その名は、ウサラート。
黒髪に長い兎耳を持ち、語尾にはいつも「ぴょん」が付く、少しお茶目な少女。
そんな隊長を支えるのは、青髪の少女・信子。土佐弁を話す彼女は、坂本龍馬の妹であり、ウサラートの隊の副長でもある。
そして、二人のそばには黒い兎の黒兎吉と、白猫の総季。
雨の日の縁側でのんびり過ごしたり、些細なことで言い合いになったり、ときには思いがけない騒動に巻き込まれたり。
激動の幕末を背景に、個性豊かな仲間たちが繰り広げる、笑いあり、優しさあり、ちょっぴり切なさもある物語。
一話完結を基本としているので、どのお話からでもお楽しみいただけます。
兎耳隊長と仲間たちの、少し不思議な新選組日和。
※本シリーズは、新選組や歴史上の人物をモチーフにした「風ゆらり」のオリジナル歴史ファンタジーです。史実とは異なる設定や展開が含まれます。
一 春風に揺られて
「桜の下では、隊長も休み」
信子がそう宣言したのは、舟が岸を離れ、ゆっくりと水路へ漕ぎ出したときのことだった。
春の陽光を浴びた水面には、淡い桃色の花びらが幾重にも浮かんでいる。
岸辺から枝を伸ばした桜が、まるで舟を迎え入れるように水路の上へと垂れ下がり、そよ風が吹くたび、花びらがひらひらと降り注いだ。
舟の縁に舞い落ちた一枚を、黒兎吉(くろうさきち)が小さな鼻先でつついていた。
ひくひくと鼻を動かすたび、黒く艶やかな毛並みに薄桃色の花びらが触れ、すぐに風にさらわれていく。
一方、その隣では白猫の総季(ふさき)が、舟の縁から身を乗り出していた。
視線の先には、ゆったりと泳ぐ一匹の赤い鯉。
春の日差しを透かした川水は、底まで見通せそうなほど澄んでいる。舟の影を横切る鯉が尾びれを動かすたび、総季の白い耳がぴくぴくと忙しく揺れた。
「総季。見るだけにしちょきよ」
信子が後ろからそっと背中を支える。
総季は不満そうに「にゃあ」と鳴いたものの、鯉から目を離そうとはしなかった。
「お魚も花見中なんだから、邪魔したら駄目ぴょん」
ウサラートが真剣な顔で言う。
「ほう。隊長は魚の都合まで分かるがか」
「もちろんぴょん。あの鯉、さっきから同じ桜の下を泳いでるぴょん。きっと花びらが落ちてくるのを待ってるんだぴょん」
「そりゃあ、うちらの舟がそこを通りゆうだけじゃろ」
「……夢のない副長だぴょん」
「現実的と言うてほしいねえ」
信子が肩をすくめる。
ウサラートは少しだけ唇を尖らせたが、言い返す代わりに膝の上の黒い着物を整えた。
その拍子に、頭上から垂れ下がった枝垂れ桜の小枝が、長い兎耳の先をくすぐった。
「ぴょっ」
思わず首をすくめる。
細い枝がさらりと耳を撫でて通り過ぎ、艶やかな黒髪の上に乗っていた花びらが一枚、膝へと滑り落ちた。
「桜にまで構われゆう」
「桜は礼儀正しいぴょん」
「今のは挨拶じゃったがか」
「そうぴょん。だから、こっちも挨拶するぴょん」
ウサラートは桜の枝へ向かって、ちょこんと頭を下げた。
その様子を見て、信子が声を立てて笑う。
二人の笑い声は水面を渡る春風に溶け、岸辺に咲く桜の間へと消えていった。
水路の両側には、古い瓦屋根の家並みが続いている。
黒く塗られた木壁。軒先に吊るされた提灯。開け放たれた格子窓から漏れてくる人々の話し声。
どこかの家では、洗濯物が春風に揺れていた。
また別の家先では、縁側に座った年寄りが、通り過ぎる舟へ向かってのんびりと手を振っている。
信子が軽く会釈を返すと、ウサラートも慌てて頭を下げた。
川面には家々の影が長く映り、舟が進むたび、ゆらゆらと形を変えていく。
櫓(ろ)が水をかく音が、一定の間隔で響いていた。
ぎい、と木が軋む。
ちゃぷん、と水が揺れる。
その繰り返しが、妙に心地よかった。
こんなにもゆっくりと進む乗り物に、身を任せたのはいつ以来だろう。
ウサラートはぼんやりと考えた。
普段の移動といえば、緊急の知らせを受けて急ぐか、周囲を警戒しながら目的地へ向かうことが多い。
歩いていても、馬に乗っていても、頭のどこかでは常に次の行動を考えている。
誰がどこにいるか。
何かあったとき、どの道を通るか。
立ち止まるなら、どこが安全か。
考えようとして考えるのではない。
いつの間にか、そうすることが当たり前になっていた。
だからこそ、ただ景色を眺めるためだけに舟へ乗っている今の時間が、少しくすぐったかった。
何も急がなくていい。
誰かに指示を出さなくてもいい。
次の予定を決めなくてもいい。
それなのに、頭の片隅では、どうしても何かを探してしまう。
前方に石造りの橋が見えてきた。
橋の上には数人の通行人。
両岸には細い石段。
右手には家並みの途切れる場所があり、その向こうには路地が続いているようだった。
橋の高さ。
水路の幅。
岸までの距離。
もし舟を降りる必要が生じたなら――。
とん。
不意に袖を引かれた。
「また数えゆう」
「……何をぴょん?」
「橋までの距離。降りられそうな石段の位置。それから、通りの出入り口の数」
「…………」
完全に言い当てられた。
ウサラートの長い耳がぴんと立ち、それから気まずそうに横へ傾く。
「見えてしまうだけぴょん」
「見えるたびに覚えんでも、今日は困らんよ」
「でも、何かあったら困るぴょん。もし橋の上から追手が来たらとか、川幅が狭いところで挟み撃ちにされたらとか……」
「そのときは、うちもおる」
信子は何でもないことのように言った。
驚くほど、あっさりと。
まるで、明日の天気を話すような口調だった。
ウサラートは思わず、その横顔を見た。
信子はもう、総季が水面へ伸ばしかけた前脚をそっと押し戻している。
「ほら、また。あんたも落ち着かんねえ」
「にゃあ」
「隊長に似たがかもしれんね」
「それは聞き捨てならないぴょん」
「そうかねえ」
信子は涼しい顔をしている。
けれど、ウサラートは知っていた。
今も信子は、自分が気づくより先に総季の動きを見ていた。
舟が大きく揺れれば、黒兎吉の居場所も確かめるだろう。
それは見張りをしているからではない。
一緒にいる者を、自然に気にかけているのだ。
「……副長は休まないぴょん?」
「休みゆうよ」
「総季の世話をしてるぴょん」
「猫の世話は別じゃ」
「それなら、わたしの見張りも別ぴょん。隊長としての習性なんだから」
「隊長まで舟から落ちそうになったら、その時点で休みは終わりじゃね」
「わたしは落ちないぴょん!」
「ほんなら、そろそろ舟の縁から目を離してみたらどうじゃろ」
「……意地悪ぴょん」
そう言いながら、ウサラートは渋々、橋から視線を外した。
そのときだった。
ぽん。
ぽん、ぽん。
黒兎吉が二人の膝の間へ割り込み、信子の脇に置かれた竹皮の包みを前脚で叩き始めた。
「おや。よう覚えちょったねえ」
信子が包みを持ち上げる。
黒兎吉は期待に満ちた様子で鼻を動かした。
「それは何ぴょん?」
「花見に欠かせんものよ」
紐をほどくと、竹皮の内側から三色の団子が姿を現した。
上から白、桃色、若草色。
小ぶりで形の整った団子が、串に仲良く並んでいる。
ほのかに漂う甘い香りに、ウサラートの耳が再びぴんと立った。
「お団子ぴょん!」
「隊長、さっきより嬉しそうじゃね」
「そんなことないぴょん。隊長は常に公平ぴょん」
「桜と団子にも公平なが?」
「もちろんぴょん」
そう答えながら、ウサラートの視線は団子に釘付けだった。
信子は笑いを堪えながら一本を差し出す。
「はい、隊長」
「ありがとうぴょん!」
嬉しそうに串を受け取ったウサラートは、しばらく三色の団子を眺めた。
「信子は、どの色から食べるぴょん?」
「上から」
「そういうことじゃないぴょん。どの色が好きかって聞いてるぴょん」
「ほんなら、桃色かねえ」
「同じぴょん!」
ウサラートの表情がぱっと明るくなる。
「わたしも桃色が一番好きぴょん。だから、一番最後に残すぴょん」
「なんでじゃ?」
「楽しみは長く残しておくほうがいいからぴょん。好きなものを最後に食べると、幸せな気持ちで終われるぴょん」
「ふうん」
信子は少し考える素振りを見せた。
そして、真ん中の桃色の団子を、何のためらいもなく口へ運んだ。
「あっ、ぴょん!」
「ん。おいしい」
「信子! 桃色から食べたぴょん!」
「うちは好きなものを先に食べる派じゃき」
「最後のお楽しみがなくなっちゃうぴょん!」
「好きなものを最後まで残して、食べそこねたら悔しいろう?」
「誰も取らないぴょん」
「そりゃ分からんよ。川へ落とすかもしれんし、急に舟が揺れるかもしれん」
「そんな都合よく――」
ぐらり。
ちょうどその瞬間、川上から強い風が吹いた。
水面に小さな波が立ち、舟が横へ揺れる。
「ぴょっ!?」
ウサラートは反射的に団子の串を胸元へ引き寄せ、もう片方の手で黒兎吉を抱き寄せた。
同時に信子も、舟の縁へ身を乗り出した総季を素早く抱き上げる。
二人の動きは、ほとんど同時だった。
風が収まる。
舟が元の揺れへ戻る。
そして二人は、互いの姿を見て黙り込んだ。
ウサラートは団子を守るように片手を高く掲げ、もう片方の腕で黒兎吉を抱えている。
信子は総季をしっかり抱きかかえ、足を踏ん張っていた。
まるで、何か重大な事態に備えたかのような格好だった。
「…………」
「…………」
先に吹き出したのは信子だった。
「ふふっ……隊長、団子は無事かね?」
「……無事ぴょん」
「そりゃ何より」
「信子も、総季を守ったぴょん」
「うん。こっちも無事じゃ」
二人は顔を見合わせ、今度こそ声を立てて笑った。
「……休むの、難しいぴょん」
「団子を守るくらい、えいじゃないか。立派な花見じゃ」
「それ、なんだか違うぴょん」
「細かいことは気にせんの」
信子がいたずらっぽく笑う。
ウサラートも、ようやく肩の力を抜いた。
そして、手元の団子を見つめる。
白。
桃色。
若草色。
少し迷った末に、真ん中の桃色を口に運んだ。
「……あ」
もちもちとした柔らかな食感。
舌の上で、優しい甘さがゆっくりとほどけていく。
「どうじゃ?」
「……おいしいぴょん」
「じゃろ?」
「でも、最後に残してもよかったぴょん」
「そうかね」
「うん。でも……今食べても、おいしかったぴょん」
信子は何も言わず、満足そうに微笑んだ。
頭上では、桜の花びらがひらひらと舞い続けていた。
二 任せるということ
舟が大きな石橋の下へ入ると、周囲の空気が一変した。
それまで頬を温めていた日差しが遮られ、水面は薄桃色の輝きを失って、深い翡翠(ひすい)色に変わる。
橋の石壁へ水音が反響し、櫓の軋む音が先ほどよりも近く、大きく聞こえた。
ひんやりとした空気が、着物の襟元を撫でていく。
黒兎吉はウサラートの膝の上で丸くなり、総季もようやく鯉への興味を失ったのか、信子の腕の中で目を細めていた。
静かな時間だった。
ウサラートは、串に残った白と若草色の団子を見つめた。
「ねえ、信子ぴょん」
「なんじゃ?」
「……わたし、そんなに休めてなかったぴょん?」
信子はすぐには答えなかった。
手元の団子を食べ終え、竹串を丁寧に包みへ戻す。
それから、ウサラートへ視線を向けた。
「昨日、お茶を三度温め直しよった」
「……それは、途中で誰かに呼ばれたからぴょん」
「一昨日は、部屋で座ったまま草履を履いちょった」
「いつでも出られるようにしておくのは、隊長として当然の備えだぴょん」
「今朝は、休みの予定を聞いて何て言うた?」
「…………」
ウサラートは口を閉じた。
覚えている。
信子に舟遊びへ誘われたとき、最初に尋ねたこと。
『何時に戻ればいいぴょん? 夕方の交替までには戻ったほうがいいぴょん?』
そうだった。
どこへ行くのかでも、何を見るのかでもない。
何時に帰ればいいのか。
それが最初に気になったのだ。
「……でも」
ウサラートは俯いた。
「みんなが困ったら、嫌なんだぴょん」
「うん」
「わたしがいないときに限って、何か緊急の知らせが来るかもしれないぴょん。隊員同士で意見が食い違うかもしれないし、判断に迷うことが起きるかもしれないぴょん」
「あるかもしれんね」
信子は否定しなかった。
その返事に、ウサラートは少しだけ目を伏せる。
ない、と言ってほしかったのかもしれない。
何も起こらない。
心配しなくていい。
そんな都合のよい言葉をもらえたなら、少しは気が楽になっただろうか。
けれど、信子は安易な気休めを言わない。
何も起こらないという保証がないことを、彼女もよく知っているからだ。
「……だから、気になっちゃうぴょん」
「うん」
「何かあったとき、わたしがいなくて困るのは、みんなだぴょん」
「そうじゃね」
「隊長なのに、みんなを置いて遊んでいていいのかなって……」
そこまで言って、ウサラートは自分の手元を見た。
団子の串。
膝の上の黒兎吉。
桜の花びら。
いかにも平和な、春のひととき。
けれど、こんな時間を楽しんでいる自分の姿を、少しだけ後ろめたく思ってしまう。
信子はその横顔を、しばらく静かに眺めていた。
そして、ふっと息をつく。
「隊長」
「……何ぴょん?」
「もし、うちが休みをもろうて出かけたら、隊長は困るが?」
「困らないぴょん」
返事は即座だった。
「信子がいないときは、わたしがちゃんとするぴょん。みんなにも相談するし、何かあったら、わたしが責任を持つぴょん」
「そうじゃろ?」
「うん」
「ほんなら、逆でも同じじゃないかね」
ウサラートが顔を上げた。
信子は優しく笑っていた。
「隊長が留守の間は、うちがちゃんとする。うちだけで決められんことがあったら、みんなと相談する。それでも難しかったら、そのとき考えりゃえい」
「でも……」
「隊長がおらん間くらい、任された者も頑張りたいろう?」
その言葉に、ウサラートは目を瞬かせた。
橋の下には、まだ薄暗い影が広がっている。
水面から跳ね返った光が石壁に映り、ゆらゆらと揺れていた。
「うちもそうじゃ」
信子は続けた。
「任せてもろうたら、嬉しい。自分を信用してくれちゅうって思えるき」
「……嬉しいぴょん?」
「そりゃあ嬉しいよ。隊長に頼られたら、うちだって張り切る。ほかのみんなも、きっとそうじゃと思う」
ウサラートは黙って耳を傾けた。
「隊長が何でも一人で背負うたら、ほかの者はいつまで経っても任せてもらえんろう?」
「…………」
「もちろん、隊長にしかできんこともある。けんど、隊長がおらんでもできることは、ちゃんとあるんじゃき」
信子の声は、穏やかだった。
叱っているわけでも、責めているわけでもない。
ただ、自分が当たり前だと思っていることを、当たり前のように伝えているだけだった。
「隊長が頑張りゆうのは、みんな分かっちゅうよ」
「……うん」
「けんど、うちらも頑張りたいんよ」
ウサラートの指が、団子の串をきゅっと握った。
自分がいなければ、誰かが困る。
だから、休んではいけない。
そう思っていた。
けれど――。
誰かに任せることは、その人を困らせることなのだろうか。
信子が休みを取るなら、自分は快く送り出したい。
安心して楽しんできてほしい。
留守の間の仕事くらい、任せてほしい。
そう思うのに。
どうして、自分が休むときだけは、同じように考えられなかったのだろう。
「……信子」
「ん?」
「わたし、信子にはいつでも任せてるぴょん」
「知っちゅうよ」
「ちゃんと頼りにしてるぴょん」
「それも知っちゅう」
「でも……」
ウサラートは少しだけ言葉を探した。
「わたしがいないほうが、みんなの邪魔にならないこともあるぴょん?」
信子は一瞬きょとんとした。
そして、思いきり吹き出した。
「ふふっ! なんでそうなるが!」
「だって……!」
「うちが言いゆうのは、そういうことやないよ」
信子は笑いを収めると、ウサラートの目をまっすぐに見た。
「隊長が必要ないなんて、誰も思うちょらん」
「…………」
「必要じゃき、休んでほしいんよ」
その一言は、静かな橋の下で不思議なほどはっきりと響いた。
必要だから、休んでほしい。
ウサラートは胸の中で、何度かその言葉を繰り返した。
今まで、そんなふうに考えたことがあっただろうか。
休むというのは、何かをしないことだと思っていた。
誰かに仕事を任せ、自分だけその場を離れることだと思っていた。
けれど、信子は違うと言う。
自分が戻ってきたとき、またみんなと一緒に頑張れるように。
そのための時間なのだと。
「……難しいぴょん」
ウサラートがぽつりと呟く。
「何が?」
「隊長の仕事には、休み方の説明がなかったぴょん」
信子は一瞬目を丸くしたあと、可笑しそうに笑った。
「ほんなら、今日は副長が教えちゃる」
「信子がぴょん?」
「そうじゃ。今日の段取りは、全部うちに任せちょき」
「……本当に全部ぴょん?」
「全部」
「帰る時間もぴょん?」
「全部じゃ」
「途中で何かあったらぴょん?」
「そのときは、二人で考えたらえい」
「…………」
ウサラートはしばらく信子を見つめていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……分かったぴょん」
「よし」
「今日は、信子の段取りを信用するぴょん」
「承知した」
信子はわざと大げさに背筋を伸ばし、胸に手を当てた。
「この副長に、万事お任せあれ」
「なんだか偉そうぴょん」
「任せる言うたばっかりじゃろ!」
二人の笑い声が、橋の下に柔らかく反響した。
そのとき、舟がゆっくりと橋の影を抜けた。
眩しい光が、視界いっぱいに広がる。
春の日差しを浴びた水面がきらきらと輝き、その向こうでは桜の枝が大きく風に揺れていた。
そして――。
ふわり。
一枚の花びらが、ウサラートの鼻先をかすめた。
続いて二枚、三枚。
次の瞬間、川上から強い春風が吹き抜けた。
枝を離れた無数の花びらが、一斉に空へ舞い上がる。
薄桃色の吹雪だった。
桜は風にさらわれながら、空中で幾重にも渦を描いている。
光を浴びた花びらは、白く輝いたかと思えば、次の瞬間には淡い桃色に染まった。
舟の屋根を越え、肩に触れ、髪へ降り積もり、膝の上へ舞い落ちる。
「わあ……!」
ウサラートは思わず声を上げた。
頭上も、左右も、水面までも。
見渡す限り、桜だった。
そのとき。
「にゃあっ!」
総季が勢いよく身を乗り出した。
目の前を舞う一枚の花びらを、どうしても捕まえたくなったらしい。
「こら、落ちる!」
信子が慌てて総季を抱き上げる。
すると今度は、総季の白い前脚が信子の青い髪へ伸びた。
ひらりと揺れる髪飾りを、花びらと間違えたのだ。
「こらこら、それは花やのうて髪飾りじゃ!」
「にゃあ!」
「違う言うちゅうろ!」
信子は総季を抱え直すのに忙しい。
ウサラートはその姿を見つめ、くすくすと笑った。
「総季も、好きなものから取る派ぴょん」
「うちと一緒にせんといて!」
「そっくりぴょん」
「どこがじゃ!」
「欲しいものを見つけたら、すぐに手を伸ばすところぴょん」
「それを言うなら、隊長も団子を守るために必死じゃったろう!」
「わたしは守っただけぴょん。取ってないぴょん!」
「はいはい、そうじゃねえ」
信子は呆れたように首を振った。
けれど、その口元には笑みが浮かんでいる。
ウサラートは笑いながら、ふと気づいた。
いつの間にか、橋の位置を気にしていなかった。
両岸の石段も、通りの人影も、もう数えていない。
目の前には桜があり、信子がいて、総季がいる。
膝の上では黒兎吉が、花びらを鼻先につけたまま、気持ちよさそうに目を細めていた。
それだけで、今は十分だった。
「黒兎吉、こっちへおいでぴょん」
ウサラートが両腕を広げると、黒兎吉はもぞもぞと体を動かし、胸元へ前脚をかけた。
そっと抱き上げる。
小さな体の温かさが、腕の中へ伝わってきた。
長い耳の間には、桜の花びらが一枚。
ウサラートはそれをつまみ、そっと取り除いた。
「いっぱいついたぴょん」
黒兎吉は目を細め、鼻先をひくひくと動かした。
それから、ウサラートの腕の中で丸くなる。
まるで、ここが一番落ち着く場所だと言わんばかりに。
「……信子」
「なんじゃ?」
「こっち向くぴょん」
信子が振り返る。
ウサラートは空いた手を伸ばし、青い髪に留まっていた花びらを一枚、そっとつまみ取った。
「ついてたぴょん」
「あら」
信子は指先の花びらを見つめ、それから少しだけ唇を尖らせた。
「せっかくじゃき、つけたままでもよかったに」
「……じゃあ、戻すぴょん?」
「戻すもんでもないろう」
「難しい副長ぴょん」
「隊長ほどじゃないよ」
二人はまた笑った。
ウサラートが指を離すと、花びらは風に乗ってふわりと舞い、二人の間を通り抜けて舟板の上へ落ちた。
黒兎吉が鼻を寄せる。
総季も信子の腕の中から首を伸ばす。
二人と二匹。
四つの視線が、小さな一枚の花びらへ集まった。
ついさっきまで、空いっぱいに舞う桜を眺めていたというのに。
今度は、舟板に落ちたたった一枚を、みんなで見つめている。
その可笑しさに、ウサラートの胸がふわりと温かくなった。
「……ほんと、綺麗な日だぴょん」
「そうじゃろ?」
信子が得意げに微笑む。
「今日の段取りは、完璧なんじゃき」
「……うん」
ウサラートは素直に頷いた。
「完璧ぴょん」
信子が少し驚いたように目を瞬かせる。
いつものように何か言い返してくると思っていたのだろう。
けれど、ウサラートはもう何も言わなかった。
ただ桜を見上げていた。
風が吹く。
花びらが舞う。
舟はゆっくりと進んでいく。
急ぐ理由など、どこにもなかった。
三 次の団子は桃色から
やがて、水路の先に小さな木造の舟着き場が見えてきた。
使い込まれた木杭が何本も水面から顔を出し、その間には数艘の小舟が繋がれている。
岸辺には桜並木が続き、その向こうには茶屋の軒先がのぞいていた。
風に乗って、香ばしい醤油の匂いが漂ってくる。
ウサラートの長い耳が、ぴくりと動いた。
「……いい匂いぴょん」
「気づいたが?」
「お醤油ぴょん。何か焼いてるぴょん」
「ふふ。鼻がよう利くねえ」
「隊長として必要な能力ぴょん」
「今は団子のために使いゆうみたいじゃけんど」
「それも大事ぴょん!」
信子は声を立てて笑いながら、膝の上の竹皮を畳み始めた。
どうやら、舟遊びもそろそろ終わりらしい。
ウサラートは水面へ目を向けた。
無数の花びらが、流れに乗ってゆっくりと遠ざかっていく。
浮かんでは寄り添い、離れ、また別の花びらと重なる。
桜の枝はまだ頭上に続いていた。
けれど、舟着き場へ近づくにつれて、舟の揺れは少しずつ小さくなっていく。
ウサラートは、その光景を黙って見つめていた。
「……名残惜しいが?」
不意に信子が尋ねた。
ウサラートは少し迷った。
もうすぐ舟を降りる。
そうすれば、次の予定が始まる。
休みが終わるわけではないのに、なぜか今までと同じように、時間を気にしてしまいそうになる。
けれど――。
今日は信子に任せると決めたのだ。
ウサラートは素直に頷いた。
「……もう少し、見ていたいぴょん」
信子の手が止まる。
「桜を?」
「うん」
「そんなに気に入ったが?」
「……すごく、綺麗だったぴょん」
ウサラートは川面を見つめたまま続けた。
「舟の上から見る桜って、いつもと違うぴょん。風が吹くと、空にも水にも花びらがいっぱいになるぴょん」
「そうじゃねえ」
「それに……」
ウサラートは少しだけ声を小さくした。
「何も考えずに見ていられたのが、嬉しかったぴょん」
信子は黙って耳を傾けていた。
「最初は、落ち着かなかったぴょん。休んでると、何か忘れてるような気がして……。でも、途中からは本当に桜しか見てなかったぴょん」
「うん」
「……だから、もう少し見ていたいぴょん」
言い終えてから、ウサラートは信子の顔をちらりとうかがった。
また、時間の使い方を間違えているだろうか。
もっと何か、するべきことがあるだろうか。
そんな思いが、ほんの少しだけ胸をよぎった。
けれど、信子は呆れもしなければ、困った顔もしなかった。
畳みかけた竹皮の包みを膝の上へ置き直し、にっこりと笑った。
「ほんなら、降りてから川沿いを歩こうか」
「……いいぴょん?」
「もちろん。上にも綺麗に咲いちゅう枝がいっぱいあるきね」
ウサラートの顔が、ぱっと明るくなった。
「本当ぴょん?」
「本当」
「でも、戻る時間は大丈夫ぴょん……?」
その瞬間。
信子の片眉が、ぴくりと跳ね上がった。
「…………隊長?」
「ぴょっ」
しまった。
その顔は、間違いなく『まだそんなことを気にしゆうがか』という顔だった。
ウサラートは慌てて両手を振った。
「今のは取り消しぴょん!」
「ほう?」
「撤回だぴょん! 今日の案内は全部信子に任せるって決めたぴょん!」
「そうじゃったねえ」
「だから、もう聞かないぴょん!」
「ほんまに?」
「……たぶんぴょん」
「たぶんかい」
信子はとうとう堪えきれず、声を立てて笑った。
ウサラートもつられて笑う。
黒兎吉は二人の間で鼻を動かし、総季はその笑い声を不思議そうに聞いていた。
「まあ、えいよ。少しずつ慣れたらえいき」
信子は笑いを収め、優しく言った。
「休むことまで、頑張らんでえいんよ」
その言葉に、ウサラートは目を瞬かせた。
休むことまで、頑張らなくていい。
考えてみれば、当たり前のことだった。
けれど、その当たり前が、今は少しだけ新鮮だった。
「……うん」
ウサラートは頷いた。
「そうするぴょん」
「よし。ほんなら、この先の段取りを一つだけ教えちゃる」
「何ぴょん?」
信子が得意げに人差し指を立てた。
「この先に、旨い団子屋があるがよ」
「……!」
ウサラートの長い耳が、勢いよく立った。
「お団子屋さんぴょん!?」
「そう。焼き団子が評判でねえ。さっきから、えい匂いがしゆうろ?」
「あのお醤油の匂いぴょん!?」
「そうじゃ」
「それは……すごく大事な情報ぴょん!」
ウサラートは真剣な顔になった。
そして腕の中の黒兎吉を見下ろす。
「黒兎吉。これは重要な任務ぴょん」
黒兎吉が、ひくひくと鼻を動かした。
「お団子屋さんまで、信子についていくぴょん」
「……隊長」
信子が呆れたように口を挟む。
「なんでも任務にせんでえいき」
「ぴょん?」
「普通に散歩して、普通に団子を食べたらえいがよ」
「…………」
ウサラートはしばらく考え込んだ。
そして、こくりと頷く。
「……分かったぴょん」
「ほんまかねえ」
「今度こそ、本当ぴょん」
信子が疑わしそうに目を細める。
ウサラートは胸を張った。
「わたし、次のお団子は桃色から食べるぴょん!」
「……何の宣言じゃ?」
「さっき、信子が教えてくれたぴょん。好きなものを先に食べても、ちゃんと幸せになれるぴょん」
「ああ、そういうことか」
「最後に残すのも楽しいけど、最初に食べるのも楽しいぴょん。どっちも間違いじゃないぴょん」
信子は一瞬黙った。
それから、柔らかく微笑んだ。
「そうじゃね」
「だから、次は桃色からぴょん!」
「ほんなら、そうしなさい」
「ただし!」
ウサラートが人差し指を立てた。
「信子が先に桃色を取らないように、ちゃんと見張っておくぴょん!」
「結局、見張るんかい!」
二人の笑い声が、桜並木へと響いた。
その頃には、舟はゆっくりと岸辺へ近づいていた。
櫓の音が変わり、水面に小さな波紋が広がる。
舟着き場の木杭に舟が軽く触れ、ぽこん、と可愛らしい水音が弾けた。
信子は総季を抱え直し、足元を確かめながら立ち上がった。
そして岸へ降りると、振り返って手を差し出した。
「さ、降りるよ。隊長」
ウサラートは腕の中の黒兎吉をしっかりと抱き直した。
差し出された信子の手を見つめる。
いつもなら、先に岸辺の様子を確かめただろう。
足場の状態。
周囲の人影。
何かあったときに通れそうな道。
けれど、今日は違った。
目の前には、信子がいる。
その手がある。
それで十分だった。
ウサラートは小さく微笑み、信子の手を取った。
「……ありがとうぴょん、信子」
「ん? 何が?」
「今日の段取りぴょん」
「まだ終わっちょらんよ」
「そうだったぴょん!」
「このあと、まだ桜も団子も待っちゅうきね」
「楽しみぴょん!」
ウサラートは信子の手を借りて岸へ降りた。
足元の木板が、ことりと鳴る。
舟の上とは違う、しっかりとした感触だった。
そのとき、春風が吹いた。
頭上の桜が揺れ、無数の花びらが舞い落ちる。
一枚がウサラートの兎耳に触れ、もう一枚が信子の青い髪へ落ちた。
黒兎吉が鼻を動かす。
総季が花びらを追って、信子の腕の中でもぞもぞと身じろぎする。
「こら、総季。まだじゃ」
「にゃあ」
「もう少し歩いてからにしようねえ」
信子は総季をなだめ、ウサラートへ振り返った。
「さて、隊長。どっちへ行くと思う?」
道は二つに分かれていた。
一方は桜並木の続く川沿い。
もう一方は町家の間を抜ける細い通り。
ウサラートは反射的に、両方の道へ目を向けかけた。
けれど、すぐにやめた。
「……分からないぴょん」
「おや。考えんが?」
「考えないぴょん」
「どうして?」
ウサラートはにっこりと笑った。
「今日は、信子に任せてるからぴょん」
信子は一瞬、きょとんとした。
そして、嬉しそうに目を細めた。
「……そうじゃったね」
「そうぴょん」
「ほんなら、ついておいで」
「了解ぴょん!」
信子が歩き出す。
ウサラートは黒兎吉を抱えたまま、その隣へ並んだ。
行き先を尋ねるのは、やめておこう。
どの店へ行くのかも。
どこで立ち止まるのかも。
いつ戻るのかも。
今日は全部、信子に任せると決めたのだから。
それに――。
知らない道を歩くのも、案外楽しいのかもしれない。
どこへ続いているのか分からないからこそ、次の角を曲がるのが楽しみになる。
そんな当たり前のことを、ウサラートは今、初めて知ったような気がした。
「隊長」
「何ぴょん?」
「一つだけ言うちょくよ」
「何ぴょん?」
信子はいたずらっぽく笑った。
「次の団子屋に桃色の団子があるとは限らんきね」
「…………」
ウサラートの足が、ぴたりと止まった。
「……ぴょん?」
「焼き団子じゃ言うたろ?」
「……桃色じゃないぴょん?」
「たぶん茶色じゃねえ」
ウサラートはしばらく黙っていた。
それから、空を見上げる。
桜が舞っている。
柔らかな春風が吹いている。
信子は隣で、笑いを堪えている。
ウサラートは小さく息を吐いた。
「……まあ、いいぴょん」
「おや?」
「桃色じゃなくても、きっとおいしいぴょん」
信子が目を丸くする。
ウサラートはにっこりと笑った。
「信子が選んだお店だから、楽しみにしてるぴょん」
その言葉を聞いた信子は、ほんの少しだけ照れくさそうに目を伏せた。
「……そうかね」
「そうぴょん」
「ほんなら、期待しちょき」
「うん!」
二人は再び歩き出した。
桜並木の向こうから、醤油の香ばしい匂いが漂ってくる。
舟着き場では水が静かに揺れ、さっきまで二人を乗せていた舟の周りに、花びらがゆっくりと集まっていた。
ウサラートはもう、振り返らなかった。
今日という日は、まだ終わらない。
そして明日になれば、また隊長としての務めが待っているのだろう。
考えなければならないことも、決めなければならないことも、きっとたくさんある。
けれど、今は。
信子と、黒兎吉と、総季と。
春の風に吹かれながら、桜の下を歩いていればいい。
「ねえ、信子ぴょん」
「今度は何じゃ?」
「……お団子、二本食べてもいいぴょん?」
信子が吹き出した。
「好きなだけ食べたらえいよ!」
「やったぴょん!」
ウサラートの兎耳が嬉しそうに揺れる。
信子の腕の中で総季が鳴き、黒兎吉もつられるように鼻先を動かした。
春風が、四人の間を吹き抜けていく。
行き先を決めるのは、今日は副長の仕事。
そして、その道の先にある楽しみを、心から味わうこと。
それが今日、隊長に任された、たった一つの役目だった。
――桜の下では、隊長も休み。
どうやら今年の春は、その言葉を少しだけ、上手に守れそうだった。
(了)
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関連リンクまとめ
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ウサラートマート(Usarart Mart)
風ゆらりが手がける、ウサラートとその仲間たちのオリジナルキャラクターブランド。
個性豊かなキャラクターたちが織りなす物語や、LINEスタンプなどを通じて、ちょっと不思議で楽しい世界をお届けします。
企画・制作:風ゆらり(kazeyurari)