世の中には、決して「待て」を命じてはならない二大・高機動生命体が存在する。
ひとりは、ただ静止しているだけで周囲の時空が微妙に歪み始めるゴールドシップ。もうひとりは、時速七十キロメートル未満の風景に耐性を一切持たないサイレンススズカだ。そんな二人が、現在、トレーナー室のパイプ椅子に整然と並んで座らされていた。
「いいか、二人とも。資料をコピーしてくる五分間だけだ。絶対に、一歩も、一ミリも動かずにここで待ってろ。いいな?」
「おう! 任せろ! ゴルシちゃんに不可能の文字はねえ!」
「はい。分かりました」
トレーナーは二人の顔を交互に見比べた。世の中には「返事が良い奴ほど信用できない」という不都合な法則があるが、まさに今の状況がそれだった。返事は完璧で、一切の破綻がない。だからこそ、猛烈に嫌な予感がする。
「……本当に頼むぞ」
念を押すように言い残し、扉が閉まった。かくして、二人にとって人生で最も過酷で、最も無意味に密度の濃い「待機」が幕を開けた。
一分経過。スズカが膝の上で指をトントンと叩いている。そのテンポは規則正しく、すでにGⅠレースのファンファーレ並みの速さに達していた。
(……走りたい)
別に、急ぎの用事があるわけではない。地球の裏側で事件が起きているわけでもない。ただ、こうして静止していると、足が勝手に前へ進もうとするのだ。それは意志というよりは、物理法則に近い。スズカはそっと爪先を床に押しつけた。足の暴走を未然に防ぐための、彼女なりの物理的なブレーキだった。
「……スズカ」
「はい?」
「アタシの全細胞が、今すぐ屋上で鮭の皮を焼けってダイレクトメッセージを送信してくるんだが」
「……そうですか」
「これは生命の危機かもしれねえ」
「保健室に行きますか?」
「動いちゃダメだろ」
「……そうでしたね」
ゴルシは椅子の上で、まるでルービックキューブでも解いているかのように不自然な角度に身体を捻らせた。
「おっ! 見ろスズカ! 窓の外に銀色のUFOが! アタシに中指立てて飛んでいきやがった!」
「さっきあなたが投げた、お弁当のアルミホイルの蓋ですよ」
「チッ。冷静だな」
ゴルシは再び座り直した。三秒後。
「……あああああ! 止まってらんねえ! このままじゃ背中から新種のキノコが生えてきちまう!!」
「……まだ一分ですよ」
「嘘だろ!?」
スズカは壁の時計に目をやった。正確には、一分二秒だった。その無駄な二秒という事実については、無用な混乱を避けるために黙っておくことにした。
五分経過。トレーナーは、まだ戻ってこない。コピー機が紙詰まりを起こしたのか、あるいは社会的な何かに巻き込まれているのか。
「…………」
「…………」
スズカの指のリズムは、すでに膝の上で第三コーナーを回っていた。ゴルシは椅子の背もたれに頭を預け、天井の染みと凹凸を結んで、新しい星座を発明することに没頭している。
「……なあ、スズカ」
「……何ですか?」
「知ってるか? IQの高い犬ってのはよ、『待て』と言われたら、いつまでも待ってられるそうなんだ」
「……そうなんですか」
「おう。どこまでも待てる犬は、最終的に駅前の待ち合わせ場所で銅像になるんだと」
「……それは、忠犬のお話では?」
「細けえこたぁいいんだよ。要するに、ここで先に動いた方が敗北ってことだ」
「……なるほど」
ゴルシは満足そうに腕を組んだ。もっとも、さっきから彼女の右膝が小刻みに震えていることについて、スズカは追求しなかった。ゴルシもまた、スズカの爪先が先ほどから床を一定のリズムで蹴り続けていることには触れなかった。互いに相手の弱みを握り、黙認し合う。実に高度で不毛な心理戦だった。
六分経過。
「……ちょっと、失礼します」
「あん?」
スズカが静かに立ち上がった。そして、その場で左回りに旋回し始めた。
くるり。くるり。
寸分の狂いもない、実に綺麗な左回りだった。
「……お前、何やってんの?」
「落ち着かないとき、こうすると少し気が紛れるんです」
「…………」
ゴルシの脳裏に、ある恐ろしい仮説が浮かび上がった。
(あの動き……間違いない。まさか)
(——回転寿司の地下労働者……!?)
都市伝説によれば、大手回転寿司チェーンの地下深くでは、捕らえられた人々が巨大な軸を延々と押し続け、地上のレーンを回しているという。あいつは、あの過酷な労働環境から脱走してきたサバイバーなのか。
「……お前も、結構苦労してきたんだな」
「何の話ですか?」
「いいんだ。もう何も言うな。多くを語るな」
「……?」
スズカは首を傾げた。そして八の字に回ろうと試みたが、すぐに思い直した。やはり左回りの方が、自分の軸がしっくりと収まる。
くるり。くるり。
十分経過。トレーナーは、まだ戻ってこない。
「…………」
「…………」
スズカは七周目に突入していた。ゴルシは椅子の上で、カウントダウンを終えて発射を待つロケットのように微振動している。
「……ゴルシ?」
「……スズカ」
「はい」
「アタシ、もうダメかもしんねえ」
「……?」
「足が……足が地面に固定されていく……!」
「それは、座っているからでは?」
「違う! 銅像化が始まってんだよ!!」
ゴルシは天井を仰ぎ、魂の底から叫んだ。
「トレーナァァァ!! 早く来てくれーーー!!」
その絶叫は、静まり返った廊下へ虚しく響き渡った。
「このままじゃ待ち合わせ場所になっちまううう!!」
「……待ち合わせ場所そのものには、ならないと思いますけど」
スズカは静かに八周目に入った。
「……待てよ」
ゴルシが、ハッと顔を上げた。
「スズカ。アタシたちは根本的な見落としをしていたのかもしれねえ」
「……何でしょう?」
「トレーナーは何て言った?」
「五分間、一歩も動かずに待っているように、と」
「そうだ。つまり『肉体の移動』は厳重に禁止されている。だが、『精神の移動』については一切言及されていねえ」
「……精神?」
「そうだ。肉体が縛られているなら、精神を解放して遠くへ飛ばせばいいんだよ!」
ゴルシは勢いよく立ち上がりかけ、慌てて座り直した。
「……危ねえ。あと三秒で渋谷駅前の銅像になるところだったぜ」
スズカは少し考えた。精神の移動。屁理屈のようだが、論理的には破綻していない。確かにトレーナーの指示を違反してはいないことになる。
「……具体的には、どうするんですか?」
「いい質問だ。スズカ、お前、麺になったことあるか?」
「……ありませんけど」
「よし。今からなるぞ」
「……はい?」
「まず、目を閉じろ」
ゴルシは、妙に大真面目な顔でスズカに向き直った。
「アタシが連れてってやる。麺の向こう側へ」
スズカは少しだけ躊躇したが、素直に目を閉じた。このとき彼女はまだ、自分がどんな不条理な領域へ連れていかれるのか、まったく理解していなかった。
「いいか。お前の目の前には、宇宙空間まで無限に続く流しそうめんの竹コースがある」
「はい」
「お前は、その上を流れる一束の麺だ」
「……私は麺なんですね?」
「そうだ。細く、長く、しなやかなそうめんだ。今、お前は竹の筒を猛烈な加速度で流れている」
「……分かりました」
「どうだ。何が見える?」
「……ネギが見えます」
「よし!」
「今、第一コーナーを刻みネギと共に通過しました」
「いいぞ! そのまま慣性と流体運動に身を任せろ!」
「……あ」
「どうした!?」
「この先、コースが二手に分かれています」
「何ィ!?」
「私、右へ行きますね」
「待て待て待て! そっちはまだ未開通ゾーンだぞ!?」
「でも、向こうの方が速度が出そうなので」
「お前、麺になっても先頭を目指すのかよ!!」
「……いけませんか?」
「いや、いい! 行け! そのまま時空の歪みを突っ切れ! そうめんの限界を超えろ!!」
スズカは目を閉じたまま、小さく息を呑んだ。
「……すごい」
「見えたか!?」
「世界が白く光っています。……これが……麺の向こう側……」
「おおおおお!! ついに到達したか!!」
二人はパイプ椅子に座ったまま、魂だけを銀河の果てまで疾走させていた。なお、流しそうめんはすでに竹の筒という概念を離れ、シリウスの周回軌道上を漂っていた。
「……ねえ、ゴルシ」
「あん?」
宇宙を漂う一束の麺が、ふと口を開いた。
「あなたは、どうしてそんなに色々なことをしたいんですか?」
「ん?」
「さっきから、ずっと不思議だったんです。じっとしているのが苦手なのは私も同じですけれど……あなたは、ただ走りたいわけではないんですよね?」
「そりゃまあ、走るのも好きだけどよ」
ゴルシは目を閉じたまま、椅子の背もたれに深く体重を預けた。
「この世には、まだ見たこともねえデタラメが山ほど転がってんだよ」
「……デタラメ?」
「そうだ。一秒止まってる間に、どっかの星が爆発してるかもしれねえ。新しい型の焼きそばパンが発明されてるかもしれねえ。深海で変な生き物が踊ってるかもしれねえ」
「……はい」
「そんな面白えことが起きてんのに、知らねえまま終わるなんざ、人生の損だろ?」
スズカは、少しだけ考えた。超新星爆発と焼きそばパンの新商品を同列に語る人を、自分は他に知らない。相変わらず、言っていることの九割はデタラメだ。けれど。まだ見ぬ何かを求めて、今いる場所に留まっていられないという飢餓感。その根底にある熱量だけは、不思議なほど自分の感覚と重なっていた。
「……景色を、逃したくないんですね」
「あん?」
「いえ。何でもありません」
「なんだよ、気になるじゃねえか」
「……少しだけ、分かる気がしたんです」
「へえ?」
ゴルシは片目だけを薄く開けた。
「お前にもあんのか? そういうのが」
「……ええ」
スズカは静かに微笑んだ。
「私も、まだ見たことのない景色があると思うと、じっとしていられなくなることがありますから」
「ほーん」
ゴルシは、まじまじとスズカの横顔を見た。
「お前、案外欲張りなんだな」
「……そうでしょうか?」
「そうだろ。まだ見ぬ景色まで独り占めしようとしてんだから」
「……ふふ。そうかもしれませんね」
スズカは、再び目を閉じた。この人の言う「デタラメ」と、私が追いかけている「先の景色」。ベクトルはまったく違うはずなのに、そこへ向かうためのエネルギーは、驚くほどよく似ている。そんな気がした。
「……ところでスズカ」
「はい?」
「アタシたち、今どこにいるんだっけ?」
「シリウスの周辺です」
「そうだったな。よし、そろそろ帰るか」
「……帰る?」
「おう。地球に」
「……そうですね」
スズカは少しだけ思考を巡らせた。
「では、帰りはうどんにしませんか?」
「……お前、なかなか粋な提案をするじゃねえか」
「ふふ。そうでしょうか」
「よーし! 帰路は讃岐経由だ!!」
こうして二人は、宇宙空間を漂う一本のタフなうどんとなった。
「ただいま。悪い、ちょっとコピー機が詰まって手間取っ……」
トレーナーが部屋のドアを開けたとき、彼は自分の目を疑った。そこには、当初の命じた通り、ピクリとも動かずに椅子に座り続けている二人の姿があったからだ。
「……え、お前ら。本当に大人しく待ってたのか?」
二人は、重々しい動作でゆっくりと目を開けた。その瞳には、宇宙の真理を解き明かした哲学者か、あるいは過酷な長距離レースを走り抜いた後のような、深い賢者の光が宿っていた。
「……おかえりなさい、トレーナーさん」
「……おう。お疲れさん」
「……?」
「私たちは今、うどんと共にシリウスを周回してきたところです」
「……ああ。だが、麺のコシが少し足りなかったぜ」
「…………??」
トレーナーは猛烈に首を傾げた。言葉の意味は一文字たりとも理解できない。しかし、二人の間に流れる「何か大きな偉業を成し遂げた者同士」にしか出せない穏やかな達成感が、それ以上の追及を阻んでいた。彼は戸惑いながらも、持ってきた資料を配ることにした。
「それで、次の合同トレーニングなんだが……」
「トレーナーさん」
「ん?」
「冷やし中華の場合、胡麻だれと醤油だれでは、どちらが流体力学的に空気抵抗を減らせるでしょうか?」
「…………は?」
「アタシは胡麻だれ派だ。粘性が違う」
「ですが、醤油の方が軽量化できて最高速が伸びると思うんです」
「お前、なかなか核心を突いてくるじゃねえか」
「……お前ら、一体何の話をしてるんだ?」
二人は顔を見合わせた。そして、どちらからともなく、ふっと小さく笑った。トレーナーは静かに資料を閉じた。たった五分間。目を離しただけのはずだった。……いや、手元の時計を見れば正確には二十分近く経過していたのだが、それにしてもだ。一体、この室内でどのような時空の歪みが発生したというのか。
結局、その日の打ち合わせは予定を三十分もオーバーした。普段のスズカなら、一秒でも早くグラウンドへ戻りたくてソワソワしていたはずだった。けれど、今日は違った。
「なあスズカ。次は火星でラーメン屋を開業しようぜ」
「……火星の大気圧で、お湯はまともに沸くのでしょうか?」
「おっ、いい着眼点だ! じゃあまずは火星の物理定数から調べねえとな!」
「ふふ。楽しそうですね」
スズカは、隣を歩く白銀の髪のウマ娘をチラリと見た。相変わらず、頭の中の構造がどうなっているのかサッパリ分からない人だ。けれど。もう少しくらいなら、この賑やかなノイズと一緒に歩いても悪くないかもしれない。そんなことを、柄にもなく思ってしまった。
一方、ゴールドシップもまた、秘かに考えていた。
(……こいつ、案外面白えヤツだな)
それは、退屈な待機時間と引き換えに手に入れた、ささやかな発見だった。
「よし! スズカ! まずは商店街のラーメン屋へフィールドワークだ!」
「……今からですか?」
「思い立ったが吉日って言うだろ!」
「……そうですね」
スズカは少しだけ考えてから、柔らかく微笑んだ。
「では、行きましょうか」
「おう!」
二人は並んで歩き出した。その背中を、トレーナーは窓辺からぼんやりと眺めていた。……まあ、怪我もなく仲良くなったのなら、良しとするべきだろう。彼はそう自分に言い聞かせた。ただし、翌日のトレーニング計画表を作成する際、彼は一番下の余白に、青いペンでひとつだけ注記を書き加えた。
『※ゴールドシップとサイレンススズカを、二人きりで待機させないこと(理由は不明だが、空間の密度が変わるため)』