サイレンススズカは、先頭を走るのが好きだ。理由はいたって単純で、目の前に誰もいない景色は、澄んでいるからだ。風を切り裂き、純粋なスピードの中に身を置くとき、世界は恐ろしいほどシンプルになる。A地点からB地点まで、いかに誰よりも速く到達するか。そこにあるのは、美しい物理法則と、鍛え上げた脚だけだ。
ところが今、彼女の目の前にある景色、つまり机の上に広げられた一冊のキャンパスノートは、ひどく濁っていた。重力という概念を鼻で笑って空へ落ちていくような、秩序の不在だ。表紙には、彼女の端正な字でこう書かれている。
『西の果て/および関連諸島に関する地政学的記録』
通称、ゴルシメモ。
発端は十日ほど前だった。夕暮れのベンチでゴールドシップが語っていた、奇妙な孤島の話。潮が逆回転し、方位磁針が機嫌を損ね、夜になると影が増える。そして、浜辺に置いた靴が勝手に歩き出す。スズカは、その話に興味を持った。まだ見たことのない景色。自分では思いつきもしない、不思議な世界。何より、それを楽しそうに語るゴルシのことを、もう少し知りたいと思った。
だから、続きを聞いた。翌日も。その翌日も。そして十日後、事態は取り返しのつかないところまで来ていた。取り返しのつかない事態というのは、たいてい、始まりの時点では誰にも気づかれない。
「……やはり、おかしいですね」
自習室の片隅で、スズカは小さく呟いた。目の前には、びっしりと書き込まれたノート。ゴールドシップの証言は、回を重ねるごとに詳細になっていた。
例えば、靴について。最初は、夜になると向きが変わるというだけの話だった。ところが、スズカが「移動方向に規則性はありますか?」と尋ねた結果、靴には群れで行動する習性があることが判明した。さらに「繁殖はするのでしょうか?」と質問すると、ゴルシは少し考えてから、こう答えた。
『雨の日に二足並べておくと、朝には子供用の長靴が増えてる』
スズカはその証言を丁寧に記録した。ただし、鵜呑みにしたわけではない。ノートには、赤字で注釈が添えられている。
『※自然発生説については、現時点で科学的根拠なし。要検証』
スズカは慎重なウマ娘だった。どれほど奇妙な証言でも、まずは情報として受け取り、客観的な事実と照らし合わせる。それが彼女なりの誠実さで、しかしその誠実さが、いま、過去に例のない危機に直面していた。
「火山島でマグマが凍る条件が、特定の周波数の鼻歌……」
ペンの後ろを唇に当てる。
「でも、前回のお話では、島の磁場異常によって方位磁針が正常に機能しなくなると……」
ページをめくる。
『影の増加は、島の呼吸に伴う空間の歪みに起因する可能性』
さらにめくる。
『靴は夜間に自律移動する。ただし、靴紐を結んでおくと移動速度が低下する』
スズカはしばらく考えた。
「……靴紐が、抵抗になるのでしょうか」
ここまでは、まだ理解できる。問題は、その次の証言だった。
『ただし、右足と左足の靴紐を結ぶと、互いに相談してから動く』
「……相談」
スズカは目を閉じた。論理が破綻している、という言い回しがある。だが破綻するには、まず論理という建物が建っていなくてはならない。ゴールドシップの話には、そもそも土台がない。屋根だけが空中に浮いている。しかも最近は、その屋根に増築まで始まっていた。
思えば、ゴルシの様子も変わってきていた。最初の頃は、スズカが質問すると、即座に答えが返ってきた。このころは、時折、間があく。
「……ゴルシ」
「あん?」
「靴が繁殖するというお話ですが、生まれた長靴は成長すると、どのような靴になるのでしょうか?」
「…………」
ゴルシはベンチに座ったまま、空を見上げた。
「……革靴だな」
「長靴から、革靴に?」
「おう。社会に出るときが来るんだよ」
「……なるほど。では、成長段階によって生態が変化するんですね」
「そういうことだ」
「その場合、運動靴はどの段階に分類されるのでしょう?」
「…………」
ゴルシは、もう一度空を見上げた。
「……反抗期だな」
「反抗期」
「おう。走りたくてしょうがねえ年頃なんだよ」
「では、競走用のシューズは?」
「…………」
ゴルシは、三度目の空を見上げた。空はどこまでも青かった。助けは来なかった。
「……選ばれし者だ」
「なるほど」
スズカは満足げにうなずいた。ゴルシは額に浮いた汗を、さりげなく拭った。こうして世界は、一日ごとに複雑になっていった。
自習室。スズカはノートの最後のページを開いた。現時点で未解決の問題が、箇条書きにされている。
【今後の検証課題】
・方位磁針の反抗期は、いつ終わるのか。
・影の数が増えた場合、増えた影は誰のものなのか。
・靴の自律移動は、外的刺激によるものか、内的意志によるものか。
・海鳥が西を向かない理由について。
・田中さん(現・鈴木さん)の脱皮後の生態。
・島の呼吸と、時間の進行速度の関連性。
「……分からないことが、増えてしまいました」
困った。けれど、不思議と嫌ではなかった。ゴルシの話を聞くたびに、知らないことが増えていく。質問すれば、また別の疑問が生まれる。自分の知らない世界が、どんどん広がっていく。それは、走っている最中に新しい景色を見つける感覚と、どこか似ていた。
スズカは、机の上の紙パックを手に取った。中身はもう空だった。
「……飲み物を買ってきましょう」
そう呟いて席を立つ。ノートを開きっぱなしにしたまま。それが、悲劇の始まりだった。
五分後。自習室に立ち寄ったチームスピカのトレーナーは、机の上に広げられたノートを見て、完全にフリーズしていた。最初は、何気なく目に入っただけだった。スズカの席だ。きっと、レースの分析か、トレーニングの記録でもしているのだろう。そう思って、視線を落とした。そこに書かれていたのは、次のような文章だった。
『自分より多い影が現れた場合、追い抜くべきか?』
『靴が勝手に西を向く。逃げ場はない』
『海鳥は真実を知っているが、決して語らない』
『世界は呼吸している。私たちは飲み込まれる』
「…………」
トレーナーはノートを閉じた。そして、もう一度開いた。内容は変わっていなかった。
「……スズカ?」
誰も答えなかった。
トレーナーの脳裏に、ここ最近のスズカの姿が浮かんだ。トレーニングにはいつも通り真剣に取り組んでいる。食事も、睡眠も、特に問題はない。ただ、最近は放課後になると、どこかへ行くことが増えた。何をしているのか尋ねたとき、彼女は確かにこう答えていた。
『少し、調べ物をしています』
調べ物。まさか、こんなことを。
「……俺が、気づいてやれなかったのか」
トレーナーは、両手で顔を覆った。先頭を走り続ける重圧。誰にも追いつかれたくないという思い。自分にしか見えない景色を追い求める孤独。その果てに、彼女はとうとう、増殖する影と自律移動する靴について考え始めてしまったのだ。何ということだろう。トレーナー失格である。
「お疲れ様です、トレーナーさん」
そこへ、スズカが戻ってきた。手には、りんごジュースの紙パック。表情はいつもと変わらず穏やかだった。
「……スズカ」
「はい?」
「少し、話をしてもいいか」
「もちろんです」
トレーナーは慎重に椅子を引いた。不発弾の処理にあたる隊員のような面持ちだった。
「……あのな。誰だって、疲れることはある」
「ええ、そうですね」
「ずっと先頭を走っていれば、見えない影に追われるような気持ちになることも、あるかもしれない」
「……影?」
「ああ」
トレーナーは、そっとノートを指差した。
「これのことだ」
スズカはノートを見た。それから、何かを思い出したようにうなずいた。
「ああ。影の増幅についてですね」
「……増幅」
「はい。人数より影が多くなるという現象です」
トレーナーの顔から、血の気が引いた。
「スズカ……それは、お前自身が見たものなのか?」
「いえ。まだ実際に確認したわけではありません」
「……そうか」
トレーナーは、一度胸を撫で下ろした。
「ですから、一度、現地調査が必要だと思っています」
「現地!?」
「はい。島の位置がまだ特定できていませんので、まずは航路の確認からですが」
「航路!?」
「方位磁針が正常に機能しない可能性もありますから、海鳥の視線を参考にしようかと」
「スズカ、もういい。もういいんだ……!」
トレーナーは、思わずスズカの肩に手を置いた。
「少し休もう。な? レースのことも、トレーニングのことも、今は何も考えなくていい」
「……?」
「お前が、海鳥に進路を尋ねるまで追い詰められていたなんて……!」
「尋ねるわけではありませんよ?」
スズカは、冷静に訂正した。
「海鳥と直接言葉を交わすことは、現実的ではありませんから」
「……そうか」
「はい。ですので、行動観察によって進路を推定する方法を検討しています」
「検討しなくていい!!」
トレーナーの悲鳴が、自習室に響いた。スズカは首を傾げた。なぜこんなに驚くのだろう。未知の場所へ向かうのであれば、事前の情報収集は不可欠だ。むしろ何も調べずに出発するほうが、危険ではないか。
「……トレーナーさん」
「何だ……?」
「もしかして、島に興味がおありですか?」
「ない!!」
「そうですか……」
スズカは、ちょっと残念そうな顔をした。トレーナーはその表情を見て、ますます胸を痛めた。
その頃。中庭のベンチでは、ゴールドシップが焼きそばパンをかじっていた。
「……んー」
空を見上げる。雲がゆっくり流れていた。明日の放課後も、スズカはきっと来るだろう。しかも今度は、靴の成長過程について、さらに詳しく聞いてくるに違いない。
「……ったく。あいつ、どこまで掘り下げる気なんだよ」
ゴルシは思わず笑った。それから、ポケットを探った。取り出したのは、小さく折り畳まれた一枚の紙だった。乱暴な字で、こう書かれている。
『次回講義案』
・靴の寿命について。
・靴下との共生関係。
・長靴から革靴への進化における社会的要因。
・田中(現・鈴木)の近況。
しばらく眺めていた。
「……靴下、どうすっかな」
真剣な顔で考え込む。難解な研究課題に取り組む学者のような横顔だった。ただし、研究対象は靴下だった。
翌日の放課後。いつものベンチに、スズカがやってきた。
「こんにちは、ゴルシ」
「おう。来たな、優等生」
「昨日のお話について、少し質問があるんですけれど」
「……おう」
「靴が成長して革靴になるということは、靴下にも成長段階があるのでしょうか?」
「…………」
ゴルシはポケットの中の講義案を握りしめた。先を越された。
「……スズカ」
「はい?」
「お前、昨日の夜、何してた?」
「ノートを整理していました」
「……だろうな」
ゴルシはゆっくり立ち上がった。そして、ベンチの前に仁王立ちになった。
「よーし! 今日の講義は特別編だ!!」
「特別編?」
「おう! 靴下と靴の、切っても切れねえ腐れ縁についてだ!!」
「……楽しみです」
スズカは嬉しそうにメモ帳を開いた。ゴルシは得意げに胸を張った。その背後で、たまたま通りかかったトレーナーが、二人の姿を見て立ち尽くしていた。
「ん? どうした、トレーナー。お前も受講希望か?」
「…………」
すべてを理解した。理解してしまった。そして、天を仰いだ。
「……お前かあああああああ!!!」
ゴルシの講義は、開始前に一度中断された。しかし、スズカが「まだ導入部分ですので」と真剣に抗議したため、トレーナーはその日、二度目の絶望を味わうことになった。