「千里の道も一歩から」という有名な格言がある。実に前向きで素晴らしい教訓だが、これにはひとつだけ不都合な注釈が抜けている。最初の一歩があまりにも軽やかすぎると、ウマ娘は千葉県の東の果てまであっさり到達してしまうということだ。
夕暮れの九十九里浜の最北端。沈みゆく太陽が、白波を美しいオレンジ色に染めている。絶景である。カメラを持った観光客なら、感嘆の息を漏らしながら無心でシャッターを切るのだろう。しかし、サイレンススズカの心境は、「絶望」の二文字で完全に埋め尽くされていた。
「……またやってしまった」
彼女は、自分の膝を少しだけ震えながら見つめた。
始まりは極めて無害だった。府中の街角を軽く流すつもりだったのだ。けれど、見慣れない角を曲がるたびに「あの坂の向こうには何があるのだろう」というあまりにも純粋すぎる好奇心が爆発し、気づけば東京都を飛び出し、千葉県の東の果てまで到達していた。
これで何度目だろう。先月は埼玉の県境、先々月は山梨の山中だった。自己最長不倒記録の更新。だが、引き換えにした代償は大きすぎる。先日、トレーナーから「次に門限を破ったら、一週間「走ること」を禁止する」と厳重に宣告されたばかりなのだ。
(今から全力で走り出せば、あるいは。……いえ、私の脚力をもってしても、物理的な距離と門限までの限界が……)
疲弊した筋肉に鞭を入れようと、スズカが意を決してスタートの姿勢をとろうとした、その時だった。
「ウーーーン!! ウーーーン!!」
静かな砂浜に、明らかに不釣り合いな赤色灯の光と、低く唸るバイクの排気音が近づいてきた。
「そこのお姉さん! 安全速度を大幅に超過する予感がします! 左に寄って止まりなさい!」
「……え?」
スズカが呆然と顔を上げると、そこには白バイ隊員のような青いジャケットに身を包んだ、白銀のウマ娘が跨る大型バイクが停まっていた。
「ゴ、ゴルシ?」
「おうスズカ。こんなところで砂遊びか? 砂浜に『トレーナーのバカ』って特大の文字を書いてる途中なら、アタシも手伝うぜ」
ゴールドシップはサングラスを外し、ニカッと不敵に笑った。
「何故ここに……というか、その格好は?」
「あ? これか。街で死ぬほど楽しそうに、眼球ひっくり返してハイになって走ってるお前とすれ違ってよ。声かけようと思ったんだが、まったく聞こえてねえ。あまりにいいツラしてたから、『こいつ、このままだとブラジルまで行くな』と思って後を付けてきたんだ。衣装はまあ、アタシのクローゼットにある『七変化コレクション』の一つだ。気にすんな」
「……それで、ここまで?」
「おう。ブラジル行きの途中にしちゃ、ずいぶん手前で止まったな」
ゴルシはバイクを降りると、千切れるほど激しく走ってきたであろうスズカの脚を一瞥し、すべてを察したように鼻を鳴らした。
「トレーナーの野郎、怒ると結構しつこいからな。……ほら、これ被れ」
差し出されたのは、ゴルシの予備(?)のヘルメットだった。
「……似合いますか?」
気づいたら、そんな言葉が口をついていた。我ながら間の抜けた質問だとスズカは思ったが、口に出てしまったものは回収できない。
「お前に似合わないもんなんてないだろ」
ゴルシはそれだけ言うと、照れ隠しのようにアクセルを一度だけ煽った。エンジン音が、夕暮れの海に力強く響く。
「……あ」
ヘルメットを被りかけたスズカが、ふと手を止めた。
「どうした? 忘れもんか?」
「いえ……」
スズカは、もう一度だけ海を振り返った。果てしなく続く砂浜。その先へ、緩やかな弧を描いて伸びていく海岸線。東の果てまで来たというのに、夕陽は海の向こうを染めていた。
「……綺麗ですね」
ゴルシも、つられるように視線を向けた。
「おう。変な場所だろ?」
「変、ですか?」
「東の海なのに、夕陽が見えんだぜ。九十九里浜の端っこまで来ると、海岸がぐるっと曲がってっからな」
「……そうなんですね」
「ま、ここまで来ちまったヤツへの、地球からの特別サービスってとこだな」
スズカは小さく笑った。つい先ほどまで、頭の中は門限と一週間の走行禁止処分という絶望でいっぱいだった。けれど、こうして改めて眺めてみると、確かに美しい場所だった。海と空の境目が、夕陽のオレンジに溶けて曖昧になっている。長い砂浜のずっと向こうまで、波打ち際だけが細い金色の線になって続いていた。
その光景を眺めているうちに、スズカはふと、隣にいるゴルシを見た。白銀の髪が、夕陽を受けて淡く橙色に染まっている。いつもなら、真っ先に何かデタラメなことを言い出すはずの彼女も、今は黙って海を眺めていた。
「……来て良かったかもしれません」
「あん?」
「ここまで走ってきたことです」
「おいおい。反省の色が夕陽より薄いぞ、お前」
「ふふ……そうですね」
ゴルシは呆れたように肩をすくめた。
「ったく。次はちゃんと帰りのことも計算に入れて走れよな」
「……はい」
「ま、どうしても帰れなくなったら――」
ゴルシはそこで一度言葉を切り、サングラスをかけ直した。
「ま、そんときゃゴルシちゃん特製・緊急救助隊の出番だな。出動一回につき、焼きそばパン三個で手を打ってやるぜ」
「……有料なんですね」
「当たり前だろ。人命救助だってエネルギー消費は激しいんだよ」
二人は笑った。夕陽は、もう海岸線の向こうへ沈みかけていた。
「……さて、そろそろ行くか。地球からのサービスも、門限までは延長してくれねえからな」
「はい」
スズカはもう一度だけ夕陽を見つめ、今度こそヘルメットを深く被った。
「これ、本当に大丈夫なのでしょうか。このバイク、法的に正しい手続きで借りたものですか?」
「気にすんなスズカ! 世の中にはな、『借りる』と『物理的に所有権を一時的かつ善意で移動させる』の二種類しかねえんだよ! アタシは後者だ!」
「……それは一般的な日本語では『借りた』とは言わないのでは?」
「安心しろ! ちゃんと代車は置いてきた!」
「代車ですか?」
「おう。ピンピンしてるぜ」
「……?」
「さ、乗った乗った! 門限まで時間がねえぞ!」
スズカは深い不安を覚えつつも、現在の自分にはこれ以外の選択肢が存在しないという現実を受け入れ、ゴルシの腰にしがみついた。バイクが滑らかに加速する。ゴルシの機嫌の良さそうな鼻歌が、ヘルメット越しに聞こえてきた。
「♪ふーふふっふフーフフフふーふっふふーん、行き先もぉーわからないまま〜」
「……ゴルシ、その歌、今の状況で歌うのは不穏すぎます」
「いいんだよ! 昭和の不良少年が夜の校舎で絶叫した、あの伝説のロックンロールだ! 自由への疾走だろ!」
「ゴルシ、スピードを出しすぎでは……」
「大丈夫だスズカ! アタシのバイクは捕まらない」
「それはバイクの性能の問題ではないと思います」
夜の国道を、一台のバイクが疾走する。いつもなら自分の脚で切り裂く風。けれど今は、自分を追いかけてきた友人の背中に預けて、流れていく街灯の光を眺めていた。ゴルシの背中は、思っていたよりずっと頼もしかった。細身に見えて、こんなにもしっかりと風を割るのかと、少し悔しいくらいに。
きっとスペちゃんは、今頃心配しているだろう。トレーナーさんは、きっと般若のような顔で怒っている。そして、この人は。心配して説教するより先に、ただ追いかけてきてしまったのだ。
スズカは、少しだけ力を込めて、ゴルシのジャケットの裾を握りしめた。伝わってくるエンジンの心地よい振動と、彼女の体温。安心感とほんの少しの不安が混ざり合った、不思議な時間が過ぎていく。
ふと、スズカは目を閉じた。瞼の裏には、先ほど見た夕陽が焼き付いていた。どこまでも続く砂浜と、細く伸びる金色の波打ち際。その隣に立っていた、夕陽に染まる白銀の髪。
……あんな景色も、あるのですね。
スズカはそっと目を開けた。目の前には、ネオンと街の明かりが流れていた。
やがて学園の寮が見えてきた。門限の五分前。まさに奇跡の生還だった。
「着いたぜ、スズカ。どうだ、アタシのライディングテクは。三途の川の渡し船よりスムーズだったろ?」
ゴルシはバイクを停め、ヘルメットを脱いだ。夜風に髪が軽やかになびく。スズカもヘルメットを返し、少しだけ火照った顔で地面に降り立った。
「ありがとうございます、ゴルシ。助かりました。……本当に」
「礼には及ばねえよ。それより、問題はここからだ」
ゴルシは、寮の玄関先で腕を組み、仁王立ちしている鬼のような形相のトレーナーのシルエットを指差した。
「さて、なんて言い訳しようか。とりあえず『途中で時空の裂け目に飲み込まれた』で行くか? それとも『スズカを狙う国際的な毛ガニ組織と戦っていた』で行くか?」
スズカは苦笑いしながら、そっとゴルシの隣に並んだ。
「どちらも即座に却下ですね」
少しの沈黙があった。
「でも……二人で怒られるなら、少しだけ怖くないかもしれません」
「な、言っただろ。アタシと一緒なら怖くないって」
「そんなこと、一言も言っていなかったです」
「細けえこと気にすんな。ほら、行くぞ」
ゴルシが一歩踏み出す。スズカも、その隣に並んで足を出した。次の瞬間、トレーナーの絶叫に近い怒声が夜空を切り裂いた。二人は顔を見合わせ、揃って肩をすくめた。