笑って迎えてくれるし、美味しいご飯も作ってくれる。それが当たり前だった。でも、今日。沈兄がリンと楽しそうに話しているところを見て、少しだけ嫌だと思ってしまった。
ワタシだけに笑ってほしい。
そこまで考えた瞬間、足が止まった。
「……え?」
自分が何を考えたのか、遅れて理解する。何で、そんなことを思ったんだろう。沈兄は誰にでも優しい。そんなこと、ずっと前から知っているのに。
「……光ちゃん?」
リンが再び振り返った。
「顔、ちょっと赤いよ?大丈夫?」
「だ、大丈夫!ちょっと暑いだけだから!」
そう答えて、瞬光は両手で頬を押さえた。確かに熱い。でも、暑いからじゃないことくらい、自分でも分かっていた。
沈兄はいつも通りだった。困っている人がいれば放っておけない。そんなところが昔から好きだったはずなのに、今日はどうしてか、少しだけ違って見えた。
さっき胸に浮かんだ言葉を思い出すたび、頬の熱が増していく気がした。