雨の日の、書き残さない一行   作:風ゆらり ウサラートマート

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そして、二人のそばには黒い兎の黒兎吉と、白猫の総季。

雨の日の縁側でのんびり過ごしたり、些細なことで言い合いになったり、ときには思いがけない騒動に巻き込まれたり。

激動の幕末を背景に、個性豊かな仲間たちが繰り広げる、笑いあり、優しさあり、ちょっぴり切なさもある物語。

一話完結を基本としているので、どのお話からでもお楽しみいただけます。

兎耳隊長と仲間たちの、少し不思議な新選組日和。

※本シリーズは、新選組や歴史上の人物をモチーフにした「風ゆらり」のオリジナル歴史ファンタジーです。史実とは異なる設定や展開が含まれます。


桜の下では、隊長も休み

第一章 川面に滑る花びらと黒兎

 

「桜の下では、隊長も休み」

 

そう宣言したのは、新選組副長の坂本信子だった。

 

京の町を流れる水路に、一艘の屋形舟がゆっくりと浮かんでいる。

 

両岸に立ち並ぶ町家の屋根を越え、枝垂れ桜が薄桃色の花を水面へと垂らしていた。

 

春の陽光を浴びた川面は、まるで細かな硝子を散りばめたように輝いている。風が吹くたび無数の花びらが舞い降り、流れに乗って小さな舟の周りを漂っていた。

 

その花びらの一枚を、黒い兎が鼻先でつついた。

 

黒兎吉(くろうさきち)である。

 

舟の縁に前脚をかけ、流れていく花びらを不思議そうに追いかけている。

 

一方、その隣では白猫の総季(ふさき)が、もっと大きなものに興味を示していた。

 

水中を悠々と泳ぐ錦鯉だ。

 

朱色と白の鮮やかな模様をまとった鯉が舟の影を横切るたび、総季の耳がぴくぴくと動く。

 

やがて、我慢できなくなったらしい。

 

小さな前脚が、そろりと水面へ伸びた。

 

「総季。見るだけにしちょきよ」

 

信子がそっと背中を押さえる。

 

総季は不満そうに鳴いた。

 

「にゃあ」

 

「そんな顔したち、駄目なもんは駄目。落ちたら濡れてしまうろう?」

 

「魚もお花見してるぴょん。邪魔しちゃ駄目ぴょん」

 

舟の舳先に腰掛けていたウサラートが、もっともらしい顔で言った。

 

長い黒髪を春風になびかせ、その頭には立派な兎耳が二本。

 

黒を基調とした装束に身を包む彼女こそ、新選組を率いる隊長である。

 

ただし、今日は刀を振るうでもなく、隊士に指示を出すでもない。

 

両手を膝に置き、のんびりと川面を眺めていた。

 

「ほう。隊長は魚の気持ちまで分かるが?」

 

信子が楽しそうに尋ねる。

 

「もちろんぴょん。あの鯉、ずっと同じ桜の下を泳いでるぴょん。きっとお気に入りの場所なんだぴょん」

 

「それ、あてらの舟から見たら、そう見えるだけやない?」

 

「……む」

 

ウサラートの耳が、わずかに傾いた。

 

「今日は何も考えなくていい日だって、信子が言ったぴょん」

 

「言うたねえ」

 

「だったら、今の発言も深く考えちゃ駄目ぴょん」

 

「ふふ。都合のえいところだけ、よう覚えちゅうね」

 

信子の笑い声が、水面に落ちた花びらのように軽やかに広がった。

 

舟の屋根には、桜の花が薄く積もっている。

 

赤い提灯が風に揺れ、木板の隙間からは水の音が聞こえていた。

 

黒兎吉はウサラートの裾を前脚で踏み、総季は信子の膝へ移って丸くなる。

 

これほど穏やかな時間は、いつ以来だろう。

 

ウサラートは桜を見上げた。

 

京を守る新選組の隊長として、日々の務めに追われている。

 

町の見回り。

 

隊士たちの稽古。

 

寄せられる相談。

 

不審な動きの調査。

 

そして、机の上に次々と積まれる報告書。

 

休みを取るよう副長に言われても、つい何か仕事を探してしまう。

 

今日だって、信子に半ば強引に連れ出されたのだ。

 

「隊長、明日は休みにするきね」

 

昨夜、信子はそう告げた。

 

「でも、明日の報告があるぴょん」

 

「副長のあてがおる」

 

「見回りの予定も確認しないと駄目ぴょん」

 

「確認したち、もう決まっちゅうろう?」

 

「もし何かあったら……」

 

「その『もし』は、起きてから考えたらえい」

 

そう言って、信子はウサラートの机から仕事の書類を取り上げてしまった。

 

結局、押し切られる形で今日を迎えたのである。

 

ところが。

 

舟の進む先に、古い石橋が見えてきた。

 

ウサラートは無意識に橋の上へ視線を走らせる。

 

通行人は三人。

 

橋のたもとに石段が一つ。

 

岸へ上がれそうな場所が二か所。

 

橋の下は日陰になっており、舟が近づけば見通しが悪くなる。

 

そこまで考えたところで。

 

くいっ。

 

袖を引かれた。

 

「また数えゆう」

 

信子だった。

 

「何をぴょん?」

 

「橋の上の人と、岸に上がれる場所」

 

「……どうして分かったぴょん?」

 

「隊長の目を見よったら分かるよ」

 

信子は困ったように笑った。

 

「今日くらい、そんなこと考えんでもえいがよ」

 

「でも、何かあったら困るぴょん」

 

「そんときは、あてもおるき」

 

さらりと言われた言葉に、ウサラートは口を閉じた。

 

信子はもう川面へ視線を戻している。

 

総季の背中を撫でながら、桜の花びらが水へ落ちる様子を眺めていた。

 

「……信子は休まないぴょん?」

 

「休みゆうよ」

 

「でも、総季の見張りをしてるぴょん」

 

「これは仕事やのうて、世話じゃき」

 

「それなら、わたしの見張りも仕事じゃないぴょん」

 

「隊長まで舟から落ちそうになったら、あての休みがなくなるきね」

 

「わたしは落ちないぴょん!」

 

勢いよく身を乗り出した拍子に、舟がわずかに揺れた。

 

信子はすかさずウサラートの袖をつかむ。

 

「ほら、危ない」

 

「……今のは、舟が勝手に揺れたぴょん」

 

「はいはい」

 

信子は笑いながら手を離した。

 

春の風が、二人の間を静かに通り抜けていった。

 

第二章 三色の団子と好きなもの

 

黒兎吉が、小さく鼻を鳴らした。

 

「くぅ」

 

それから信子の隣に置かれた竹皮の包みを、前脚でぽんぽんと叩く。

 

「どうしたぴょん?」

 

ウサラートが顔をのぞき込む。

 

黒兎吉は返事をする代わりに、もう一度包みを叩いた。

 

「ああ、そうじゃった」

 

信子が包みを持ち上げる。

 

「せっかく買うてきたがやき、忘れたらいかんね」

 

結び目をほどくと、中から三色団子が現れた。

 

桃色、白、若草色。

 

春の景色をそのまま小さな串に並べたような、可愛らしい団子である。

 

「お団子ぴょん!」

 

ウサラートの兎耳が、ぴんと立った。

 

「隊長、さっきまで難しい顔しよったに」

 

「お団子は重要ぴょん」

 

「橋の見張りより?」

 

「それとこれとは別問題ぴょん」

 

信子は楽しそうに笑い、一本を差し出した。

 

「はい、どうぞ」

 

「ありがとうぴょん!」

 

受け取ったウサラートは、三色の団子をじっくり眺めた。

 

どこから食べようか。

 

一番好きなのは桃色だ。

 

けれど、最初に食べてしまうのは惜しい。

 

最後まで楽しみを残すのが、ウサラートの流儀だった。

 

「信子は、どの色が好きぴょん?」

 

「桃色かな」

 

「じゃあ、最後に残すぴょん?」

 

「いや、最初に食べるよ」

 

信子は迷わず、桃色の団子を口に運んだ。

 

「ぴょん!」

 

ウサラートが驚いた声を上げる。

 

「どういたが?」

 

「一番好きなのを、もう食べちゃったぴょん!」

 

「好きなもんやき、先に食べたがよ」

 

「もったいないぴょん!」

 

「どうして?」

 

「最後のお楽しみがなくなるぴょん!」

 

信子は団子を飲み込むと、少し考えるように首を傾けた。

 

「けんど、最後まで残しちょいて、食べられんなったら嫌やろう?」

 

「誰も取らないぴょん」

 

「そうとは限らんよ。落とすかもしれんし、お腹いっぱいになるかもしれん」

 

「お団子でお腹いっぱいにはならないぴょん」

 

「ふふ。隊長らしいねえ」

 

信子は残った白い団子を眺めた。

 

「好きなもんは、好きなときに楽しんだらえい。あてはそう思うがよ」

 

ウサラートは、その言葉を聞きながら自分の団子へ視線を落とした。

 

一番上の桃色。

 

やっぱり、最後まで残しておきたい。

 

そう考えていたときだった。

 

ごとん。

 

舟底に、何かが触れるような小さな音がした。

 

続いて、舟がぐらりと傾く。

 

「にゃっ!」

 

総季が体勢を崩した。

 

信子の手が、すばやく伸びる。

 

「総季!」

 

白い体を抱き寄せた、その一方で。

 

ウサラートも片腕で黒兎吉を支え、もう片方の手で団子を高く掲げていた。

 

舟はすぐに元の姿勢へ戻った。

 

水面には、何事もなかったように波紋が広がっている。

 

二人は顔を見合わせた。

 

信子の腕には総季。

 

ウサラートの腕には黒兎吉。

 

そしてウサラートの手には、無傷の三色団子。

 

「……守りきったぴょん」

 

「団子も?」

 

「もちろんぴょん!」

 

信子はたまらず吹き出した。

 

「あははっ! 隊長、ほんまに器用なねえ!」

 

「笑うことないぴょん!」

 

「だって、あんなに真剣な顔しちょったき!」

 

「黒兎吉も団子も大事ぴょん!」

 

「うんうん。よう分かっちゅうよ」

 

笑いながら信子が答えると、黒兎吉が何か言いたげに耳を動かした。

 

総季も信子の腕の中から顔を出し、ウサラートの団子を見上げている。

 

「総季にはあげられないぴょん」

 

ウサラートは串を少し遠ざけた。

 

「猫は猫のご飯を食べるぴょん」

 

「隊長、その言い方やと、黒兎吉にはあげるつもりみたいじゃね」

 

「黒兎吉にも、お団子はあげないぴょん」

 

「ほんなら安心じゃ」

 

信子は懐から小さな包みを取り出した。

 

そこには、二匹のために用意したそれぞれの食べ物が入っていた。

 

「こっちは二匹の分じゃきね」

 

黒兎吉が鼻をひくひくと動かす。

 

総季は嬉しそうに尻尾を揺らした。

 

二匹が落ち着いたところで、ウサラートはようやく団子を口に運ぶ。

 

桃色の団子を、ひと口。

 

「……おいしいぴょん」

 

柔らかな甘さが、口の中に広がった。

 

思っていたよりも、ずっとおいしい。

 

「ほら、好きなもんから食べたらえいこともあるろう?」

 

信子が笑う。

 

「……今日は特別ぴょん」

 

「そういうことにしちょこうか」

 

春風が吹いた。

 

水面に桜が舞い散り、舟の屋根からも花びらがこぼれ落ちる。

 

ウサラートはもう一度、桃色の団子があった場所を見つめた。

 

最後のお楽しみは、なくなってしまった。

 

けれど。

 

今、確かにおいしかった。

 

それも、悪くない気がした。

 

第三章 副長の眼差しと休息の真意

 

舟はゆっくりと石橋の下へ入っていった。

 

それまで降り注いでいた陽光が遮られ、水面の色が淡い翡翠色へ変わる。

 

橋の下には、ひんやりとした空気が満ちていた。

 

水の音が、少しだけ大きく響く。

 

ウサラートは食べ終えた団子の串を竹皮に戻し、膝の上で両手を重ねた。

 

先ほどまで騒いでいた黒兎吉も、今はおとなしく寄り添っている。

 

総季は信子の膝で丸くなり、うとうとと目を閉じていた。

 

「……信子」

 

「ん?」

 

「わたし、そんなに休めてなかったぴょん?」

 

信子はすぐには答えなかった。

 

橋の上から、人の足音がかすかに聞こえる。

 

やがて、その音が遠ざかってから、信子はゆっくりと口を開いた。

 

「昨日のお茶、覚えちゅう?」

 

「お茶ぴょん?」

 

「隊長室で、三回も温め直したお茶」

 

「……覚えてるぴょん」

 

「一度も、温かいうちに飲めんかったろう?」

 

「仕事があったから仕方ないぴょん」

 

「一昨日は?」

 

「……何かあったぴょん?」

 

「朝から草履を履いたまま、座敷で書類を読んじょった」

 

ウサラートは視線をそらした。

 

「呼び出しがあったら、すぐに出られるぴょん」

 

「今朝は、舟に乗る前に何を聞いた?」

 

「……何時に屯所へ戻るか、だぴょん」

 

「そうじゃね」

 

信子は小さく頷いた。

 

責めるような口調ではない。

 

けれど、その穏やかな声が、かえってウサラートの胸に響いた。

 

「わたしは隊長だぴょん」

 

ウサラートは静かに言った。

 

「みんなを守らないと駄目ぴょん」

 

「うん」

 

「隊士たちが困ったら、助けないと駄目ぴょん」

 

「そうじゃね」

 

「だから、休んでる場合じゃないこともあるぴょん」

 

信子は何も言わず、続きを待った。

 

「わたしがいないときに、何か起きたらどうするぴょん?」

 

問いかけた声は、いつもより少しだけ小さかった。

 

ウサラートには、人とは異なる長い時を生きる旧支配者としての力がある。

 

けれど、隊長としての責任まで、その力だけで片づけられるわけではない。

 

京に暮らす人々にも、隊士たちにも、それぞれの命と日々がある。

 

どれほど力を持っていようと、一人ですべてを守れるわけではない。

 

それでも、守りたいと思ってしまう。

 

信子は、そんなウサラートの横顔を見つめた。

 

「隊長」

 

「何ぴょん?」

 

「あては、ウサラートが隊長でよかったと思うちゅうよ」

 

ウサラートが顔を上げる。

 

「急にどうしたぴょん?」

 

「みんなのことをよう考えてくれる。誰かが困っちょったら、放っておけん。そういう隊長やき、あても安心して背中を預けられるがよ」

 

「……信子」

 

「けんどね」

 

信子は微笑んだ。

 

「隊長が全部抱え込んだら、あてら副長や隊士の出番がなくなってしまうろう?」

 

「そんなことないぴょん!」

 

「ほんなら、少しは任せてほしいがよ」

 

橋の外から、まばゆい春の光が差し込んでいる。

 

信子は、その光の方へ目を向けた。

 

「隊長がおらんときに、何か起こるかもしれん。それは本当じゃ」

 

「……ぴょん」

 

「けんど、そんときは残っちゅう者が考えて、動けばえい。判断に迷うたら相談したらえい。隊長がおらん間も、隊はちゃんと隊であり続けるがよ」

 

ウサラートは黙って聞いていた。

 

「それに、あては副長じゃき」

 

信子は胸元にそっと手を添えた。

 

「隊長に頼ってもろうたら、嬉しいがよ。任せてもろうた仕事をきちんと果たす。それが、あての役目やきね」

 

「……わたしは、信子を頼りにしてるぴょん」

 

「知っちゅうよ」

 

「本当だぴょん」

 

「うん。あても分かっちゅう」

 

信子は笑みを深めた。

 

「ほんなら今日は、あての段取りを信じて、ゆっくり休んでや」

 

ウサラートは少し考えた。

 

隊長が休んでいる間にも、隊は動いている。

 

報告書は届くだろう。

 

見回りも続いているだろう。

 

どこかで、予想もしなかった出来事が起きるかもしれない。

 

それでも。

 

信子は、信じて任せてほしいと言っている。

 

ウサラートは、膝の上の黒兎吉を撫でた。

 

「……分かったぴょん」

 

その返事を聞いた信子の表情が、ぱっと明るくなった。

 

「ほんま?」

 

「今日は、信子に任せるぴょん」

 

「ふふ。よう言うてくれたね」

 

ちょうどそのとき、舟が橋の影を抜けた。

 

春の日差しが、二人の髪を明るく照らす。

 

水面は再び、無数の光を散りばめたように輝き始めた。

 

そして、桜の枝を揺らす強い風が吹いた。

 

花びらが、一斉に舞い上がる。

 

「わあ……!」

 

信子が思わず声を上げた。

 

薄桃色の花びらが、舟の屋根を越えて降り注ぐ。

 

ウサラートの黒髪にも。

 

信子の青髪にも。

 

黒兎吉の長い耳にも。

 

総季の白い背中にも。

 

春の欠片が、次々と舞い降りてきた。

 

「にゃっ!」

 

総季が突然、信子の膝から身を起こした。

 

目の前をひらひらと飛ぶ花びらに、夢中になったのだ。

 

「総季、こら!」

 

信子が抱き留める。

 

ところが総季は、今度は信子の髪に止まった花びらを前脚で取ろうとした。

 

「ちょっと、総季! あての髪まで引っ張らんといて!」

 

「ふふふっ!」

 

ウサラートが笑った。

 

「総季も信子と同じぴょん!」

 

「何が?」

 

「好きなものを、一番最初に取るぴょん!」

 

「あては花びらを追いかけ回したりせんよ」

 

「お団子は追いかけるぴょん?」

 

「……おいしい団子なら、ちょっと考えるかもしれんね」

 

二人は顔を見合わせ、声を立てて笑った。

 

その笑い声につられたのか、黒兎吉まで鼻を鳴らす。

 

やがて、ウサラートは身を乗り出した。

 

「信子、動かないでぴょん」

 

「ん? どうしたが?」

 

「髪に花びらがついてるぴょん」

 

ウサラートの指先が、信子の青い髪へ伸びる。

 

細い髪の間に引っかかっていた花びらを、一枚だけそっとつまみ取った。

 

「取れたぴょん」

 

「ありがとう。けんど、つけたままでも風流でよかったのに」

 

「じゃあ戻すぴょん」

 

「ふふ。一度取ったもんを戻さんでもえいよ」

 

そう言いながら、信子はウサラートの頭へ手を伸ばした。

 

「隊長にも、ついちゅうよ」

 

「どこぴょん?」

 

「ここ」

 

兎耳の付け根に引っかかっていた花びらを、信子が優しく取り除く。

 

ウサラートはくすぐったそうに目を細めた。

 

「……信子」

 

「ん?」

 

「お花見って、忙しいぴょん」

 

「そうじゃねえ」

 

信子は笑った。

 

「花を見るだけやのに、することがいっぱいじゃ」

 

「でも、仕事より楽しい忙しさだぴょん」

 

「それなら、連れてきた甲斐があったね」

 

黒兎吉が二人の間へ入り込み、舟板に落ちた花びらの匂いを嗅いだ。

 

総季も、その花びらをじっと見つめている。

 

二人と二匹。

 

四つの視線が、小さな薄桃色の花びらへ集まった。

 

いつもなら、とっくに次の仕事を考えている時間だった。

 

けれど、今は違う。

 

ウサラートは、花びらが風に転がる様子をただ眺めていた。

 

それだけで、十分だった。

 

第四章 岸辺の約束と次の団子

 

やがて、舟は水路の奥へと進み、小さな舟着き場へ近づいていった。

 

岸辺には、古い木造の建物が並んでいる。

 

軒先に下がった暖簾が風に揺れ、その向こうには桜並木が続いていた。

 

信子は膝の上の竹皮を畳み、荷物をまとめ始めた。

 

「そろそろ着くね」

 

「……もうぴょん?」

 

ウサラートが思わず尋ねた。

 

「うん。楽しかった?」

 

「楽しかったぴょん」

 

「それはよかった」

 

信子は微笑んだ。

 

「けんど、まだ何か言いたそうじゃね」

 

ウサラートは少しだけ迷った。

 

目の前には、桜の花びらを浮かべた水面が広がっている。

 

舟の横を、先ほどの錦鯉がゆっくり泳いでいった。

 

黒兎吉は気持ちよさそうに目を細め、総季は信子の腕の中であくびをしている。

 

もっと、このままでいたい。

 

けれど。

 

帰らなければならない。

 

隊長としての仕事がある。

 

ウサラートは、そこまで考えてから首を振った。

 

今日は、信子に任せると約束したのだ。

 

「……もう少しだけ、桜を見ていたいぴょん」

 

信子は一瞬、目を丸くした。

 

それから、とても嬉しそうに笑った。

 

「ほんなら、舟を降りてから歩こうか」

 

「歩くぴょん?」

 

「うん。川沿いに桜並木があるがよ。ゆっくり歩いたら、まだまだ花見ができるき」

 

ウサラートの耳が、ぴんと立つ。

 

「本当ぴょん?」

 

「もちろん」

 

「でも、帰る時間は……」

 

そこまで言いかけて、ウサラートは口を閉じた。

 

信子が、じっとこちらを見ている。

 

「……何でもないぴょん!」

 

「ふふ。えらいねえ」

 

「今日は信子の案内に任せるって、約束したぴょん!」

 

「そうじゃったね」

 

信子は満足そうに頷いた。

 

「ちなみに、その桜並木の先には、おいしい団子屋もあるがよ」

 

「お団子ぴょん!」

 

ウサラートの耳が、さらに勢いよく立った。

 

「さっきも食べたろう?」

 

「お花見のお団子は、何本食べても別腹ぴょん!」

 

「そんなこと言いよったら、夕餉が食べられんなるよ」

 

「夕餉も別腹ぴょん!」

 

「隊長のお腹は、いくつあるが?」

 

「必要なだけあるぴょん!」

 

信子は、とうとう声を立てて笑った。

 

「もう、ほんまに。隊長にはかなわんねえ」

 

その笑顔を見て、ウサラートも嬉しくなった。

 

舟が岸辺へ寄せられる。

 

船頭が竿を引き、ゆっくりと舟を止めた。

 

綱が杭に結ばれ、木板の擦れる小さな音が響く。

 

信子は総季を抱き、ウサラートは黒兎吉を腕に収めた。

 

「足元、気をつけてね」

 

「大丈夫ぴょん!」

 

そう答えたウサラートは、舟から降りようとして、ふと動きを止めた。

 

「どうしたが?」

 

「……信子」

 

「ん?」

 

「今日は、ありがとうぴょん」

 

信子の目が、少しだけ大きくなった。

 

「急にどういたが?」

 

「お花見に連れてきてくれて、ありがとうぴょん」

 

ウサラートは抱きかかえた黒兎吉を見つめ、それから信子へ視線を戻した。

 

「最初は、休んでる時間がもったいないと思ってたぴょん」

 

「うん」

 

「でも、今日は楽しかったぴょん」

 

信子は黙って、その言葉を聞いていた。

 

「お団子もおいしかったし、桜もきれいだったぴょん。黒兎吉も総季も楽しそうだったぴょん」

 

「そうじゃね」

 

「それに……」

 

ウサラートは少しだけ恥ずかしそうに笑った。

 

「信子と一緒に、何もしない時間を過ごすのも、悪くなかったぴょん」

 

春風が、二人の間を吹き抜けた。

 

信子の青い髪が、ふわりと揺れる。

 

「あてはね」

 

信子は静かに口を開いた。

 

「ウサラートが、こうして笑うてくれたら、それで十分ながよ」

 

「……ぴょん?」

 

「隊長が頑張っちゅうことは、みんな知っちゅう。あても、よう分かっちゅう」

 

信子は微笑んだ。

 

「けんど、隊長にも好きなもんを楽しむ時間があってえいろう?」

 

ウサラートは、何も言わずに頷いた。

 

「隊長やき休めん、やのうて」

 

信子はそっと手を差し出した。

 

「隊長やきこそ、元気でおってほしいがよ」

 

ウサラートはその手を見つめた。

 

それから、空いている方の手を重ねた。

 

「……そうするぴょん」

 

二人は舟を降りた。

 

石畳には、桜の花びらが一面に散っている。

 

黒兎吉を地面へ下ろすと、黒い小さな体が嬉しそうに跳ねた。

 

総季も信子の腕から降り、桜の花びらを追いかけ始める。

 

「遠くへ行ったら駄目ぴょん!」

 

ウサラートが声をかける。

 

黒兎吉は振り返り、耳を動かした。

 

総季は聞こえなかったふりをして、もう一枚の花びらへ飛びついた。

 

「……総季は、相変わらず自由ぴょん」

 

「ふふ。今日は休みやきね」

 

信子が答えた。

 

二人は並んで歩き出す。

 

頭上には、どこまでも続く桜の枝。

 

足元には、春の光を受けて輝く水路。

 

町家の軒先からは、団子を焼く香ばしい匂いが漂ってきた。

 

「あっ!」

 

ウサラートが顔を上げた。

 

「あれがお団子屋ぴょん?」

 

「そうそう。よう気づいたね」

 

「いい匂いがするぴょん!」

 

「ほんまやねえ」

 

「早く行くぴょん!」

 

ウサラートは嬉しそうに歩調を速めた。

 

ところが、数歩進んだところで立ち止まる。

 

そして、信子を振り返った。

 

「信子!」

 

「どうしたが?」

 

「今度は、好きな味から食べるぴょん!」

 

信子は驚いたように瞬きをした。

 

「最後に残さんが?」

 

「残さないぴょん!」

 

ウサラートは胸を張った。

 

「だって、今日のお団子は、今日しか食べられないぴょん!」

 

信子はしばらく彼女を見つめていた。

 

それから、柔らかく目を細めた。

 

「……そうじゃね」

 

風が吹き、二人の頭上から桜が舞い散る。

 

「ほんなら、あても好きな味から食べようか」

 

「信子はいつもそうだぴょん!」

 

「ふふ。そうじゃったね」

 

二人の笑い声が、春の京の町へ溶けていく。

 

黒兎吉が跳ねる。

 

総季が追いかける。

 

川面には、数えきれないほどの花びらが流れていた。

 

その一枚一枚が、それぞれ違う場所へ運ばれていく。

 

明日になれば、また忙しい一日が始まるだろう。

 

守らなければならないものも、果たさなければならない務めも、なくなるわけではない。

 

けれど。

 

今日という日は、今日しかない。

 

だからこそ、今目の前にある景色を大切にしたい。

 

ウサラートは、隣を歩く信子を見上げた。

 

「信子」

 

「ん?」

 

「来年も、みんなでお花見するぴょん」

 

信子は、すぐに頷いた。

 

「うん。約束じゃね」

 

「そのときも、お団子を食べるぴょん!」

 

「もちろん」

 

「それから……」

 

ウサラートは少し考え、にっこりと笑った。

 

「来年も、桜の下では隊長も休みだぴょん!」

 

信子は嬉しそうに笑った。

 

「そうじゃね。来年も、その次も」

 

桜の花びらが、二人の肩へ舞い降りる。

 

「桜の下では、隊長も休み」

 

春風の中で、信子はもう一度そう言った。

 

今度はウサラートも、迷わず頷いた。

 

「了解ぴょん!」

 

その返事を聞いて、信子は微笑んだ。

 

新選組の隊長と副長。

 

京の町を守る二人の、何でもない春の一日。

 

それは、どんな報告書にも残らない、小さな出来事だった。

 

けれど、その日二人が交わした約束は、舞い散る桜とともに、確かに心へ刻まれた。

 

そして。

 

「信子! お団子、二本買ってもいいぴょん?」

 

「夕餉が食べられるならね」

 

「三本でも大丈夫ぴょん!」

 

「一本増えちゅうよ!」

 

桜並木に、また笑い声が響いた。

 

春の京は、今日も穏やかだった。

 

――了――

 

 




【あとがき・設定資料のご案内】
本作のオリジナルキャラクターのビジュアルや詳細な設定資料は、Pixiv・noteにて公開しています。
関連リンクまとめ
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