キヴォトスに単身ドリフトしちゃった藤原拓海(30) ~頭文字D Archive Stage~   作:曇りのち晴れ男

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第一話 悲運のラリースト

 

 10年前、某日──

 英国、イギリスにて。

 

 20歳にして単身渡英し、ラリー選手としての道を選んだある選手は、シーズン開幕時のテスト走行にて、マシントラブルに見舞われる。

 

 ドライブシャフトが損傷し、コントロール不可。そのままマシンは、ドライバーごと谷底へと落下した。

 

 そのドライバーの名は、藤原拓海。

 

 それは、彼がWRCの選手として花開こうとする、その瞬間の出来事。

 

 病院で目を覚ました彼は、長期のリハビリを命じられたのだった。

 

 ■■■

 

 灰色の雲が低く垂れ込める、英国特有の空模様。

 湿気を帯びた冷たい風が、コートの襟元をすり抜けていく。石畳の敷かれた歴史ある街並みを歩きながら、オレは自分の足が地面を蹴る感触を、一つ一つ確かめるように味わっていた。

 

 右足首の角度、膝のクッション、腰への体重移動。

 10年前のあの日、谷底へ落ちた衝撃でバラバラになりかけたオレの身体は、長くて退屈で、気の狂いそうなリハビリの日々を経て、ようやくここまで戻ってきた。

 ずいぶんと調子を戻してきた身体は、今ではオレの脳が発する細かな信号にしっかりと反応してくれる。足裏の感覚も、腕の筋肉も、日常生活を送る上では何一つ不自由のないレベルにまで回復していた。

 

 だが、それはあくまで「日常生活」での話だ。

 プロの世界、コンマ1秒を削り取る極限のモータースポーツの世界で戦うための身体は、とうの昔に失われている。

 

『悲運のラリースト』

 

 いつしか、日本のモータースポーツ誌や一部のファンたちの間で、オレはそう呼ばれるようになっていた。期待の超新星として海を渡り、デビュー直前に散った幻のドライバー。時間が経てば経つほど、その異名は妙な神格化を伴って独り歩きしていった。

 10年も経てば、世間にとっては過去の出来事だ。オレ自身も、とうに現実を受け入れたつもりでいる。

 それでも、ふとした瞬間に、脳裏に焼き付いたあの日の記憶がフラッシュバックするのだ。

 

 ドライブシャフトが悲鳴を上げて破断した、あの金属音。ステアリングから手応えがフッと消え失せた時の、血の気が引くような無重力感。

 

 すべてが、まるで昨日のことのように鮮明に思い出せる。身体の傷は癒えても、ドライバーとしての本能に刻まれた傷跡は、一生消えることはないのだろう。

 

 オレは小さく息を吐き、見慣れた地元スーパーの自動ドアをくぐる。

 店内は暖かく、焼きたてのパンの匂いと、新鮮な野菜の青臭い匂いが混ざり合っている。入り口近くに積まれた色鮮やかなフルーツを横目に、オレはカートを引きながら見慣れたルートで店内を回る。

 

 ふと、飲料コーナーの近くで立ち話をしている、地元の男たちの会話が耳に飛び込んできた。

 

「なぁ、昨日のWRCのハイライト見たか? あのヤリスの走り、イカれてたぜ」

「ああ、見た見た。あのヘアピンの突っ込み、完全に限界を超えてただろ。今年は荒れそうだな」

 

 モータースポーツが文化として根付いているこの国では、スーパーの立ち話でもラリーの話題がごく自然に飛び交う。彼らは熱っぽく、現役のトップドライバーたちのライン取りやマシンのセッティングについて語り合っていた。

 

 オレは、カートを押す手を止めた。

 視線を落とし、綺麗に磨かれたスーパーの床を見つめる。

 

「(オレ……。オレはもう、出れないんだよな……)」

 

 分かり切っているはずの現実。

 何度も何度も自分に言い聞かせ、納得したはずの事実。

 

 なのに、彼らの熱を帯びた会話を聞くたびに、心の中にぽっかりと空いた穴から、冷たい風が吹き込んでくるような虚しさに襲われる。

 エンジンキーを回すことはできても、あの極限のステージで、命を削るようなタイムアタックをすることは、もう二度と許されないのだ。

 

 オレはかぶりを振り、その場から逃げるように足早にアジア食品のコーナーへと向かった。

 見慣れた棚の前で立ち止まり、少しだけホッと息をつく。

 

 そこに陳列されているのは、水に浸かった白いブロック。豆腐だ。

 親父が秋名で作っていた、大豆の甘みが口いっぱいに広がるあの手作り豆腐に比べれば、イギリスのスーパーで売られている大量生産品は、味も素っ気もない。

 

 それでも、この白くて四角い物体を見るだけで、少しだけオレの心を落ち着かせてくれる。

 

 オレは冷たい豆腐のパックを手に取り、カートの中へ入れた。

 ついでに、家の戸棚で少なくなっていた醤油や、みりんなどの調味料もカゴに追加していく。

 

 ステアリングを握る代わりに、今はこうしてスーパーのカートを押して、その日の晩飯の献立を考えている。それが、今のオレの「日常」だ。

 

 レジで会計を済ませ、両手にずっしりと重いエコバッグを提げて外に出る。

 雨の多いイギリスらしく、空からはポツポツと冷たい霧雨が降り始めていた。

 

「降ってきたか……」

 

 オレはコートの襟を立て、帰路についた。

 雨に濡れたアスファルトが、街灯の光を反射して黒く光っている。あの日からずっと止まったままのオレの時間をあざ笑うかのように、世界は今日も当たり前のように回り続けている。

 

 自宅までの見慣れた道を歩きながら、オレはただ静かに、冷たい雨の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 

 ■■■

 

 古びたレンガ造りのアパートメント。その三階にある一室が、今のオレの家だった。

 重たい木製のドアを押し開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でる。雨の滴るコートを玄関のフックに掛け、スーパーで買ってきた食材の入ったエコバッグを提げたまま、オレは生活感の薄いキッチンへと向かった。

 

 狭いシンクに袋を置き、まずは湯を沸かす。コンロの火が青白い音を立てて点火するのをぼんやりと見つめながら、オレは手慣れた動作で調理の準備を始めた。

 今日の夕食は、和食だ。イギリスのフィッシュアンドチップスや、味の薄いサンドイッチにもそれなりに慣れてはきたが、やはり疲れた日や、今日のように少しばかり気分が沈んでいる日には、どうしても米と味噌汁が恋しくなる。

 

 パックから取り出した豆腐を、まな板の上で賽の目に切っていく。鍋に張ったお湯が沸騰し、顆粒の出汁を入れる。カツオと昆布の香りが、イギリスの無機質なキッチンをほんの少しだけ日本の実家のように変えてくれる気がした。

 

 火加減を調整し、ふと手を拭こうとした時だった。

 キッチンの隅、カウンターの端に置かれている小さな木製の小物入れが、ふと視界の端にチラついた。普段は腕時計や小銭、予備のボタンなどを無造作に放り込んでいるだけの箱だ。

 何気なくその中を覗き込んだオレの視線は、底の方で鈍く光る小さな金属片に釘付けになった。

 

 すっと手を伸ばし、それを指先でつまみ上げる。

 古びて、エッジの摩耗した一本の車のキー。トヨタのエンブレムが刻まれたそれは、日本の実家に置かれているはずの相棒──『AE86』のキーだった。

 

 プロのラリードライバーとして世界に挑戦するため、イギリスへ渡る決意をしたあの日。すべてを日本に置いていく覚悟だった。過去の栄光も、秋名の最速という肩書きも、そして、数え切れないほどの夜を共に走り抜けたあのハチロクも。

 だが、どうしても、完全に置いてくることはできなかったのだ。

 

 オレの青春のすべてであり、ドラテクのすべてを教えてくれたあの車との繋がりを、完全に断ち切ることはできなかった。だから、お守り代わりに、このキーだけをこっそりとトランクに忍ばせて海を渡った。

 

 冷たい金属の感触が、手のひらを通してオレの記憶を強烈に揺さぶる。

 一万一千回転まで回る、グループA仕様のエンジン。オイルとガソリンの入り混じったむせ返るような匂い。重たいステアリングから伝わってくる、路面の微細なインフォメーション。そして、暗闇の中をヘッドライトの光だけを頼りに駆け抜けた、極限のダウンヒル。

 

 親父の豆腐を積んで走った早朝の秋名。赤城レッドサンズ、妙義ナイトキッズ、インパクトブルー、エンペラー……その他大勢のライバルたちと競り合った、熱く、ヒリヒリとしたあの時間。

 そのすべてが、この小さな鍵に詰まっている。

 

「……お前に、会いたいよ」

 

 誰に聞かれるわけでもない部屋の中で、ポツリと、オレの口からそんな言葉がこぼれ落ちていた。

 相棒。オレの半身。もし今、あのハチロクのシートに座り、ステアリングを握ることができたなら、この心に空いた虚しい穴も、少しは塞がるのだろうか。

 

 何を思ったか、ここは自宅だというのに、オレはそのキーをズボンのポケットに深くしまい込んでしまった。引き出しに戻すのが、なぜか無性に惜しく感じたのだ。キーの冷たい重みが太ももに伝わり、それが妙な安心感を与えてくれる。

 

 そうしてポケットに鍵を滑り込ませた、その瞬間だった。

 

「……ん……?」

 

 不意に、視界がぐらりと揺れた。

 足元の床が傾いたような錯覚。オレは咄嗟にキッチンのカウンターに手をつき、身体を支えた。

 

 少しだけ、めまいがした気がしたのだ。

 

 立ちくらみだろうか。それとも、あの事故の後遺症か。長かった入院生活を終え、過酷なリハビリにも耐え抜き、医者からはとっくに退院の太鼓判を押されているはずだ。歩くことにも走ることにも、何一つ支障はない。

 まだ、体は全快ではないのだろうか。それとも、精神的なもの──オレの心が、あの谷底へ落ちた瞬間のトラウマを、未だに引きずっているというのか。

 

「……気にしてても、仕方ねぇな」

 

 オレは小さくかぶりを振り、無理やり意識を現実へと引き戻した。

 カウンターから手を離し、姿勢を正す。深く息を吸い込み、キッチンに立ちなおした。過去の幻影や、身体の不調に囚われている暇はない。

 

 腹は減るし、今日という日は確実に終わっていくのだから。

 

 気を取り直して、鍋に味噌を溶かし入れる。日本のスーパーで売られているような高級な味噌ではないが、それでも十分な香りが立ち上る。

 傍らでは、小さな炊飯器が白い湯気を上げながら、ご飯の炊きあがりを知らせていた。日本から持ち込んだこの炊飯器だけは、オレの生活の生命線だった。

 

 フライパンに薄く油を引き、買ってきたばかりの魚の切り身を焼く。ジュワッという心地よい音と共に、皮の焦げる香ばしい匂いが部屋中に広がった。

 

 数分後。

 小さなダイニングテーブルの上には、オレの作ったささやかな夕食が並んでいる。

 湯気を立てる豆腐の入った味噌汁。イギリスの水と環境のせいか、あるいは品種のせいか、日本のものより少しパサついていて風味の変わった米。そして、皮目に綺麗な焼き色のついた、そこそこ高めの焼き魚。

 

「いただきます」

 

 手を合わせ、まずは味噌汁を一口すする。

 出汁の旨味と味噌の塩気が、冷え切った身体の隅々にまで染み渡っていくようだ。親父が作っていた豆腐のような大豆の甘みや、口の中でとろけるような滑らかさはない。少し硬くて、味気ない。それでも、この異国の地で食べる「豆腐」という存在が、オレの心をほんの少しだけ温めてくれる。

 

 続いて、箸で焼き魚の身をほぐし、口に運ぶ。

 脂の乗りは悪くない。だが、ふとスーパーのレジで支払った金額が頭をよぎる。

 

「(日本と違って、5,6ポンドするもんなァ……)」

 

 日本円にして千円近く。ただの魚の切り身に払う金額としては、決して安くはない。島国であるイギリスならもう少し魚介類が安くても良さそうなものだが、食文化の違いからか、オレが食べたいと思うような魚はどれも割高だった。

 それでも、たまの贅沢だ。今のオレには、日々の食事くらいしか楽しみというものがないのだから。

 

 少し風味の変わった米を口に放り込み、魚の塩気と一緒に咀嚼する。

 外ではまだ、冷たい雨が窓ガラスを叩き続けていた。

 

 賑やかなロンドンの中心街とは違う、静かで、どこか寂れた郊外の夜。テレビをつける気にもなれず、オレは雨音だけをBGMに、淡々と箸を進める。

 

 ポケットの中では、ハチロクのキーが、オレの体温を吸って微かに温かくなっていた。

 あの鍵を握りしめていれば、いつかまた、あの峠の風を感じることができるのだろうか。そんな叶わぬ幻想を頭の片隅に置きながら、オレは用意した夕食を、一つ、また一つと、静かに胃袋へと平らげていった。

 

 ■■■

 

 食器をシンクへ運び、スポンジで汚れを洗い落とす。水道から流れ落ちる水の音が、静まり返った部屋に単調なリズムを刻んでいた。

 

 無意識のうちに手際よく皿を洗い、布巾で水気を拭き取りながら、オレはふと自分の両手を見つめる。

 

 今まで、車一筋だった。

 

 思えば、中学生で豆腐配達をさせられていた日々。秋名の峠でハチロクを振り回し、涼介さんの率いる『プロジェクトD』のエースとして関東全域の猛者たちとバトルを繰り広げた日々。そして、プロのラリーストとして世界へ羽ばたこうとした二十歳のあの日まで。

 オレの人生には、常に車のエンジン音と、タイヤがアスファルトを擦るスキール音があった。車に乗って、誰よりも速く走ること。それがオレのアイデンティティであり、生きる目的のすべてだった。

 

 そんなオレが、これからどうしようというのか。

 

 洗い物を終えたオレは、重い足取りでバスルームへと向かった。

 

 衣服を脱ぎ捨て、シャワーの蛇口をひねる。冷たい水がすぐにお湯に変わり、濛々と白い湯気が立ち込め始める。

 熱いシャワーを頭から浴びながら、鏡に映る自分の身体をぼんやりと見やる。

 

 医者は「奇跡的な回復だ」と言った。日常生活には何の支障もない、と。だが、極限のGに耐え、コンマ数ミリのペダルコントロールを要求されるラリーの世界に戻るには、この身体はあまりにも多くのものを失いすぎていた。

 

 日本に帰国する? 

 

 シャワーの湯に打たれながら、オレは自問した。

 

 群馬に帰り、親父の豆腐屋を継ぐのか。それとも、地元のガソリンスタンドで昔のようにアルバイトからやり直すのか。樹や池谷先輩、健二先輩たちは、きっと優しく迎え入れてくれるだろう。だが、彼らの目の中にある「同情」に、オレは耐えられるだろうか。涼介さんや啓介さんに、夢半ばで折れた無様な姿を晒して、「オレはもう走れません」と笑って言えるのか。

 

「(……無理だ。そんなことはできない)」

 

 オレのちっぽけなプライドが、いや、オレの魂そのものが、それを強烈に拒絶している。

 

 じゃあ、ゴーカートで人生を食いつぶす? 

 

 イギリスに残り、モータースポーツの端くれにしがみつく。休日にレンタルカートのコースへ行き、素人相手に圧倒的なタイムを出して、ちっぽけな優越感に浸る。かつて世界を目指した男が、遊園地の延長のようなカートで、過去の栄光の残滓を舐めるようにして生きていく。

 

 どれも、理想の未来とは思えない。

 

 シャワーの熱い湯が、身体の表面の汚れや汗を洗い流していく。だが、胸の奥底にこびりついたドロドロとした空虚感だけは、どれだけ熱い湯を浴びても洗い流すことができなかった。

 湯を止め、バスタオルで身体を拭く。曇った鏡を手のひらで乱暴に拭い、そこに映る三十代になった自分の顔を見つめた。

 

 生気がなく、ただ年を重ねただけの顔。

 これから先の、果てしない人生。もし人間が八十歳まで生きるのだとしたら、オレにはあと五十年もの時間が残されている。半世紀だ。

 

 走る目的を失ったオレにとって、それはコーナーもブレーキポイントもない、ただ平坦で退屈なだけの、終わりの見えないストレートのように思えた。

 何のために働き、何のために息をして、どうやってその途方もない時間を消化していけばいいのか。オレにはまったく想像がつかなかった。「普通に生きる」ということがこれほどまでに困難で、恐ろしいことなのだと、今になって思い知らされている。

 

 バスルームを出て、寝巻きに着替える。

 外の雨はさらに強さを増していた。窓ガラスに当たる雨音が、古いアパートの室内を支配している。

 

 オレは脱いだズボンのポケットから、先ほどしまったハチロクのキーを取り出した。手のひらに乗ったその小さな金属は、やはりズシリと重い。オレはそれを、ベッドサイドの小さなテーブルの上にそっと置いた。カチャリ、と硬い音が鳴る。

 

 冷えたシーツをめくり、ベッドに潜り込む。

 部屋の明かりを消すと、完全な暗闇が訪れた。窓の外から差し込むわずかな街灯の光が、天井に雨粒の影を揺らめかせている。

 仰向けのまま、その揺れる影をぼんやりと見つめていた。

 

 キッチンで感じたあの奇妙なめまいの余韻が、まだ頭の奥底で微かに疼いているような気がした。車体が谷底へと吸い込まれていった時の、あの内臓が浮き上がるような落下感。それがフラッシュバックし、鼓動が少しだけ早くなる。

 

「(……オレは、これからどうなるんだ)」

 

 過去の幻影に囚われ、未来の展望を描くこともできない。

 現在という地点で立ち止まったまま、ただ時間だけがオレを置き去りにして流れていく。

 得体の知れない、漠然とした不安。それが重たい毛布のように全身にのしかかり、息苦しさを連れてくる。

 

 オレはゆっくりと、目を閉じた。

 

■■■

 

 目を覚ますと、背中と頬に硬く冷たい感触があった。

 ベッドの柔らかいマットレスでも、イギリスの古いアパートメントのカーペットでもない。どこか規則的に敷き詰められた、タイルのような滑らかな質感だ。

 

「……え」

 

 ゆっくりと体を起こし、オレは自分の両手を見つめた。

 視界がぼやけている。瞬きを繰り返してピントを合わせるが、そこにあるのは見慣れた自室の天井ではなかった。

 

「(オレ……夢でも見てんのか……?)」

 

 昨夜は確かに、雨の音を聞きながらベッドに入ったはずだ。だが、今オレの肌を撫でている風は生温かく、どこか乾いた埃と、火薬の匂いが微かに混じっている。

 状況がまったく飲み込めない。オレは反射的に自分の着ているものを確認した。寝巻きのままではない。なぜか、いつも外出する時に着ているジャケットとデニム姿だった。

 

 慌ててポケットの中身をまさぐる。

 スマホ。財布。中に入っているのは数枚の紙幣と小銭、それに運転免許証などの身分証明書の類だ。ここまではいい。だが、右のポケットに手を入れた時、指先が硬い金属の感触に触れた。

 

「……ハチロク」

 

 引っ張り出してみると、それは昨晩、間違いなくベッドサイドのテーブルに置いたはずの、AE86のキーだった。

 

 どうして、これがポケットに入っているんだ? そもそも、どうやって着替えた? ここはどこだ? 

 疑問符が頭の中を埋め尽くそうとした、その時だった。

 

 鼓膜を劈くような、ひときわ大きな破裂音が空気を震わせた。

 

「(……ミスファイアリングシステム、じゃ、ないよな……。エンジン音、しないし。ってことは、まさか……)」

 

 須藤さんのミスファイアリングシステムもこんな音だった。だが、今の音には、それに伴うはずのエキゾーストノートも、エンジンがアイドリングする重低音も一切ない。

 メカニカルな作動音ではない、純粋な『爆発音』だ。

 

 オレは音のした方向へ恐る恐る視線を向けた。

 そこには、信じられない光景が広がっていた。

 

「いっけぇーっ!」

「もらったぁ!」

 

 セーラー服やブレザーといった、ごく普通の制服を着た十代の女の子同士が、アサルトライフルやマシンガンを構え、お互いに向かって遠慮なく撃ち合っていたのだ。

 フルオートで吐き出される薬莢が、タイルの上にチャリンチャリンと散らばっていく。

 

「(げぇっ)」

 

 変な声が出そうになるのを必死に飲み込み、咄嗟に近くの草むらへと身を潜めた。

 葉の擦れる音と、泥の感触が、これが夢ではないことを嫌でも主張してくる。葉っぱの隙間から遠くを見渡すと、そこにはイギリスのどんよりとした歴史ある街並みでも、日本の見慣れた風景でもない、どこか無機質で、それでいて異様に発達した奇妙な都市の風景が広がっていた。空は青く澄み渡り、遠くには巨大な塔のような建造物が見える。

 

「一体どこだ、ここ……。オレ、酒なんて飲んだっけな……」

 

 記憶をたどるが、昨晩は豆腐の味噌汁と魚と米を食っただけだ。アルコールなんて一滴も摂取していない。

 ひとまず、オレはこの場をこっそり離れることにした。見ず知らずの場所で、しかもあんな本格的な銃撃戦に巻き込まれたら、ただの人間であるオレなんてひとたまりもない。流れ弾が一発当たっただけでも致命傷になる。ラリーでのクラッシュどころの話ではない。悲運もいいとこだ。

 

 姿勢を低くし、建物の陰から陰へと息を潜めて移動する。

 だが、どこへ行っても状況は同じだった。

 

 あっちの通りでも、こっちの広場でも、銃撃と爆発の音が止むことはない。

 それはまるで、毎晩のように秋名の峠で響き渡っていた、走り屋たちのタイヤのスキール音のようだった。スキール音が日常だったように、この街では銃声が『日常』として鳴り響いているのだ。

 

「どォなってんだぁ、コレ」

 

 冗談じゃない。冷や汗が背中を伝う。あまりの危険な状況に、アドレナリンが警鐘を鳴らして脳をフル回転させている。

 

 走って逃げ隠れしているうちに、オレはある異様な事実に気がついた。

 この場所……というよりは、この世界と言った方が適切かもしれない。この世界では、銃を撃ち合うことが当たり前だ。だが、それ以上に異常なのは、撃たれている彼女たちの反応だった。

 

「あーもう、痛いなぁ!」

 

 先ほど、オレの目の前でライフルの弾を胴体に何発も食らったはずの少女が、まるで肩を小突かれた程度のように文句を言いながら、平然と立ち上がって反撃の銃弾を撃ち返していたのだ。

 弾丸によるダメージが、致命傷になっていない。血も出ていない。彼女たちの頭上に浮かぶ奇妙な光の輪っかのおかげなのか、それともそういう身体構造なのかは分からないが、とにかく彼女たちは弾丸を浴びても平気で動けるほど『尋常じゃなく頑丈』らしい。

 

「(……まさか)」

 

 オレの頭に、ひとつの可能性がよぎった。

 彼女たちがああなら、オレもこの世界に来たことで、ゲームのキャラクターみたいに身体が頑丈になっているんじゃないか? そうじゃなきゃ、こんな戦場みたいな街でまともに生きていけるわけがない。

 

 試しに自分の身体も頑丈になっているのか確認するため、オレは足元に落ちていた先の尖った木の枝を拾い上げた。

 恐る恐る、自分の左腕の表面を、枝の先端で軽くなぞってみる。

 

 微かな痛みが走り、皮膚の表面が薄く切れ、そこから赤い血がツーッと滲み出してきた。

 

「…………」

 

 普通に薄く切れた。

 血も出た。

 痛みも、ちゃんとある。

 

「(嘘だろ……オレだけ、頑丈じゃない……?)」

 

 圧倒的な絶望感が、オレの身体を強張らせた。

 周囲を飛び交う無数の銃弾。かすっただけでも大怪我をし、まともに食らえば即死する、脆くて弱いただの身体。

 

 このイカれた銃火器の世界で、オレはたった一人、豆腐よりも柔らかい身体で放り出されてしまったらしい。

 

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