世の中には、誰も悪くないのに、なぜか面白くない出来事というものがある。例えば、買おうと思っていた最後のプリンを、目の前で誰かに買われてしまうこと。先に手を伸ばした人が悪いわけではないし、プリンに罪もない。こちらが勝手に、冷蔵庫の中の居場所まで決めていただけだ。人は、まだ手にしていないもののことを、手にしたものよりよほど大事に扱う。
その日、サイレンススズカは、買ってもいないプリンを失ったような気分になっていた。
「なあ、マックイーン。お前、何か楽器の経験あるか?」
チームスピカの控室。ゴールドシップはいつものように、前触れもなく口を開いた。メジロマックイーンは、手にしていたティーカップを丁寧にソーサーへ戻したが、耳の先だけが警戒している。
「……何ですの、藪から棒に」
「ちょっとした適性調査だ。答えてくれよ」
「そうですね。メジロ家の教育方針もあって、幼い頃からピアノやヴァイオリンなど、基本的なものは一通り経験しておりますけれど」
「ほうほう」
ゴルシは、やけに真剣な顔でうなずいた。
「なるほどな……じゃあ、決まりだ」
「……何がですか?」
「マックイーン、お前、指揮者な」
「…………」
マックイーンは、しばらく黙っていた。
「……何の?」
「バンドの」
「バンド?」
「おう。ゴルシちゃん、ついに音楽業界に殴り込みをかけようと思ってよ。今、メンバーを集めてんだ」
「……バンド、ですわよね?」
「おう」
「なぜ指揮者が必要なんですの?」
「そこだけ空いてるんだよ」
「他は!?」
「まあ、最悪エアーバンドでもいいと思ってる」
「エアーバンド!?」
「おう。楽器がなくても魂さえあれば音楽は成立すんだよ」
「でしたら、わたくしは何を指揮するんですの!?」
「エアー指揮者だな」
「エアー指揮者って何ですの!? ボーカルは見えなくなりますでしょう!? そもそも、わたくしの楽器経験を聞いた意味は!?」
「それが次世代のパンクってもんだろ。お前は燕尾服を着て、ヘドバンしながら指揮棒を振るんだ」
「首が取れますわ!!」
ゴルシは満足げにうなずいた。
「よし。いい声出てんじゃねえか。コーラスも兼任できそうだな」
「人の話をお聞きなさい!!」
控室に、いつもの怒声が響き渡った。スペシャルウィークは、お菓子を食べる手を止めなかった。トウカイテイオーは「また始まった」と笑い、ウオッカとダイワスカーレットは、あと何分後にマックイーンの堪忍袋の緒が切れるかで賭けを始めていた。平和だった。少なくとも、チームスピカにおける平和とは、おおむねこういう状態を指す。
スズカは少し離れた席で紅茶を飲んでいた。
最初は、いつもの面白いやり取りだと思っていた。ゴルシが無茶を言い、マックイーンが怒る。見慣れた光景だ。けれどその日は、なんだかいつもとちゃんと見え方が違った。
「まったく……あなたという方は」
マックイーンが、深いため息をついた。
「で、ちなみにボーカルはどなたが務める予定なんですの?」
「アタシ」
「……でしょうね」
「何だよ、その『知ってましたわ』みてえな顔は」
ゴルシが、わざと澄ました顔を作ってみせる。
「実際、知っておりましたもの」
マックイーンは涼しい顔で紅茶を口に運ぶ。
「んじゃあ、ギターは?」
「知りませんわよ」
「ドラムは?」
「それを決めるのはあなたでしょう!?」
「ベースは?」
「なぜわたくしにお尋ねになるんですの!?」
マックイーンは実によく怒っていた。……それなのに。
(……まだ、お話しているんですね)
スズカはティーカップを持ったまま、二人を見つめた。マックイーンは席を立たない。話はもう十分終わったはずなのに、自分から次の質問をしている。ゴルシも、それが当たり前であるかのように答えている。質問と回答の半分以上が成立していないにもかかわらず、会話は一向に途切れる気配がなかった。
(……仲がいいんですね)
そう思った。それだけのことだった。なのに、胸の奥に小さなとげが一本刺さった。とげというのは、刺さった瞬間より、刺さっていることに気づいたときのほうが、ずっと痛い。
スズカは、ゴルシの話を聞くのが好きだった。地図にない島。勝手に歩く靴。脱皮するたびに名前を変えるカニ。最初は、知らない景色の話を聞いているつもりだった。けれど質問をすると、ゴルシは嬉しそうに続きを話してくれる。時々、答えるまでに間が空くこともある。そのときのゴルシは、決まって空を見上げる。そこに答えが書いてあるかのように。スズカは、そういう時間も好きだった。
だから、自分が知らないゴルシの話を、マックイーンが当たり前のように知っていることが、気になった。
「……そういえば、以前もそうでしたわね」
マックイーンが呆れた声を出した。
「突然オーケストラを結成すると言い出して、わたくしにティンパニを任せようとなさったことがありましたわ」
「あったなァ。あん時は楽器が揃わなくてよ」
「そもそも、あなたが用意したのは鍋とフライパンでしょう!」
「いい音しただろ?」
「夕食の支度かと思いましたわ!」
二人が笑った。正確には、ゴルシが笑い、マックイーンが怒りながら少しだけ笑った。スズカは、紅茶をもう一口飲んだ。
(……以前も)
知らなかった。そんなことがあったなんて。すべてを知っていなければいけないわけではないと、頭では分かっている。ゴルシとマックイーンは、スズカがチームに加わる前から一緒に過ごしてきたのだ。知らない思い出があるのは、当然だった。当然なのだけれど、当然と納得できることと、気にならないことは、まったく別の引き出しに入っている。
(……ティンパニ)
心の中で繰り返した。なぜだか、妙に気になった。
「おい、スズカ?」
突然、目の前に白い影が現れた。顔を上げると、ゴルシが立っていた。
「どうした? 宇宙の終わりでも計算してたのか?」
「……いえ」
「何だよ。ずいぶん静かじゃねえか」
「いつも通りだと思いますけれど」
「そりゃそうか」
ゴルシは、あっさりうなずいた。それからスズカの隣の椅子を引いた。
「なあ、ところでお前、楽器できるか?」
「……楽器、ですか?」
「おう。ゴルシちゃんバンド、絶賛メンバー募集中でよ」
スズカは少し考えた。
「……得意というほどではありませんが、学校の授業で習ったものなら」
「ほう」
「リコーダー、でしょうか」
「よし。採用」
「……え?」
「お前、リコーダーな」
ゴルシは、満足げにうなずいた。
「ちなみに、マックイーンは指揮者だ」
「それは、先ほど聞いていました」
「よし。これでバンドの形が見えてきたな」
「……そうでしょうか」
「おう。ボーカル、指揮者、リコーダー。あと一人いれば、もう武道館だ」
「……何の楽器が必要なんですか?」
「そこはまだ決めてねえ」
スズカは、少し笑った。そして、何気なく尋ねた。
「……ゴルシ」
「あん?」
「マックイーンさんとは、以前にも音楽のお話をされていたんですね」
「ん? ああ。あいつ、結構ノリいいからな」
「……そうなんですね」
「何だよ。お前も鍋叩きてえのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
スズカは、言葉を探した。自分でも、何を聞きたいのか分からなかった。ただ。
「……今度、私にも聞かせてください」
「何を?」
「前の、オーケストラのお話です」
ゴルシは、目を丸くした。それから、にやりと笑った。
「おう、いいぜ。あれはなかなかの名演だったんだ。特に鍋のソロが――」
「ゴールドシップさん!!」
部屋の向こうから、マックイーンの声が飛んできた。
「何を勝手に名演にしておりますの!? あれは騒音ですわ!!」
「ほらな。本人も覚えてんだよ」
「忘れたくても忘れられませんわ!!」
ゴルシが笑った。スズカも、つられて笑った。胸の奥に刺さっていたとげが、少しだけ弱くなった気がした。とげは時間が経てば抜ける。ただし、抜けるまでの間に何度も、同じ場所を触って確かめてしまうのが人の性だ。
その後、ゴルシは「メンバー募集の旅に出る」と言い残して、控室を去っていった。マックイーンは、ようやく静かになった室内で、深々と息を吐いた。
「まったく……」
そして、スズカのほうを見た。
「スズカさんも、あまり真に受けてはいけませんわよ。あの方の思いつきに付き合っていたら、いくら時間があっても足りませんもの」
「……そうですね」
スズカは素直にうなずいた。マックイーンは満足そうに紅茶を口に運んだ。そこでスズカが続けた。
「でも、マックイーンさんは、いつも最後までお話を聞いていらっしゃいますよね」
「ぶっ」
マックイーンが、盛大にむせた。
「な、何をおっしゃいますの!?」
「いえ。先ほども、ボーカルは誰なのか、気にされていたので」
「それは! あの方があまりにも無計画だからですわ!」
「……ふふ」
「何がおかしいんですの!?」
「いえ。仲がいいんだな、と思って」
マックイーンは、しばらく口を開けたまま固まった。それから、顔を赤くして立ち上がった。
「そ、そういうことではありませんわ!!」
足早に去っていく。その背中を見送りながら、スズカは不思議に思った。自分も、同じことを言われたら、あんな顔をするのだろうか。想像してみる。いつものベンチで、ゴルシと自分が並んで座っている。そこへ誰かがやってきて、仲がいいんですね、と言う。
(……たぶん)
否定は、しないと思う。その答えがやけに嬉しくて、彼女は一人、ティーカップに口をつけた。紅茶は、すっかり冷めていた。
その夜、スズカはいつものメモ帳を開いた。西の果ての孤島についての記録。靴の生態系。田中さんの改名履歴。そこに今日の出来事を書き加えようとして、手が止まった。これは島の話ではない。靴の話でもない。けれど、忘れたくはなかった。
スズカはページを一枚めくった。そして、新しい見出しを書いた。
『ゴルシについて』
少し考えてから、その下に一行。
『マックイーンさんとは、以前から音楽活動の計画を立てているらしい』
……違う。ペンを止めた。こういうことを書きたかったわけではない。しばらく迷って、もう一行書き足した。
『まだ知らないお話が、たくさんある』
眺めてから、最後に小さく付け加えた。
『次は、私も聞いてみたい』
メモ帳を閉じる。指揮者の席は、もう埋まっているらしい。けれどリコーダーの席は、まだ空いていた。それなら、それでいい。今のところは。
ちなみに、スズカがリコーダーに触れたのは、小学校を卒業して以来である。練習は、明日から始めることにした。