世の中には、宝くじに当たるより難しいことが三つある。
一つ目は、猫に明日のゴミ出しを頼むこと。二つ目は、絶対に絡まないイヤホンコードを開発すること。そして三つ目が、ゴールドシップとの平穏な将来を想像することだ。もっとも三つ目については、想像した時点でもう平穏ではない、という説もある。
「ねえねえ、もし付き合うなら、どんなタイプがいい?」
高等部一年生の教室だった。昼休みの終わりが近づいたころ、誰かがそんな話題を持ち出した。
最初は他愛もない恋愛談義だった。優しい人。格好いい人。一緒にいて楽しい人。ところが話が進むにつれて、条件は少しずつ地に足がついていった。
「やっぱり誠実さでしょ」
「将来性も大事だよね」
「生活リズムが合う人がいいなあ」
「年収という名の戦闘力は無視できない」
「私は、将来設計をちゃんと説明できる人!」
「えっ、スライド資料とか?」
「できればグラフ付きで」
恋愛はいつから事業計画の審査になったのだろう。少女たちの理想は、教室をぐるりと一周するころには、ずいぶん堅実なものに変わっていた。
そのあいだ、サイレンススズカは静かにシャープペンシルを動かしていた。次の授業の予習である。
恋愛の話が嫌いなわけではない。ただ、これまであまり考えたことがなかった。自分が誰かと付き合うとして、まずトレーニングの時間をどう調整すればいいのだろう。そんなことを考えはじめた時点で、皆とは少し違う場所に立っているらしかった。
「で、スズカは?」
不意に、スポットライトが移動した。
「……え?」
スズカは、手の中のシャープペンシルを見つめたまま固まった。「タイプ」という言葉は、彼女にとって、内ラチ沿いを走るか外から捲るか、という戦術の話でしかなかったのだ。
「優しくて、堅実で」
「スズカさんには、知的なエリートが似合うよ」
「将来性抜群の、すごい人……」
周りが勝手に積み上げていく「理想のスズカのパートナー像」は、丁寧に磨かれた大理石の彫像みたいだった。非の打ちどころがなくて、そして……ひどく冷たそうだった。
その人と並んで歩く自分を想像しようとしてみる。けれど、どうしても輪郭がぼやける。知らない人だからだろうか。それとも、単に想像力が足りないのだろうか。
そのときだった。
「じゃあさ」誰かが、いたずらっぽく笑った。「もし、チームメイトが恋人だったらどうする?」
「チームメイト?」
「たとえば……スピカのゴールドシップさんとか!」
一瞬の真空。
直後、教室が爆発した。
「無理無理無理!」
「宇宙人と同居するほうがまだ生活の見通しが立つよ!」
「そもそもあの人、生物学上どのカテゴリーなの!?」
「想像してみてよ、両親に挨拶しに来るゴールドシップさん!」
誰かが立ち上がって、架空の革ジャンの襟を立て、架空の襖を勢いよく開けてみせた。
「『どうも初めまして。魂(ソウル)です』」
「やめて、お腹痛い!」
「玄関で靴も脱がずに一曲始めそう!」
「絶対マイギター持ってくるじゃん!」
「デートの行き先、当日まで教えてくれなさそう」
「それ以前に、当日ちゃんと来る?」
笑い声が、次から次へと重なっていく。念のため言っておくと、どれも根拠のない中傷ではなかった。ゴールドシップなら、やる。全員がそう確信できる程度には、日頃の行いに実績があった。
スズカも、最初は少し笑った。両親への挨拶に革ジャンとギター。確かに、ゴルシならやりかねない。というより、昨日の時点でバンドを結成すると言っていた。マックイーンを指揮者に任命し、自分にはリコーダーを持たせようとしていたのだから、話はむしろ現実に近づいている。
「でも、スズカには絶対合わないよね」
誰かが言った。
「だってスズカって、落ち着いてるし、ちゃんとしてるし」
「ゴールドシップさんと一緒にいたら、毎日振り回されちゃうよ」
「スズカには、もっと普通に優しい人がいいって!」
「ねー!」
スズカは、シャープペンシルを机に置いた。
(……そう、だろうか)
確かに、ゴルシは普通ではない。予定どおりに動くことは少ないし、言うことはしょっちゅう変わる。昨日はバンド。その前は靴の生態系。さらにその前は、名前を変えたカニの近況だった。
そんな人と毎日を過ごしたら、どうなるだろう。スズカは少し考えてみた。朝から突然、知らない場所へ連れていかれるかもしれない。説明のないまま、得体の知れない催しに参加させられるかもしれない。予定していた休日が、まるで別のものになってしまうかもしれない。
……それは。
(……少し、楽しそうかもしれない)
そこまで考えて、スズカは瞬きをした。いま自分は、何を想像したのだろう。
「スズカ?」
声をかけられて、顔を上げる。
「どうしたの、黙っちゃって」
「……ううん。なんでもないよ」
「やっぱりゴールドシップさんはナシ?」
「えっ」
「いや、スズカのタイプとは正反対そうだなって」
ナシ。その二文字が、いやに引っかかった。
別に、誰もゴルシを嫌っているわけではない。むしろよく知っているから、こんな冗談が言えるのだろう。自分だって、ゴルシの奇行には何度も驚かされてきた。
でも、と思う。
九十九里の海岸まで迎えに来てくれた日のこと。北海道から帰ってきて、何事もなかったような顔でお土産を差し出してくれたこと。夕暮れのベンチで、地図にない島の話をしてくれたこと。質問をすると、いつも少し嬉しそうに続きを話してくれること。そういう景色が、頭の中を順番に通り過ぎていった。
皆の言うゴルシも、たしかにゴルシだ。けれど自分の知っているゴルシは、それだけではない。
「……どうだろう」
スズカは小さく答えた。
「え?」
「一緒にいて、退屈はしないと思うから」
その場の数人が、顔を見合わせた。
「……まあ、それはそう!」
「退屈しないどころじゃないよ」
「毎日が事件だよ!」
笑い声がまた上がって、スズカもつられて笑った。何かを訂正したかったわけではない。ただ、自分の知っていることも、そこに置いておきたかっただけだ。
その頃、当のゴールドシップはといえば。
「やはり、アタシにはロックの才能が渋滞している」
革ジャンを羽織り、ギターケースを背負って、学園の廊下を我が物顔で歩いていた。昨日、唐突に結成を宣言したバンドの、メンバー探しの真っ最中である。
なお、現時点で確定している編成は次のとおり。ボーカル、ゴールドシップ。指揮者、メジロマックイーン。リコーダー、サイレンススズカ。以上。ロックの歴史に、新たな問題が発生しようとしていた。
「……やっぱドラムが欲しいよなァ」
リズム隊がいないことには始まらない。
「よし。次は海だな」
なぜ海なのか。本人にもよく分かっていなかったが、直感がそう言っていた。直感の言うことに、理由を訊いてはいけない。
夕方。授業とトレーニングを終えたスズカが廊下を歩いていると、向こうから調子外れの鼻歌が聞こえてきた。
暑苦しい革ジャン。チャックの隙間からネギが飛び出しているギターケース。そして、見慣れた白銀の髪。
「よお、スズカ!」
「……ゴルシ」
「ちょうどよかった。頼みがあんだけどよ」
「はい?」
「ギターの一弦が切れたから、代わりにお前の髪の毛一本くんねーか?」
スズカは立ち止まって、しばらくゴールドシップを見つめた。昼間、教室で聞いた光景が頭をよぎる。革ジャンを着て、ギターを持って現れるゴルシ。
……本当に、その通りだった。
「……ふふ」
「何だよ。何笑ってんだ」
「いえ、なんでもありません」
「で、髪の毛。一本でいいから」
「ゴルシ」
「ん?」
「髪の毛の代わりに、アイスをおごります。それで妥協してください」
「おう、話が分かるじゃねーか!」
即答だった。ギターの弦は、どうやらアイスで代用できるらしい。
二人は並んで歩きだした。
「ちなみに、何味がいいですか?」
「チョコミント」
「……そうですか」
「何だよ、その間は」
「いえ。少し意外だったので」
「ゴルシちゃん、意外性で飯食ってっからな」
「アイスですけれど」
「一本取られたぜ」
ゴールドシップが笑い、スズカも少しだけ笑った。
教室で思い浮かべた、あの完璧に整った理想の人。いまなら、その隣を歩く自分も想像できるかもしれない。けれど、いまこうして歩いている時間のほうが、ずっと輪郭がはっきりしていた。
「……ゴルシ」
「ん?」
「バンドのメンバー、見つかりましたか?」
「おう。あとドラムだけだな」
「そうなんですね」
「明日、海に探しに行くか」
「……海に?」
「おう。タコなら八本あんだろ。手が」
スズカは少し考えた。
「……たしかに、スティックは持てそうですね」
「だろ?」
「でも、海の中では音が違って聞こえるかもしれません」
「お前、そこ気にすんのかよ!」
ゴールドシップが声を上げて笑った。スズカもまた、つられて笑った。昼間、あれほど賑やかだった教室で、彼女はほとんど何も言わなかった。それなのにいまは、不思議と言葉が途切れない。
その夜。
スズカは、机の上のメモ帳を開いた。いつもの、ゴルシについての記録だ。今日は何を書こうかと、少し考える。
バンドの編成。ギターの弦。海でドラマーを探す計画。書こうと思えば、いくらでもあった。けれど、どれも少し違う気がした。
ペンを持ったまま、昼間の教室を思い出す。皆が笑っていた。自分も、少し笑った。それなのに、途中から、なぜか何も言いたくなくなってしまった。皆の知らないゴルシのことを、説明しようと思えばできたはずなのに、しなかった。
どうしてだろう。
しばらく考えてから、メモ帳に一行だけ書いた。
『ゴルシと一緒にいると、退屈しない』
少し眺めて、もう一行。
『……たぶん、それだけではない』
ペンを置く。続きを書く欄は、まだ白かった。
白いままでも、別に困らなかった。窓の外では、遠くで誰かが、調子外れの鼻歌を歌っているような気がした。