世の中には、真に受けてはいけない話が三つある。一つ目は、政治家の「必ず実現します」という公約。二つ目は、詐欺師の「あなただけに教えます」という投資話。そして三つ目が、夕暮れのベンチでゴールドシップが語り始める冒険譚だ。
トレセン学園の放課後。西日が芝生に長い影を落とす時間になると、彼女は決まってベンチの真ん中に陣取り、どこで仕入れてきたのかも分からないヨタ話を披露する。
「でよォ、最西端の海を越えた向こうに、地図に載らない孤島があるんだわ」
周りにいたウマ娘たちは、いつものように適当な相槌を打った。
「はいはい」
「また始まった」
「この前は海底に巨大な郵便局があるって言ってなかった?」
「ああ、あるぜ。配達員が全員タツノオトシゴなんだよ。書留はカジキが担当してる」
ゴルシは満足げにうなずいた。周りが呆れ、誰かがツッコミを入れ、最後には話そのものが有耶無耶になる。それがこの学園における、正しい重力の働き方だった。林檎は木から落ちるし、ゴールドシップの話は聞き流される。
ところがその日は、重力が局所的に、少しだけおかしくなった。
「その島な、潮が一定周期で逆回転すんのよ。あれは島が呼吸してる証拠だ」
「島って息するの!?」
話を聞いていたハルウララが、目を輝かせた。
「おう。満潮が吸う方で、干潮が吐く方だ。たまにくしゃみもする」
「くしゃみ!?」
「ウララさん、ちょっといいかしら?」
通りかかったキングヘイローが、さりげなくウララの肩を引いた。
「えー、でも島のお話が――」
「あとで私が、ちゃんとした島のお話をしてあげるから」
「ほんと!? キングちゃん、島に詳しいの!?」
「……今から詳しくなるわ」
二人が去っていく。ゴルシはその背中を見送って、やれやれと肩をすくめた。
「ったく。いいところだったのによ」
ちょうどそのときだった。
「……孤島?」
小さな声がした。顔を上げると、トレーニング帰りのサイレンススズカが立っていた。ジャージ姿のまま、タオルを肩に掛けている。話の途中から聞こえていたらしい。
「お、スズカ。何だ、お前も未確認島嶼学に興味あんのか?」
「……未確認島嶼学?」
「アタシが今朝つくった学問だ」
「そうなんですね」
スズカはごく自然にうなずき、ベンチの空いているところに目をやった。
「隣、いいですか?」
「……おう?」
ゴルシが体をずらすと、スズカは腰を下ろした。周りのウマ娘たちは、互いの顔を見合わせた。誰も止めなかった。止めるべきなのかどうか、判断がつかなかったのだ。
「それで、その島はどこにあるんですか?」
「最西端の海を越えた向こうだな」
「最西端というのは、日本の、でしょうか。それとも世界の?」
「世界の最西端だ」
「……世界の最西端」
「おう。地球をぐるっと回って、もうこれ以上西には行けねえって場所だ」
「地球は球体ですから、西へ進み続けても終点はないと思いますが……」
「だから地図に載らねえんだよ」
「……なるほど」
何がなるほどなのか。その場にいた全員が同じ疑問を抱いたが、スズカの顔は至って真剣だった。
「近づくとよ、コンパスが『今日は無理』って言い出すんだわ」
「コンパスが、無理と?」
「おう。針がぐるぐる回ったあと、北を指すのをやめる」
「磁場に異常があるのでしょうか」
「いや、機嫌が悪いんだ」
「……機嫌」
「前の日にちょっと喧嘩してよ」
「コンパスと?」
「おう」
スズカはしばらく考え込み、それからジャージのポケットを探った。出てきたのは、小さなメモ帳とペンだった。
カリ、カリ、カリ。夕暮れの空に、几帳面な筆記音が響く。
「……おい」
近くにいたウマ娘が、思わず声を漏らした。
「スズカさん、書いてる?」
「はい」
「何を?」
「今のお話です」
「……何で?」
スズカは顔を上げた。
「まだ知らない場所のお話ですから。忘れてしまうのは、もったいなくて」
ゴルシは隣を見た。
「……へえ」
口の端が、勝手に上がった。
「じゃあ、もう一つ教えてやる。その島な、夜になると影が増えるんだ」
「影が増える?」
「おう。三人しかいねえのに、地面には四人分の影がある」
「光源が複数ある可能性は?」
「月は一個だったな」
「四人目が隠れていた可能性は?」
「靴だけ残して消えたのかもしれねえ」
「……靴?」
「そう。そこが厄介なんだよ。浜辺に置いた靴は、朝になると全部向きが変わってんだ」
「風の影響でしょうか」
「いや、靴が勝手に歩いてんだろ」
「……なるほど」
またしても、何がなるほどなのか。スズカはメモ帳に何かを書き加えた。
「向きが変わる方向に、規則性はありますか?」
「無い」
「不規則な事象ですか。一番厄介ですね」
「だろ?」
「はい。コースの状態が予測できないのは、走るうえでも危険ですから」
「靴の話だぞ?」
「ええ。ですから、事前に把握しておきたいんです」
ゴルシは口を閉じた。一拍おいて、笑いが漏れた。
「……お前、面白えな」
そのあとも、話は続いた。海鳥は決して西を見ない。島の中央には、満潮のときだけ現れる階段がある。階段を上りきると、なぜか浜辺に戻ってくる。島には時計がない。正確には、時計を持ち込むと全部が違う時刻を示し始める。
「……それは、困りますね」
「だろ? 待ち合わせに使えねえんだよ」
「島に、待ち合わせをする相手がいるんですか?」
「おう。アタシの友達のカニがいる」
「カニ……」
「名前は田中だ」
「田中さん」
「敬称つけんのかよ」
「お友達なのでしょう?」
「……まあ、そうだけどよ」
スズカはうなずき、メモ帳に書き込んだ。ゴルシがその手元をちらりと覗くと、驚くほど几帳面な字が並んでいた。
——西の果ての孤島について。
所在地:未確認。地球上の最西端との証言あり。
潮流:一定周期で逆回転。島の呼吸との関連は要検証。
方位磁針:正常に機能しない。機嫌との関連は不明。
海鳥:西を向かない。進路決定の参考になる可能性。
影:人数と一致しない場合あり。光源および観測条件の確認が必要。
靴:夜間に向きが変わる。原因不明。
現地協力者:田中さん(カニ)。
「……田中まで書いてんのか」
「はい。現地でお会いできるかもしれませんから」
「そいつ、たぶん今ごろ脱皮してるぜ」
「では、外見が変わっている可能性もありますね」
スズカはさらに一行書き加えた。
いつもなら、このあたりで誰かが笑う。馬鹿馬鹿しいと呆れるか、適当なツッコミを入れるか、別の話題に移る。それが嫌だったわけじゃない。ゴルシだって、相手が面食らう顔を見るのは好きだ。話がどんどんおかしな方向へ転がって、最後には誰も何の話だったか分からなくなる。それはそれで、なかなか愉快なものだった。
ただ、今日は、笑いが起きる前に、ペンの音がした。
「……なあ、スズカ」
「はい?」
「お前さ、アタシの話、本気で信じてんの?」
スズカのペンが止まった。彼女は首をかしげ、真面目に考え込んだ。
「それが客観的な事実かどうかは、私には分かりません」
「……だよな」
「はい。まだ、実際に見たことがありませんから」
ゴルシは背もたれに体を預けた。
「じゃあ、何でそんなに一生懸命書いてんだよ」
「……知りたいからです」
「何を?」
「その島のことも、ですけれど」
スズカはメモ帳を閉じて、隣に座るゴルシを見た。
「ゴルシが、どうしてそんなお話を思いつくのかも、知りたいんです」
「…………」
「私は、走っているときに見る景色が好きです。まだ見たことのない景色を、自分の脚で見に行きたいと思っています」
西日が、二人の足元まで伸びていた。
「でも、ゴルシのお話を聞いていると、私の知らない景色が、まだこんなにあるんだなって」
「……いや、靴が勝手に歩く島だぞ?」
「はい」
「カニの名前が田中だぞ?」
「田中さんですね」
「そこは譲らねえのかよ」
スズカは小さく笑った。
「ゴルシ」
「……ん?」
「あなたは、その島に行ったとき、楽しかったですか?」
思いがけない質問だった。ゴルシは目を丸くした。
「……そりゃ、まあ」
「そうですか」
「コンパスは使えねえし、靴は勝手に歩くし、田中は待ち合わせに遅刻するし。散々だったぜ」
「……ふふ」
「でもよ」
ゴルシは、夕日の沈む方角を見た。
「島のてっぺんから見た海は、なかなかのもんだったな」
言ってから、自分でも意外なほど、その先を黙ってしまった。口をついて出た言葉に、あとから中身がついてきたような気分だった。
スズカはすぐには何も言わず、続きを待っていた。
「……どんな景色だったんですか?」
「……あん?」
「島のてっぺんから見た海です」
ゴルシはスズカを見た。スズカもこちらを見ていた。その目は、トレーニング中に知らないコースを見つけたときのように、澄んで光っていた。
「……そうだな」
ゴルシは記憶をたぐった。
「海と空の境目が、分かんなくなるんだよ」
「……境目が?」
「おう。どっちも同じ色でよ。水平線が消えちまって、世界がずーっと続いてるみてえに見える」
スズカは黙って聞いていた。
「で、風が吹くと、足元の草が一斉に同じ方向へ倒れんだ。海まで一緒に流れてくみてえでさ」
「……綺麗ですね」
「だろ?」
ゴルシは笑った。いつもの、得意げな笑顔だった。ただ、そのあとに続けた言葉は、いつもより少し声が低かった。
「……ま、そんな感じだ」
「……はい」
「他に聞きてえこと、あるか?」
スズカがぱっと顔を上げた。
「あります」
「即答かよ!」
「島の階段について、まだ詳しく伺っていません」
「そこかよ!?」
「それから、時計が違う時刻を示すというお話も。もし全部が違う時刻を示すのなら、島の中では時間の進み方が場所によって異なる可能性が――」
「待て待て待て。いっぺんに聞くな。ゴルシちゃんにも順番ってもんがあんだよ」
「……すみません」
「いや、謝んなくていいけどよ」
ゴルシは少し考えて、にやりと笑った。
「じゃあ次回は、島の靴について特別講義だ」
「靴の、ですか?」
「おう。生態系から繁殖方法まで、余すところなく教えてやる」
「……靴は、繁殖するんですか?」
「そこからか。こいつは長い講義になりそうだぜ」
スズカは真剣な顔でうなずいた。
「分かりました。予習しておきますね」
「予習できんのかよ!?」
ゴルシはとうとう腹を抱えて笑い出した。スズカも、つられて笑った。
夕暮れのベンチに、二人の笑い声が響いていた。周りのウマ娘たちは、もう誰も話の内容を追えていない。そもそも、靴の生態系とは何なのか。カニに敬称が必要なのはなぜか。サイレンススズカはどうして、こんな話をあんなに楽しそうに聞いているのか。分からないことだらけだった。
ただ一つ、確かなことがあった。いつもなら、誰かが呆れたところで幕になるゴールドシップの冒険譚が、その日はなかなか終わらなかったのだ。
「……でよ、田中のやつが脱皮したあと、何を言い出したと思う?」
「何でしょう?」
「『オレ、次から鈴木になるわ』だとよ」
「……改名されたんですか?」
「おう。心機一転だな」
「では、メモも訂正しておきますね」
「律儀だな、お前!!」
スズカは再びメモ帳を開いた。ゴルシはその手元を眺めながら、次の話を考え始めた。まだ話していないことは、いくらでもあった。火山島でマグマを凍らせた話。海底郵便局で速達を頼んだ話。月の裏側で迷子になった宇宙飛行士の話。どれも今まで何度となく誰かに聞かせてきた、いつものヨタ話だ。ただ今日は、もう少し続きを話してみてもいい気がした。
「……なあ、スズカ」
「はい?」
「明日も、ここ来るか?」
スズカは意外そうな顔をして、それから柔らかく笑った。
「はい。トレーニングが終わったら」
「おう。じゃあ、靴の講義な」
「楽しみにしています」
ゴルシは満足そうにうなずいた。それから、明日の話は少し準備しておいたほうがいいかもしれない、と思った。何しろ今度の聞き手は、予習をしてくるらしいのだから。