世の中の多くの出来事は、準備の量に比例して結果が出るようにできている。少なくとも、教科書や自己啓発本にはそう書いてある。日々の鍛錬を重ね、本番に向けて心身を整え、持てる力を出し切る。そうして初めて、勝利は手の届くところに現れる。競走の世界ならなおさらだ。
だから、GⅡという重圧のかかる舞台を前に、歴戦のベテランも実力ある中堅も、眉間に皺を寄せて調整に励む。これは世のルールに従った、至極まっとうな行動だった。
そんな真面目な世界に、一発の銃声のかわりに、一通の謝罪が投げ込まれた。
レース当日のスポーツ紙の片隅に、小さな記事が載っていたのだ。
【ゴールドシップ、レース直前に北海道へ逃亡か?】
添えられた写真には、北の港で大物を抱えて満面の笑みを浮かべる、白銀の髪のウマ娘。記事の最後には、関係者コメントとして一言だけ。
『ごめんなさい』――担当トレーナー。
謝罪としては短すぎた。ただ、そこに至るまでの苦労を想像させるには、十分すぎる一言でもあった。
「……舐めてるのか」
レース場の控室の空気は、冬の朝の水道水より冷えていた。出走を控えたウマ娘の一人が、新聞を机に放り出す。
「こっちは、この日のために何か月も調整してきたんだぞ」
「しかも、あのゴールドシップでしょう? 実力があれば何をしても許されると思っているのかしら」
怒りはもっともだった。レースは遊びじゃない。誰かが一着になれば、誰かが敗れる。その日のために積み上げてきたものがあり、譲れないものがある。だから同じゲートに立つ相手にも、同じだけの覚悟を求めたくなる。
そして、当の問題児はというと。
「いやー、やっぱ北海道はいいな。空気がうめえ。飯もうめえ。何より海がデカい」
別の控室の隅で、土産のクッキーを食べていた。
「ゴールドシップ」
「おう、トレーナー。食うか? 熊が描いてあるぞ。たぶん熊が作ったやつだ」
「……お前な」
「ちなみに熊は入ってねえ。安心しろ」
「そんな心配はしてない!!」
トレーナーは額に手を当てた。ゴルシが北海道から戻ったのは、レースの二日前。本人は約束を守ったつもりでいるらしいが、だからといって問題が片づいたわけじゃない。予定していた調整は大幅に狂い、身体には見覚えのない細かい傷が増え、スポーツ紙には意味不明な記事まで載った。それでも、出走に必要な状態にあることは確認できた。
……確認できてしまった。
それがまた、トレーナーの胃を痛めつけていた。
「……いいか。今日こそは、ちゃんと走れよ」
「あん? いつもちゃんと走ってんだろ」
「頼むから、その『ちゃんと』を世間一般の意味に合わせてくれ……」
「世間に迎合したゴルシちゃんなんて、ただのゴルシちゃんだぜ?」
「何も変わってないじゃねえか!!」
控室に、深いため息が落ちた。
観客席では、チームスピカの面々が出走を待っていた。
「ゴルシさん、大丈夫でしょうか……」
スペシャルウィークが心配そうにコースを見つめる。
「大丈夫じゃないのは、むしろトレーナーの胃袋じゃない?」
「まったくですわ。レース直前に北海道まで出向いて海の大物と格闘するなど、前代未聞にも程があります」
トウカイテイオーとメジロマックイーンが、揃って肩をすくめた。
「でもよ、あいつなら勝っちまいそうなんだよな」
「そこが一番腹立つのよね」
ウオッカとダイワスカーレットも、揃ってため息をつく。いつもの光景だった。ゴールドシップが何かをしでかし、周りが振り回され、最後には誰かが頭を抱える。チームスピカにとって、それは季節の行事のようなものだ。
ただ一人、サイレンススズカだけは、別のことを考えていた。
(……本当に、勝つ気があるのでしょうか)
二日前の夜、ゴルシから受け取った北海道土産。あの不気味な熊の菓子と、丁寧に小分けされた冷凍の魚。顔や腕に残っていた細かな傷。何をしてきたのかと尋ねても、本人は海鮮丼の具と戦ってきた、としか答えなかった。
スズカには分からなかった。レースが近づくほど、走ること以外の余計なものを自分の中から削ぎ落としていく。食事も、睡眠も、日々の過ごし方も、すべては少しでも速く走るためにある。それが自分にとっての当たり前だった。なのにゴルシは、その大切な時間を使って北海道へ行ってしまった。海鮮丼を食べるために。本当に、それだけのために?
「スズカさん?」
隣から声がした。
「……あ、ごめんね。どうしたの? スペちゃん」
「いえ。ゴルシさん、そろそろ出てきますよ」
顔を上げると、コースへ続く通路の奥から、見慣れた白銀の影が現れたところだった。ゴルシは観客席に気づくと、こちらへ大きく手を振った。
「おーい!! スピカの諸君!! ゴルシちゃん、ただいま出陣でござる!!」
「頑張ってくださーい!!」
スペが両手を振り返す。
「ちゃんと走りなさいよー!!」
スカーレットの声も飛んだ。
「分かってるって! 帰ったら海鮮丼パーティーな!!」
そう叫ぶと、ゴルシは何事もなかったように歩いていった。スズカはその背中を目で追った。あまりにも、いつもと変わらなかった。
ゲートが開いた。
スタートは精密機械のように美しかった。有力どころが思い思いの位置を取り、互いの呼吸を探り合う。先頭集団が形を作り、中団がそれに続き、最後方の一角に、見慣れた白銀の姿があった。
ゴールドシップ。
観客席のあちこちから、ため息が漏れた。
「……やっぱり後ろか」
「本当にやる気あんのかよ」
「北海道で魚獲ってたんだろ?」
スズカは、そんな声を聞きながら最後方を見つめていた。ゴルシは淡々と走っている。焦りも苛立ちも見えないし、かといって気を抜いているようにも見えない。長い脚が一定のリズムでターフを叩き、前の集団との間には、まだ大きな距離が空いている。
(……何を考えているんでしょう)
スズカは身を乗り出した。自分なら、あの位置にはいない。ゲートが開いた瞬間から誰よりも前へ出て、誰にも邪魔されず、誰にも追いつかれずに、自分だけの景色を見に行く。それが自分の走り方だ。でもゴルシは、前の背中を眺めながら、何かを待っているようだった。
いや、待っているにしては、目が忙しい。あれは測っている。前との距離を。集団の呼吸を。コーナーの出口を。そして、まだ誰も気づいていない隙間の在りかを。
スズカの耳が、ぴくりと動いた。
(……あ)
ゴルシの姿勢が、一段、変わった。
最後のコーナーで、先頭集団が一斉に仕掛けた。保たれていた隊列がほどけ、それぞれが勝利に向けて前へ出る。観客席が沸いた。誰もが先頭に向かって行くウマ娘たちを見ていた。
そのとき、最後方の白銀が動いた。
最初はほんの少し。一人抜き、また一人。前との差が目に見えて縮まっていく。
「……え?」
スペが声を漏らした。
「ゴルシさん……?」
スズカは答えなかった。目が離せなかった。白い影が外へ持ち出す。前にはまだ何人もいる。距離も残りわずか。普通なら間に合わない。そう思った瞬間、ゴルシの脚がもう一段、回転を上げた。芝が跳ね、白銀の髪が風にほどけ、前を走るウマ娘たちが、次々と後ろへ流れていく。
速い。スズカは、気づけば手すりを握りしめていた。速い。と、それだけでは足りなかった。あれほど自由気ままに振る舞っていた人が、今は目の前の一着だけを追っている。笑っていない。ふざけてもいない。誰よりも真剣な顔で、前だけを見ている。
(……この人も)
言葉が、そこで途切れた。
ゴルシが、最後の一人に迫る。先頭も必死だった。譲らない。譲れるはずがない。二人の脚が、ほとんど同時にゴール板を駆け抜けた。
——写真判定。
場内がざわめく。スズカは息を止めていた。自分が呼吸を忘れていたことに気づいたのは、電光掲示板に結果が出た瞬間だった。
一着、ゴールドシップ。着差、ハナ。
「……勝った」
誰かが呟いた。次の瞬間、観客席が歓声に包まれた。
「どうでーーい!! 勝利の女神がアタシに海鮮丼を奢りたがってるぜ!!」
ゴール後の第一声は、感動よりも困惑を呼んだ。さっきまでの鋭い眼差しはどこへ行ったのか。ゴルシは両手を広げ、北の港から凱旋した漁師のような顔で、観客席に向かって胸を張っていた。そこへトレーナーが駆け寄ってくる。
「お前なあああ!!」
「おう、トレーナー! 見たか、ゴルシちゃんの華麗なる勝利を!」
「見たわ!! 見てたから怒ってんだよ!!」
「何でだよ! 勝ったじゃねーか!」
「もっと余裕を持って勝てただろうが!! 直前の調整をすっぽかして北海道で魚獲ってたやつが、ハナ差で勝って胸張るな!!」
「ハナ差だろうが十バ身差だろうが、一着は一着だぜ?」
「そういう問題じゃない!!」
「じゃあ何だ? 鼻の長さに不満があんのか? 次から象に乗ってレースに出るぞ?」
「象をゲートに入れるなあああ!!」
トレーナーの絶叫が、レース場に響き渡った。その様子を、チームスピカの面々は遠くから眺めている。
「……いつものゴルシさんですね」
「うん。いつものゴルシだね」
「まったく、勝ったというのに、どうしてこうも素直に祝福させてくれないのでしょう……」
マックイーンはこめかみを押さえている。ウオッカが笑い、スカーレットが呆れ、スペは嬉しそうに手を振っていた。
スズカは、少し離れた場所からゴルシを見ていた。
あの人は、レースの六日前に北海道へ行った。海の大物を捕まえて、傷だらけで帰ってきた。そのくせ、ゲートが開けば、誰よりも真剣に勝ちに行った。どうしてあんなふうに走れるのだろう。どうして、走ること以外のものを、あんなにたくさん抱えたままで。
答えは出なかった。ただ、あの人が走ることをどうでもいいと思っているわけじゃない、ということだけは、もう疑いようがなかった。
レースのあと、ゴルシが控室へ戻ると、チームスピカの面々が待っていた。
「ゴルシさん! おめでとうございます!!」
「おう、スペ! 見たか? ゴルシちゃんの華麗なる大逆転劇!」
「はい! すごかったです!!」
「でも、あの位置からよく届いたよな」
「最後、ちょっと危なかったんじゃない?」
ウオッカとスカーレットが、それぞれ声をかける。
「危ない? 何言ってんだ。ゴルシちゃんの辞書に、そんな言葉は――」
「載っていない、のでしょう?」
マックイーンが冷ややかに言った。
「……おう。よく分かったな」
「何度聞かされたと思っていますの」
みんなが笑った。その輪の後ろに、スズカは立っていた。ゴルシがこちらに気づく。
「お、スズカ。どうだったよ?」
「……すごかったです」
「おう!」
「最後の直線、とても速かった」
「だろ? アタシは本気出すとすげえからな!」
スズカはうなずいた。それから、少し迷って口を開いた。
「……ゴルシ」
「あん?」
「レース、楽しかったですか?」
ゴルシはきょとんとして、それから、何を当たり前のことを聞くんだと言いたげに笑った。
「そりゃ楽しいだろ。勝ったんだから」
「……そう、ですよね」
「ま、負けてたら負けてたで、次はどうやって勝つか考えるけどな」
そう言って、ゴルシは残っていた北海道土産のクッキーを一枚取り出した。
「ほれ。食うか?」
「……いただきます」
スズカは受け取った。熊の描かれた、やっぱり少し不気味な包装だった。
「……あの」
「ん?」
「北海道、楽しかったですか?」
「おう! 最高だったぜ! 海はデカいし、魚はうめえし、おっちゃんは相変わらず説教くせえし!」
「……ふふ」
「今度、お前も行くか?」
何気ない一言だった。スズカは目を丸くした。
「……私も、ですか?」
「おう。北の海はいいぞ。走っても走っても、海の上じゃ前に進まねえからな!」
「それは……泳ぐべきなのでは?」
「細けえこと気にすんな!」
ゴルシが笑い、スズカもつられて笑った。その顔を見たゴルシは満足そうに鼻を鳴らして、また別のチームメイトに絡みに行く。スズカはその背中を、しばらく見送っていた。
その夜、スズカは机の上のメモ帳を開いた。今日のレースについて、記録しておきたいことがあった。
ゴールドシップ。最後方からの追い込み。着差、ハナ。レース前の北海道遠征。海鮮丼。
海鮮丼?
ペンが止まった。そこだけが、競走の記録としてどうにも異質だった。少し考えてから、ページの隅に小さく書き足した。
『ゴールドシップの、レースへの向き合い方について』
その下に、もう一行。
『まだ、よく分からない』
走ることについて、分からないことが増えた。けれど不思議と、嫌な気分ではなかった。もう少し、あの人のことを知ってみたい。