プロローグ1逃亡者・振り向くという選択
チームスピカという少しばかり不思議な集団に身を置いてから、それなりの時間が経過した。
サイレンススズカは、自分の立ち位置のようなものを少しずつ理解し始めていた。朝の挨拶を交わす。トレーニングの合間に水分を補給しながら、他愛のない冗談に付き合う。
(悪くないですね)
そんなふうに思っている自分に、少しばかり驚きながら。
ただ、走る理由については、彼女たちと私とでは根本的に何かが違うらしかった。勝ちたい。誰かに追いつきたい。認められたい。過去の自分を越えたい。彼女たちの原動力は、分かりやすくて、熱を帯びていて、とても眩しい。
私も走ることは好きだ。誰よりも。けれど、その熱源は少し違う。勝敗や称賛は、あくまで結果の副産物に過ぎない。誰も見たことのない景色を見たい。理由を言葉にするなら、ただそれだけだ。景色の先へ。さらに、その先へ。気づけば、命を削るようにターフを駆け抜けている。
(私ほど、限界の向こう側に行こうとしている人はいない)
真剣に走る仲間たちに励まされつつも、ふと思う。それは自負でも驕りでもなく、足元の芝生が緑色であるのと同じくらい、私にとっては静かな事実だった。
そんな私の静かな思考を、物理的な音量で叩き割る存在がいる。
「緊急事態だァァァ!! 購買部の焼きそばパンが独立国家を宣言した!!」
「……はい?」
「アタシはこれより外交交渉に向かう! スズカ! 留守は任せたぜ!」
返事をする間もなく、白銀の影が目の前を駆け抜けていった。ゴールドシップである。いつも通り、何を言っているのかよく分からない。
「待ちなさい! まだトレーニングの途中ですよ! そもそも焼きそばパンが独立国家ってどういうことですの!?」
「聞くなマックイーン! 国家機密だ!!」
遠ざかっていく声。まったく、相変わらず騒がしい人だ。私は小さく息をついて、手元の時計に目を落とした。ほんの数秒のことだったと思う。再び顔を上げたとき、彼女はもうグラウンドの向こう側にいた。
(……あれ?)
思わず、目を瞬かせる。ずいぶん遠くまで行ってしまった。けれど当の本人は、そんなことなどお構いなしに、遠くから両手を振っている。
「国交樹立したら土産持って帰るからなァー!!」
「……気をつけて」
届くはずもない返事をして、私は練習に戻った。
ゴールドシップ。通称ゴルシ。チームの中でも、とりわけ変わった人だ。突然いなくなったかと思えば、いつの間にか戻ってきている。真面目な顔で冗談を言い、冗談のような顔で、ときどき妙に真面目なことをする。
ある日、タイムが伸び悩んで壁にもたれていたチームメイトの隣に、気づけば彼女が座っていた。何か声をかけるのかと思ったら、ひどく真剣な顔でこう言った。
「人類がまだ解明できていない謎のひとつに、なぜ焼き肉のタレはあんなに美味いのかという問題がある」
チームメイトは五秒後に噴き出した。
(なるほど)
と、私は思った。何が「なるほど」なのかは、うまく説明できなかったけれど。きっと、彼女なりの励まし方なのだろう。もっとも、そのことを本人に指摘しようものなら、
「は? 暇だったから宇宙のバランスを整えてただけだが?」
などと返ってくるのがオチだ。
私に対しても、彼女はふらりと近づいてきては、声をかける。
「調子どうだ?」
「無理すんなよ」
「ちゃんと飯食え」
言葉自体に、特別な意味はない。彼女は誰に対しても等しく、あの調子で接している。
(ゴルシは、みんなに優しい)
だから、私だけが特別というわけではない。そんなことは、分かっている。分かっているのに。
最近、どうにもおかしいのだ。グラウンドのどこかから彼女の声が聞こえると、つい顔を上げてしまう。また何か始めたのだろうか。今度は何をするつもりなのだろう。そう思って眺めているうちに、いつの間にか、彼女の姿を目で追っている。
先ほどだって、そうだ。焼きそばパンの外交問題など、私には何の関係もない。それなのに、あの白い後ろ姿がグラウンドの向こうへ消えてからも、しばらくそちらを見ていた。
(……変ですね)
自分とは対極の、ノイズのような存在。普通なら、少し距離を置いた方が落ち着くはずなのに。むしろ、目を離した隙にどこかへ行ってしまうことの方が、最近は少し気になる。もっとも、彼女がどこへ行こうと、私には関係のないことだ。……ない、はずなのだけれど。
(もう少し)
(もう少しだけ、あの人のことを知りたい)
どうしてそう思うのかは、まだ分からない。わざわざ答えを探すほどのことでもないだろう。
ただ、ひとつだけ。前方にある「誰も見たことのない景色」だけを見つめて生きてきた私が、最近、少しばかり困ったことになっている。
走っている最中にまで、ふと、横を向いてしまうのだ。