雨の日の縁側でのんびり過ごしたり、些細なことで言い合いになったり、ときには思いがけない騒動に巻き込まれたり。
激動の幕末を背景に、個性豊かな仲間たちが繰り広げる、笑いあり、優しさあり、ちょっぴり切なさもある物語。
一話完結を基本としているので、どのお話からでもお楽しみいただけます。
兎耳隊長と仲間たちの、少し不思議な新選組日和。
※本シリーズは、新選組や歴史上の人物をモチーフにした「風ゆらり」のオリジナル歴史ファンタジーです。史実とは異なる設定や展開が含まれます。
一 夜の静寂と風の兆し
竹林の夜は、色を奪う。
昼間は鮮やかな緑に輝いていた竹の幹も、月の下では青黒い影となり、幾重にも重なっていた。
空を覆う細長い葉が風に揺れるたび、月明かりは細かく砕け、石畳の上に淡い光の模様を落としていく。
京の町から少し離れたその参道には、人の姿がなかった。
聞こえるのは、風の音。
葉と葉が触れ合う音。
そして、時折どこか遠くで響く、夜鳥の声だけだった。
そんな静寂を、不意に奇妙な音が破った。
「こつ、こつ、こつ」
乾いた、硬い音。
何か小さなものが、石を叩いているような響きだった。
先頭を歩いていたウサラートが、ぴたりと足を止める。
その半歩後ろを歩いていた坂本信子も、すぐさま立ち止まった。
二人がまとった浅葱色の羽織が、夜風に静かになびく。
ウサラートは新選組の隊長。
そして信子は、その副長である。
今夜も二人は、京の町とその周辺を見回っていた。
ウサラートの足元では、相棒の黒兎吉が長い耳をぴんと立てている。
信子に付き従う黒猫の総季も、身を低くしたまま、闇の奥をじっと見つめていた。
「……聞こえたぴょん?」
ウサラートが声を潜める。
「聞こえた。三つやね」
信子は腰の刀にそっと手を添えた。
「右手の竹林から聞こえた気がするぜよ」
「私もそう思ったぴょん」
二人は互いの背後を補うように、静かに立ち位置を変えた。
竹林の奥には、月の光さえ届かない暗がりが広がっている。
風に揺れる幹の影が、まるで何者かの手足のように地面を這っていた。
「……ついて来ゆうがやろうか」
信子が呟く。
「どういうことだぴょん?」
「さっき鳥居をくぐったときにも、似た音が聞こえたがよ。最初は気のせいやと思うたけんど……歩いても歩いても、右の方から聞こえてくるき」
ウサラートは黙って耳を澄ませた。
確かに、普通の足音とは違う。
足取りに合わせて近づいたり遠ざかったりするわけでもない。
かといって、風に揺れる葉の音とも明らかに異なっている。
「こつ、こつ、こつ」
再び、三つ。
信子の指先に力がこもった。
「隊長」
「まだ抜かなくていいぴょん」
ウサラートは落ち着いた声で言った。
「敵かどうかも分からないぴょん。まずは確かめるぴょん」
「……そうやね」
信子は小さく息を吐き、刀の柄から指を離した。
新選組の羽織を着ている以上、町の者からは頼りにされる。
しかし同時に、何かあれば真っ先に刀を抜く者だと思われることもある。
だからこそ、ウサラートは不用意に刃を見せることを好まなかった。
守るために持つ刀と、振るうために抜く刀。
その違いを、隊長は誰よりも大切にしている。
信子も、それをよく知っていた。
「人やったら、声をかけた方がえいろうか?」
「こちらの姿は見えているはずだぴょん」
ウサラートは自分の羽織を見下ろした。
「月夜に浅葱色は目立つぴょん。隠れるつもりがあるなら、私たちの方がずいぶん不利だぴょん」
「それでも逃げん相手やったら?」
「……ますます、何者なのか確かめる必要があるぴょん」
そのときだった。
ふわりと、夜風が強まった。
竹林全体が大きく揺れ、無数の葉が一斉にざわめく。
月の光を受けた影が石畳の上を走り抜けた。
まるで巨大な獣が、音もなく駆け抜けたかのようだった。
信子は無意識に身構えた。
しかし、ウサラートの足元では黒兎吉が別の方向を見つめていた。
「……ぴょん?」
黒兎吉の視線の先にあったのは、道端に置かれた古い石灯籠だった。
苔むした小さな灯籠。
その火袋には、消えかけた明かりが頼りなく揺れている。
総季も静かに近づき、灯籠の根元で鼻を動かしていた。
「総季、何か見つけたが?」
信子が小声で尋ねる。
黒猫は一度だけ顔を上げた。
そして、灯籠の上へ視線を向ける。
「二匹とも、あっちを見ゆうね」
「私たちが見落としているものがあるかもしれないぴょん」
ウサラートは慎重に一歩踏み出した。
その瞬間。
——ぱきり。
足元の小枝が、草履の下で折れた。
「ひゃっ!」
信子の肩が跳ねる。
すぐにウサラートが振り返った。
「私だぴょん」
「わ、分かっちゅう!」
「今、跳ねたぴょん」
「跳ねてない! 足元を確かめただけぜよ!」
「ずいぶん勢いのある確認だったぴょん」
「……隊長」
「何だぴょん?」
「あとで覚えちょきよ」
ウサラートは口元を押さえた。
信子もこらえきれず、小さく笑った。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らぐ。
だが、その直後だった。
「こつ、こつ」
二つの音が響いた。
二人の笑みが消える。
三つ目の音を待つ。
一呼吸。
二呼吸。
しかし、それ以上は何も聞こえなかった。
「……今度は二つやね」
信子が呟く。
「三つと決まっているわけではないらしいぴょん」
「そう言われると、余計に誰かがおるような気がするがやけんど」
「困った相手だぴょん」
ウサラートは長い兎の耳を動かした。
気配を探る。
人の呼吸。
衣擦れ。
草履が石を擦る音。
何かが潜んでいるなら、わずかな痕跡くらいはあるはずだった。
しかし、何も感じられない。
ただ、風だけが竹林を通り抜けていく。
「信子」
「何?」
「私が少し歩いてみるぴょん。その間、音がどこから聞こえるか確かめてほしいぴょん」
「離れすぎんようにしてよ」
「三歩だけだぴょん」
ウサラートはゆっくりと歩き出した。
一歩。
石畳を踏みしめる。
二歩。
斜めに伸びた竹の影をまたぐ。
三歩。
そこで足を止め、振り返った。
信子は真剣な眼差しで周囲を見渡していた。
音はしない。
「……戻るぴょん」
ウサラートが二歩戻った、そのとき。
再び風が吹いた。
「こつ、こつ、こつ」
硬い音が三度響く。
ウサラートは即座に動きを止めた。
しかし信子は、もう竹林の奥を見ていなかった。
その視線は、石灯籠の上に向けられていた。
「……隊長」
「どうしたぴょん?」
「もう一度、風を待とう」
「何か分かったぴょん?」
「まだ分からん。けんど……今、何かが動いたがよ」
信子は石灯籠を指差した。
その先を目で追うと、灯籠の笠のすぐ上に、一本の細い竹の枝が垂れ下がっていた。
月明かりに照らされた枝は、周囲の竹の影と重なり、じっとしている間はほとんど見分けがつかない。
二人は黙って待った。
黒兎吉も、総季も。
やがて、竹林の奥から風が吹いた。
竹がしなる。
枝が揺れる。
そして、その細い先端が、石灯籠の笠の縁に触れた。
——こつ。
跳ね返った枝が、再び石に触れる。
——こつ、こつ。
「あっ」
信子が声を上げた。
「……ぴょん」
二人は顔を見合わせた。
もう一度、枝が揺れる。
今度は二度だけ、石を叩いた。
「こつ、こつ」
「……これや」
信子が呆然と呟く。
「どうやら、相手は竹の枝だったぴょん」
しばらく沈黙が続いた。
そして。
「……ふふっ」
信子が笑い始めた。
「ふふふ……あははっ!」
「信子、笑いすぎだぴょん」
「だって……あんなに警戒しちょったのに……!」
「用心するのは悪いことではないぴょん」
「そうやけんど……相手は枝やったがよ!」
ついにウサラートも笑い出した。
竹林の静寂に、二人の笑い声が重なる。
黒兎吉は何事かと耳を動かし、総季はそんな二人を見上げたあと、興味を失ったように毛づくろいを始めた。
「……総季たちは、最初から分かっちょったがかね」
「少なくとも、私たちより先に灯籠を見ていたぴょん」
「そうやね」
信子はしゃがみ込み、総季の頭を優しく撫でた。
「賢い子やねえ」
総季は満足そうに喉を鳴らす。
黒兎吉も負けじとウサラートの足元に寄り、その羽織の裾へ鼻先を押しつけた。
「黒兎吉も偉かったぴょん」
ウサラートがそっと背中を撫でる。
そのとき、信子が再び灯籠を見上げた。
「……ところで、あの枝、どうする?」
「どうするとは?」
「切ってしまった方がえいがやろうか。また誰かが驚くかもしれんし」
ウサラートは少し考えた。
風が吹く。
枝が揺れる。
また、石の笠に当たって小さな音を立てた。
「……今夜はそのままでいいぴょん」
「えいが?」
「明るくなってから、ここの人に伝えるぴょん。私たちが勝手に切るものではないぴょん」
信子は頷いた。
「そうやね。枝も、何か悪いことをしゆうわけやないし」
「そうだぴょん」
「うちらを、ちょっと立ち止まらせただけやね」
ウサラートは微笑んだ。
「それに、こうして立ち止まったからこそ、見つけられたものもあるぴょん」
信子は灯籠を見上げる。
月明かりの下で、細い枝が静かに揺れていた。
あれほど不気味だった音が、今では夜の静けさを彩る、ささやかな風鈴のように聞こえた。
正体を知るだけで、世界はこんなにも違って見える。
信子は、その不思議さに少しだけ感心していた。
二 巡回の手帳と静けさの行方
「さて、帰るぴょん」
ウサラートが踵を返した。
信子も羽織を整え、歩き出そうとする。
しかし、ウサラートはすぐに立ち止まった。
「……信子」
「今度は何?」
「もう少しだけ、付き合ってほしいぴょん」
「まだ気になることがあるが?」
ウサラートは、二人が歩いてきた参道へ目を向けた。
「さっきまで、あの音ばかり気にしていたぴょん」
「うん」
「その間、周りを十分に見ていなかったぴょん」
信子は一瞬、きょとんとした。
それから表情を引き締める。
「……そうやね。ほかにも何かあったら困るき」
二人は再び周囲を確かめ始めた。
今度は、不気味な音に惑わされることなく。
参道の先。
竹の隙間。
鳥居の陰。
灯籠の周囲。
黒兎吉はウサラートの足元から少し離れ、道端に落ちた葉を嗅いでいた。
総季は信子のそばで耳を動かし、時折、暗がりへ視線を送っている。
けれど、人影はない。
怪しい気配もない。
ただ、いつもの夜がそこにあるだけだった。
「……異状なしだぴょん」
ウサラートが告げた。
「こっちも異状なしやね」
信子が答える。
二人は顔を見合わせ、微笑んだ。
ようやく、本当の意味で見回りが終わったのだった。
歩き始めると、先ほどまで気にならなかった寒さが、急に身に染みてきた。
信子は両手を袖の中へ引っ込める。
「うう……冷えるねえ」
「夜も深くなってきたぴょん」
「帰ったら温かいお茶が飲みたいぜよ」
「お茶菓子も欲しいぴょん」
「隊長、さっきまであんなに真剣やったのに、もう食べ物の話なが?」
「真剣な見回りをしたからこそ、お腹がすいたぴょん」
「三歩歩いただけやないが?」
「それは誤解だぴょん!」
信子がくすくす笑う。
ウサラートは不満そうに耳を動かした。
「信子もずいぶん緊張していたぴょん」
「うちは普通やったよ」
「小枝の音で跳ねたぴょん」
「……まだ言うが?」
「事実だぴょん」
「隊長も、うちが離れすぎるなって言うたら、ほんまに三歩しか行かんかったやない」
「約束を守っただけだぴょん!」
「はいはい」
信子は楽しそうに笑った。
そして、少し歩いたところで、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、今日の見回りは何て記録するが?」
「記録?」
「屯所に戻ったら手帳に書くやろ。あの音のこと」
ウサラートは少し考えた。
「竹林の参道にて、不審な物音を確認」
「うん」
「原因は、風に揺れる竹の枝が石灯籠に接触したため」
「うんうん」
「周辺を確認。異状なし」
「……それで終わり?」
「終わりだぴょん」
信子は思わず吹き出した。
「えらい簡単やね!」
「事実を書けば十分だぴょん」
「うちらがあれほど警戒したことは?」
「必要ないぴょん」
「うちがびっくりして跳ねたことは?」
「……書いてもいいぴょん?」
「書かんでえい!」
再び笑い声が竹林に響く。
ウサラートは、そんな信子の横顔を見つめた。
つい先ほどまで、信子の目には鋭い警戒の色が浮かんでいた。
今は、いつもの穏やかな笑顔に戻っている。
それだけで、今夜の見回りには十分な意味があったように思えた。
「……信子」
「何?」
「何も起きなくて、よかったぴょん」
信子は少し驚いたように目を瞬かせた。
「……そうやね」
「怪しい者がいなくて、誰も傷つかず、刀も抜かずに済んだぴょん」
ウサラートは腰の刀へ視線を落とした。
「それが一番いいぴょん」
信子も、自分の刀を見下ろす。
新選組に入ってから、刀の重みを感じる機会は幾度となくあった。
誰かを守るために戦うこともある。
どうしても、刃を交えなければならない夜もある。
けれど、すべての夜がそうである必要はない。
誰も斬らずに帰ること。
誰も傷つけずに朝を迎えること。
それは決して、何も成し遂げなかったという意味ではない。
「……隊長」
「何だぴょん?」
「うち、今日みたいな見回りも好きぜよ」
「私もだぴょん」
「ただの枝に振り回された夜やけんどね」
「それは余計だぴょん」
信子は笑った。
それから、少しだけ声を柔らかくした。
「でも……三歩しか離れんかった隊長のこと、うちは嬉しかったよ」
「……ぴょん?」
「離れすぎんようにって言うたら、ちゃんと守ってくれたき」
ウサラートの耳が、ぴくりと動いた。
「当然だぴょん」
「そう?」
「副長の言うことも、たまには聞くぴょん」
「たまには、ね」
信子はそれ以上からかわなかった。
その代わり、少しだけ歩幅を緩めた。
ウサラートも自然に歩調を合わせる。
二人の肩が、ちょうど同じ位置に並んだ。
足元では、黒兎吉と総季が先を競うように歩いている。
黒兎吉が跳ねれば、総季が静かに追いつく。
総季が立ち止まれば、黒兎吉も振り返る。
まるで二人のやり取りを、そのまま小さくしたようだった。
やがて、竹林の出口が見えてきた。
鳥居の朱色が、月光の中にぼんやりと浮かび上がっている。
遠くには、京の町の明かりも見えた。
人の暮らしがある。
温かい食事があり、眠る家があり、明日を待つ人々がいる。
その何気ない日常を守ることこそ、自分たちの役目なのだと、信子は改めて思った。
背後から、ふいに音が聞こえた。
「こつ」
たった一つ。
風に揺れた竹の枝が、また石灯籠を叩いたのだろう。
二人は振り返らなかった。
もう、その音を恐れる必要はなかった。
「隊長」
「何だぴょん?」
「帰ったら、お茶を淹れるき」
「それは楽しみだぴょん」
「お菓子は一つだけやきね」
「二つ欲しいぴょん」
「一つ」
「……交渉の余地はないぴょん?」
「ないぜよ」
そんな他愛もない会話を交わしながら、二人は鳥居をくぐった。
黒兎吉と総季も、そのあとを追っていく。
夜の竹林には、再び静寂が戻った。
風が吹く。
葉が揺れる。
細い枝が石を叩く。
ただ、それだけのこと。
誰かが潜んでいたわけでもない。
恐ろしい事件が起きたわけでもない。
それでも、二人にとっては忘れがたい夜になった。
そして何より。
二人の腰に差された刀は、最後まで一度も鞘から抜かれることがなかった。
三 翌朝の後日談
翌朝。
夜の竹林は、まるで別の場所に生まれ変わっていた。
朝日を浴びた竹の葉は鮮やかな緑に輝き、細かな朝露が宝石のようにきらめいている。
風が吹くたび、さらさらと葉が擦れ合い、その音は昨夜よりもずっと軽やかに聞こえた。
朱色の鳥居をくぐり、二つの人影が参道を進んでいく。
ウサラートと信子だった。
足元には、もちろん黒兎吉と総季もいる。
「……夜とは、ずいぶん雰囲気が違うねえ」
信子が感心したように辺りを見渡した。
「お日様の力は偉大だぴょん」
「ほんまやね」
昨日は何者かが潜んでいるように思えた竹林も、今は穏やかな朝の景色でしかない。
同じ場所なのに、見えるものが違う。
信子は昨夜の自分を思い出し、少しだけ笑った。
「あれだけ怖がった場所やのに、今は何ともないがよ」
「怖がっていたのは信子だけだぴょん?」
「……隊長?」
「冗談だぴょん」
「ほんまにもう」
二人が笑い合っていると、境内の方から竹箒の音が聞こえてきた。
「おや、おや」
顔を上げると、年老いた神職が落ち葉を掃き集めていた。
「これは、ウサラート隊長に信子さん。朝早くからどうなさいました?」
「おはようございます」
信子が丁寧に頭を下げる。
ウサラートも軽く会釈した。
「昨夜の見回りで、少し気になることがあったぴょん」
「ほう。それは何でしょう?」
「こちらの石灯籠のことだぴょん」
二人は老神職を、例の灯籠へと案内した。
朝日に照らされた石灯籠は、昨夜よりもずっと小さく見えた。
苔むした笠。
年月を感じさせる石の肌。
そして、そのすぐ上に垂れ下がった一本の竹の枝。
「……ああ、これですか」
老神職は枝を見上げ、納得したように頷いた。
「夜になると、風で音がするがよ」
信子が説明する。
「こつ、こつ、って。最初は何者かが潜んじゅうかと思うて、二人でかなり警戒したがです」
「ほうほう」
「でも、調べてみたら、この枝が石に当たっちょっただけで」
「なるほど、そういうことでしたか」
老神職は髭を撫でながら笑った。
「いやはや、それはご心配をおかけしましたな。最近は風の強い日が続いておりましたので、枝が伸びて灯籠に触れるようになったのでしょう」
「信子は、刀に手をかけていたぴょん」
ウサラートが付け加える。
「隊長!」
「事実だぴょん」
「隊長かて、三歩しか離れられんかったやないですか!」
「それは安全確認のためだぴょん!」
「あははは!」
老神職は声を立てて笑った。
「いやあ、なんとも微笑ましいお話ですな」
「微笑ましくないぴょん。真剣な見回りだったぴょん」
「もちろん、もちろん」
老神職は笑いをこらえながら頷いた。
その様子を見て、信子もつられて笑ってしまう。
総季は足元で尻尾を揺らし、黒兎吉は落ち葉の匂いを確かめていた。
ひとしきり笑ったあと、老神職は枝を見上げた。
「さて、このままではまた音が鳴りますな。枝を切っておきましょうか」
そう言って、近くに置いてあった剪定鋏へ手を伸ばす。
しかし、ウサラートが首を横に振った。
「切らなくてもいいぴょん」
「おや?」
「枝は、ただ風に揺れているだけだぴょん」
信子も頷いた。
「そうです。うちらが勝手に怪しいと思うただけやき」
老神職は少し考えた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「なるほど。では、切らずに済む方法を考えましょう」
そう言うと、灯籠の上に伸びた竹の枝を確かめた。
「この枝を少し引き寄せ、柔らかな紐で結んでおけば、灯籠に当たらずに済みそうですな」
「それがいいぴょん」
「えい考えやね」
信子は嬉しそうに頷いた。
老神職は早速、用意した紐で枝の位置を調整した。
無理に曲げたり、傷つけたりしないよう、そっと。
少しして、朝の風が竹林を吹き抜けた。
竹が揺れる。
葉がざわめく。
だが、石灯籠から音はしなかった。
「……静かになったね」
信子が呟く。
「もう、こつこつ言わないぴょん」
ウサラートも満足そうだった。
老神職は結び目を確かめると、二人へ向き直った。
「これでよろしいでしょう。お二人のおかげで、境内のことに一つ気づくことができました」
「いえいえ、そんな大したことは……」
信子が照れくさそうに笑う。
しかし老神職は、静かに首を振った。
「小さなことにも気づき、確かめてくださる。それが見回りというものでしょう」
二人は顔を上げた。
「刀を振るうことばかりが、人を守る仕事ではありませんからな」
その言葉に、ウサラートはゆっくり頷いた。
「……その通りだぴょん」
信子も微笑む。
「うちらも、そう思うちゅうがです」
老神職は満足そうに笑った。
「では、今日もどうぞお気をつけて」
「ありがとうございます」
「また来るぴょん」
二人は神職に別れを告げ、参道を戻っていった。
朝の光は暖かかった。
石畳の上に、二人と二匹の影が伸びている。
黒兎吉がぴょんと跳ねる。
総季がそのあとを軽やかに追う。
信子はそんな二匹を眺めながら、小さく息を吐いた。
「……何だか、えい朝やね」
「そうだぴょん」
「昨夜は、何が出てくるかと思うたけんど」
「出てきたのは竹の枝だったぴょん」
「ふふっ。ほんまやね」
信子は笑った。
そして、少し考えてから言った。
「でも、隊長」
「何だぴょん?」
「もし昨日、音だけで決めつけて、慌てて刀を抜いちょったら……きっと、こんな気持ちにはなれんかったね」
ウサラートは空を見上げた。
青い空。
風に揺れる竹。
鳥の声。
そこには、守るべき穏やかな日常が広がっていた。
「刀を抜くのは、必要なときだけでいいぴょん」
「うん」
「抜かずに帰れるなら、それが一番だぴょん」
信子は深く頷いた。
「……そうやね」
しばらく、二人は黙って歩いた。
けれど、その沈黙は昨夜のような緊張に満ちたものではなかった。
朝の風が心地よく、隣にいる相手の足音が自然と耳に入る。
そんな、何でもない静かな時間だった。
やがて鳥居が近づいてきたころ、信子が思い出したように口を開いた。
「そういえば隊長」
「何だぴょん?」
「今夜も見回りやね」
「もちろんだぴょん」
「今夜は静かな夜やとえいねえ」
ウサラートは少し考えた。
そして、いたずらっぽく笑う。
「……でも、静かすぎるのも退屈だぴょん」
「え?」
「また面白い音が見つかるかもしれないぴょん」
「もう十分ぜよ!」
信子が思わず声を上げた。
「昨日だけで、うちはお腹いっぱいやき!」
「次は四つ鳴るかもしれないぴょん」
「数の問題やない!」
「五つならどうだぴょん?」
「隊長!」
ウサラートは楽しそうに笑った。
信子も、とうとうこらえきれずに笑い出す。
二人の笑い声が、朝の竹林に明るく響いた。
黒兎吉が耳を揺らし、総季が尻尾を立てて先を歩く。
今日も京の町では、人々がそれぞれの一日を始めている。
店を開く者。
仕事へ向かう者。
家族のために朝餉を用意する者。
そんな何気ない暮らしを、当たり前のように続けられること。
きっと、それこそが自分たちの守りたい平和なのだろう。
信子は隣を歩く隊長に目を向けた。
ウサラートも、ちょうどこちらを見ていた。
どちらからともなく、微笑む。
言葉にする必要はなかった。
昨夜、二人は何者とも戦わなかった。
刀を抜くことも、誰かを追い詰めることもなかった。
ただ一つの音に耳を澄ませ、確かめ、そして何も起きなかったことに安堵した。
巡回の手帳には、きっと簡潔な記録しか残らない。
『竹林の参道にて異音を確認。原因は竹の枝。周辺異状なし』
それだけで十分だった。
平穏な夜に、華々しい手柄はいらない。
誰も傷つかず、誰も悲しまず、いつもと変わらない朝が訪れる。
そのために、刀を持って歩く者たちがいる。
そして、ときには。
刀を抜かずに帰ることこそ、何より大切な務めになる。
柔らかな朝風が、浅葱色の羽織を揺らした。
二人と二匹は、今日も変わらず京の町へと歩いていく。
――了――
その腰にある刀は、朝日に照らされながら、静かに鞘の中で眠っていた。
【あとがき・設定資料のご案内】
本作のオリジナルキャラクターのビジュアルや詳細な設定資料は、Pixiv・noteにて公開しています。
関連リンクまとめ
https://x.com/kazeyurarinn
https://lit.link/kazeyurari
https://note.com/kazeyurari
ウサラートマート(Usarart Mart)
風ゆらりが手がける、ウサラートとその仲間たちのオリジナルキャラクターブランド。
個性豊かなキャラクターたちが織りなす物語や、LINEスタンプなどを通じて、ちょっと不思議で楽しい世界をお届けします。
企画・制作:風ゆらり(kazeyurari)