雨の日の縁側でのんびり過ごしたり、些細なことで言い合いになったり、ときには思いがけない騒動に巻き込まれたり。
激動の幕末を背景に、個性豊かな仲間たちが繰り広げる、笑いあり、優しさあり、ちょっぴり切なさもある物語。
一話完結を基本としているので、どのお話からでもお楽しみいただけます。
兎耳隊長と仲間たちの、少し不思議な新選組日和。
※本シリーズは、新選組や歴史上の人物をモチーフにした「風ゆらり」のオリジナル歴史ファンタジーです。史実とは異なる設定や展開が含まれます。
――迷子の青菜と、団子屋の攻防戦――
第一章 錦の風と、威勢のよい背中
京の都に、秋の風が吹いていた。
昼を間近に控えた錦市場は、今日も朝から大変な賑わいである。
狭い通りの頭上に張られた日除けの布が、吹き抜ける風を受けてゆったりと膨らむ。その下には、京菜や九条葱の青々とした香り、焼き魚の香ばしい煙、乾物の独特な匂いが入り交じっていた。
「いらっしゃい! 今日の大根はよう育ってまっせ!」
「奥さん、こっちの魚も見ていっておくれやす!」
八百屋の主人が声を張り上げれば、向かいの魚屋も負けじと客を呼び込む。
買い物籠を提げた女たちが値段を交渉し、若い丁稚が荷物を抱えて人混みをすり抜けていく。店先には色とりどりの野菜が積み上げられ、木桶に並べられた魚の鱗が、差し込む陽光を受けて銀色に輝いていた。
そんな活気あふれる市場の一角で、ひときわ熱心に商品を見つめている小さな影があった。
白猫の総季(ふさき)である。
雪のように白い毛並みに、浅葱色の小さな羽織。
その背中には、きちんと白抜きの「誠」の文字が染められている。
姿だけを見れば、立派な新選組の一員だ。
しかし、その丸い瞳に宿る熱意は、武士の志とは少々違っていた。
総季の視線は、干物屋の軒先に並ぶアジやカマスへと釘付けになっている。
こんがりと焼かれた魚の香りが風に乗って漂ってくるたび、ピンク色の小さな鼻がひくひくと動いた。
「……総季」
背後から声がした。
「見るだけじゃき。見るだけやで?」
青い髪を高い位置で結んだ坂本信子が、腰に手を当てている。
その口調は柔らかいが、声には明らかな警戒が含まれていた。
総季は振り返らない。
ただ、魚を見つめ続けている。
「聞こえちゅうが?」
「…………」
「総季?」
「……にゃ」
返事はした。
しかし、視線は一寸たりとも動かなかった。
「信子、甘いぴょん」
信子の背後から、妙に得意げな声がした。
振り返ると、黒い兎耳をぴんと立てたウサラートが、腕を組んで胸を張っている。
こちらも浅葱色の羽織を身につけ、その背中には大きな「誠」の文字。
本人は今日も、誰より立派な隊長のつもりであった。
「あの目は、もう干物を買ったつもりの目だぴょん」
「ほんなら隊長が止めてみいや」
「ふむ」
ウサラートは難しそうに眉を寄せた。
「隊長というものは、大きな敵と戦う存在だぴょん。干物のような身近な敵との局地戦は、副長に任せるのが組織の鉄則だぴょん」
「都合のえいときだけ隊長になりゆうねえ……」
信子は深々とため息をついた。
その足元で、もう一匹の小さな影が動いた。
黒兎吉(くろうさきち)である。
つややかな黒い毛並みをした小さな兎は、ウサラートの傍らにちょこんと座り、総季をじっと見つめていた。
干物にはまったく興味がないらしい。
むしろ、総季が隙を見て商品に手を伸ばさないか、厳しい目つきで見張っている。
「黒兎吉はほんまにしっかりしちゅうねえ」
信子が感心すると、黒兎吉は小さく胸を張った。
一方、総季は聞こえなかったふりをしている。
今日の四人の目的は、浪士の捕縛でも、京の治安を揺るがす大事件の解決でもない。
ただの夕餉の買い出しであった。
信子の腕に抱えられた竹籠には、すでに九条葱と青菜が収まっている。
残る品を確認するため、ウサラートは懐から一枚の紙を取り出した。
そこには買い物の品目が丁寧に書かれている。
そして、一番下には念を押すように、こんな一文が添えられていた。
『余計なものを買わないこと』
ウサラートはその文字を見つめ、長い耳を傾けた。
「なあ、信子」
「なんやの?」
「この『余計なもの』というのは、具体的にどこからどこまでを指すんだぴょん?」
「……なんでそんなこと聞くが?」
「戦術上の定義を明確にしておく必要があるぴょん」
「もう何か買う気になっちゅうやろ」
「失礼だぴょん。隊長は規律を重んじるぴょん」
「さっきから団子屋の暖簾を三回も見よったきね」
「……偵察だぴょん」
「何の?」
「市場に潜む敵の動向を確認していたぴょん」
「団子屋に何の敵がおるがよ」
ウサラートは一瞬、言葉に詰まった。
そして、これ以上ないほど真剣な顔で答えた。
「……空腹という名の、最大の敵だぴょん」
信子は額を押さえた。
黒兎吉も、呆れたように小さく頭を振る。
その横では総季が、とうとう魚の匂いに耐えきれなくなったのか、前足をそろえて干物屋の主人を見上げていた。
平和である。
少なくとも、このときまでは。
第二章 迷子の小さな手と、一本の青菜
「はあ……先が思いやられるわ」
信子が竹籠を持ち直した、そのときだった。
「……おかあちゃん」
か細い声が聞こえた。
市場の喧騒に紛れてしまいそうな、本当に小さな声だった。
信子は足を止める。
「……ん?」
もう一度、耳を澄ませた。
「おかあちゃん……どこ……?」
声は、八百屋と乾物屋の間から聞こえてくる。
信子がそちらへ目を向けると、薄暗い木箱の脇に、小さな男の子が立っていた。
四つか五つほどの年頃だろう。
継ぎはぎのある木綿の着物を着て、両足をぴたりとそろえている。
その小さな右手には、一本の青菜。
しおれかけた葉を、まるで宝物のように握りしめていた。
行き交う大人たちの足元を見つめるたび、男の子の肩がびくりと震える。
目には大粒の涙が溜まっていた。
それでも、泣くまいとしているのだろう。
唇を強く結び、必死に顔を上げていた。
「どういたが?」
信子はすぐに歩み寄り、男の子と目の高さを合わせるようにしゃがんだ。
「迷うたがか?」
男の子は、一瞬ためらった。
それから、小さく頷いた。
「……うん」
「そっか。おかあちゃんとはぐれてしもうたがやね」
信子が優しく微笑んだ、そのとき。
男の子の視線が、彼女の腰元へと落ちた。
そこには刀が差してある。
さらに、浅葱色の羽織に染め抜かれた「誠」の文字。
男の子は、怯えたように一歩後ずさった。
「……こわい人?」
その小さな問いかけに、信子の表情が少し曇る。
刀を持つ者は、誰かを守ることもできる。
けれど同時に、刀そのものが人を怯えさせることもある。
信子はそのことを、よく知っていた。
「怖い人に見えるぴょん?」
横からウサラートが顔を覗かせた。
長い黒耳が、男の子の頭上でゆらりと揺れる。
男の子は驚いたように目を丸くした。
「……うさぎ?」
「そうだぴょん。とても立派な兎の隊長だぴょん」
「……お侍さん?」
「それも正解だぴょん!」
ウサラートは得意げに胸を張った。
男の子は少しだけ興味を示したものの、やはり刀が気になるらしい。
「……それ、こわい」
「刀かぴょん?」
こくり。
「これは悪いやつから人を守るためのものだぴょん。君みたいな良い子を斬るためのものじゃないぴょん。今は抜かないぴょん」
「今は、じゃのうて、そもそも抜く用事がないんよ」
信子が即座に訂正した。
「変な言い方して怖がらせな」
「むむ……言葉の選び方は難しいぴょん」
そのやり取りを見ていた男の子が、鼻をすすった。
そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。
信子はもう一度、優しく尋ねた。
「おかあちゃんは、どんな着物を着ちゅう?」
「……青いの」
「青い着物?」
「うん。あとね、赤い紐」
男の子は一生懸命に思い出そうとした。
「おかあちゃん、朝、きゅって結んでた」
「そっか。青い着物に赤い紐やね。よう覚えちゅう、えらいねえ」
信子が褒めると、男の子は少しだけ顔を上げた。
しかし、まだ安心できないのだろう。
青菜を握る手には、ますます力がこもっている。
そのときだった。
とことこ、と軽い足音が近づいた。
白猫の総季である。
あれほど熱心に見つめていた干物から、いつの間にか離れていた。
総季は男の子の足元まで歩み寄ると、小さな顔を上げてじっと見つめた。
そして、白い前足を伸ばす。
ちょん。
男の子が握りしめている青菜の葉先に、そっと触れた。
「……これ?」
男の子が呟く。
総季は首を傾げた。
「これね……おかあちゃんに渡すの」
男の子は青菜を見下ろした。
「お買い物、頼まれたの。おかあちゃんが、これ持っててねって……」
そう言うと、また泣きそうな顔になった。
「……ちゃんと持ってたのに」
信子の胸が、小さく締めつけられた。
母親に頼まれた、たった一本の青菜。
大人にとっては、ありふれた買い物の一つかもしれない。
けれど、この子にとっては違う。
母親から預かった大切なもの。
そして今、母親の代わりに握りしめていられる、たった一つの安心なのだ。
総季は何も言わなかった。
ただ、男の子の足元にちょこんと座る。
そのまま白い体を寄せ、柔らかな尻尾を一度だけ揺らした。
男の子は、おそるおそる総季を見下ろした。
「……ねこさん」
「にゃ」
「おまえも、おかあちゃん探してくれる?」
「にゃあ」
まるで返事をしたようだった。
男の子の頬に、初めてはっきりと笑みが浮かんだ。
「総季、ちゃんと分かっちゅうねえ」
信子が微笑む。
「さっきまで干物しか見えてなかったくせに」
総季は不満そうに振り返った。
しかし、男の子の傍らから離れようとはしなかった。
一方、黒兎吉はというと。
いつの間にか男の子の反対側へ移動し、周囲を警戒するように立っていた。
人が近づくたびに耳を立て、男の子が押されないよう、小さな体で守っている。
「ふむ」
ウサラートは腕を組んだ。
「どうやら、うちの隊士たちも本気になったようだぴょん」
「……うちの?」
信子が横目で見る。
「隊長、いつから総季と黒兎吉を正式に隊士にしたが?」
「心の中では、とっくに入隊済みだぴょん!」
「勝手に決めなや」
そんな二人のやり取りを聞いて、男の子が小さく笑った。
その笑顔を見た信子は、静かに立ち上がった。
「……さて」
青い髪が秋風に揺れる。
「ほんなら、おかあちゃんを探そうかね」
第三章 隊長の大音声と、錦の人情
しかし、母親探しは簡単ではなかった。
正午を前にした錦市場は、さらに混雑を増している。
通りの端から端まで、買い物客が絶え間なく行き交っていた。
青い着物の女性など珍しくない。
赤い紐を結んだ者も、何人か見かけた。
「……困ったねえ」
信子は腕を組んだ。
「むやみに歩き回っても、行き違うかもしれんし……」
母親もまた、必死に子どもを探しているはずだ。
ならば、この場を動かず、周囲の店に声をかけていくほうがよい。
そう考えた信子は、近くの八百屋へ相談しようとした。
そのとき。
「ふむ!」
ウサラートが大きく頷いた。
「状況は理解したぴょん!」
「……何が?」
「これは隊長の出番だぴょん!」
嫌な予感がした。
信子はすぐに振り返る。
「ウサラート、変なこと考えちゅうやろ?」
「失礼だぴょん!」
ウサラートは胸を張った。
「人を探すには、まず目立つことが大切だぴょん!」
「いや、そういう問題やのうて……」
「隊長たる者、ここで動かずしていつ動くぴょん!」
「ちょっと待ちいや!」
しかし、信子の制止は間に合わなかった。
ウサラートは通りの中央へ一歩進み出る。
すうううううっ。
胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
長い兎耳が、これ以上ないほど真っ直ぐに立つ。
そして。
「青い着物に赤い紐のおかあさああああん!!」
市場中に、すさまじい大声が響き渡った。
「お子さんがここで待ってるぴょおおおおおん!!」
――しん。
一瞬。
錦市場から、音が消えた。
魚をさばいていた主人の包丁が止まる。
大根を手に取っていた客が振り返る。
荷物を運んでいた丁稚が、ぽかんと口を開ける。
みなが一斉に、通りの中央へ視線を向けた。
そこには。
浅葱色の羽織を堂々と翻し、黒い兎耳をぴんと立てた、得意満面のウサラートが立っていた。
一秒。
二秒。
そして。
「……ぶっ!」
最初に吹き出したのは、干物屋の主人だった。
「わっはっはっは! なんちゅう声や!」
それをきっかけに、あちこちから笑い声が上がる。
「えらい元気なお侍さんやなあ!」
「いや、お侍さんいうより兎さんやろ!」
「錦の端まで聞こえたんちゃうか!」
信子は顔を真っ赤にした。
「ちょ、ちょっとウサラート!」
「なんだぴょん?」
「目立ちすぎやき!」
「目立つためにやったんだぴょん!」
「そりゃそうやけど!」
「隊長の声量と耳の長さは、こういうときのためにあるぴょん!」
「耳の長さは関係ないろう!」
信子が額を押さえる。
その足元では黒兎吉が、どこか誇らしげに胸を張っていた。
総季も「にゃあ」と鳴いている。
当の男の子はというと。
大きな声に驚きながらも、ウサラートを見上げて笑っていた。
「……うさぎのおじちゃん、すごいね」
「当然だぴょん!」
ウサラートはますます胸を張る。
しかし。
この騒ぎには、思いがけない続きがあった。
「おい! 青い着物に赤い紐の母親やて!」
干物屋の主人が、隣の八百屋へ向かって声を張り上げた。
「こっちに迷子がおるらしいで!」
「ほんまか! ほんなら奥の店にも知らせたるわ!」
八百屋の若い衆が通りを駆けていく。
「青い着物のお母さん探してはるで!」
「赤い紐やて!」
「誰か見てへんか!」
知らせは、店から店へと伝わっていった。
乾物屋の主人が向かいの店へ。
魚屋の女将が隣の八百屋へ。
八百屋の若い衆が、さらに奥の茶屋へ。
それぞれが普段の仕事を続けながら、少しずつ目を配り、声をかけ合っていく。
大きな組織でも、立派な命令でもない。
ただ、同じ市場で商いをする人々の、当たり前の助け合いだった。
「ああ、そういや……」
一軒の店先から、年配の女性が顔を出した。
「さっき、子どもを探してはるお母さんを見かけたわ」
「ほんまか!」
「青い着物やったと思う。向こうのほうで、えらい慌ててはったで」
「ほんなら知らせてくる!」
若い衆が再び駆け出した。
信子は、その様子を驚いたように見つめていた。
自分たちだけでは、これほど早く情報は集められなかっただろう。
ウサラートの突拍子もない大声が、市場の人々を動かしたのだ。
「……まったく」
信子は小さく笑った。
「ほんま、何が役に立つか分からんねえ」
「ふふん」
ウサラートは得意げだった。
「これぞ隊長の采配だぴょん!」
「はいはい。今だけは認めちゃるわ」
「今だけとは失礼だぴょん!」
そう言い合っているうちに。
通りの向こうから、切羽詰まった女性の声が響いてきた。
「……あの子!」
信子たちは一斉に振り返った。
「うちの子! うちの子です!」
第四章 一本の青菜と、「誠」の意味
人混みをかき分けるようにして、一人の女性が駆け寄ってきた。
青い木綿の着物。
腰には、鮮やかな赤い紐が結ばれている。
髪は少し乱れ、頬には汗が浮かんでいた。
よほど長く探し回っていたのだろう。
女性は息を切らしながら、辺りを見回した。
そして。
「……おかあちゃん!」
男の子が叫んだ。
その瞬間、女性の顔がくしゃりと歪んだ。
「ぼうや!」
信子の傍らから、男の子が駆け出す。
手には、まだ一本の青菜を握りしめたままだった。
「おかあちゃん!」
「よかった……!」
母親はその場に膝をつき、駆け込んできた小さな体を力いっぱい抱きしめた。
「よかった……ほんまに、よかった……!」
その声は震えていた。
子どもの背中を何度も撫で、髪に頬を寄せる。
男の子も母親の着物をぎゅっと掴んだ。
「おかあちゃん……」
「ごめんなあ……怖かったやろ……」
「……うん」
「もう離さんからな……」
「……うん!」
母親は、何度も頷きながら涙を拭った。
その姿を見て、信子はほっと胸を撫で下ろした。
ウサラートも、満足そうに耳を揺らしている。
黒兎吉は静かに座り、総季は小さな尻尾をゆっくりと振っていた。
しばらくして、母親が顔を上げた。
「お侍さん……」
信子たちを見つめ、深々と頭を下げる。
「ほんまに、ほんまにありがとうございました。うちがちょっと目を離したばっかりに……」
「もう大丈夫やき」
信子は優しく答えた。
「この子、ずっと立派に待っちょったよ」
「え……?」
「それに、大切なもんもちゃんと守っちゅう」
信子は男の子へ目を向けた。
「ほら。おかあちゃんに渡すもん、あるがやろ?」
男の子は、はっとしたように自分の右手を見つめた。
そして、小さな拳をゆっくりと開く。
そこには。
汗で濡れ、くしゃくしゃになった一本の青菜があった。
葉はしおれ、茎も少し折れ曲がっている。
けれど、確かにそこにあった。
「……おかあちゃん」
男の子は、少し誇らしげに顔を上げた。
「これ、ちゃんと持ってたよ」
母親が目を丸くする。
「……ああ」
それから、すべてを思い出したように目を細めた。
「これ……お母ちゃんが持っといてって頼んだ青菜やね」
「うん!」
「ずっと持っててくれたん?」
「うん。落とさなかったよ」
その言葉を聞いた瞬間、母親の目から、また涙がこぼれた。
しかし今度は、先ほどまでの悲しみとは違っていた。
「……そっか」
母親は微笑んだ。
「よう守ってくれたなあ」
小さな手から、青菜をそっと受け取る。
「こんなに大事に持っててくれたんやね」
「……えらい?」
「うん。とってもえらい子や」
男の子は嬉しそうに笑った。
母親も笑った。
くしゃくしゃの青菜を手に、二人はもう一度抱き合った。
信子は、その光景を静かに見守っていた。
ただの一本の青菜。
値段をつければ、決して高価なものではないだろう。
けれど、あの子にとっては、母親との約束そのものだった。
無事に帰ってくるまで、ずっと手放さずにいた、小さな誇りだったのだ。
「……信子」
ウサラートが小さな声で呼んだ。
「なんやの?」
「あの子、立派だぴょん」
「……そうやね」
「刀も持ってないし、羽織も着てないけど……ちゃんと大切なものを守ったぴょん」
信子はウサラートを見つめた。
いつもの冗談めいた調子ではなかった。
その表情には、珍しく真剣なものがあった。
信子は、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
そして、少しだけ微笑む。
「そういうのも、立派な『誠』なんかもしれんね」
大切なものを守ろうとする心。
誰かとの約束を忘れずにいる心。
それは刀の強さとは違う。
けれど、決して小さな強さではない。
そのとき、男の子が母親の背中からひょっこりと顔を出した。
「……うさぎのおじちゃん」
「なんだぴょん?」
「おじちゃん、こわい人じゃないん?」
ウサラートは、にっこりと笑った。
「もちろんだぴょん!」
そして、胸を張る。
「とても立派で、京の平和を守る隊長だぴょん!」
「また自分で言いゆう……」
信子が呆れたように呟く。
男の子は、そんな二人を見比べた。
それから。
「あははっ!」
声を上げて笑った。
もう、涙の跡はあっても、怯えた様子はなかった。
「じゃあ、ぼくも大きくなったら、隊長になる!」
「おおっ!」
ウサラートの耳が勢いよく立ち上がる。
「それは素晴らしい志だぴょん!」
「こら、変なこと教えなや」
信子が苦笑する。
「隊長にならんでも、大切なもんを守れる人になったらえいがよ」
「……うん!」
男の子は元気よく頷いた。
母親は、もう一度深々と頭を下げる。
「ほんまに、ありがとうございました」
そして、男の子の手をしっかりと握り、二人で市場の人混みへと歩き出した。
男の子は何度も振り返り、小さな手を振っていた。
信子も手を振り返す。
総季が「にゃあ」と鳴き、黒兎吉も小さく耳を動かした。
やがて、母子の姿は賑やかな錦の通りに溶け込んでいった。
「……よかったねえ」
信子が呟く。
ウサラートは空を見上げた。
秋の光が、日除けの隙間から差し込んでいる。
「うむ」
いつになく落ち着いた声だった。
「今日の任務、大成功だぴょん」
第五章 錦市場からの贈り物
「いやあ、ええもん見せてもろたわ!」
母子の姿が見えなくなると、干物屋の主人が笑いながら店先から出てきた。
「それにしても、隊長さんの声は大したもんやなあ!」
「当然だぴょん!」
ウサラートが胸を張る。
「隊長たる者、声の大きさも重要な資質だぴょん!」
「わっはっは! そら頼もしいわ!」
主人は豪快に笑った。
そして、ふと思い出したように店の奥へ戻る。
しばらくして、小さな竹皮の包みを手に戻ってきた。
「ほれ。これは、そこの白猫ちゃんにや」
包みの中には、魚を切り分けたときに出た端切れが入っていた。
脂の乗った、美味しそうな魚である。
「今日の手柄のお礼や。ちゃんと火を通して、骨を取ってから食べさせたってな」
その瞬間。
総季の耳が、ぴんっ、と立ち上がった。
「にゃあお!」
本日一番の元気な声である。
「……総季」
信子が呆れた。
「ほんま、魚のことになると分かりやすいねえ」
総季はそんな言葉など気にせず、包みを嬉しそうに見つめていた。
「ほんなら、黒い兎ちゃんにはこっちやな」
今度は八百屋の主人が声をかけてきた。
手にしているのは、瑞々しい葉のついた青菜である。
「葉っぱ好きやろ? これもお礼や」
黒兎吉は一瞬、目を丸くした。
そして、すっと背筋を伸ばす。
こくり。
実に礼儀正しく頭を下げた。
「おお、こっちの兎ちゃんは行儀がええなあ!」
八百屋の主人が感心する。
黒兎吉は得意げに胸を張った。
まるで、勲章でも授与された隊士のようである。
「えっ、こんなにいただいてえいがですか?」
信子が恐縮すると、主人たちは笑って手を振った。
「かまへん、かまへん!」
「錦は昔から助け合いや!」
「困ったときはお互いさまやろ?」
その言葉に、信子は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
京の市場には、商いだけではない温かさがある。
誰かが困っていれば声をかける。
誰かが助かったなら一緒に喜ぶ。
今日の出来事は、そんな当たり前の優しさに支えられていた。
「ふむ!」
その横で、ウサラートが勢いよく前に出た。
「では、全体を指揮した素晴らしい隊長にも、何か特別な礼があると考えてよいぴょん?」
「……ウサラート」
信子が横目で見る。
「隊長さんには、もう十分働いてもろたやろ!」
干物屋の主人が笑った。
「その大声のおかげで、市場中が元気になったわ!」
「そうそう!」
八百屋も頷く。
「それが何よりの景気づけや!」
「…………」
ウサラートの黒耳が、ぴたりと止まった。
「……つまり」
「うん?」
「隊長へのお礼は……?」
「みんなの笑顔や!」
「…………ぴょん」
耳が、しゅん、と垂れ下がった。
その分かりやすい落胆ぶりに、信子はとうとう我慢できなくなった。
「あははははっ!」
「信子! 笑うことないぴょん!」
「だって……あははっ! そんな顔せんでも!」
干物屋の主人も、八百屋の主人も、周りの客たちも笑っている。
笑い声が次々と広がっていく。
ウサラートは少々不服そうだったが、やがて周囲を見回して胸を張った。
「……まあ、よいぴょん」
「何が?」
「隊長というものは、見返りを求めてはいけないぴょん!」
「さっき思いっきり求めよったやろ!」
信子の突っ込みが、再び市場に響いた。
*
買い物を終えた四人は、錦市場を後にした。
信子の竹籠には、予定どおりの野菜が収まっている。
余計な買い物はしていない。
総季への魚と、黒兎吉への青菜は、あくまで市場の人たちからの贈り物だ。
総季は魚の包みを大切そうに抱え、黒兎吉も新鮮な青菜を誇らしげに持っている。
二匹の足取りは、いつもより軽かった。
「ふふん」
ウサラートが鼻を鳴らした。
「今日は隊長らしい仕事ができたぴょん!」
「そうやね」
信子は微笑んだ。
「刀を抜かんでも、立派に人助けができたきね」
「そうだぴょん! やはり隊長は偉大だぴょん!」
「そこは、うちが言うてあげるところやろ」
「自分の功績は正しく評価するべきだぴょん!」
「はいはい」
信子は笑いながら歩いていたが、不意に何かを思い出した。
「……あれ?」
「どうしたぴょん?」
「買い物の紙、どこやったっけ?」
「ここだぴょん」
ウサラートが懐から紙を取り出した。
信子はそれを受け取り、何気なく裏返す。
すると。
裏面に、見覚えのない文字が書かれていた。
しかも、明らかにウサラートの丸っこい筆跡である。
『一、団子は余計なものに含まれないものとする』
「…………」
信子は黙って紙を見つめた。
そして。
ゆっくりと、ウサラートへ顔を向ける。
「……隊長?」
「なんだぴょん?」
「これは?」
「重要な補足事項だぴょん」
「誰が決めたが?」
「隊長だぴょん!」
「……ほう?」
「団子は心の糧だぴょん。心の糧は、隊の士気を高めるために必要不可欠なものだぴょん!」
「勝手に書き足したが、ばればれやきね!」
信子の声が、京の通りに響く。
総季が楽しそうに尻尾を揺らし、黒兎吉も肩を震わせている。
秋の陽射しが、四人の背中を優しく照らしていた。
けれど。
この日の騒動は、まだ終わっていなかったのである。
第六章 団子屋の攻防戦
「……ぴょん」
「……何?」
「……お腹が空いたぴょん」
「さっきからそればっかりやねえ」
錦市場を出てしばらく。
ウサラートは、先ほどから同じことを繰り返していた。
「大声を出したせいで、隊長の体力は著しく消耗したぴょん」
「はいはい」
「しかも、迷子の捜索という重大任務を完遂したぴょん」
「うんうん」
「つまり、これは正当な補給の要求だぴょん!」
「……で?」
ウサラートは、ぴたりと足を止めた。
その視線の先に。
小さな茶屋があった。
神社の脇に建てられたその店では、朱色の幟が秋風に揺れている。
『名物 三色団子』
『焼きたて みたらし』
店先では、炭火の上で団子が焼かれていた。
じゅう、と小さな音を立てて餅の表面に焼き色がつき、そこへ甘辛い醤油だれが塗られる。
たちまち、香ばしい匂いが漂ってきた。
ウサラートの黒耳が、ぴんっと立ち上がる。
「……見えたぴょん」
「何が?」
「心の安らぎ処だぴょん!」
「団子屋やろ」
「隊長にとっては、戦いの疲れを癒す聖地だぴょん!」
信子は呆れたように笑った。
しかし、先ほどの迷子騒動で、皆が少し疲れていたのも事実だった。
それに今日は、人助けもできた。
こんな日に、少しばかりのご褒美があってもよいだろう。
「……まあ、えいか」
「ぴょん!?」
ウサラートが勢いよく振り返る。
「今、なんて言ったぴょん!?」
「団子、食べて帰ろうかって」
「信子!」
ウサラートの目が輝いた。
「信子は最高の副長だぴょん!」
「調子のえいこと言いなや」
*
茶屋の軒先には、赤い毛氈を敷いた床几が並んでいた。
四人が腰を下ろすと、店主が湯気の立つ茶碗を運んできた。
「いらっしゃい!」
そして、ウサラートの顔を見るなり目を丸くした。
「あれまあ! さっき錦で大声出してはった兎のお侍さんやないか!」
「ふふん!」
ウサラートは誇らしげに頷く。
「噂になっているぴょん?」
「そらもう! 青い着物のお母さんを探してはったんやろ? 市場のお客さんから聞きましたえ」
「うむ! 京の平和を守る隊長として、当然の務めを果たしたまでだぴょん!」
「よう頑張らはったんやねえ」
店主が笑う。
ウサラートは、すかさず身を乗り出した。
「では、その名誉ある隊長にふさわしい、一番大きなみたらし団子をお願いするぴょん!」
「ちょっと待ちいや」
信子が横から口を挟んだ。
「今日の団子は、一人一本までやきね」
「……ぴょん?」
ウサラートが固まった。
「一本……?」
「うん」
「……一本だけ?」
「そうやで」
「……信子」
「何?」
「それでは隊長の体力回復には、著しく不十分だぴょん!」
「さっき元気いっぱいに歩いちょったやろ」
「空腹は突然襲ってくるものだぴょん!」
「はいはい」
「三本! せめて三本は必要だぴょん!」
「一本」
「二本半!」
「一本」
「では、一本と半分……!」
「一本!」
「……ぴょん」
耳が、しゅん、と垂れ下がった。
それを見ていた店主が、くすくすと笑う。
「まあまあ。焼きたてを持ってきますさかい、仲良う食べておくれやす」
*
やがて、団子が運ばれてきた。
こんがりと焼き色のついたみたらし団子。
淡い桃色、白、若草色の三色団子。
つややかな餡と、香ばしい醤油の香りが食欲をそそる。
「……おおお」
ウサラートが目を輝かせた。
「なんと美しい光景だぴょん……!」
「大げさやねえ」
信子は笑いながら、みたらし団子を一口頬張った。
「ん……!」
柔らかい餅の食感に、甘辛い醤油だれが絡む。
噛むほどに香ばしさが広がっていく。
「美味しいわあ……」
信子の表情が、ふわりと緩んだ。
「……信子」
ウサラートがじっと見つめる。
「何?」
「隊長の前で、そんなに美味しそうに食べるのは反則だぴょん!」
「自分のもあるやろ!」
「……そうだったぴょん!」
ウサラートは慌てて団子を手に取った。
一方、総季と黒兎吉は、床几の脇で休んでいた。
二匹の前には、水と、それぞれに分けられた食べ物が置かれている。
総季には、店主が少し焼いて骨を取り除いてくれた魚。
黒兎吉には、市場でもらった新鮮な青菜。
団子の甘い香りには興味を示しつつも、それぞれ自分のご馳走を大切そうに食べていた。
「総季も黒兎吉も、よう働いたもんねえ」
信子が微笑む。
総季が「にゃあ」と返事をした。
黒兎吉も、小さく頷いた。
「ふむ!」
ウサラートは団子を掲げた。
「では、隊長もいただくぴょん!」
大きく口を開ける。
まさに、団子が口へ入ろうとした。
その瞬間。
ふわり。
秋風が吹いた。
境内の木々がさわさわと揺れ、一枚の落ち葉が空から舞い降りてくる。
くるり。
くるり。
落ち葉は風に乗って漂いながら、まるで狙いを定めたかのように。
ぺたり。
ウサラートのみたらし団子へ、見事に着地した。
「…………ぴょん?」
口を開けたまま、ウサラートが固まった。
信子も団子を持つ手を止めた。
「……あらまあ」
そして、くすりと笑う。
「葉っぱが乗っかっちゃったね」
「……ぴょん」
「取ったらえいだけやろ?」
「ふ、ふふん!」
ウサラートは慌てて胸を張った。
「この程度、隊長にとっては何の問題もないぴょん!」
そして、団子を持っていないほうの手を伸ばした。
「見事な指さばきで、落ち葉だけを取り除いてみせるぴょん!」
「普通に取ればえいがよ……」
信子の呟きなど、耳に入っていない。
ウサラートは真剣な表情で、落ち葉をつまもうとした。
しかし。
その手が届くより早く。
ひょいっ!
黒兎吉が跳び上がった。
「ぴょん!?」
小さな黒い前足が、団子の上の落ち葉をつまみ取る。
実に見事な早業だった。
ところが。
突然の動きに驚いたウサラートが、団子の串を大きく揺らしてしまった。
「あっ!」
串の先端から、一番上の団子が滑り落ちる。
ぽんっ。
丸い団子が宙を舞った。
「だ、団子がああああっ!」
ウサラートが叫ぶ。
信子が慌てて手を伸ばす。
しかし、届かない。
そして。
次の瞬間。
ぱしっ!
白い影が動いた。
総季だった。
総季は素早く前足を伸ばし、落ちてくる団子を横から弾いた。
団子はくるりと方向を変え、床几の下へ置いてあった空の小皿に落ちる。
ころん。
一度だけ転がり、ぴたりと止まった。
「…………」
沈黙。
ウサラートは口を開けたまま固まっていた。
信子も目を丸くしている。
黒兎吉は落ち葉を手にしたまま、ぴくりとも動かない。
その中央で。
総季だけが、何事もなかったかのように前足を舐め始めた。
「……総季」
信子が呟いた。
「今の……すごいねえ」
「…………」
ウサラートは、ゆっくりと空の小皿を見下ろした。
そこには、落下の衝撃で形の崩れたみたらし団子がある。
しかも。
小皿の端に付いていた細かな埃が、たれにくっついていた。
もはや、食べるわけにはいかない。
「…………ぴょん」
ウサラートの耳が震えた。
「……隊長の」
ぽつり。
「……隊長の、一番上の」
声が震える。
「一番大きくて、たれがいっぱい付いていた団子がああああっ!!」
茶屋中に、悲痛な叫びが響き渡った。
「あははははっ!」
信子はとうとう堪えきれなくなった。
「ウサラート! あははっ! そんな顔せんでも!」
「笑い事じゃないぴょん!」
「まだ串に残っちゅうやろ!」
「一番上が重要だったんだぴょん!」
「なんでよ!」
「最初の一口こそ、隊長の威厳に関わるぴょん!」
「知らんわ、そんな理屈!」
総季は涼しい顔で毛づくろいを続けている。
黒兎吉は、そっと落ち葉を地面へ置いた。
どうやら、自分の行動が騒動のきっかけになったことを理解しているらしい。
ウサラートは、がっくりと肩を落とした。
「……隊長の威厳も、団子も失われたぴょん」
長い耳が、すっかり垂れ下がっている。
その姿は、迷子を助けたときの勇ましい隊長とは別人のようだった。
しばらく、その様子を見つめていた黒兎吉が動いた。
とことこ。
ウサラートの膝元へ近づく。
そして。
小さな前足で、ウサラートの膝をぽんぽんと叩いた。
「……黒兎吉?」
ウサラートが顔を上げる。
黒兎吉は、一度だけ鼻を鳴らした。
まるで。
『まだ残っているだろう』
そう言いたげだった。
ウサラートは、自分の手元を見つめる。
串には、まだ団子が残っていた。
「……そうだぴょん」
小さく呟いた。
「まだ、全部失ったわけじゃないぴょん……!」
黒兎吉は満足げに頷いた。
信子がその様子を見て、くすりと笑う。
「ほら。隊長がそんなことで落ち込まんといて」
そして、皿に残っていた自分の団子をひとつ、ウサラートへ差し出した。
「これ、あげるき」
「……信子?」
「今日はよう頑張ったもんねえ」
ウサラートは、差し出された団子を見つめた。
それから、信子を見る。
「……よいのかぴょん?」
「うん」
「本当に?」
「何回聞くがよ」
「……信子!」
ウサラートの耳が、一気に立ち上がった。
「お前は最高の副長だぴょん!」
「さっきも聞いたわ、その台詞!」
「隊長は良い部下に恵まれたぴょん!」
「うちは部下になった覚えないきね!」
信子が笑う。
黒兎吉も満足そうに頷いている。
総季は、自分の魚を食べ終えて、のんびりと伸びをしていた。
ウサラートは、ようやく団子を口へ運んだ。
ぱくり。
「…………!」
甘辛いたれが舌に広がる。
柔らかく、それでいてほどよい弾力のある餅。
焦げ目の香ばしさが、後からふわりと追いかけてきた。
ウサラートは幸せそうに目を細めた。
「……んんんっ!」
頬を膨らませながら、力いっぱい頷く。
「美味しいぴょん!」
「そりゃよかった」
「これぞ、心の糧だぴょん!」
「はいはい」
「信子!」
「今度は何?」
「今日という日は、隊長の歴史に残る素晴らしい一日になったぴょん!」
信子は、少しだけ目を細めた。
「……そうやね」
そして、境内の木々へ視線を向ける。
秋の葉が、風に揺れていた。
「迷子も無事に帰れたし、えい日やったねえ」
「うむ!」
ウサラートは、大きく頷いた。
「これもすべて隊長の采配だぴょん!」
「……最後にそれを言わんかったら、もっと格好えいのに」
*
茶屋を出る頃には、陽が少し西へ傾き始めていた。
総季はすっかり満足した様子で、尻尾をゆったりと揺らしている。
黒兎吉は、八百屋からもらった青菜を大切そうに抱えていた。
信子は竹籠を持ち直し、二匹の様子を確認する。
「さあ、帰ろうかね」
「了解だぴょん!」
ウサラートが元気よく返事をした。
「今度こそ隊長が荷物を持つぴょん!」
「おお、珍しいこと言うねえ」
「当然だぴょん! 隊長たる者、部下の負担を減らすことも重要な務めだぴょん!」
「ほんなら、お願いしようかね」
信子が竹籠を差し出した。
ウサラートは、満面の笑みで受け取ろうとする。
しかし。
ぐうううう。
小さな音がした。
「…………」
信子が動きを止める。
ウサラートも固まる。
「……ウサラート?」
「……ぴょん」
「今の、何の音?」
「……隊長のお腹が、もう一度補給を要求しているぴょん」
「さっき団子食べたばっかりやろ!」
「甘いものは別腹だぴょん!」
「それ、今言う台詞と違うやろ!」
総季が「にゃあ」と鳴いた。
黒兎吉も、呆れたように耳を揺らす。
信子は大きくため息をついたが、やがて笑い出してしまった。
「……もう、ほんまに」
「なんだぴょん?」
「隊長は、どこまで行っても隊長やねえ」
「当然だぴょん!」
ウサラートは胸を張った。
「隊長は、いつでも隊長だぴょん!」
その返事に、また笑い声が弾けた。
秋の夕暮れが、京の町をゆっくりと染めていく。
遠くから寺の鐘が聞こえ、町家の軒先には夕餉の支度を始める気配が漂っていた。
四人は並んで歩いていく。
青い髪を揺らす信子。
黒い兎耳を誇らしげに立てるウサラート。
白い毛並みの総季。
そして、小さな体に誰より立派な気概を秘めた黒兎吉。
その背中では、浅葱色の羽織に染められた「誠」の文字が、夕陽を受けて柔らかく輝いていた。
今日、彼らは刀を抜かなかった。
誰かを斬ることも、恐ろしい敵と戦うこともなかった。
それでも。
迷子の小さな手を守り、母親の涙を笑顔に変えた。
市場の人々と助け合い、そして最後には、団子ひとつをめぐって大騒ぎをした。
それは、歴史に残るような大事件ではない。
けれど、誰かの心には、きっと残る一日だった。
あの男の子が、いつか大人になったとき。
母親と離れ離れになった怖さよりも、白い猫の柔らかな毛並みや、黒い兎の凛々しい姿、青い髪のお姉さんの優しい声を覚えていてくれたなら。
そして、黒い兎耳の隊長が、市場中に響き渡るほどの大声で、自分の母親を探してくれたことを覚えていてくれたなら。
それだけで、今日の任務には十分な意味があったのだろう。
「……なあ、信子」
夕陽の中で、ウサラートが呟いた。
「なんやの?」
「明日も団子を食べに行くぴょん?」
「……行かんよ」
「ぴょん!?」
「まずは今日の晩ご飯をちゃんと食べなや」
「……むむむ」
ウサラートは難しい顔で考え込んだ。
そして、懐から買い物の紙を取り出す。
裏面に書かれた一文を、もう一度じっと見つめた。
『一、団子は余計なものに含まれないものとする』
「……信子」
「今度は何?」
「この規則には、日付の制限がないぴょん」
「…………」
「つまり、明日も有効だぴょん!」
「勝手に決めなやあああっ!」
信子の声が、夕暮れの京に響いた。
総季が驚いて飛び跳ね、黒兎吉が呆れたように頭を抱える。
そしてウサラートは、何より楽しそうに笑っていた。
――錦市場の小さな誠。
それは、刀の刃ではなく。
人を思う心と、ほんの少しの勇気と。
そして、どこまでも賑やかな笑い声によって守られた、秋の京の一日であった。
――了――
【あとがき・設定資料のご案内】
本作のオリジナルキャラクターのビジュアルや詳細な設定資料は、Pixiv・noteにて公開しています。
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ウサラートマート(Usarart Mart)
風ゆらりが手がける、ウサラートとその仲間たちのオリジナルキャラクターブランド。
個性豊かなキャラクターたちが織りなす物語や、LINEスタンプなどを通じて、ちょっと不思議で楽しい世界をお届けします。
企画・制作:風ゆらり(kazeyurari)