世の中には、休日の過ごし方にまつわる無数の哲学がある。辞書を引けば「仕事や授業などの務めを休む日」と素っ気なく書いてあるけれど、その二文字が抱えている意味は、人の数だけ枝分かれしている。布団の中で死んだように眠る者がいる。胃袋の限界に挑む者もいる。そして、自分の物理的な限界速度を確かめようとする者がいる。
「……スズカさん?」
「ん、どうしたの?」
「今日って、お休みですよね?」
「うん。そうだね」
「どうしてフル装備のトレーニングウェアを着ているんですか?」
休日の朝、チームスピカの控室である。スペシャルウィークは、絶望と困惑を半々に混ぜたような目を丸くしていた。目の前に立つサイレンススズカは、いつもと変わらず凛としていて、今すぐ滑走路から飛び立てそうな装いだった。飛行機であれば、整備完了、である。
「少しだけ、走ってこようと思って」
「少しだけ、ですか?」
「ええ。軽く身体を動かす程度に」
スペは知っていた。スズカの言う「少しだけ」が、一般的な時間の概念から、かなり遠いところにあることを。辞書の「少し」の項目に、スズカ式の注釈を足すべきかもしれない。
「今日はみんなでお出かけするって、昨日あんなに固く約束したじゃないですか!」
「……あ」
スズカの手がぴたりと止まる。忘れていたわけではなかった。集合時間まで、まだ四十五分ある。それだけあれば、一度は限界まで走って、きちんとクールダウンまで済ませられる。計算上は、そうなるはずだった。
「すぐに戻ってくるつもりだったんだけれど……」
「ダメです! スズカさんの『すぐ』は全然信用できません!」
スペは珍しく両頬をぷくっと膨らませた。
「この前だって『ちょっとそこまで走ってくる』って言ったのに、私がお昼ごはんを二回食べ終わるまで戻ってこなかったじゃないですか!」
「……それは、スペちゃんが食べる速度があまりにも早すぎたからじゃない?」
「そ、そういう問題じゃありません!」
スズカは細く息を吐くと、結んだばかりの靴紐を、ゆっくりと解いた。
「分かったわ。今日は走るのをやめておくね」
「本当ですか!?」
「ええ。約束したものね」
ぱっと花が咲くように、スペの顔が明るくなる。
「じゃあ今日は、私、スズカさんといっぱい遊んでいっぱい食べます!」
「ふふ、よろしくね」
その時だった。
「おーっす! おめーら、準備はできたか!!」
突風と一緒に、控室の扉が爆破されたような勢いで開いた。
「本日のスピカ休日探検隊、ただいまより出動する!」
立っていたのはゴールドシップだった。頭には丁寧に折られた新聞紙の三角帽子。首からプラスチックの双眼鏡。右手には、どこで調達したのか巨大な木製のしゃもじが、聖火のように高々と掲げられている。
「……ゴルシ。その頭の紙帽子と、手にある物体は何でしょうか」
「隊長の証だ」
「しゃもじが、ですか?」
「おう。古来より、冒険と炊飯は切っても切れぬ不可分の関係にあるからな」
「そうなんですね」
「スズカさん! 納得しないでください!」
休日が始まって五分。チームスピカの一日は、すでに十分すぎるほど騒がしかった。
休日の商店街には、ゆるやかな熱気が漂っていた。店先には瑞々しい野菜が並び、パン屋からはバターの匂いが流れてくる。その賑やかな通りを、七人のウマ娘がぞろぞろと歩いていく。
古びた衣料品店のワゴンの前で、ウオッカがぴたりと足を止めた。
「……おっ」
『冬物最終処分・全品50%OFF』。投げやりな手書きのPOPの下に、衣類が山になっている。ウオッカはその中から、分厚い一着を引っ張り出した。紺地に、主張の激しすぎる巨大な花柄。綿をこれでもかと詰め込んだ、昭和の匂いがする「どてら」だった。
「おいスカーレット! いいもん見つけたぞ!」
「何よ急に。あたしは今、向こうのカフェの――」
「これだ! 今度のパドックで着てみろよ!」
ダイワスカーレットは、差し出されたどてらを見た。一度見つめ、目をつぶり、もう一度見つめた。現実が入れ替わっていることを期待したのかもしれないが、花柄は花柄のままだった。
「……なんであたしがパドックでどてらを羽織らなきゃいけないのよ!?」
「いや絶対似合うって! お前の勝負服に合わせたトータルコーディネートだぜ?」
「どこをどう解釈したらそうなるのよ!?」
「いいから合わせて見ろよ」
ウオッカは真顔のまま、どてらをダスカの肩に強引に当てた。
「……おお、完璧じゃねえか。昭和の爆走女帝って感じだぜ」
「誰が昭和の爆走女帝よ!!」
「ファンだって大喜びだろ」
「喜ぶわけないでしょ! パドックでファンがあたしを見てどう思うか想像しなさいよ!」
「んー? 『今日のダイワスカーレットは寒がりなのかな』とか」
「…………」
「『おっ、半額シール付きか。買い物上手だな』とか」
「パドックで値札まで見せるつもり!? 外しなさいよそこは!」
少し離れたところで、ゴルシが腕を組み、重々しく頷いていた。
「……なるほどな。勝負服の上からどてら。時代の最先端を行くニューウェーブだぜ」
「来なくていいわよそんな時代!!」
「待てよ、これマックイーンにも絶対似合うだろ」
「わたくしをその謎のファッション論争に巻き込まないでいただけます!?!?」
ウオッカはどてらの内側に手を突っ込み、感心したような声を上げた。
「……おっ。ポケット、めちゃくちゃデカいぞこれ」
「だから何なのよ」
「お前、いっつもリップとか髪留めとか色々持ち歩いてんだろ? 全部余裕で入るぞ」
ダスカは、ちらりとそのポケットを見た。確かに無駄にデカい。色々入りそうだ。
「……別に、ポケットの収納力で服を選んだりしないわよ」
「へいへい」
「……それに、この花柄のセンスもどうかと思うし」
「おう」
「……あと、丈も微妙に中途半端じゃない」
「おう」
「……何よその顔は!」
「いや? めちゃくちゃ真剣に品定めしてんなーと思って」
「うっさいわね!!」
ウオッカはゲラゲラ笑いながら、どてらをワゴンへ戻した。ダスカはその背中を烈火のごとく睨みつけ、そして、誰も見ていない隙に、もう一度だけ値札を凝視した。
「……本当に半額なのね」
「えっ、買う気!?」
「買わないわよ!!」
見事な掛け合いを眺めていたスズカの口元が、思わずほころんだ。
「……ふふ。本当に仲が良いのですね」
「「どこがよ(だよ)!?」」
ツッコミのタイミングまで、完璧に揃っていた。仲の良さというのは、否定の声が揃うときにこそ、一番はっきり見えるものなのかもしれない。
商店街の角を曲がった瞬間、スペが歓喜の悲鳴をあげた。
視線の先には、湯気を立てるたい焼き屋があった。鉄板の上に、黄金色の魚たちが整列している。
「スズカさん! たい焼きです! 焼き立てです!」
「……あ。本当に香ばしい、良い匂いだね」
「買いましょう! 絶対にぜったいに買いましょう!」
「ふふ、そうね」
スペは財布を握りしめ、重大な決断を迫られた司令官のような顔でメニューを睨み始めた。粒あん、こしあん、カスタード、惣菜系、季節限定。選択肢が多いというのは、人間にもウマ娘にも、等しく残酷な事態である。
「……」
「どうしたの? スペちゃん」
「……スズカさん。私、全部食べたいです」
「でも、全部買うとお腹がいっぱいになるんじゃない?」
「そうかも知れません……でも今日は、スズカさんにも色んな味を食べてほしくて……」
スズカは少し考えてから言った。
「……そうしたら、好きなものを一つずつ買って、半分ずつ分け合おうか」
「は、半分!? そんな選択肢が!?」
天啓を受けたようなスペの前で、スズカは買ったたい焼きをきれいに二つに割った。そして、あんこのたっぷり詰まった頭側の半分を、スペに差し出した。
「はい、どうぞ」
「……えっ。でもスズカさん、こっちの方が圧倒的にあんこが多いですよ!?」
「スペちゃんは、あんこが大好きでしょう?」
「スズカさぁぁぁん!!」
スペの目がうるうると輝き、涙がこぼれ落ちそうになる。
「私、スズカさんと同じチームになれて、本当に……本当に幸せです!!」
「お、大げさだから……」
そう言いながら、スズカの顔には、やわらかく暖かい光が灯っていた。
少し離れた場所で、ゴルシが自分のたい焼きを眺めて呟いた。
「……おいおい。たい焼き半匹で感動の劇場版ラストシーンを迎えてんぞ」
「ゴルシも食べますか?」
「おう。アタシは当然、食べるなら尻尾から攻めるぜ」
「それはどうしてですか?」
「最後に頭を残すことで、勝利の余韻をじっくり噛みしめるためだ」
「……ちなみに、何に対する勝利なのですか?」
「たい焼きという概念に対する勝利だ」
「……?」
スズカは不思議そうに首を傾げた。その横で、スペは幸せそうに、口いっぱいにたい焼きを頬張っていた。概念に勝利されたことなど、たい焼きは知らない。
たい焼きを平らげた一行は、近くの広い公園へ移った。休日の芝生では子供たちが駆け回り、ベンチでは老夫婦が日向ぼっこをしている。
「……あっ!」
トウカイテイオーが、目ざとく何かを見つけた。かなり大型の滑り台だった。
「ちょうどレーンが二つある! ねぇマックイーン、どっちが速く滑れるか勝負しよ!」
「お断りいたしますわ。わたくしたちは子供ではありませんのよ?」
「えー? もしかして、負けて格好がつかなくなるのが怖いんだ?」
「……今、何とおっしゃいましたかしら?」
三十秒後。滑り台のてっぺんには、鬼気迫る表情で姿勢を低く構えた、メジロマックイーンの姿があった。人間の自尊心の導火線は、思いのほか短い。ウマ娘のそれも、同じようだった。
「よろしいですかテイオー。勝負となれば、メジロの名に懸けて一切の妥協はいたしませんわ!」
「望むところだよ!」
「……お前ら、休日までレースの亡者かよ」
ゴルシが呆れたように鼻を鳴らす。
「ですが、スタート時の押し出しの角度と体重移動で、かなりタイム差が出そうですね」
隣でスズカが、今にもノートを取り出しそうな顔で、大真面目に分析を始めていた。
「スズカまでガチ検証に入るな!」
「……いけませんでしたか?」
「いや、いいけどよ!」
カウントダウンのあと、二人は同時に滑り出した。勝負は、わずかな差でテイオーの勝ちに終わった。
「やったー! ボクの圧倒的勝利ー!」
「……納得がいきませんわ! この滑り台、左側のレーンだけ明らかにワックスの塗布量に偏りがあります!」
「負け惜しみだー!」
「違いますわ!!」
マックイーンは真剣な顔で、滑り台の金属面を指でなぞり、摩擦抵抗を調べ始めた。その悲壮な背中に、ゴルシがぼそりと言う。
「……お前、メジロ家の気品と誇りをどこに置き忘れてきたんだ?」
「誰のせいでこうなったと思っていますの!?」
「アタシのせいじゃねえだろ!?」
スズカは、思わずくすくすと笑ってしまった。いつも優雅なマックイーンが、ここまで感情をむき出しにするのは、きっと相手がテイオーだからだ。二人は滑り台の麓で、まだギャーギャーと言い争っている。けれど、その瞳はどちらも、小さな子供みたいに輝いていた。
夕刻、公園は溶けたアンバー色の光に沈んでいった。
スペはまだベンチで何かを食べている。おそらく、三つ目の焼き芋である。テイオーとマックイーンは、滑り台の傾斜角について、いまだ議論を重ねていた。ウオッカとダスカは、「どちらが夕日に向かってカッコいいポーズを取れるか」で揉めている。
「……賑やかすぎる連中だな」
ゴルシは滑り台の最上段に腰掛け、どこで拾ったのか猫じゃらしを一本、夕日にかざしていた。その隣に、スズカが静かな足取りで来て、腰を下ろす。
「ふふ。ゴルシがそれを言いますか?」
「アタシはこう見えて、静寂と孤高を愛するハードボイルドな女だぜ?」
「……そうでしたでしょうか?」
「おう。今朝も静寂の部屋で、自分の影と本気の殴り合いをしてきたところだ」
「……勝てましたか?」
「判定勝ちだが、左肋骨に痛手を受けた」
「ふふ、惜しかったですね」
スズカは、少し離れたところにいる仲間たちへ目をやった。スペがこちらに気づいて、千切れそうな勢いで手を振っている。テイオーが何か良からぬ企みを叫び、マックイーンが慌てて、その口を手で塞ぐ。ウオッカとダスカは、相変わらず不毛な張り合いを続けている。
いつもの、見慣れた光景だった。チームスピカの、なんてことのない日常。ただ、今日という日だけは、ほんの少し違って見えた。
「……今日は、色々な新しい景色を見ました」
「あん? 商店街と公園の滑り台しか移動してねえぞ?」
「ええ。ですが……」
スズカは、愛おしそうに仲間たちを見つめた。
「スペちゃんも、テイオーさんたちも、ウオッカさんたちも……みんな、本当に楽しそうでした」
「……ま、休日だからな」
「私、こういう走らない休日も、とても好きかもしれません」
ゴルシは、少しだけ目を見開いた。それから、いつもの不敵で豪快な笑みを浮かべた。
「なんだよ。お前もついに、ゴルシちゃん休日探検隊の正式隊員に志願するのか?」
「……入隊には、何か条件があるのですか?」
「あるぜ。たい焼きは一日三匹まで、という鉄の掟だ」
「……それは、スペちゃんにとっては難しい条件ですね」
「だろ?」
ふたりは同時に笑った。
スペの焼き芋が四本目に突入しかけたところで、一行はようやく公園を後にした。
商店街には、ぽつぽつと明かりが灯り始めていた。店先のシャッターを下ろす音がして、どこかから揚げ物の匂いが流れてくる。少し前を歩くスペたちの声が、夕暮れの空気を賑やかに揺らしている。
スズカは、その後ろをゴルシと並んで歩いていた。
「いやー、今日もウマ娘の歴史に残る休日だったな」
「……そうですね」
「特にアタシが深海たこ焼き構想を発表したあたりがハイライトだったろ」
「……あれは、まだ実現していませんよね?」
「おう。人類もウマ娘も追いついてねえからな」
「ふふっ」
学園までの帰り道を短いと感じたことは、これまで一度もなかった。むしろ早く戻って、明日のトレーニング計画を確認したいくらいだった。けれど今日は、見慣れた交差点が、思っていたよりずっと早く近づいてくる。あそこを曲がれば、学園はもうすぐそこだ。
スズカは、少しだけ歩幅を緩めた。
「おーい! お前ら、先に戻ってていいぞー!」
ゴルシが、前を歩く仲間たちに声を張った。
「ゴルシさんたちは、どうするんですかー?」
「アタシはちょっくら、道端に落ちてる国家機密を拾ってから帰る!」
「そんなもの落ちてませんわよ!」
マックイーンの声が返ってくる。スペたちは笑いながら、先へ進んでいった。
少し間を置いて、ゴルシも学園へ向かって歩き出そうとした。そのジャケットの袖を、スズカの指先が、軽く引いた。
「……ゴルシ」
「あん?」
「もう少しだけ、歩きませんか?」
「お?」
ゴルシが振り向く。スズカは少し考えてから、続けた。
「……まだ、帰るには早い気がして」
ゴルシは商店街の時計を見上げた。
「ほほう。サイレンススズカ選手、まさかの休日延長申請ですか」
「……だめ、ですか?」
「いいぜ。延長料金はたい焼き一匹な」
「ふふっ。さっき食べたばかりですよ?」
「じゃあツケとくか。利息は一日三匹だ」
「……それは、少し高いですね」
「安心しろ。初回限定で頭から食う権利もつけてやる」
「私は、尻尾から食べたいです」
「交渉決裂だな」
そう言いながら、ゴルシは学園とは反対の道へ向き直った。スズカも、その隣に並ぶ。
行きたい場所があったわけではない。買いたいものがあったわけでもない。ただ、もう少しだけ。今日という日を、終わらせたくなかった。
「で、どこ行くよ?」
「……どこでも」
「どこでも、ってのが一番難しい注文なんだぜ?」
「では、ゴルシにお任せします」
「よっしゃ。まずは海底二万マイルだな」
「……門限までに帰れますか?」
「そこは気合いで」
「ふふっ。それなら、少しだけ急ぎましょうか」
二人は、店先の明かりが続く通りを、ゆっくりと歩いていった。急ぐと言った人間が、一番ゆっくり歩いている。そういうものだ。
その夜、寮の自室に戻ったスズカは、いつものようにデスクへ向かい、日課のトレーニング記録のノートを開いた。
【日付】
【天候】
【走行距離】
【タイム】
そこまで書いて、ペンが止まった。今日は一メートルも走っていない。いつもなら、全身を焦がすような不完全燃焼の焦燥感に、苛まれているはずだった。
けれど、胸の中は静かだった。スペと分け合った、あんこの詰まったたい焼きの温かさ。滑り台の上で子供のようにムキになっていた、テイオーとマックイーン。くだらないと言いながら、お互いを意識し合っていたウオッカとダスカ。そして、夕暮れの風の中で隣にいた、白銀の髪のウマ娘。
スズカは少しだけ考え、唇に小さな微笑を浮かべた。走行距離の欄に斜線を引き、その下に、新しい一行を丁寧に書き加える。
『新しく見た景色――かなり、あり』
ペンを置こうとして、ふと思いつき、さらにその下に小さな文字を添えた。
『次の休日も、念のためスケジュールを空けておくこと』
理由は、まだ言葉にならない。ただ、次も彼女たちと同じ速度で流れる時間を過ごしてみたい。そう思っただけだ。ノートを閉じ、静かに電気を消した。
同じ頃。ゴールドシップは自室のベッドの上で、新聞紙の三角帽子を、几帳面に折りたたんでいた。
「……フッ、悪くねえ休日だったな」
夕暮れの帰り道、スズカが照れくさそうに自分の袖を引いた。その指先の感触が、まだジャケットの袖に残っている気がした。ゴルシは不敵に口角を上げると、机の引き出しの奥から、怪しげなノートを一冊取り出した。表紙には、太いマジックでこう書かれている。
『ゴルシちゃんの世界征服計画・休日編』
最初のページを開き、大きな文字で豪快に書き込む。
『次回:海底二万マイルでタコ焼きパーティー』
なお、水圧数千気圧の海底二万マイルにおいて、タコ焼きの生地が適切に固まるかどうかについては、現在、高度な物理演算を用いて調査中である。