三月の風には、少し意地の悪いところがある。春の気配をちらつかせておいて、油断した首筋にだけ、きっちり冷気を流し込んでくる。
コートの前をかき合わせながら、アタシは学園最寄りの商店街を歩いていた。コロッケ屋の前で油の匂いに足を止め、しかし買うでもなく通り過ぎる。目的はない。いや、あるにはある。「目的のない散歩」という崇高な目的だ。何にでも意味を求めたがる世間への、ゴルシちゃんなりのささやかな抵抗運動である。
その日の朝も、グラウンドではサイレンススズカが走っていた。「走っていた」と過去形で書くと嘘になる気がする。あいつにとって走ることは息をするのとほとんど同じ仕事で、朝に走り、夕方にもう一度走る。夢の中でも走っているはずだ。寝返りの代わりにコーナリングを決めていたって、アタシは驚かない。
気になるのは、その走りがこのところ変わってきたことだった。速くなったのとは違う。スズカは元々速い。そうじゃなくて、なんというか、見ている場所が遠い。
今朝も、練習上がりのスズカに声をかけようとして、一歩手前で止まった。体はそこにあるし、目もちゃんとアタシを向いている。でも、中身の半分くらいはもう、ターフの向こうへ先に行っちまっている顔だった。
「調子どうだ?」
「とても良いです」
嘘じゃなかった。顔色はいいし、目も光っている。楽しそうだった。本当に楽しそうで、だから余計に、アタシは胸のあたりがむずがゆかった。
不安というほど立派な感情じゃない。薄い膜を一枚、胸の前に張られたような感じだ。指で突けば破れそうなのに、どこを突けばいいのかがわからない。
トレーナーは気にしていなかった。あれだけ楽しそうに走れているなら止める理由がない、とでも言いたげな顔だ。スペシャルウィークに至っては、「スズカさん、最近すごく生き生きしてますよね!」と目を輝かせていた。みんなの言うことは正しい、が。
(なのに、なんでアタシだけが、こんな難しい顔をしているんだか)
アーケードに入ったところで、足が止まった。青果店の前に、見覚えのある背中がある。幅が広くて、必要以上に日焼けしていて、首の後ろに長年の仕事が刻んだ皺がある。それに、潮の匂いがした。三月の府中の商店街で、潮の匂いがしたのだ。
「おーい、シップちゃんか!?」
先に気づかれた。振り向いた顔は記憶より皺が増えていたが、笑うと目が消えるところは昔のままだった。北海道で漁師をやっている、知り合いのおっちゃんだ。
「なんでおっちゃんがこんなとこにいんの?」
「息子の大学の卒業式よ。お前こそ、一人でうろうろして何してた」
「崇高な散歩をしていた」
「嘘つけ、悩み顔だったぞ」
おっちゃんは大根を一本買い、袋に入れてもらいながら笑った。
「……悩み顔だったか」
「子供の頃から知ってるからな。お前が考え事してる時の顔は、大体ああだ」
そう言って大根を肩に担ぎ、「茶でも飲むか」と顎をしゃくった。
商店街の端の茶屋で、湯呑みが二つ出てきた。
「で、何を悩んでんだ」
「悩んでねえって」
「そうか」
「……知り合いがよ」
「おう」
「最近、妙に走り込んでて」
「ウマ娘なんだから走るだろ」
「そりゃそうなんだけどよ。飯は食ってる。顔色もいい。本人も絶好調だって言ってる」
「結構なことじゃねえか」
「……なんか気に食わねえんだよ」
おっちゃんは湯呑みを置いた。
「お前さん、それは心配してるって言うんだ」
「違えよ。気に食わねえんだよ」
「同じだろ」
「全然違う。カニとヤドカリくらい違う」
「どっちも挟むじゃねえか」
返す言葉がなかった。おっちゃんはしばらくアタシの顔を眺めてから、膝の上の大根の袋を直して、天気の話でもするように言った。
「なら、うまいもんでも食わせてやれ」
「うまいもん?」
「走り込んでんなら、食って休まにゃならん。腹が減ってると、余計なことまで考えちまうからな。今なら北の海の魚がうまいぞ。来るなら食わせてやる」
アタシは湯呑みの底を覗いた。茶柱は立っていない。かわりに、もっと大事なものが立ち上がった。計画である。
「……海鮮か」
「おう」
「北の海の、大物か」
「まあ、いろいろいるな」
「よし」
「何がよしだ」
アタシは立ち上がった。
「おっちゃん、船、空けといてくれ」
「おい、シップちゃん?」
「世界を獲りに行ってくる」
「魚の話だよな?」
答えずに店を出た。背中でおっちゃんが「大根忘れてくなよ!」と叫んでいたが、あれはアタシの大根じゃない。
翌日。トレーニング場のど真ん中で、アタシは入念にストレッチを済ませてから、世界に向かって宣言した。
「じゃ、ちょっと北の大地に行ってくるわ」
一瞬、音が消えた。
「……は?」
トレーナーがこちらを向いた。
「伝説の海の大物で作った海鮮丼がよ、アタシを呼んでるんだ。世界を獲るには避けて通れねえ儀式なんだよ」
数秒の真空のあと、それを引き裂いたのは、トレーナーが肺活量の限りを使った絶叫だった。
「六日後にはレースだぞおおおお!! 何を考えてるんだお前はああああ!!」
「海鮮丼のことだ」
「そういう意味じゃねええええ!!」
アタシはバッグを肩にかけた。
「じゃ、あとはよろしく!」
「よろしくじゃない! 待て! せめて行き先と帰る日を――」
「北海道! レース二日前には帰る!」
「そこまで決まってるなら先に相談しろおおお!!」
悲鳴に近い制止を背中で受け流して、アタシは本当に姿を消した。バッグひとつ、迷いなし。北を指すコンパスの針みたいなもんだ。ただし空港行きの電車は、逆方向に乗った。北への道は、思ったより険しい。
ゴルシがいなくなったトレーニング場には、慣れない静けさが残った。
「……また行っちゃいましたね」
スペシャルウィークが遠くを見ながら言った。
「この前は湖の巨大魚だったっけ?」
「今回は海鮮丼ですわね」
「なんでレース前に限って遠出するんだ、アイツは……」
スピカの面々は、もう驚かない。風が吹けば木の葉が揺れる。ゴールドシップが何か言い出せば、トレーナーの胃が痛む。そういう自然現象として、みんな受け入れていた。
スズカだけは、受け入れきれていなかった。
レース前の調整、日々の積み重ね、勝つこと。自分が何より上に置いているものを、ゴルシはあまりにも簡単に、しかも雑に扱っていく。
(……ゴルシはレースに興味がないのでしょうか)
スズカは難しい公式を前にしたような顔で、半日ほどそのことを考えていた。
ゴルシのいないトレーニング場は、驚くほど整っていた。誰もターフの下に埋蔵金があると言い出さない。誰もスズカの横を走りながら、突然「今からアタシたちは二本のゴボウだ」と宣言したりしない。集中するには、理想的な環境だった。
隣のコースが、なんだか広く見える。スズカは首を傾げた。
北海道。北緯四十二度を越えた港町では、冷たい風が質量を持って殴りかかってきた。
「いや、普通に寒いわ!!」
アタシは誰にともなく毒づいた。
「春ってのはもっと妥協を知ってる季節だろ!」
「三月の北海道を何だと思ってんだ」
おっちゃんは分厚い防寒着の襟を立てて呆れている。
「で、シップちゃん。本当に獲る気か?」
「当たり前だろ。ここまで来てスーパーで買って帰ったら、ゴルシちゃんの名が廃る」
「普通はスーパーで買うんだよ」
「普通って檻に、アタシを閉じ込めんじゃねえ」
「なら、せめて俺の言うことは聞けよ。海は冗談が通じねえ」
そこは素直にうなずいた。アタシは海に勝負を挑みに来たのであって、おっちゃんの胃に穴を開けに来たわけじゃない。
船は沖へ出た。海は陸から見るよりずっと暗く、風が頬を打ち、波が船腹を叩く。アタシは酔わなかった。酔ったのは、同乗した若い漁師のほうだ。アタシの手には出走表の代わりに、地元の漁師に教わった「大物が潜む場所」を書いた薄汚れた地図があった。
「で、どいつが伝説の海の大物なんだ?」
「そんなもんは知らん」
「おっちゃん!?」
「うまい魚が獲れるとは言った。伝説の大物は、お前が勝手に言い出したんだろうが」
重大な認識の齟齬が発覚した。海を睨んだが、海は何も答えない。態度のでかいやつだ。
それから数時間、何も釣れなかった。餌を変えても、場所を変えても、何も来ない。
「おっちゃん」
「何だ」
「この海、アタシのこと嫌いなんじゃねえか?」
「魚に聞け」
仕方なく、海面に向かって叫んだ。
「おーい! 魚の皆さーん! ゴルシちゃんですよー! 今日の晩飯になる栄誉を授けに来ましたよー!」
「余計来なくなるだろうが!」
そのときだった。竿がぐんとしなった。
「……来た!」
糸がものすごい勢いで引き出されていく。海面の下で、何かでかいものが身をひねった。おっちゃんの顔色が変わる。
「おい、シップちゃん、そいつは――」
「分かってる! 海鮮丼の具だろ!」
「分類が雑すぎる!」
そこからは、魚とアタシの一騎打ちだった。引けば引き返され、巻けば走られ、こっちが右を向けば向こうは左へ行く。海の中にいるくせに、やけに駆け引きのうまいやつだった。糸が前腕に巻き付いて、皮膚が焼けるように熱くなった。
「へえ」
思わず笑った。
「お前、なかなかやるじゃねえか」
竿から伝わってくる力は、姿が見えない分、妙にはっきりしていた。振りほどこうとする意志だけがある。アタシは足を踏ん張った。
頭に、スズカの顔が出てきた。調子はいいと笑っていた。楽しそうだった。それなのに、何かが気に食わなかった。
(……ったく)
「何でもいいから、うまいもん食って、たまにはボケーッとしてろってんだ!!」
「さ、魚に言ってるのか!?」
おっちゃんの怒号と同時に、海面が盛り上がった。白い飛沫、銀色の巨体。船の上の全員が声を上げた。
長い格闘の末に、大物は甲板に引き上げられた。横たわる獲物を見下ろして、アタシは大きく息を吐いた。
「……勝った」
「おう。よくやったな」
「おっちゃん」
「何だ」
「これ、何人前の海鮮丼になる?」
「お前、最初から最後までそれしか考えてねえのか」
ほかにも考えていたことはある。ただ、そっちは口に出すほどのことじゃなかった。
港に戻ると、獲物はおっちゃんたちの手で見る間にさばかれていった。プロの仕事というのは、見ていて気持ちがいい。アタシが数時間かけて引きずり出した化け物が、あっという間に食べやすい切り身になる。岩壁の漁師仲間が「あの白いのは何者だ」と囁き合い、おっちゃんが「海鮮丼のためだそうだ」と答えて、全員が黙った。
「ほれ、味見してみろ」
差し出された一切れを口に放り込んだ。
「…………」
「どうだ?」
「おっちゃん」
「おう」
「アタシ、今日から北海道に永住するわ」
「レースはどうした」
「……あっ」
人生の進路を変えるところだった。切り身は小分けされ、持ち帰り用に冷凍された。アタシはそのうちの一袋を指差した。
「それ、ちょっと多めにしてくれ」
「誰かにやるのか」
「……まあな」
「例の、走り込んでる知り合いか」
「違う。ゴルシちゃんが開発した新しい栄養補給理論の、第一号被験者だ」
「そうかい」
おっちゃんは笑った。
「その子がうまいって言ってくれるといいな」
「……おう」
受け取った袋は、ずっしり重かった。
レースの二日前の夜、寮の廊下でスズカと鉢合わせた。
「……ゴルシ?」
「おう、ただいま。いやあ、北の重力は手強かったぜ」
スズカはアタシの顔を見て、それから腕を見た。包帯代わりに巻いたタオルに、赤茶色の染みが滲んでいる。
「……怪我をしたんですか?」
「ああ、これか。北の大物との友好的な文化交流の痕跡だ」
「何をしてきたんですか?」
「海鮮丼の具と、ちょっとな」
アタシは抱えていた紙袋を差し出した。
「ほれ、お土産」
中には、定番のクッキーとチョコ、なぜか目つきの悪い熊が描かれた菓子。その底に、保冷袋に包んだ冷凍の切り身が入っていた。
「これは……?」
「スズカ用だ」
「私に?」
「北の海は栄養満点らしいぞ。走りすぎて脳みそまで芝生になったやつには、ちょうどいいんじゃねえか?」
「私の脳は芝生にはなっていません」
「そりゃ残念だ。芝刈り機まで買ってきたのによ」
「買ってきたんですか?」
「嘘だ」
スズカは保冷袋を両手で受け取った。思ったより重かったらしく、目を丸くしている。
「……ありがとう、ゴルシ」
「おう。喉に詰まらせんなよ」
「お魚ですから、骨には気をつけます」
「そっちじゃねえ」
アタシが笑うと、スズカも少し笑った。けれどその視線はまた、アタシの腕に戻った。
「本当に、大丈夫なんですか? レースも、もうすぐでしょう?」
「走るぞ。ちゃんと定刻通りに、ゲートの前に現れてやる」
「……そうですか」
「なんだよ、心配してんのか?」
「……少しだけ」
「へえ、光栄だね」
からかってやると、スズカは困った顔をした。
「ゴルシは、どうして、レースの直前にまで北海道へ行こうと思ったんですか?」
アタシはちょっと考えた。難しい質問じゃない。答えは最初から決まっている。
「海鮮丼が呼んでたからだろ」
「……そうですか」
「海の向こうから聞こえたんだよ。『ゴルシちゃーん、私を食べてー』ってな」
「お魚が、ですか?」
「いや、海鮮丼が」
「もう完成しているんですね……」
スズカがとうとう声を出して笑った。アタシは満足して手をひらひら振った。
「じゃあな。冷凍庫に入れとけよ。溶けたらポセイドンに怒られる」
「はい。おやすみなさい、ゴルシ」
「おう、おやすみ」
廊下の角を曲がる手前で、一度だけ振り返った。スズカはまだそこに立っていて、保冷袋を抱えたまま、何か考え込んでいる。声をかけようかと思ったが、やめた。
まあ、いい。ちゃんと食ってくれりゃ、それで。
寮の台所で保冷袋を開けると、食べやすい大きさに分けられた切り身が、きっちりと凍っていた。添えられた小さなメモには、解凍の仕方と保存の注意が几帳面に並んでいる。その下に、見慣れた乱暴な字で一行だけ、書き足してあった。
『海の王者より。ちゃんと食えよ』
スズカは吹き出した。レースの前に北海道へ行く人が、自分の分よりずっと丁寧に、他人の土産を用意してくる。理解できないことばかりだ。ただ、ゴルシのいなかった数日間、トレーニング場が少し静かすぎたことだけは、はっきり覚えていた。
冷凍庫を開けた。中は、誰かのアイスと、名前の書かれていない謎の保存容器で、すでにぎっしり埋まっていた。スズカは少し考えて、一番上の段にあった「スペ」と書かれたアイスを半分横にずらし、保冷袋をねじ込んだ。
扉を閉めたところで、背後から声がした。
「スズカさん、それ、何ですか?」
「……ゴルシからです。お魚」
スペは冷凍庫の扉を見つめて、神妙な顔になった。
「それ、焼いて食べる方向で、私も一緒に……」
「ええ。そのつもりです」
レースは明後日だ。それまでにこの魚を食べきれるかどうか。スズカは本気で、そのことを心配し始めていた。