たぶん、ゴールはここじゃない   作:徳辺

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#8 指揮者の席は埋まっている

 

 世の中には、誰も悪くないのに、なぜか面白くない出来事というものがある。例えば、買おうと思っていた最後のプリンを、目の前で誰かに買われてしまうこと。先に手を伸ばした人が悪いわけではないし、プリンに罪もない。こちらが勝手に、冷蔵庫の中の居場所まで決めていただけだ。人は、まだ手にしていないもののことを、手にしたものよりよほど大事に扱う。

その日、サイレンススズカは、買ってもいないプリンを失ったような気分になっていた。

 

 

 

「なあ、マックイーン。お前、何か楽器の経験あるか?」

 

チームスピカの控室。ゴールドシップはいつものように、前触れもなく口を開いた。メジロマックイーンは、手にしていたティーカップを丁寧にソーサーへ戻したが、耳の先だけが警戒している。

 

「……何ですの、藪から棒に」

 

「ちょっとした適性調査だ。答えてくれよ」

 

「そうですね。メジロ家の教育方針もあって、幼い頃からピアノやヴァイオリンなど、基本的なものは一通り経験しておりますけれど」

 

「ほうほう」

 

ゴルシは、やけに真剣な顔でうなずいた。

 

「なるほどな……じゃあ、決まりだ」

 

「……何がですか?」

 

「マックイーン、お前、指揮者な」

 

「…………」

 

マックイーンは、しばらく黙っていた。

 

「……何の?」

 

「バンドの」

 

「バンド?」

 

「おう。ゴルシちゃん、ついに音楽業界に殴り込みをかけようと思ってよ。今、メンバーを集めてんだ」

 

「……バンド、ですわよね?」

 

「おう」

 

「なぜ指揮者が必要なんですの?」

 

「そこだけ空いてるんだよ」

 

「他は!?」

 

「まあ、最悪エアーバンドでもいいと思ってる」

 

「エアーバンド!?」

 

「おう。楽器がなくても魂さえあれば音楽は成立すんだよ」

 

「でしたら、わたくしは何を指揮するんですの!?」

 

「エアー指揮者だな」

 

「エアー指揮者って何ですの!? ボーカルは見えなくなりますでしょう!? そもそも、わたくしの楽器経験を聞いた意味は!?」

 

「それが次世代のパンクってもんだろ。お前は燕尾服を着て、ヘドバンしながら指揮棒を振るんだ」

 

「首が取れますわ!!」

 

ゴルシは満足げにうなずいた。

 

「よし。いい声出てんじゃねえか。コーラスも兼任できそうだな」

 

「人の話をお聞きなさい!!」

 

控室に、いつもの怒声が響き渡った。スペシャルウィークは、お菓子を食べる手を止めなかった。トウカイテイオーは「また始まった」と笑い、ウオッカとダイワスカーレットは、あと何分後にマックイーンの堪忍袋の緒が切れるかで賭けを始めていた。平和だった。少なくとも、チームスピカにおける平和とは、おおむねこういう状態を指す。

 

 

スズカは少し離れた席で紅茶を飲んでいた。

最初は、いつもの面白いやり取りだと思っていた。ゴルシが無茶を言い、マックイーンが怒る。見慣れた光景だ。けれどその日は、なんだかいつもとちゃんと見え方が違った。

 

「まったく……あなたという方は」

 

マックイーンが、深いため息をついた。

 

「で、ちなみにボーカルはどなたが務める予定なんですの?」

 

「アタシ」

 

「……でしょうね」

 

「何だよ、その『知ってましたわ』みてえな顔は」

 

ゴルシが、わざと澄ました顔を作ってみせる。

 

「実際、知っておりましたもの」

 

マックイーンは涼しい顔で紅茶を口に運ぶ。

 

「んじゃあ、ギターは?」

 

「知りませんわよ」

 

「ドラムは?」

 

「それを決めるのはあなたでしょう!?」

 

「ベースは?」

 

「なぜわたくしにお尋ねになるんですの!?」

 

マックイーンは実によく怒っていた。……それなのに。

 

(……まだ、お話しているんですね)

 

スズカはティーカップを持ったまま、二人を見つめた。マックイーンは席を立たない。話はもう十分終わったはずなのに、自分から次の質問をしている。ゴルシも、それが当たり前であるかのように答えている。質問と回答の半分以上が成立していないにもかかわらず、会話は一向に途切れる気配がなかった。

 

(……仲がいいんですね)

 

そう思った。それだけのことだった。なのに、胸の奥に小さなとげが一本刺さった。とげというのは、刺さった瞬間より、刺さっていることに気づいたときのほうが、ずっと痛い。

 

 

 

 スズカは、ゴルシの話を聞くのが好きだった。地図にない島。勝手に歩く靴。脱皮するたびに名前を変えるカニ。最初は、知らない景色の話を聞いているつもりだった。けれど質問をすると、ゴルシは嬉しそうに続きを話してくれる。時々、答えるまでに間が空くこともある。そのときのゴルシは、決まって空を見上げる。そこに答えが書いてあるかのように。スズカは、そういう時間も好きだった。

だから、自分が知らないゴルシの話を、マックイーンが当たり前のように知っていることが、気になった。

 

「……そういえば、以前もそうでしたわね」

 

マックイーンが呆れた声を出した。

 

「突然オーケストラを結成すると言い出して、わたくしにティンパニを任せようとなさったことがありましたわ」

 

「あったなァ。あん時は楽器が揃わなくてよ」

 

「そもそも、あなたが用意したのは鍋とフライパンでしょう!」

 

「いい音しただろ?」

 

「夕食の支度かと思いましたわ!」

 

二人が笑った。正確には、ゴルシが笑い、マックイーンが怒りながら少しだけ笑った。スズカは、紅茶をもう一口飲んだ。

 

(……以前も)

 

知らなかった。そんなことがあったなんて。すべてを知っていなければいけないわけではないと、頭では分かっている。ゴルシとマックイーンは、スズカがチームに加わる前から一緒に過ごしてきたのだ。知らない思い出があるのは、当然だった。当然なのだけれど、当然と納得できることと、気にならないことは、まったく別の引き出しに入っている。

 

(……ティンパニ)

 

心の中で繰り返した。なぜだか、妙に気になった。

 

 

 

「おい、スズカ?」

 

突然、目の前に白い影が現れた。顔を上げると、ゴルシが立っていた。

 

「どうした? 宇宙の終わりでも計算してたのか?」

 

「……いえ」

 

「何だよ。ずいぶん静かじゃねえか」

 

「いつも通りだと思いますけれど」

 

「そりゃそうか」

 

ゴルシは、あっさりうなずいた。それからスズカの隣の椅子を引いた。

 

「なあ、ところでお前、楽器できるか?」

 

「……楽器、ですか?」

 

「おう。ゴルシちゃんバンド、絶賛メンバー募集中でよ」

 

スズカは少し考えた。

 

「……得意というほどではありませんが、学校の授業で習ったものなら」

 

「ほう」

 

「リコーダー、でしょうか」

 

「よし。採用」

 

「……え?」

 

「お前、リコーダーな」

 

ゴルシは、満足げにうなずいた。

 

「ちなみに、マックイーンは指揮者だ」

 

「それは、先ほど聞いていました」

 

「よし。これでバンドの形が見えてきたな」

 

「……そうでしょうか」

 

「おう。ボーカル、指揮者、リコーダー。あと一人いれば、もう武道館だ」

 

「……何の楽器が必要なんですか?」

 

「そこはまだ決めてねえ」

 

スズカは、少し笑った。そして、何気なく尋ねた。

 

「……ゴルシ」

 

「あん?」

 

「マックイーンさんとは、以前にも音楽のお話をされていたんですね」

 

「ん? ああ。あいつ、結構ノリいいからな」

 

「……そうなんですね」

 

「何だよ。お前も鍋叩きてえのか?」

 

「いえ、そういうわけでは……」

 

スズカは、言葉を探した。自分でも、何を聞きたいのか分からなかった。ただ。

 

「……今度、私にも聞かせてください」

 

「何を?」

 

「前の、オーケストラのお話です」

 

ゴルシは、目を丸くした。それから、にやりと笑った。

 

「おう、いいぜ。あれはなかなかの名演だったんだ。特に鍋のソロが――」

 

「ゴールドシップさん!!」

 

部屋の向こうから、マックイーンの声が飛んできた。

 

「何を勝手に名演にしておりますの!? あれは騒音ですわ!!」

 

「ほらな。本人も覚えてんだよ」

 

「忘れたくても忘れられませんわ!!」

 

ゴルシが笑った。スズカも、つられて笑った。胸の奥に刺さっていたとげが、少しだけ弱くなった気がした。とげは時間が経てば抜ける。ただし、抜けるまでの間に何度も、同じ場所を触って確かめてしまうのが人の性だ。

 

 

 

 その後、ゴルシは「メンバー募集の旅に出る」と言い残して、控室を去っていった。マックイーンは、ようやく静かになった室内で、深々と息を吐いた。

 

「まったく……」

 

そして、スズカのほうを見た。

 

「スズカさんも、あまり真に受けてはいけませんわよ。あの方の思いつきに付き合っていたら、いくら時間があっても足りませんもの」

 

「……そうですね」

 

スズカは素直にうなずいた。マックイーンは満足そうに紅茶を口に運んだ。そこでスズカが続けた。

 

「でも、マックイーンさんは、いつも最後までお話を聞いていらっしゃいますよね」

 

「ぶっ」

 

マックイーンが、盛大にむせた。

 

「な、何をおっしゃいますの!?」

 

「いえ。先ほども、ボーカルは誰なのか、気にされていたので」

 

「それは! あの方があまりにも無計画だからですわ!」

 

「……ふふ」

 

「何がおかしいんですの!?」

 

「いえ。仲がいいんだな、と思って」

 

マックイーンは、しばらく口を開けたまま固まった。それから、顔を赤くして立ち上がった。

 

「そ、そういうことではありませんわ!!」

 

足早に去っていく。その背中を見送りながら、スズカは不思議に思った。自分も、同じことを言われたら、あんな顔をするのだろうか。想像してみる。いつものベンチで、ゴルシと自分が並んで座っている。そこへ誰かがやってきて、仲がいいんですね、と言う。

 

(……たぶん)

 

否定は、しないと思う。その答えがやけに嬉しくて、彼女は一人、ティーカップに口をつけた。紅茶は、すっかり冷めていた。

 

 

 

 その夜、スズカはいつものメモ帳を開いた。西の果ての孤島についての記録。靴の生態系。田中さんの改名履歴。そこに今日の出来事を書き加えようとして、手が止まった。これは島の話ではない。靴の話でもない。けれど、忘れたくはなかった。

スズカはページを一枚めくった。そして、新しい見出しを書いた。

 

『ゴルシについて』

 

少し考えてから、その下に一行。

 

『マックイーンさんとは、以前から音楽活動の計画を立てているらしい』

 

……違う。ペンを止めた。こういうことを書きたかったわけではない。しばらく迷って、もう一行書き足した。

 

『まだ知らないお話が、たくさんある』

 

眺めてから、最後に小さく付け加えた。

 

『次は、私も聞いてみたい』

 

メモ帳を閉じる。指揮者の席は、もう埋まっているらしい。けれどリコーダーの席は、まだ空いていた。それなら、それでいい。今のところは。

ちなみに、スズカがリコーダーに触れたのは、小学校を卒業して以来である。練習は、明日から始めることにした。

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