「あいつと本気で並んで走ったら、たぶん、何かが決定的に壊れる」
それが、チームスピカというヘンテコな箱舟に乗り合わせたゴールドシップの、最初の直感だった。
正直なところ、このチームに対する最初の感想は「まあ、景気のいい面々を集めたもんだ」くらいの、他人事のようなものだった。根性、理論、努力、そして天から授かったギフト。そんなものはレース場の砂の数ほど見てきたし、見飽きてもいる。
だがある時、一人だけ、明らかに「別のルール」で動いている異物が混じってきた。サイレンススズカという、静寂を擬人化したような彼女だ。騒がない。誇らない。勝っても、まるで朝食の献立を確認するかのように淡々としている。なのに、ひとたびゲートが開くと、その場の空気が物理的な重さを伴って変質する。
(おっと)
(ちょっと待て。今の、見間違いか?)
初めて彼女の走りを目撃したとき、アタシは本気で目を細めた。双眼鏡のピントを合わせるのとは違う。現実とのピントを合わせるための作業だ。周囲は「速い」だの「強い」だのと、使い古された語彙を並べて驚いていたが、アタシに言わせればそんな単語じゃ全然足りない。
あいつの走りは、何かがおかしい。別にフォームが崩れているわけじゃねえ。無茶苦茶なペース配分をしているわけでもねえ。むしろ、恐ろしく綺麗だ。ただ、ゴール板を駆け抜けたあとも、あいつだけはまだ、どこか遠くを見ているような気がした。
(……お前、どこまで行くつもりだよ)
妙な胸騒ぎがした。まあ、アタシの勘なんざ当てにならねえ。先週だって「今日は絶対に宇宙人と遭遇する」と確信して、丸一日アルミホイルを頭に巻いていたくらいだ。結局、遭遇したのは怒り狂ったマックイーンだけだった。(誰かが彼女のスイートポテトを勝手に食べたらしい)
だが、今回ばかりはどうにも笑い飛ばせなかった。
ある日のトレーニング後。グラウンドの隅で、スズカが一人、黙々と走っていた。他の連中はとっくに引き揚げている。夕日を背に、栗色の髪が揺れる。まったく、よく走るヤツだ。
――それにしても。
(……あいつ、今日何本目だ?)
気づけば、そんなことを考えていた。さっきからペースが落ちているようには見えない。息も乱れていない。いつも通り、綺麗な走りだ。だからこそ、気になった。
あいつは、どこで走るのをやめるんだろうな。
しばらく眺めていたが、結局、アタシの方が先に根負けした。
「おーい、スズカ!」
呼びかけると、あいつはようやく足を緩めた。
「ゴルシ? どうかしましたか?」
「緊急査察だ。国際ゴルシ健康機構から派遣されてきた」
「……はあ」
「昨日は何時間寝た?」
「ええと、六時間くらいでしょうか」
「飯は?」
「食べましたよ」
「どこか痛えとこは?」
「ありませんけど……」
「本当か?」
「……本当です」
あいつは不思議そうに首を傾げた。そりゃそうだ。自分でも何をやってんだか、よく分からねえ。
「ゴルシは、私の体調が気になるんですか?」
「おう。お前が倒れたら、誰がこの学園の芝生を均等に刈り揃えるんだよ」
「……私、芝刈り機ではないんですが」
「知ってるぜ。芝刈り機は返事しねえからな」
ふふ、と小さく笑う。なんだよ。そういう顔もするんじゃねえか。
「それで、査察の結果は?」
「あ?」
「私の健康診断です」
「ああ。とりあえず本日は合格だ。褒美にこれを授けよう」
ポケットから取り出した飴玉を、ひとつ渡す。
「ありがとうございます」
「おう。ちゃんと休めよ」
「はい。ゴルシも」
あいつは飴玉を大事そうに握って、トレーナー室の方へ歩いていった。その後ろ姿を見送って、アタシはようやく息をついた。
(……何ともねえなら、いいんだけどな)
アタシは別に、走ることが嫌いなわけじゃねえ。むしろ大好きだ。レースで勝つのも、最後の直線で他の連中をぶち抜くのも、最高に気持ちがいい。ただ、世の中には面白えことが山ほどある。深海の底にはまだ見ぬ生き物がいるし、宇宙の果てには未知の文明が栄えているかもしれねえ。商店街の福引きで一等が当たる確率についても、アタシはまだ納得していない。レースも、その中のひとつだ。人生全部をひとつのことに使っちまうなんて、もったいねえだろ?
けれど、世の中にはそういう生き方しかできねえヤツもいる。あの栗毛の逃亡者が、まさにそうだ。走ることが好き。そんな言葉じゃ、たぶん足りねえんだろうな。あいつにとって走ることは、飯を食うとか、息をするとか、そういうものに近い気がする。
だからこそ、ちょっとばかり困る。アタシは、あいつとあんまり深く関わらねえ方がいい。理由を訊かれても困る。勘だよ、勘。ゴルシちゃんの勘は、たまに当たる。ウマ娘のレース新聞の予想よりは信用できるぜ。たぶんな。
だが、あいつが一人で走っているのを見ると、どうにも落ち着かねえ。顔色は悪くねえか。ちゃんと飯は食ってんのか。無理してねえか。そんなことばっかり気にしちまう。おかげで最近、アタシの脳内にはサイレンススズカ健康管理委員会なる組織が勝手に設立されている。委員長はアタシ。副委員長もアタシ。会計監査は現在募集中だ。
……もちろん、スズカだけを特別扱いするつもりはねえ。チームの連中はみんな大事な仲間だ。マックイーンが困ってりゃ助けるし、スペやテイオーが腹を空かせてりゃ飯を分ける。ウオッカとダスカが喧嘩してりゃ、横から火に油を注いでやる。最後のは違う? 細けえことは気にすんな。スズカだって、その中の一人だ。ちょっとばかり危なっかしい、手のかかる仲間。それだけの話だ。
……それだけの、はずなんだが。
「ゴルシ」
振り向くと、いつの間にかスズカが立っていた。
「おう。どうした?」
「これ、お返しです」
差し出された手には、小さな包みがあった。
「さっき、飴をいただいたので」
「お? なんだなんだ、国家間の贈答品か?」
「ふふ。そんな大層なものではありませんけど」
中身は、二つの小さな焼き菓子だった。
「ゴルシも、ちゃんと休んでくださいね」
そう言って、あいつはまた歩き出した。アタシはしばらく、その包みを眺めていた。
……
いや、待て待て。別に、何でもねえだろ。飴玉をやったら菓子が返ってきた。ただの物々交換だ。人類が貨幣経済に移行する以前から続く、ごく自然な営みである。そういうことにしておこう。
それにしても。
(……あいつ、ちゃんと休むんだろうな)
また、余計なことを考えてしまった。
あいつと本気で並んで走る日なんざ、来ねえ方がいい。少なくとも、今はまだ。勝てるかどうか、なんて話じゃねえ。ただ、どうにも嫌な予感がするのだ。火薬庫のそばでライターの火力を自慢するような真似は、賢いヤツのやることじゃない。アタシは賢い。少なくとも、火薬庫に突っ込む前に一度くらいは立ち止まる程度には。
だから、あいつとは今くらいの距離でいい。軽口を叩いて、くだらねえ話をして、たまに一緒に飯でも食って。良き仲間。それで十分だ。
……さて。明日はあいつ、朝から自主トレだったっけか。天気予報じゃ、少し冷え込むらしい。あいつ、薄着で来たりしねえだろうな。
…………
「あー、もう! めんどくせえ!!」
誰もいないグラウンドに、アタシの声が響いた。
こうなりゃ明日は早起きだ。ついでにマックイーンも叩き起こしてやろう。朝五時から健康体操だ。全員参加。欠席者はゴルシちゃん特製ラジオ体操第四百二十七を追加で三セット。完璧な計画だ。
……まったく。
追う側にも、いろいろ都合があるんだよ。